第一話 三山緋菜、二十七歳(下)

 カフェオレに口を付けたまま、私は呆然としていた。彼が去って、どれくらい経ったろう。焦点も合わないままに、彼の座っていた椅子をじっと見つめる。今日は誕生日だって、来る時から、いや何ならば朝から浮かれた気持ちでいたのに。これが現実なのか、一体何なのか良く分からない。


「あ、あの……大丈夫、ですか?」


 私の左脇から、小さな声が掛かる。さっきからチラチラ覗き見ていた女だ。キッと睨みつけ、大丈夫です、と直ぐに目を逸らした。これは見世物ではない。私は鞄を手に取ると、直ぐにそこから逃げ出す。隣の女が何かを言っているように聞こえたが、振り向くことも出来なかった。カフェを出て、真っ直ぐに前を見る。そうして駆け出すように、東京駅の方へ歩き始めた。


「どうして、私がフラたみたいになるのよ。どうして?どうして?」


 言葉がポロポロと落ちる。惨めな自分、最悪の誕生日。少しずつ歪んでいく視界。立ち止まってしまったら、一気に溢れてしまう気がして、ただ下を向きながらずんずん歩いた。後ろから女性の声が聞こえて来る。慌てたようなそれは、次第に近付いて来るが、私には関係ない。


「待って。待って。お姉さん」


 その声と共に、私の肩に手が掛けられる。まさか私を呼んでいる声だとは思わず、ひゃっ、と妙な声が出た。恐る恐る振り向くと、居るのである。隣の席に座っていた女が。何ですか、と睨みつけると、彼女は困ったように眉を落とた。何なんだ。何が言いたいんだ。馬鹿にしに来たのか。我慢したが、彼女の八の字になった眉がまた苛立ちを増幅させた。


「そんなに他人が別れたのが面白いんですか。笑いたいなら、勝手に笑えばいいじゃない。後を追いかけて来て、わざわざ何なんですか」


 そう言いながら自分の目からは、涙の粒が次々と落ちていく。惨めだった。見ず知らずの人に、こんな姿を見られることが。握り込んだ拳に力が入る。


「あぁ……、えっと。ごめんね、違うの。これ、ひらッと落ちたから」


 何も返せずに見た彼女の手元には、私のチェックのストールが握られている。鞄の上に挟んでいた物が、確かにない。彼女はそれを届けるために、追って来てくれたのだ。


「……すみません」


 グズグズの声で謝罪する私に、彼女はそっと差し出した。

 あぁこれは、彼の履いていたあの靴と一緒に買った物。肌触りが良いね、なんて笑いながら。幸せだった記憶が、一瞬で思い出される。彼だって同じだって思ってたのに。私の目からは、次々と涙が零れた。あぁ、私。やっぱり悲しかったんだ。浮気じゃないかも知れないけれど、苛々して、腹が立って。傷付いたし、苦しくて、悲しかったんだ。

 彼女は困り顔のまま、大丈夫?と私を覗き込む。それから通路の端に私を引き寄せ、ハンカチを寄越した。泣き止めない私の背を優しく摩り、人目に付かない方へ促して、彼女は静かに寄り添ってくれる。それでも涙は止まらず、暫くそのまま動けなかった。


「えっと、えっと……よし、そうだ。飲みに行こう」


 急に思い立ったように彼女がそんなことを言うから、私はただ驚いて「え?え?」と間抜けな声を出した。会ったばかりの人にそんなことを言われても、これはどうしたものか。うん、とも、嫌だ、とも言えず、私は涙目のままに彼女を見つめていた。


「あっ。あぁ、そうよね。私、怪しいね。ちょっと待って」


 バッグから財布を出すと、彼女はそこから一枚の名刺を取り出した。こういう者です、と。私はボォッとそれを眺めた。彼女の名前は、小川陽。何て読むんだろう。


小川おがわひなたと申します」

「ヒナ、タ?」

「そう。陽。ヒナちゃんよね?そう呼ばれた名前に反応しちゃって、つい」


 また、え?、と間の抜けた声が出る。そして同時に、彼女は小さく舌を出して笑った。ヒナとヒナタ。似ている響きに見た目こそ違えど、確かに何だか親近感が湧く。パッと見、三十代半ば。フワフワの髪、ナチュラル系の服。見た目としては、全く共通点はなさそうだが。


「コーヒー飲みながら、考え事してたらね。ヒナ、ヒナって聞こえて。驚いて見ちゃったのよ。私の方こそ、ごめんなさいね」

「あぁそれで」


 彼女は野次馬気分で、私の醜態を見た訳ではなかったのか。その事実分かると、ちょっとだけホッとしていた。勿論、途中からは事の成り行きが気になったのだろうけれど。陽さんは申し訳なさそうな顔をして、私をの覗き込んだ。


「ごめんね。気になっちゃって」

「あぁいいんです。流石にショックでしたけど、仕方ないです」

「仕方ないなんて……。良いんじゃない?今日は、さ」


 含みのある言い方だな、と思ったが、彼女にも聞こえていたのだろう。哀れみに溢れた、誕生日おめでとう、が。二〇一九年十一月二日。今日、私は二十七歳の誕生日を迎えた。仕事を終え、彼とディナーをする予定だったのに。事実はもう変わらないし、今更連絡を入れて「やり直したい」だなんて頭を下げる気もない。二十七歳は前途多難と言うべきか。


