第一話 私の友達(下)
十二時五十五分。私にしては、早めに来られた方だ。ライダースにハイゲージニット、歩きやすいようにスニーカー。今日は着飾る必要もない。
「緋菜ちゃん。こっち、こっち」
予定よりも早く着いたことに満足するところだったが、彼女は既にそこにいた。どれくらい前から居たのだろう。手には文庫本が握られている。
「昨日はすみませんでした。有難うございました」
「いえいえ。それより、急に動物園なんて言い出してごめんね。本当は美術館って思ったんだけれど、今日って文化の日で。美術館とか入館料が無料になるから、人が多いかもしれないって思って」
「あぁ、それで」
髪を緩く三つ編みにしてベレーをかぶった彼女は、今日も可愛らしく笑った。セーターとパンツも緩めだけれど、小物をトラッドに揃えている。それがまた、良く似合っていた。派手ではないけれど、自分に似合うものをちゃんと知っている。そう思った。
「緋菜ちゃんは、何見たい?やっぱりパンダ?」
「そうだなぁ。トラ?かなぁ。居ましたよね、確か」
「多分居ると思う。……自信はないけど」
情報収集もせずに、私たちは動物園に向かっている。カチッと予定を決めて、見たい動物をピックアップして。いつもの私ならそうした気がする。折角行くのだし、って。けれど陽さんは、そうじゃない。このくらい適当でいいのよ、なんて笑っている。折角だから、とか思わないのかな。
「あ、そうだ。今日はマップとかは見ないで歩こうよ」
「えぇ」
「だってね。昨日の興味と今日の興味は違う。パンダを見ようって意気込んでいたとしても、もしかしたら小さな鳥の方に惹かれるかも知れない。だから気の赴くままに動いた方が、心に響くと思うんだ」
「なるほど」
要は勘よ、とケラケラ笑う彼女を見て、こういうゆとりのある生き方は、私になかったなと思う。ガサツで家事だってろくに出来ない。そのくせ、予定を埋める作業に関しては、率先してやる方だ。あぁ良く考えると、私と言う人間には矛盾が生じているような気がする。
「陽さん、本当にこれから色々教えてもらえませんか」
「ん?本当に?」
「私、本当に変わりたいんです。陽さんだから言っちゃいますけど、やっぱり悔しかったんです。昨日。お前は空っぽだって言われたみたいで」
そこまで言ってなかったよ、と彼女は慌てたけれど、そう言われたも同然だった。外見で判断されるのは御免だけれど、私にはそれ以外の魅力を見出してくれているのだと思っていたから。酒を飲んで、自分を誤魔化したけれど、ちゃんと朝になっても覚えていた。
「そうねぇ。あ、緋菜ちゃん。家のことやるの苦手でしょう」
「え、バレました?」
「うん。流石に玄関を見たら分かる。それをね、とやかく言うつもりはないんだけれど。もし掃除する気になったら、手伝うよ」
「本当?でも、今日ゴミだけは捨てました。彼氏の……元カレの忘れ物も全部。それと連絡先も」
「思い切ったねぇ。でも前を向くのなら、引き摺ってもね。良いことじゃない」
パシン、と彼女の手が私の背を叩いた。前を向こう、という喝だろう。彼氏を元カレと呼ぶ日が来るとは思わなかったけれど、一度呼んでしまえばどうってことない。私は前を向く。それだけだ。
「そうしたら、気分転換に模様替えしようかなぁ。陽さん手伝ってくれます?」
「休みが合えばいいよ。緋菜ちゃんって、販売だっけ?」
「あ、そうです。仏壇の」
「仏壇?」
サラッと言い終えた私の言葉に、陽さんは目を丸くする。まぁそうだろうな、という感想だが、私は素知らぬ顔をして、あえて突っ込まない。もう慣れた物なのだ。
そう。私は仏具販売店に勤務している。初見の人に話をすれば、大概がこういう反応だ。そんなにも似合わないか、と初めは苛立っていたけれど、今はもう「そうですよね」位にしか感じない。地味に感じるだろうが、仕事自体は私に合っている。それでいいや、と思えるようになった。高卒で働き始めて、早十年。今でも私は最年少で、同僚は可愛がってくれている。居心地が良くて、気に入っているのだ。
「そっかぁ。ちょっと驚いちゃった」
「あぁ、そうですよね。大体がそんな感じです。でも、素直にそう言ってくれるのは有難い。だって、何でそこで働いてるの?なんて根掘り葉掘り聞き出そうとする人もいますから」
自分の店の客ですら、何でここで?なんて言うこともある。別にどこで働こうと私の勝手だ。そんなに気になることでもないと思っているのに。風貌と合っていない、というのが原因らしいが。
「えぇ。そんなの緋菜ちゃんの勝手じゃない、ねぇ。お客さんにいちいち許可が必要なわけでもないし」
