第二話 小川陽、三十五歳(上)

「陽さん。私、何が足らないと思いますか」


 お休みの日に偶然知り合った彼女――三山みやま緋菜ひなは、真剣な顔つきで私を見つめる。向かいに座り、真っ直ぐに私を見るのだ。えぇと、と言葉を濁したが、その熱視線は痛い。そもそも、私――小川おがわひなたと彼女との出会いは僅か数時間前のこと。そう聞かれて返答に困っているのに気付いているのか、いないのか。彼女は真っ直ぐに、私を見ている。


「そうねぇ。うぅんと、私は緋菜ちゃんを良くは知らないでしょう?だから無責任にあれこれ言うのも、ね」

「あぁ、そうですよね。……実はあの、聞こえてたかもしれないですけど。彼に言われてしまって。中身を磨けって。でもそれって、どうしたら良いんだろうって」


 彼女は至って真面目に悩んでいるようだった。茶化すような様子は一切見られない。

 今日は、気になっていた万年筆を見るために家を出た。書き味が気に入れば、冬のボーナスで買おうと思っている物だ。いい年をした独身の、細やかな楽しみである。試し書きをさせてもらって。新しいノートを買って。お濠の端を散歩して。ゆったりとカフェでお茶を飲んでいた時だった。隣席から急に、「ヒナ」と聞こえて来たのである。そんなに変わった名前ではないが、つい目をやってしまった。そこで、別れ話が行われていたことなど露知らず、に。その結果、私は今、その女性と向かい合って酒を飲んでいる。


「中身を磨け、かぁ。偉そうね」

「ぷっ、陽さん言い過ぎ」

「だって、偉そうじゃない。お前の中身はどうなんだよって」

「確かに」


 そう笑い話にしてみるけれど、私は彼氏の言葉が、本当は良く聞こえていた。勿論、すべてに聞き耳を立てた訳ではないが、その言葉はスッと私の中に落ちた。中身を磨け。あの時確かに、彼氏はそう言った。それまでの二人の時間があるわけだから知る由もないが、けれどもその時、私はその言葉に妙に納得してしまったのである。

 私から彼氏の顔は見えていたけれど、隣に腰掛けていた緋菜ちゃんの顔までは見えなかった。ただ、聞こえて来る話からは、きっと外見の良い子なのだろうと想像した。そうして私に聞こえて来る彼女の言葉は、どことなく何かを見下した言い方。端々から感じる、若さ故の自信。それは絶対に悪ではないけれど、いつかは気が付かなければ後々後悔することになる。彼氏はそれを言っているのだろうと思った。


「彼がね、どういう意味で言ったのかは分からないけれど。一般的に、よ。例えば、髪やお肌の手入れをしたりって言うのも、自分を磨くことだよね」

「うん、それは頑張ってる」


 うんうん、と彼女は相槌を打ってから、また勢いよく酒を飲み込む。そうして、「具体的にどうしたらいい?」と身を乗り出した。

 本当は、下手に他人の争いに首を突っ込むようなことはしたくない。ましてや、そのままやり過ごせば、二度と会わないような他人である。けれどそう簡単に出来なかったのは、この子の勝気なようで不器用な所が、寄り添ってあげたいと思わせたのだろう。彼氏が去った後に呆然としたまま、頭にクエスチョンマークを並べたような顔をしていた彼女。色の抜けたような顔をしたこの子が、私は何処か自分のことのように見えたのかも知れない。


「お肌の手入れと同じように、自分の中身になる物を見つけていくのも、自分を磨くってことだと思うの。本を読んだり、旅に出たり、新しい何かを経験して、体験して、自分の幅を広げるって言うか。他人の意見を素直に聞いたり、自分の弱さを認めたり。本当は自分で目を瞑っていることってあるじゃない?それに目を向けたり、目指す自分を見つけたり」


