第三話 深見昌平、二十八歳(上)
「ったく、飲み過ぎなんだよ」
「もう、昌平は煩いんだよぉ」
彼女はムスッとしながら、フラフラした足取りで俺の胸にパンチを入れる。俺――
「ヒナちゃん、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。歩けてるじゃん」
右に行ったり、左に行ったり。定まらないヒナの小脇を抱えるヒナタさんと言う女性は、さっきからずっと心配し続けている。
いつも一人ぼっちで飲んでいるヒナ。誰かといたところなど、俺は見たことがない。でも随分と、彼女には懐いているように見えた。彼女は一体、誰なんだろうか。
そもそも、俺とヒナはあの店でしか会ったことがない。一年ほど前か。俺の行きつけであるあの店に、一人でフラッと入って来たのである。ハッと目を見張るような美人で、小汚い食堂のようなあの店がとても似合わない。それが第一印象だった。彼女は壁一面に貼られたメニューの短冊に目をやると、直ぐに「おばちゃん。レモンサワーとイカフライ」と叫んだのだ。今思い出しても可笑しい。初めて来たであろう店で、レモンサワーとイカフライの組み合わせ。枝豆や焼き鳥だってあるのに、だ。俺はそれが可笑しくて、ヒナの顔を一目で覚えてしまった。
それから顔見知りになり、初めに仲良くなっていたのは
それからは店で会えば、一緒に飯を食い、酒を飲んだ。何をしているのかとか、そんな野暮なことは聞かない。大体、ヒナと言うのも本名なのか分からないのだ。あぁいう派手な女は、きっと色んな裏があるものだから。
「ヒナちゃん、道合ってる?大丈夫?」
「ヒナタさん、心配し過ぎぃ。大丈夫。えっとねぇ、もうちょっと」
フラフラと歩くヒナを心配しながら、ヒナタさんは何度も手を差し伸べる。まるで姉、いや母親のようだ。派手なヒナに対して、ちょっと地味なヒナタさん。まるで正反対。ヒナと友人とも思えない彼女は、何か知っているのだろうか。
「ヒナちゃん、大丈夫かね。何かあったのかな」
心配そうに成瀬くんが俺を覗き込んだ。彼はとても優しい。嫌味ばかり言いたくなる俺とは、次元が違う。だからヒナも、彼には直ぐに懐いた。俺には今だって悪態しかつかないのに。ヒナタさんの荷物を持った成瀬くんが、「心配だね」と言う。それは友人として、だろうか。気になるけれど、深く聞くようなことはしない。
「ったく。お前、何があったんだよ。こんなに飲んで」
苛立った俺の言葉に、ヒナがギッと睨みつける。珍しくスカートにブーツ。髪なんか巻いちゃって。デートだったなら、もっと幸せそうにしてりゃいいのに。
「煩いなぁ。昌平には関係ないでしょっ」
「あぁ?関係ねぇけど、ヒナタさんにだって迷惑かけてんじゃん」
フラフラするヒナを支えながら、ヒナタさんがあれこれ心配をする。私のことは気にしないで、と彼女は言うけれど。
「ヒナちゃん、何かあったの?今日は本当に飲み過ぎだよ」
俺の肩に後ろから手を置くと、成瀬くんはヒナに向かって優しい声を掛けた。俺が言うことの出来ないような、穏やかな口調で。
「んん、何もないよ」
あはははっと笑ったヒナは、楽しそうにも、今にも泣きそうにも見える。酔いが回って足元はふらつきながらも、一人でクルクルと回って笑う。それをヒナタさんが心配して、気を付けて、と手を貸した。
「ただね。一緒に飲んでたらね、楽しくなっちゃって。飲みすぎちゃっただけよね」
「ねぇ。楽しかったもん」
「そんなに仲良しなんだね。二人は」
成瀬くんの言葉に、二人が詰まる。仲が良いわけではないのか。
「今日ね。私がナンパしたの」
「そうなの。ヒナタさんがね、急に声掛けてくれて。でも楽しかったぁ」
「あら、それは良かった」
女二人楽しそうに笑うのを、俺と成瀬くんは訝しく見ていた。どう見ても、二人の外見は正反対で、何ならば年も性格も全く違う。パッと見、大人しそうなヒナタさんが、しっかり化粧をしたヒナに話し掛けるだろうか。
小さな疑いが、少しずつ大きくなる。別にヒナなんて、気にしなきゃいいだけのこと。そう思うが、何だか苛々して仕方ないのだ。
「よし、次の信号のとこだよ」
「うんうん。じゃあ、あとちょっとだ。頑張ろう」
「はぁい」
少し先のマンションを指差しながら、楽しそうに歩くヒナ。それはそれで良いのだが、やっぱり胸がモヤモヤして、苛立ちが治まらない。成瀬くんも腑に落ちない様子のまま、ケラケラ笑う二人を見ている。このモヤモヤはきっと、今日解決しなきゃいけない気がする。ずっとあの店で会うまで、気に掛けているのは御免だ。
「ヒナ。おい、お前本当になにがあったんだよ」
「何もないよ。うっさいなぁ」
「ないわけねぇだろ。こんなに酔ったことあったかよ」
「昌平には関係でしょ」
「はぁ?心配してやってんだろうが」
ヒナが本当に迷惑そうな顔をする。カチンときた、と言うよりも、正直面白くなかった。何でも話せる様な間柄ではない。それは分かっているけれど、今日の酔い方は普通に心配で、友人として……そう友人として心配なのだ。
「……言った?」
「は?」
「誰が昌平に心配して欲しいなんて言った?」
俺を睨みつけるヒナの目は、赤く潤み始めていた。段々と溢れ出た涙が、目尻に溜まっていく。これはヤバい。
「フラれたのよ。これで満足?」
「ヒナちゃん。いいから。言わなくていい」
ヒナタさんがヒナの頭を撫で、宥めようとする。大きな目から、ポタリ、ポタリ、と涙が零れた。フラれた?俺は、なんて無神経なことを。ようやく、そう気付いた時にはもう遅かった。俺を睨み、寂しそうに目を伏せたヒナは、何も言わず走り出した。
「ヒナちゃん。待って。バッグ、ごめんなさい。今日は有難うございました」
「あっ、えっと……」
ヒナタさんは慌てて成瀬くんからバッグを受け取ると、ヒナを追いかけた。俺は動けないまま、ただ立ち尽くす。追いかけなきゃ。追い付いて、謝らないと。そう思うのに、馬鹿な俺は動くことが出来なかった。
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