何だか苛々しちゃうわね、と陽さんがぷんすかし始める。笑っちゃうけれど、とっても嬉しかった。
「陽さん、有難う」
「え、何で。お礼を言われるようなことはしてないよ」
「そう?でもいいの、有難う」
「何、変な子ねぇ」
ケラケラ笑う彼女。初めて心を緩めて会っていい人だと思えた。
「さ、着いた。チケット買わなきゃね」
「今いくらするんだろう」
「あぁ、私も知らないや」
二人で券売機の方へ歩きながら、予想を始める。八百円くらいする?キリよく五百円でどう?そんなくだらない話が楽しいなんて、初めて思ったかも知れない。
「残念……六百円。六百円だ」
「ん?」
左脇からヒラヒラと視界に入るチケットと共に、会話に入って来た声。聞き覚えのある声。私がハッと目をやると、そこに居たのは……
「何でショウヘイがいるわけ?あ、成瀬くんまで」
こんにちは、と成瀬くんが手を挙げる。これはどう言うことなのか。陽さんをつい、キッと睨んだ。
「緋菜ちゃん、ごめんね。私が呼んだの」
「……陽さん、騙したの?」
今日は二人だと思ってた。何なら、彼らには二度と会うまいと思ってた。それなのに。
「騙した、か。そうね、騙したことになるのかな。ごめんなさい。でもね、このままだったら緋菜ちゃんあのお店に行かなくなるでしょう?彼らに会うのをすっぱり避ける。違う?」
「そんなこと、ないよ」
完全な嘘に言葉が消えていく。もう二度とあの店には行かない、と決めていた。誕生日にフラれた可哀相な女っていうレッテルを貼られたくなかったから。だから、もう会いたくなかったのに。
「私はね。素のままの緋菜ちゃんが居られる場所は、失くさないで欲しいなって思ったの。彼らって言うよりも、あのお店。緋菜ちゃん好きでしょう?」
「それは……うん。あそこのイカフライ、美味しいから」
「うん、うん。あのお店好きなんだろうなって思ったから、昨日のことで行きにくくなっちゃうのは、嫌だなって思ってね。彼らも夕べ反省してたし。だから、皆で楽しく動物園行こうって、私が誘ったの」
嫌だった?と陽さんが私を覗き込む。尖らせた唇が自分の視界に入る程、私は膨れっ面をしているだろう。彼女はそれを、また眉毛を八の字にして見つめる。
「よし、分かった。皆で見た方が楽しいかも知れないけれど、嫌だったら別行動にしようか。動物見てるうちに、気が変わるかも知れない。どうする?」
陽さんは、優しい顔に戻してから、また私を覗き込んだ。ずるい。そんな風に公然で言われてしまったら、頷くしかないじゃないか。「……行く」とようやく絞り出した私の声は、完全に剥れたままだ。ショウヘイや成瀬くんは視界に入れないまま、私は陽さんを見つめる。彼女はただ穏やかな顔で、ウンウン、と小さく頷いた。
「そうね、よし。そう決まったら、行きましょう。チケット買わなきゃね」
「あ、陽さん。買ってあるよ。四枚」
「今日は、ショウヘイくんの奢りだそうですよ。僕のも出してくれて」
ショウヘイは気不味そうに、私にチケットを差し出す。行くと言ったのは自分だ。嫌々でもそれに手を伸ばすと、何とか消えるような声で礼を言った。まだ剥れた私は、口をへの字に曲げて、下を向いている。バカみたい。もう笑いごとだって、顔を上げればいいのに。
「緋菜ちゃん。昨日はごめんなさい。僕もショウヘイくんも心配し過ぎちゃったんだ。二人でね、反省したんだよね。ほら、ショウヘイくんも」
「お、おぉ。悪かったな。ごめん」
成瀬くんに促されたショウヘイは、素直に謝った。顔は見ていないけれど、手をギュッと握り込んでいる。
「……いいよ。別に。フッてやったんだから」
まだ口元に力を入れたまま、そう呟く。可愛くない。分かっているけれど、笑って前を向けるのかと言うと、流石にまだそうでもない。これが今言える強がりだった。
「よし、なら行くぞ。もういいだろう?」
「うん。……いい」
ショウヘイに背を押され、私はようやく顔を上げる。そこには、ちょっと心配そうに私を見るショウヘイ。こいつに心配されなくても、私は大丈夫。きっと新しい出会いがあって、幸せな日々がまた送れるようになる。大丈夫。
「ほら、皆。行くよ」
自分勝手に先に入口に走った。後ろから何かを言いながら付いて来る彼らを煽りながら。
私は大事な物を手に入れた気がしていた。何と言えばいいか分からないけれど、彼らは私の大切な友達。今まで誰にも心を上手く開けなかった私の、初めての大切な友達。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます