第四話 成瀬文人、三十二歳(下)

「あ、そうだ。陽さん、連絡先教えてもらっても良いですか」

「あぁそっか。その方が明日便利ですよね」


 上野駅に着いた時、僕の方からそう聞いた。明日のこともあるけれど、昌平くんのことを考えたら、ヒナちゃんとの間に入ってくれたらいいな、と思ったからだ。きっと彼女がいたら、心強いと思う。陽さんがバッグから携帯を取り出し、操作を始めるのを見ていた。あれから、女性に連絡先を聞いたことはなかったと思う。久しぶりのその感覚に、何だかソワソワして仕方ない。


「成瀬くんは、ヒナちゃんのことどう思ってますか?」

「何ですか、突然。まぁ綺麗な子だな、とは思いますけど、飲み友達と言うか、そんなところですね」


 ふむふむ、言いながら、彼女は携帯を差し出す。何を思ったかは知らないけれど、今僕に恋愛は必要ない。彼女の電話番号を打ち込んで、ショートメールを作る。成瀬です、とだけ打ち込んだ味気のないもの。じゃあSMS送りますね、と断ってからピッと送信した。


「じゃあさ、昌平くんはどう思ってると思う?」

「昌平くん?」

「そう。明日お誘いしたのは、純粋に皆に仲良くいて欲しいなっていう気持ちだったんだけれど。もしどっちかが彼女を好きだとか、両方が好きだとかって言う話だったら、どうしようって思って」


 陽さんは本当に悩んでいるようだった。お節介なことをしてしまったとでも、思い始めたのだろうか。


「うん、なるほど。それを僕に聞きます?もし二人共ヒナちゃんのことが好きだったら、ここで既にややこしくなり始めますよ?僕が陽さんを味方につけてとかって」

「え?あっ……本当だ。じゃあ、忘れてください」


 僕は彼女と連絡先を交換しながら、フフッと笑い声が出る。しっかりしていそうなのに、どこか抜けている人なのだろう。あわあわと目に見える慌てぶりだ。


「そう言う意味では、僕は本当に何とも思っていませんよ」

「そう?ごめんなさい。唐突に」

「いえいえ。僕は……今恋愛とかそう言うのは興味ないので」


 あぁこんなことは、言うつもなかったのに。これで問い詰められだしたら、僕は絶対に彼女を拒否してしまうだろう。勝手に言っておいて、嫌な奴だ。


「そう?なんだ。そっか。うん、そんな時期もあるよね」

「そう、ですね。すみません。勝手に言っておいて、気を遣わせてしまって」

「いやいや。心を許してる友人にだって、正直なところは全て話せるわけでもないし。だもの、私なんかに全部話すことないわよ」


 彼女はそう力なく笑った。それがちょっと寂しいような、いや触れられなくてホッとしたような、微妙な気持ちになる。


「僕はそんなですけど、昌平くんはどうだろうなって思ってます」

「そう?やっぱり?」

「やっぱり?」

「あぁいやね、あんなに食いついてヒナちゃんを心配してて。気になってるのかなって、思って」


 ふぅん。初めて会った陽さんでも、そんな印象を受けたのか。


「実は、僕。今日聞いたんですよ、彼に。ヒナちゃんのこと好きなの?って」

「え、本当?そうしたら?」

「ただの妹みたいなもんだって言われました」

「あぁ妹かぁ」

「はい。ヒナちゃんを妹みたいに扱っているのは分かってるんですけど、それだけなのかなぁって思うことがちょいちょいあって」


 僕はさっきの話をする。彼に聞いた時の反応。それから僕が吹っ掛けたこと。そして、訂正しそびれてしまったことを。


「大胆なことをしましたね」

「そうですね。だから、帰ってから訂正しようかと悩んでいたんです」

「そっかぁ。成瀬くんとしては、彼らが上手くいってくれるといいなぁって思ってるということで良いかな?」

「そうですね。飾らないで言い合えるって良いなぁって思ってて。それに、昌平くんには幸せになって欲しいんです、僕」


 弟のような彼には、僕は特別な思いがあった。彼と出会ったのは、酷く落ち込んでいた時期だった。たまたま入ったあの店で一人やさぐれて飲んでいた僕に、彼は陽気に声を掛けてくれた。三十になる頃で、仕事も私生活も、何もかもに疲れ果てていた時だ。いつでも彼は笑っていてくれたし、下を向いていた時も背中をバシバシ叩いてくれた。恩人のようなものだ。

 そう思いながらも、僕は彼のことを良く知らないことに気付く。連絡先は知っているけれど、『今日行く?』って確認をするくらいにしか使っていない。あれ?そう言えば、彼らが何をしているのか、僕は全く知らない。陽さんに名刺を差し出したような記憶もない。弟みたいに思っているはずが、何も知らないなんて。やっぱり僕は、偽善者なのか。