「私なんて知らない人だけれどね。今日はきっと、誰かに甘えていいはずよ。誰かに甘えるってね、悪いことじゃないし、恥ずかしいことじゃない」


 陽さんはそう微笑んだ。有難うございます、と頭を下げる私の目は、まだちょっと涙が滲む。でも、これはきっと。誕生日に別れたショックだとか、悲しいとか、そう言うことじゃない。きっと人の優しさに触れたからだ。その穏やかな笑みに吸い込まれる様で、私はまた泣いてしまいそうだった。

 中身がない、なんて言われて。パッとしないような女に会っていたのを知って。誕生日なのに。別れようと言い出したのは、私。でも彼が、あんなに直ぐに受け入れるとは思ってなかった。もう笑うしかないな。彼を追いたい気持ちがないのなら、前を向くしかない。私は小さく、スゥッと息を吸った。


「あ、あの……私、三山みやま緋菜ひなと申します。有難うございました。今晩、私からもお誘いしても良いですか」


 何言ってるんだろう。そう思う気持ちがない訳ではない。初めて会った人と誕生日を祝うだなんて、想像すらしたことがない。でも、新しいことをやってみるのも、何だかちょっとだけ楽しいような気がしたのだ。それに、このまま家に帰ったところで、一人で泣くのは目に見えている。そんな寂しい誕生日を送るよりも、ずっと楽しい気がしたのだ。それに、明日も休み。どれだけ酒を飲んで浮腫んだって、いいから。


 私の言葉に、今度は陽さんが目を丸くして見せた。自分で言ったくせに。そうして、私で良いの?と聞くのだ。それはきっと、『誕生日なのに』と言うことだろう。こういう場合は友人と飲み明かす、というのが普通なのかも知れない。本当は、私にだってそんな友人が居たらいいが、残念ながらいないのだ。学生時代を共にするような人はいたが、今でも深く付き合う人はいない。そういうもの、と気にもしていなかったけれど、こういう時にふと寂しくなるものだな。

 二十七歳になった日に、彼氏と別れる。泣きつけるような友人が居れば、こうして見ず知らずの人に頭を下げることなどなかったのだろう。私はもう一度、真面目な顔をして「お願いします」と頭を下げた。たかが、カフェの隣席で別れ話をしていた女。それの誕生日を祝うアホなど居ない。断られて当然だ。


「よし、そう決まったら何食べる?あ、飲む方がメイン?」

「いいんですか?」

「え?だって誘ってくれたよね?あ、でも誘ったのは、私だった。よし、何処に行こうか」


 陽さんの穏やかな笑みに、私はまた泣きそうになる。偶然出会えたのが彼女で、本当に良かった。こんな出会いは良くない、と決め付けるのは簡単だけれど。陽さんは悪い人じゃない。それだけはこの数分で、私が分かったこと。


「そうですね……ただ、東京駅ここからは離れたいです」

「うんうん。そうだね。お家はどっち方面?」

「えっと、向こう。上野の方です」

「お、同じだ。どこかお店知ってる?」

「じゃあ、私がいつも行く店でも良いですか?安くて美味しいんですよ」


 私の誘いに、陽さんは反論なく賛同した。ここから離れたい。その気持ちを一番に汲んでくれたのだと思う。もしも彼氏に会ってしまったら。そして、私と行けなかったディナーにあの女を誘っていたら。そう思うと、悔しい気持ちが沸々と湧いてしまうのだ。

 崩れたメイクをサッと直して、改札を抜ける。東京から御徒町まで、山手線で六分。まさかこんなに直ぐ引き返すことになろうとは思わなかった。あったことが急過ぎて、未だ現実なのか頬を叩きたくなる。それでも、「寒くなって来たね」と微笑んでくれる陽さんが居てくれることは、今の私には有難かった。



* * *



「彼、きっと。別の女のところに行ったの……」


 いつもの大衆食堂に来て、二杯目のジョッキを空けると、ついポロリと弱音が漏れた。素直に誰かに本音を言えたのなんて、いつぶりだろう。陽さんは、大人だ。「そっか。辛かったね。でもよく頑張ったと思うな」彼女は前を向いたまま、私にそう答えた。


「頑張った、かな……」

「頑張ったよ。頑張った」


 そうかなぁ、と下を向く。彼女は何も言わずに、私の頭をポンポンと撫でた。やはりその手は温かい。それにホッとしたのか、ようやく自分の頬が少しだけ上がっていた。


「彼、優しかったんです。年も上だし、甘え過ぎたのかな」

「そう?それが、着飾らない緋菜ちゃんだったんでしょう?だとしたら、彼が受け止め切れなかっただけじゃない?」

「そうですかね……」

「彼はきっと、良い所だけを見せたかったのよ。緋菜ちゃんよりも大人で居たかったんじゃないかな。少なくともきっと、緋菜ちゃんの前では。そうしていた方が、あなたに好かれると思った気がする」


 そうかなぁ、と言いながら彼女を見る。ウンウンと頷く彼女の、フワフワの髪が揺れた。どの辺りまで、陽さんが聞いていたのかは分からない。でも今の様子では、私が苦しまない言葉を選んでいるような気がした。


「あの。本当にすみませんでした」

「あら、謝らないでよ。こういう時は、有難う、でいいのよ」

「は、はい。有難うございました。おかげでちょっとスッキリしました」


 彼女の穏やかな、その瞳を見ながら思う。こういう優しいお姉さんが居たら良かったのに、と。私には、ガサツな兄が二人いるだけ。三兄妹を一纏めにしたように育った私は、同じようにガサツだ。ただ、上の兄の方が掃除は上手いし、下の兄の方が料理も上手い。あれ?私が自慢出来るものって……何だ。彼が言っていたように、外見だけ?


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