第四話 成瀬文人、三十二歳(上)

「あ、しまった」

「大丈夫?どうかした?」

「あぁ、いや……何でも」


 話の途中でヒナタさんが来て、僕は昌平くんに訂正するのを忘れてしまった。彼は未だ、僕がヒナちゃんを好きだと思っている。しまったな。


「明日のこと、急にごめんなさいね」

「いえ。僕らのことを気遣ってくれて、かえってすみません」

「いえいえ。ヒナちゃんって、あなたちといるのは楽しそうだったから。きっとあの子も、関係を壊したくないんじゃないかなって思ってね」


 老婆心よ、と彼女は顔をクシャっとさせた。


「陽さん、どっちの方ですか?」

「私?根津です。だから公園抜けて行けば帰れるけど、流石に上野でタクシー拾うことにしようかなって」


 さっきまでの彼女とは違い、より穏やかに笑う。無理をしていたのかも知れないな、と思った。昌平くんとヒナちゃんは、いつも兄妹みたいに騒いでしまう。そのノリに合わせていたのかも知れない。


「良かった。公園を抜けるのは、女性一人では危ないですよ」

「ですよね。こんなに遅くに通ったことないし、よく考えたら怖いかなって。ちょっと怖気付いてました」


 彼女は苦笑いする。丁寧になり始めた言葉に、やっぱりこれが普段の彼女なのだろう、と思った。上野まで一緒に行きますね、と告げると、「有難う」と嬉しそうに頬を持ち上る。何だか素直な人だ。


「ちょっと、疲れましたか?」

「え?どうして?」

「いや、今日色々あっただろうなって」

「あぁ、そうね。でも楽しかったですから。年下の子たちと飲むのなんて、あまりないから。新鮮でした」


 つま先を蹴り上げた拍子に小石にぶつかると、微かな音を立てて車道の方へ転げた。十一月の風は、流石に肌寒い。そろそろ冬物をちゃんと出さねばならないか。


「でも……あの子ね、ヒナちゃん。とってもハキハキした子だけれど、私は無理してないかなぁって、ちょっと心配。あのくらいの頃って、大人なのに未熟で、でも三十って言う大台が近付いて焦って。結婚って言うプレッシャーも感じるから」

「そうなんですかね。そうだとすると、性差ってあるのかも知れないなぁ」


 女の三十歳。難しい関門だと言うことは理解している。忘れてしまいたい、いや忘れてはいけないことが、僕の脳裏にチラついた。


「女って、三十歳が本当に恐ろしくてね。周りの目も変わるし、自分も何かが変わる気がする。それを知ってる年上がきちんと脅すんだけど、そうすると本人には煩わしくてね。でも、仕事や恋愛で認められたいから焦る。そういう年かなって、思ったの」


 陽さんは多分その時を思い出して、今も苦しい顔をする。

 そうか。やっぱり、そういうものなのか。三十歳、というワードを呪いのように聞いていた日々が、フッと蘇る。あの頃は仕事が忙しくて、仕方なかったんだ。僕はそうやって、何時までも何かに言い訳をしている。きっとそうしているうちは、あれを過去だと扱うことがいつまでも出来ないことを理解しながら。

 そんな昔のことをぼんやり思い出していると、ヒナタさんが僕を覗き込む。フワフワの髪が近付いて、ドキリと心臓が弾んだ。


「今、私のことおばさんだって思いましたよね?」

「そんなことは。と言うか、多分僕たち、そんなに年変わらないですよ。僕、三十二なんで」

「え?そうなの?やだ、もっと若い子かと思ってました」

「あぁ僕、童顔なだけなんです。昌平くんたちは、二十七とか八とかだったと思いますけど。僕は意外と。若く見られるのが良いのか悪いのか……よく年下に見られちゃって。舐められがちなんですよね。まだ営業じゃなかっただけ、マシなのかも」

「あぁ確かに。ナルセくんは童顔ね。可愛らしいと思うけれど、男の子じゃ嬉しくないよね。仕事の時に箔が付かないだろうし」


 そうなんですよねぇ、と返したが、嬉しい嬉しくない以前に『男の子』と形容されたことに違和感を覚えた。そう呼ばれる年を疾うに過ぎ、何なら『おじさん』と括られてしまう日も直ぐそこに来ている。けれども彼女にとっては、僕は『男の子』というのが自然なのだろう。


