第二話 小川陽、三十五歳(下)
「ちょっと、陽さん。聞いてます?」
話しながら飲んでいるうちに、徐々に彼女の酔いが回って来る。流石に初対面の彼女の限界酒量など知る由もない。慎重に様子を見ていたつもりだが、今日はペースが速かったのかも知れない。これはそろそろ帰さないといけないな。
「聞いてる、聞いてる。緋菜ちゃん。飲み過ぎたね。そろそろ帰ろう。歩ける?」
「やだぁ。折角、明日もお休み取ってあるのに」
ここは上野、と言うよりも御徒町。近いという彼女の家だが、私には皆目見当もつかない。こうして何度か帰宅を促しているが、彼女は帰りたくないようだった。それは何となく理解しているから、強くは言えない。だって今日は、彼女の誕生日。
「あ、じゃあこうしよう。明日、何処かに行こう。美術館じゃなくてもいいし、映画に行ってもいい。付き合うから」
「本当?」
「うん。私もね、明日はお休みなのよ」
彼女はじっと私を見つめてから、ヤッタぁ、と声を上げる。今の言い方からして、きっと週末が休みではない仕事なのだろう。誕生日だからと張り切って休んだのに、ということか。それは確かに、この有様では報われない気もした。
「あと一杯だけ飲んでいい?」
「ダメ。今日は終わり。送って行くから」
「えぇ大丈夫だよぉ。あ。でも、トイレ行って来る」
軽く手を振って、彼女を見送るが、既に不安しかなかった。あの足取り、本人は真っ直ぐに歩けていると思っているだろうが、そこそこ酷い千鳥足。絵に描いた酔っ払いのおじさん、くらいのものだ。家までが、五分、十分くらいの距離なら良いけれど。
「お姉さん。あいつ、大丈夫?何かスゲェ飲んでるけど」
「え?えっと……」
どうしようかな、と彼女の背を見つめていた私に、良く日に焼けた若い男が声を掛けた。十一月になったというのに半袖のTシャツ。人懐こそうな笑顔で話し掛けてくれたが、直ぐに苛々した顔を見せる。チラリとトイレを見ると言うことは、緋菜ちゃんを知っていると言うことか。
「ショウヘイくん、名乗らないとお姉さんに分からないでしょうよ。ごめんなさい。僕たち、あの子とここで良く会うんですよ。それで一緒に飲んだりもしてて」
「あぁ、そうだったんですね」
ショウヘイくん、と呼ばれた彼はムスッとしたままに、未だトイレの方を見ている。逞しい腕を組みながら。呆気に取られていた私に、後ろから来た可愛らしい顔の男性がそう説明してくれた。すまなそうな顔を見せた彼も、私よりも少し年下だろうか。
「あんなに酔ってるけど、アイツなんかあったんすか」
「え?あぁ、いや。そう言うわけじゃないんだけど」
良く分からぬ相手に、勝手に全てをぶちまける訳にもいかない。せめて、彼女がここに戻るまでは。ショウヘイと呼ばれた彼は、話しながらもチラチラとトイレの方を確認している。そして、緋菜ちゃんが出て来るや否や、「お前、結構飲んだろ」と怒り顔でズカズカと迫って行くのだ。
「ショウヘイじゃん。うっさいなぁ。あ、ナルセくんも」
緋菜ちゃんは笑って、ナルセという男性の方へ手を振る。まるで、ショウヘイくんを無視するように。彼はそれも面白くなかったのか、お前な、と緋菜ちゃんにあぁじゃないこうじゃない言うのである。しかも、それほど広くない店の中、良く通る声で。彼女はそれをとても煙たそうにしながら、二人はワァワァギャアギャアと言い合いを始めた。まるで子供の言い合いである。
「また、あの二人。すみません。いっつもあぁなんですよね。仲が悪い訳じゃないんだけど、何かがカチンと来るようで」
「いや、何となく理解はしたよ」
周りの客も、いつものが始まったぞ、と言わんばかりにクスクスと笑っているのだ。「あ、ですよね」と苦笑いするナルセくんに、隣の席を勧めた。だってあの二人は、きっと暫く言い合いをしたままだろうから。じゃあ、と一礼して、ナルセと呼ばれた彼が私の隣に腰掛けると、気を利かせた店員が二人の酒を運んで来てくれた。
「何だか揉めてるけれど、楽しそうね。緋菜ちゃんも、あんな一面があるのね。ちょっと私、ホッとしてるかも」
「そうですか?あぁでも僕は逆に、あの二人しか知らないので何とも」
互いに目を見合わせて、私たちは小さく乾杯をする。それから二人で、彼らのやり取りを眺めた。
