第三話 深見昌平、二十八歳(下)

「フラれた?」

「そう……言ってたね。大丈夫?昌平くん」

「あ、うん」


 成瀬くんは、俺の背をポンと叩いた。彼も驚いたのだろう。申し訳ないことをしちゃったね、と小さく言って、俺たちは黙り込んだ。帰ることも出来ず、かと言って追うことも出来ず。小学校の塀に二人、並んでもたれ掛かる。休みなのにジャケットを羽織った成瀬くんは、下を向いたままに溜息を吐いた。

 言ってしまったものは、今更後悔したって遅い。どうして、あんなにしつこく聞いてしまったんだろう。

 アイツと仲良くなってから、あんなに酔っているのは初めてだった。だから気になって、気になって、気になって。正体不明のモヤモヤした気持ちが煩くて、何度も聞いたんだ。畜生。何でこんなに苛つくんだろうか。


「ねぇ、昌平くん。今聞いていいか分からないけど、聞いても良い?」

「何それ。別にいいけど」

「昌平くんさ、ヒナちゃんのこと、好きだよね?」

「ん。え?」


 目を見開いて、彼を見た。全然俺の方は見ていない。薄く消えそうな、細い三日月。成瀬くんはじっと、それを見ていた。

 今まで、俺たちにはそんな話題が出たことはない。何なら恋の話すらしたことがないのではないか。ヒナのことが好き?いや、そんなわけない。アイツは確かに美人だけれど、ただの妹みたいなものだ。


「別に、好きじゃねぇよ」

「そう?本当に?」


 下から俺を掬い上げるように見る。その言い方に、ドクン、と心臓が跳ねた。成瀬くんがヒナを好きだって言ったら?俺は心から応援出来るだろうか。ドクドク音を立て始めた胸に気付かぬふりをして、俺は素知らぬ顔をしている。彼がスゥッと息を吸う音が聞こえると、俺はゴクリと唾を飲んだ。


「そっかぁ。あのね……僕は、ヒナちゃんのこと好きだよ」


 青白く照らされた顔が、綺麗に微笑んだ。あぁ、彼ならヒナの隣にいても似合うだろうなぁ。そう思った。それなのにまた、鼓動が大きくなる。俺は……俺は?


「昌平くんは、何とも思ってない。ヒナちゃんは今日別れた。ってことは、僕が狙っても良いよね?」

「お、おぉ。いいんじゃね?お、応援すんよ」

「有難う。昌平くんなら、そう言ってくれると思ってた」


 ニコニコした成瀬くんが、俺を見つめる。ジッと。


「何、動揺してんの」

「してねぇって」

「へぇ」


 意地の悪い笑みだった。俺の前に立ち直した成瀬くんの顔が、ぼんやりとした街灯に照らされる。


「な、何だよ」

「僕はね、昌平くんのことも好きだよ」

「あっ。え?いや、俺は……」

「赤くなるなって」

「あぁ、さては。馬鹿にしたな」


 成瀬くんは、クスクス薄い笑い声を出して、腹を抱え込んだ。ごめんごめん、と言うのに、涙目になって笑いを堪えている。


「馬鹿にしたわけじゃないよ。まぁちょっと、意地悪しちゃったけど。昌平くん。ヒナちゃんのこと、本当に好きじゃないの?」

「好きじゃ……ねぇよ。アイツは妹みたいなもんだろ」


 何だよ。何なんだよ。俺がヒナを好き?……好き?そんなわけ、ない。俺の好みは、大人し目でふんわりした女の子。ヒナみたいに、ガツガツ来るような女は苦手なんだ。綺麗じゃなくたっていい。ただ可愛らしさのある女の子がタイプ。つまり、アイツはそこに含まれない。


「じゃあ、本当に。僕がヒナちゃんを狙っても、良いんだね?」


 成瀬くんは今度は真面目な顔をして、俺を見た。ドクン、と大きな音が自分の中から聞こえて来る。


「良いって言ってんじゃん。何回も聞くなよ」

「そっか……まぁそれはさ。あ、ヒナタさん」


 彼の視線の先を追う。さっきまで母親のようにヒナを世話していた、ヒナタさんが歩いて来ていた。何だか下を向いて。近付いて来た彼女は、俺たちに気付くと少しだけ急ぎ足になった。


「ごめんなさいね。帰るに帰れなかったわよね」

「あぁそれは良いんですけど、ヒナちゃん大丈夫でした?」


 ヒナタさんは一瞬何かを躊躇って、大丈夫よ、と笑った。それはちょっと困った顔に見える。彼女は真実を知っているのか。


「ヒナタさんは、アイツとはどういう関係なんですか」


 俺はつい、彼女に詰め寄った。彼女は少し戸惑った後で、伏し目がちに首を横に振る。それから、囁くような声で言った。私たちは今日出会ったのよ、と。

 それからぽつぽつと、彼女は話し始めた。カフェでお茶をしていた時、隣の席でアイツが別れ話を始めたこと。別れよう、と言い出したのはアイツなこと。ただし、その時言われた一言がアイツに相当なダメージであったこと。今日はアイツの誕生日だったこと。


