第二話 俺の恋(上)
「動物園なんて久しぶり」
一歩踏み入れると、ヒナがキョロキョロしながら言う。彼氏とは来なかったのか。フッと思ったが、口にしてはいけない話題だと飲み込んだ。
昨日の出来事があって、陽さんの提案でここに来ることになった。ヒナへ詫びる気持ちと陽さんへの感謝。成瀬くんが来る前に、俺はチケットを四枚買って待った。ソワソワする気持ちを隠しながら。待ち合わせ場所へ着いた成瀬くんは、あまりの俺の落ち着きのなさに、何度も心配したくらいだ。
彼はそれを落ち着けるかのように、昨日のあの後の話をしてくれた。陽さん。彼女の名前が『太陽の陽でヒナタ』だと教えてくれた。彼女の気配りとお節介。暖かいその名前がぴったりだと思った。
「本当。私もよ。成瀬くんと昌平くんは来たりするの?彼女とかと」
「僕は、来ないですね。子供の時に行った記憶はあるけれど、女の子と行ったとかないなぁ」
「そうなんだ。俺は、年一以上は来てるんで」
「え、意外」
俺の言葉に即座に反応したのは、ヒナだった。成瀬くんと陽さんも意外だったのだろう。二人共、大きく頷いて見せた。
「昌平くんは、動物が好き?それだったら、天気のいい日とかにフラッと来たりもするわよね」
陽さんが慌てて、場を取り繕おうとフォローし始める。こっちは仕事で来ているのだから、そんな風にしなくてもいいのに。
「いや、俺。保育士なんで」
「は、昌平が?保育士?」
「あ?何か文句あんのかよ。そんなに驚く話でもねぇだろ」
俺としては、適職だと思っている。でも、彼らは誰一人、それに賛成はしないだろう。疑いの目で、三人が俺を見ていた。
「成瀬くんまで疑うの?」
「いや、ちょっと意外だったから。でも言われて見れば、スーツとか着てるの見たことなかったなって。納得、というか」
まぁ、確かにそうだ。いつもポロシャツとチノパンがほとんど。スーツを着るようなことは、冠婚葬祭以外はないかも知れない。
「意外だけどさ。昌平は子供に人気なんじゃない?」
「あ、そう。そう見えるだろ?」
「うん。子供っぽいから。いつも同じ目線で遊んでそう」
憎まれ口を叩いたヒナは、ベェッとして見せた。それは、いつものヒナだった。憎まれ口ばかり叩く、可愛げのない女そのものだった。
多分今の様子を見て、陽さんは安堵したのだろう。成瀬くんの方を見て、二人で微笑み合っていた。こうしてみると、やっぱりこの二人は似合いだと思ってしまう。彼がヒナを好きでなければ、俺が背を押してやるところなんだけれど。
「昌平、トラ見たい。トラ。どっち?」
「トラ?あっちだよ。ゴリラとかいる方」
皆で行こう、と声を掛けようとしたが躊躇った。成瀬くんはヒナと二人で行きたいんじゃないか、と思ったからだ。どうしたらいいのだろう。俺が陽さんを誘って、別の方へ行けばいいか。いや急に、不自然だろうか。
「陽さん、行こう。やっぱ、トラ見ないと」
「じゃあ、まずはそっちに行こう。でもヒナちゃん、パンダはいいの?」
「えぇ、動物園って言ったら、トラとゴリラじゃないの?いいよ。今日は赴くままに、でしょ?」
俺があれこれ考えているうちに、ヒナが陽さんの手を引き歩き始める。あぁ、成瀬くんごめん。キューピットみたいなことはしたことがないから、どうしてあげたら良いのかよく分からないんだ。
「成瀬くん、俺上手くやるから」
「え?何を?」
「いや、そのほら……」
さっさと歩き始めた彼女たちの背を指差す。成瀬くんはようやく、あぁ、と納得したようだ。
「そんなことは気にしないで。僕は、僕でやるから大丈夫だよ。それよりもさっきごめんね。昌平くんが保育士だなんて想像してなかったから、驚いちゃって」
成瀬くんは、爽やかに笑う。俺の気遣いなんて不必要なのか。何だかちょっとイラッとして、「あぁ、ちょっと傷付いた」と不貞腐れた。
「そうだよね。ごめんなさい。人を見た目で判断するのは良くないね。夕べ陽さんとも、そんな話をしたばかりなのに」
「あ、そうなんだ」
「そんなような話をね、したんだ。帰りながら。とっても話を聞くのが上手でね、色々話したんだよ。仕事の話がほとんどだったけれど」
「そっか。でも、何となく分かるかも。優しいお姉さん、っていう肩書が似合うって言うか」
「そうそう。だからヒナちゃんも、直ぐに打ち解けたのかも知れないね」
俺たちの見つめる先には、楽しそうに指差しながら歩く二人。ヒナはそんなにもトラが好きなのか、真っ直ぐと向かう。陽さんは、両側にいる鳥やカワウソを指差すが、全く届いていないように見えた。
やれやれ、とそれを見ているが、正直そう思っているのは四十パーセントくらいか。残りは確実な安堵だ。昨日家に帰ってから、泣いたヒナが思い出されて悔やんだ。そのまま眠りにつけず、久しぶりに焼いたクッキーが仕上がったのは明け方のこと。ちょっとウトウトして、一時間前には待ち合わせ場所に着いていた。バッグの中に潜めているクッキー。詫びだ、と言って渡したら、ヒナは受け取ってくれるだろうか。
「二人、楽しそうだね」
「あぁ、うん。良かったよ」
「そうだね。僕たち深入りし過ぎちゃったから。陽さんが居てくれて本当に良かったね」
彼の見つめる先には、笑ったヒナ。やっぱり好きなんだな、と実感せざるを得ない。俺は……俺は。もう一度、自分の胸に問うた。
あんな深夜から菓子作りを始めたのは、ただ眠れなかったから。昔から、飯を作るよりも菓子作りが好きだった。オーブンの中で生地が膨らんで、焼き色が付いて行く時間。あれがたまらなく好きで、いつもジィッと見入ってしまう。一番好きなのは、パンやスポンジケーキを焼く時の膨らんでいく様。だけれど、発酵時間やデコレーションとかを考えたら手を伸ばせず、簡単なクッキーになったというわけだ。そうして、オーブンで焼けていくそれをじっと見つめ、何度も成瀬くんの言葉を繰り返した。
俺はあの言葉を聞いて、何故本音を言わなかったのか。好きだという自覚はなくとも、ただの飲み友達でなくなってきていることくらい、流石に感じている。それならば素直に言えば良かったのではないか。実は、と言い出せたら、きっとこんなにモヤモヤしなかっただろう。成瀬くんならきっと、じゃあライバルだ、と微笑んでくれた気がする。
でも今更そう思っても、遅いんだ。自分から宣言を出来る程、まだ強くヒナを思えてはいない。
「陽さん。ほら、見て。トラ、トラ」
子供みたいにはしゃぐヒナ。いつも通りか。昨日の涙を思い出しては、何度目かの安堵をする。そうしてやっぱり、俺は実感していた。コイツのことが好きなのだ、と。
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