「僕、ナルセと言います。彼は、ショウヘイくん。名字何だっけな。ふふ。そのくらいの関係です」
「なるほど。私は、小川と申します」
二人静かに自己紹介をして、私たちはクスッと笑う。クリッとした目が印象的な彼は、キュッと口元を綻ばせる。何とも、爽やかで好青年、としか例えのない彼。こういう子は『可愛い可愛い』とおばさまたちが放っておかなそうだな。そう思う私も、つい親戚のおばさんのような感覚になっている。私も三十五歳か。いつの間にか、そんな年になったんだな。
「あの、申し訳ないんですけど……一緒に彼女を送ってもらえませんか。多分一人で帰るって言うとは思うんですけど、ちょっと心配なので」
「そうですね。僕は構いませんよ。多分、ショウヘイくんも大丈夫」
ナルセくんは、勝手にそう決めて酒を飲み込んだ。名字を知らない関係。ここで会うだけのような、常連客同士ということか。千鳥足の彼女を抱えて、一人送って行ける自信もない。かと言って、婚前の女子である。若い男二人だけに託す訳にもいかないのだ。
「だから、何があったんだよ」
「うっさいな。ショウヘイには関係じゃん」
言い合いをしながら戻る二人。ナルセくんがさり気なくショウヘイくんを誘導したが、緋菜ちゃんはそれが気に入らない。
「もう、何でここに座んのよ」
「緋菜ちゃん。私がどうぞって言ったの。いいじゃない。帰りも一緒に送ってねってお願いしたところよ」
「ショウヘイくん、大丈夫だよね?ね?」
「あ?おぉ……」
「もう陽さん……ナルセくんはいいけど、こいつは嫌なの」
緋菜ちゃんの言葉に、ショウヘイくんはカチンと来たようだ。その感情が、あからさまに表に出ている。
「お前なぁ。こっちは心配してんだぞ」
「兄貴みたいなこと言わないでよ」
「合ってんじゃん。俺の方が年上なんだから」
「一つだけね」
互いにふんッと外方を向いて飲み始めた二人。最後だよ、と告げたジョッキの中身がぐんぐんと減った。その黄金色を見つめながら、私はホッとした反面で驚いていた。緋菜ちゃんが、こういう態度をするとは思っていなかったからだ。どちらかと言うと、何時でも澄ましていて、こういう男性は相手にしないと思っていたのだ。
「二人は仲良しなのねぇ」
「は?何言ってんの。陽さん、これ仲良しに見えます?」
ニコッと笑ってから「うん」と頷いた。ちょっと意地悪だったかなと思うけれど、同じように背を向き合わせたままの二人。仲が良いのか、悪いのか、全く分からない。ナルセくんも同調してウンウンと頷くのだから、強ち間違いではないだろう。
多分だけれど。彼女のような子は新しい恋をしたら、あっという間に変わる。一つの恋は、それだけ力を持っているのだ。チヤホヤ甘やかし過ぎないような相手だと、成長が出来るだろう。それと、一緒に居て着飾らない相手というのも大事。自然体の緋菜ちゃんで居られるような相手。何だか彼は、そういう存在なんじゃないかと思った。
「何よ、二人して」
「こっちだって願い下げだわ」
そしてまた顔を背ける二人を見ていたら、ナルセくんと笑ってしまった。似た者同士。きっと彼も同じことを思ったのだろう。何よもう、と剥れる緋菜ちゃんが、ちょっと可愛い。さっきまでは懸命に、大人になろうと背伸びをしているようだった。きっと今の姿が、素の彼女なのだろう。
四人で――いや、正確には彼ら二人が――ワイワイ話しながら、手持ちの一杯を堪能する。こうやって年下の子たちと飲むのも、楽しいものだな。最近は同僚と飲むことも少なく、自分の交友関係の狭さを痛感するばかりだ。昔はもっと友人と遊んだりしていたのに。あぁ何時からだったろう。誰かと交わることを恐れるようになったのは。周りは結婚して、母になった。それを言い訳に、私は彼女たちから一歩引いた。徐々に、徐々に、自分の方から離れて行ったのだ。
どうしてこうなってしまったんだろう。私にだって、彼らみたいな若かりし思い出があったはずなのに。
彼らと同じ頃、私は何をしていたんだろう。私は……。思い出そうとすると、ただ胸が痛んだ。
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