 緋菜ちゃんは下を向いたまま、ブツブツと私の言葉を繰り返した。自分に思うところがあるのだろう。少し苦い顔をしている。私は静かにビールを飲みながら、彼女が反芻するのを待った。ストレートの綺麗な黒髪。パチッとした瞳。モテるのだろうな、と想像する。ただ人を惹きつける様なその外見が、彼女が望まぬところで高嶺の花のように、触れてはいけないもののように扱われてしまったのかも知れない。私は彼女と数時間話をして、そう思っていた。

 きっと、美人だ、という苦悩もあるのだろうと思う。私はごく普通の、平凡な女。美人ではない。だからと言って、卑下される程の不細工でもない。何の特徴もない、印象に残らないような女なのである。そんな私が彼女側の感情を考えようとしたって、それは無理な話だ。外見では判断しない。そう言う人もいるが、実際はスタートラインの時点で差があるのだ。美人というのは何歩も前に立っていて、私たちが追い付くまでに一定の権利を得ている。悲しいかな、そういうもので、多分本人は気が付いていない。


「陽さん。私に新しい何か、教えてもらえませんか」

「ん?私が、緋菜ちゃんに?」

「はい。陽さんは、きっと私の知らないことを沢山知ってる。何となく、私たち正反対な気がするんです」

「正反対、かぁ。まぁそうかもね」


 日向を堂々と歩ける彼女と、日陰をコソコソと歩く私。彼女のように華やかな人生など、送っていない。どちらかと言うと、薄暗い、底辺のような人生である。そう思ってしまうと、教えられるものなど、私にあるとは思えなかった。


「あぁ、そうだ。じゃあ、今度美術館行かない?」

「美術館、ですか。行ったことないです」

「本当?」


 自分の好きな物を考えたら、一番簡単なのはこれだった。彼女のことを知らない私には、勧める物がないのだ。例えば料理や読書、それから陶芸や手芸。色々とあるけれど、体験教室に手当たり次第に行っても仕方ない。美術品を見て感動するかは分からないが、新しい物に目を向けるのはいい機会かもしれない。


「うん。興味があるかって聞かれたら、自信はないですけど……せっかくの機会だし。これを逃したら、一生行かなそう」

「何それ。大袈裟ねぇ」


 私には兄弟はいないが、妹が居たらこんな感じだったのだろうか。出会いこそ大声では言えないけれど、猫のように懐に入り込む彼女が、私は少し可愛らしく感じ始めている。


「そう言えば、陽さんてご結婚されてました?時間気にしてなかった。すみません」

「え?あぁ、そこの心配は無用よ。独身だから。帰っても部屋は真っ暗。辛うじてエアコンで部屋が暖かいくらね」

「あぁ同じだ。でも彼氏は居るでしょう?絶対」

「絶対って何。残念ながら、居ない、わよ」


 言葉に詰まったのは、私にしては素直な反応だな、と思った。


「えぇ。そんなことってあります?」

「あるよ、ある。大体、彼氏なんていなくたって、別に可笑しなことじゃないでしょう。世の中に独身で生涯を終える人が、どれだけいると思ってんの。もう」

「うぅん。確かにそうなんですけど……陽さん、、凄く優しいお母さんみたいだから、何か信じられないって言うか」


 何よそれ、と呟いて、ビールを流し込む。焦点は合っているようで、合わせていない。ただ空を見つめていた。


「もう三十五よ。私の恋愛話なんて、どうでもいいわよ」

「良くないですよ。結婚はしなくても良いと思うけど、恋はしていた方が良いと思うんです。私」

「ふふ。緋菜ちゃんは若いわねぇ。良い、その勢い大事よ」

「もう、陽さんの話なのに」

「あら、緋菜ちゃんだって前を見るんでしょう?」


 私のことを問い詰めたい彼女に、ちょっと意地悪に返す。まぁそうですけど、とギュッと口元に力を入れたのが分かった。何度も愚痴ってみても、付き合っていたのだから、直ぐに忘れられるわけなどない。緋菜ちゃんは、ジョッキを勢いよく傾け、それから大きく頷いた。

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