「成瀬くんはいい子ね。勿論、彼らもいい子なんだろうけれど」

「いい子って年じゃないですけどね」


 苦笑いした。

 やっぱり陽さんは、僕を子供扱いだ。何だか面白くない。僕も、五つ下の昌平くんをそう形容するのだから、同じような物だが。何だろう、面白くない。そうか。昌平くんもそう思うことがあるだろうか。


「うぅんとさ。いいんじゃないかな、そのままでも」

「訂正しないでってことですか?」

「うん。騙したって言うよりも、言い逃したのは確かだし。もし謝るとしても、素直に訂正しはぐった事実を伝えればいい。ちょっと意地悪かも知れないけれど、けしかけておいたままでも良い気がするなって」


 申し訳なさそうな顔をして、陽さんは「どうかしら?」と僕に問うた。彼女の言うことは一理ある。訂正しはぐったのは確かなのだ。


「あの、陽さん。共犯ってことで、どうでしょうか」

「共犯?まぁ、そうよね。私たちは共犯。よし」


 僕の思い付きに、陽さんは小指をサッと出した。指切り、と言うことだろう。いい年になった大人が、深夜の駅前で指切りをする。ちょっと変な光景だ。だけれど、いつぶりかの指切りに、僕は少しだけ照れていた。


「私が明日、二人をお誘いしたのはね。ヒナちゃんが『あの店に行きにくくなった』って零したからなの。あのままだったら、あの子はきっと行かなくなるだろうなって。そうしたら、昌平くんも責任感じちゃうだろうし、と思ってね」

「そうでしたか」

「うん。ヒナちゃんも素直じゃないからね。意地張って突っ撥ねたら、自分から折れるようなことはしなそうじゃない?それに……」

「それに?」

「寂しいじゃない。これまでです、って線引いちゃうの」


 凄く透明だった。ヒナちゃんのことを心配しているのは見て取れたが、それよりも陽さん自身が寂しそうにも見えたのだ。


「陽さんもお友達ですよ」


 何かを考える前に、スッと口を吐いた。


「いや、私はだたの通りすがりよ。お邪魔かもしれないけれど、明日はよろしくお願いします」


 あまりに深々と頭を下げるので、こちらこそ、とただ頷いた。

 何だろう。自分から周りを遠ざけているような、他人と交わるのを拒むような、彼女のこの物哀しさは。出会って数時間。深く問うような関係ではない。僕がそう感じただけだ。本当はただの人見知りなのかも知れない。本当はちょっと面倒だと思っているのかも知れない。だけれども、自分の中にある同じような気持ちが、陽さんの寂しさを感じていた。


「成瀬くんは優しいね。昌平くんも幸せだなぁ」

「いや、僕なんて。欠陥だらけ。優しさも偽善なんですよ、きっと」


 僕は言われたことがある。「文人の優しさは、偽善。体裁ばかり気にした偽善」と。それは今でも、しこりのように胸に打ち刻まれている。

 僕のやっていることが優しさなのか。それとも、偽善か。確かにこの件は、偽善の方が強いだろう。昌平くん自体が望んでいるのか分からない結果を、僕は押し付けているようなものだから。


「そうねぇ。偽善だとしても、よ。対峙した相手がどう思うかが大事じゃない?もしも今、あなたの中で上っ面の気持ちだったとしても、私はあなたが優しいと感じた。それで良いじゃない。ね」

「え……あ、はい」

「ね。私は成瀬くんが優しいな、と思った。それでいいんだよ」


 陽さんは、今日一番の笑顔を見せる。それからポンッと勢いよく、僕の背を叩いた。呆気にとられていると、彼女はまたニィッと笑って見せる。初対面の彼女に、僕は救われた。今だけは素直に『優しい』と言われたことを受け止められる気がした。例え僕の心に、何か真っ白ではない気持ちがあったとしても。


「僕、何だか明日が楽しみです」

「あら。奇遇ね。私もよ」


 二人で腹を抱えながら笑った。深夜の上野駅。タクシーの順番がやって来る。乗り込んだ彼女に、僕は「また明日」と微笑みかけた。きっと今後も彼女とは、上手く秘密を共有して行ける。僕はそんな気がしている。


 僕が人生のやり直しを始めてから、数年。新しい出会いも増えた。いつかは、恋をするのかも知れない。例えそうだとしても、僕は自分の過去を知られたくないと思っている。色々聞かれて、あの時を思い出すのは御免だ。今は未だ、誰にも知られたくはないんだ……

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