「童顔は急に老けるとも言われるし、何か良いことないですね。人間、外見だけじゃないって言うけれど、結局第一印象の外見って大事と言うか」

「そうよね。大体の人間は、一旦外面で線引きをして、その後にスタートラインって言うか。こっちはスタートラインに立ってるつもりでも、実はそこに並べてすらなかったりね。しません?」

「あぁ、分ります。スタートラインには立ててるのに、直ぐに足を引っかけられると言うか。本当に、舐められやすいんですよ。僕」

「そっかぁ。私もね、いつも学生からため口なの。友達か何かかと思っているのかしらね」


 腕を組みながらプンプンと怒る彼女の、フワフワの髪が風に靡いた。

 学生からため口、か。そう思いながら僕は、クエスチョンマークが頭に並ぶ。学生……ヒナタさんは学校の先生だろうか。彼女は多分、僕の少し上くらいかなと思う。深くは聞かないけれど、大して変わらない気がした。僕は徐に、ジャケットに入れていた財布から、名刺を取り出す。恐らく、今後も彼女に会うことになるだろうと感じたからだ。


「あ、あの。今更ですけど、僕はこういう者です。成瀬なるせ文人あやとと言います」

「有難う。私は、オガワヒナタ。普通の小川に、太陽の陽って書いて、ヒナタ。さっき予備の名刺をヒナちゃんにあげちゃったから、手持ちがなくて。ごめんなさいね」


 プライベートに、こういうコミュニケーションの取り方は親父臭い、なんて思っていたけれど、こういう時には役立つ。相手に、自分と言う人間を証明することが出来るからだ。最早、社交辞令のようなものだろう。彼女は僕が差し出したそれをまじまじと見つめると、何かを言いたげな様子でバッグを漁り始めた。


「私、このノート買いました。しかも今日、ほら」

「あ、本当だ。お買い上げ有難うございます」

「えぇ。学生たちが良いよって言うので、万年筆のお試しに行ったついでに買ってみたの。多分、仕事で使ってるペンもそうじゃないかなぁ。若い子って色々教えてくれるので、つい買っちゃうんですよね」

「へぇ。そうですか」


 学生――中高生にとって文具は、自己主張をする品でもある。案外彼らの方が、色々な物を吟味しているかも知れない。忙しく、余裕のない大人程、買い慣れた物だけを手に取ってしまうようになる。書ければいい。使えればいい。そのものを愉しむという余裕を、僕たちは毎日に追われて何処かに置き忘れてしまうのだ。

 僕の勤めている文具メーカーは、創業こそ古いものの、規模はそこまで大きくはない。名の知れた大きなメーカーほど収入もないような、中堅程度の会社だ。僕はそこで、企画開発を担当している。彼女が買ってくれたノートも、僕が配属された頃にリニューアルしたものだった。

 僕らは、文具の話をしながら上野駅の方へ歩く。自分たちの作った商品を使ってくれていたことが、多分嬉しかったのだと思う。僕はすっかり文具の話ばかりしていたが、陽さんは嫌な顔一つせず耳を傾けてくれた。結構、初めましてのシチュエーションでは興味を持たれない、なんて後輩が愚痴っていたけれど、今のところその様子もない。ただ彼女も好きなのか、それとも大人だからなのかは分からない。クルクル表情を変えながら、こちらのつまらない話に耳を傾けてくれる。話し手とすれば嬉しいのだ。親身になって相談に乗ってくれるお姉さん、と言うよりは、きっと友達に近いのだろう。


「僕。学生の気持ち、分かったかも知れない」

「え、何で?」


 そう答えた彼女は、どこか不満気だった。


「そんなにお話をしたわけじゃないですけど、僕はとっても話しやすいなって思って。あれこれ話したくなりました。だから、そうなんじゃないかなぁって」

「そう、か。喜んでいいのかな」


 どうぞ、と微笑んで見せたら、陽さんも嬉しそうに笑う。やっぱり素直な人だな、と思った。

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