「それは、何て、何て言われたんすか。アイツ」

「うぅん、それは、ねぇ。事の成り行きはね、もしもあなた達が居たらお話しするねって、ヒナちゃんと話をしたけれど。流石にそれは、内緒。きっとあなた達は、あの子の大切な人たちだから」


 え?と二人同時に声が出る。元来た方向へ歩き始めたヒナタさんが、振り返って悪戯に笑った。


「ヒナちゃんもね。いいお友達だと思ってると思う。だからこそ、これ以上は詮索しないであげて、ね?」

「……そうですね。僕たちは、良い友人です。会社も、どんなことをしてるのかも、互いによく知らない。ただあそこで会って、これが美味いだの、あの酒が良いだの言いながら、一緒に食事をする仲間。深く入り込み過ぎました」


 成瀬くんがヒナタさんに頭を下げたから、俺も慌ててそれに倣う。すると彼女は、「私はもっと他人よ」とお道化た。何だか今にも消えてしまいそうな雰囲気で。


「あっ、いけない。今何時?」

「もう少しで日付が変わるくらいですかね。えっと二十三時五十九分」

「あ。あぁ……乗り遅れた、きっと」

「え?終電?」


 うん、と力なく彼女が項垂れる。それから慌てて検索を始めたが、やはり乗り遅れたのだろう。直ぐに天を仰いだ。


「どこまで帰るんですか?タクシー捕まえます?」

「いや、歩いても帰れるから大丈夫よ。あなたたちこそ、大丈夫?」

「俺は、もうそこなんです。駅の向こう側」

「僕は広小路なんですけど、まぁ歩いても帰れます」

「そっか。なら良かった」


 ホッとしたようにヒナタさんは、目を細めた。広小路までも意外とあるよね?なんて成瀬くんと普通に話し始める。凄く親しみやすくて、穏やかなお姉さんだ。あぁだからヒナも、彼女には心を許したのだろう。何だかそれだけは、解る気がした。


「よし、じゃあ歩こう。最近、運動不足だったし。うん、そうだ」

「凄い、納得させてる感ありますね」

「こうでもしないと面倒になって、直ぐにタクシー呼んじゃうから」

「なるほど」


 成瀬くんとヒナタさんは、不思議と真顔でそんな話をしている。何だかお似合いな二人に見えた。……でも、成瀬くんはヒナのことが好きだったんだ。じゃあ、ダメか。また忘れかけたモヤモヤが顔を出した。


「そうだ。二人共、明日はお休み?」

「僕は休みですね。昌平くんは?」

「俺も明日は休みっすね」

「よし、じゃあ。皆で動物園に行こう」

「え?」

「は?」


 俺たちが目を丸くしている所に、彼女はニコニコと微笑んで見せた。何だ、その思い付きの動物園は。子供じゃあるまいし、それでどうしようと言うのだ。


「突拍子もないことをって思ったでしょう」

「思いました、ね」


 成瀬くんの意見に同調して、俺も頷く。彼女は何を意図して、こんなことを言っているのだろう。高校生じゃあるまいし。友人と動物園だなんて。


「これは完全に私のお節介なんだけれどね。きっとあなたたち、今まで通りに会いにくいでしょう?だから、どうかしら?また飲みながら再会したら、きっと言わなくていいことも言っちゃうだろうし、気不味いでしょうから」

「あぁ、そういうこと、か。分かりました。僕はいいですよ。昌平くんもね、行けるよね?ね?」

「ん、あぁ」


 半ば強迫のような成瀬くんの天使の笑みが、俺を賛同させた。彼はヒナに会いたいんだ。そう感じると、胸がキュッとなった。俺は……嫌なのか?成瀬くんがヒナを好きなことが、嫌なのか?


「じゃあ動物園の表門に十三時。どう?」


 何だか楽しそうにヒナタさんは、俺たちに約束を取り付ける。成瀬くんと顔を見合わせ、二人で頷いた。


「ヒナちゃんには、直前まで黙っておく。私が彼女と上野駅で待ち合わせて、それで連れて行くわね。だからそこまでは、上手く会わないようにやってくれる?その前に喧嘩になったらいけないからね」


 今度は明らかに俺の方を見て、彼女はそう言った。確かに、今日言い合いをしたのは俺だ。このミッションは、俺にかかっているのかも知れない。


「あ、じゃあ。俺こっちなんで」

「おぉそっか。じゃあ、おやすみ。また明日ね」

「おぉ。また明日」

「おやすみなさい。急にお誘いして、ごめんなさいね」

「いえ。おやすみなさい」


 俺にウインクをして、成瀬くんは手を振った。どういう意味なのか分からない。明日よろしく、と言うことだろうか。真っ直ぐ歩いて行く二人を、俺はただ見ている。あのまま、あの二人が上手くいってくれればいいのに。そうすれば……


 成瀬くんが、ヒナを好きだと言った。それは応援したい気持ちはちゃんとある。だけど。モヤモヤが拭えない。成瀬くんの気持ちを聞いたから?

 俺はヒナのことが、好きなのかも知れない。だけれども今は、誰にも知られたくない。


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