第一話 三山緋菜、二十七歳(中)

 どうやって顔を合わせたのか。どうやって話が始まったのか。今はちょっと思い出せない。ただ、スカートも髪の毛も気付いているのか分からない。まだ何も言われていないから。今日初めて見た彼の微笑んだままの顔は、涙で歪んでいた。


「誤解なんだって。分かってくれよ」


 そうして今、私たちは誕生日ディナーになど行けるわけもなく、近くのカフェに入り向かい合っている。


「誤解……ですか」

「あの子は、ただの後輩。仕事のことで悩んでるって相談があったから、じゃあ、って会って聞いただけだ」


 そうなんだぁ、何て笑えるか。そんな出来た女じゃ無い。だって今日は私の誕生日。ここに来るまで、私はあんなに楽しみにして来たのに。まさかその前に別の女に会っていたなんて。


「どうして嘘吐くの」

「嘘じゃねぇよ。後輩だって言ったじゃん。本当だよ」


 あれは本当に後輩なのかも知れない。でも、私は一点気になっていることがある。それは、彼が言い掛けたことだ。「俺も、あい……」と言いかけて、彼はそれを誤魔化した。あのシチュエーションでそれに続く言葉など、私には一つしか思い浮かばない。


「後輩、って言うのは、信じるよ。でも……」


 あなたの中には別の気持ちもあったんじゃない?そう聞きたいけれど、私のプライドが邪魔をしている。今日は誕生日なの。そんな惨めな質問、自分から言い出すことなど出来ない。

 下を向いて、唇を噛んで。私はさっきの女を思い出していた。私と同じ形のスカートを穿いていた女。パッとしない、冴えない顔の女。目の前に置かれているカフェオレへ、そっと伸ばした手が震えている。


「緋菜、ごめん。疚しいことは、何もないから。ご飯食べに行こう」

「疚しいことは何も、ない?……嘘。どうしてそんな嘘吐くのよ」


 静かに彼に反論をして、私の目からはまた涙が溢れた。少し声が大きくなったからか。左隣に座っている女が、チラチラとこちらを見ている。見世物じゃない。私は闘っているのだ。


「とにかく、私はこんな状況では食事をする気にはなれない。彼女との待ち合わせ寸前に、にやけた顔で他の女を見送って……有り得ないでしょう」

「にやけてねぇよ」

「へぇ。そう」


 あのぼやけて見えた顔が、微笑みだったのか、ニヤ付いていたのか。本当は分からない。ただ彼は、あのブルーのニットを見つめていた。愛しい物を見るかのように。「俺も、あい……」と言いかけて止めたのも、事実。それは彼の本心なんだ、と思っている。

 こうなってしまった以上、私たちの関係を冷静に考えなければいけない。修復出来る状況なのか、それは無理なのか。私はその二択の間を冷静に見極めていたが、自分の中の沸々するものが抑えられそうにない。今日を楽しみにしていた私は、このまま彼を許せそうになかった。


「私はね、ここに来るまで、本当に楽しみだったよ。気付いてないかも知れないけれど、珍しくスカートを穿いて、髪も巻いて来た。あなたが何て言ってくれるかなぁって、ワクワクしながら来たの」

「そ、そっか。そうだよな……ごめん。俺の考えが甘かったよな。緋菜が来る前なら時間があるからって思って」

「相談てさ、電話でも良かったんじゃないの?休みの日に、私のたん……きっとあなたも色々考えてくれてたであろう今日じゃなくても……それに、態々会って話を聞いてあげないといけなかったの?」


 惨めだった。私の誕生日、と口に出来なかったのは、声に出したらもっと惨めになると思ったからだ。


「別れようか。私たち」

「えっ、何でそうなるわけ?」

「私は許せないと思うから。相談に乗ってあげたのだとしても、今日だったのが嫌なの。あんなところ見たくなかった。大切な日、なのに」


 あんな冴えない、普通の女のどこがいいの。そんな絶対に私の方が……。そんな醜い考えが、沸々と湧いて来る。でも、絶対に口にしてはいけない。それは他人に見せてはいけない感情だから。とにかく確かなことは、自分の誕生日――結婚に近づくかもって一人ウキウキしていた日に見たくなかったということ。見なければ、気付かなければ、私たちはどうなっていただろう。今更そんなことを思っても、自分の心が傷付いた事実が拭えるわけではない。こんな日に、本当はあの女に会いたかったの?どうして?聞きたいことはあるが、答えを聞いて受けるダメージは大きいだろう。深く考えたわけでもない別れが、自分の口から出る。流石に引き下がって来るだろうが、私は許すつもりはないのだ。


「そっか。分かった」

「は?」

「分かったって。別れたいんだろ?自分で言ったんじゃん」


 分かった?彼が直ぐに賛同するだなんて、思いもしなかった。心が完全に動揺している。またギュッと唇を結んで、彼をキッと睨みつけた。ただ穏やかに、いや、呆れたように、私を見ているその顔。あぁもしかすると彼は、既に気持ちが離れ始めていたのかも知れない。


「緋菜、アイツのこと、見た?」

「アイツ……見たよ」

「そっか。どうせ、可愛くないとか、あんな女とでも思ったんだろ」

「そんなことは、思ってない、よ」


 言葉尻が情けない程に小さくなった。彼に見透かされていたことは、私の心の中にある醜い感情。決してそれを表に出してはいけないと分かっていたのに、彼に見透かされている。キョロキョロと合わない視点。動揺を隠せない。


「緋菜はさ、若いし、美人だし。それだけで、一緒に居て鼻が高い気持ちはあるよ。でもな、人って顔じゃないんだ。そりゃ、初対面の印象には大事かもしれないけど。緋菜だって、顔で判断されるのは嫌だって言ってただろ?」

「それは……そうだけど」


 顔だけで判断されるのは、面白くない。あまり分かってもらえないけれど、美人だって羨まれるのは、苦痛なことなのだ。確かに、容姿は悪くない方だと思う。けれど、それを真っ直ぐに言われてしまうと、反応のしようがないのだ。美人に生まれたら得よね、と幾度言われたことか。その度に、「そんなことないですよ」と謙遜しても、結局は嫌味だと捉えられた。得だなんて、嘘だ。好き好んでこう生まれたわけではないのに。私はただ、唇を噛んでいた。

 

「緋菜はさ、自分が一番だって思ってる」

「そんなことない」


 思わず口を吐いた言葉が、つい大きくなった。驚いたのか。隣席の女はまた、チラチラとこちらを見ている。


「そんなことあるよ。緋菜が美人だって言われるのが、嫌なのは分かってるけどさ。結局は、鏡ばかり見て外見を整えることだけに、こだわってるように見えるんだ。君は確かに綺麗だ。だけどさ、それだけじゃ駄目だろう。中身はどうなんだ?」

「なか、み?」

「そう、中身。いつも外見で判断されることを嫌がる癖に、そこにしがみ付いてるのは緋菜じゃないか?何か勉強したり、努力してる?若くて美人なら、何時だってチヤホヤされるさ。今に分かるよ。それだけじゃ誰も見てくれなくなるって」


 彼は堰を切ったかのように、次々と私への不満を漏らし始める。反論しようと口を開けるが、上手く言葉が出て来ない。でも悔しくて、悔しくて、私はスカートをギュッと握りしめた。視界の端では、隣の女がまだチラチラと窺っている。


「緋菜。三十歳になんて直ぐに来る。それまでに少しでも、中身を磨け」


 あれ?何で私が説教されてるの?

 納得なんて一つも出来なかったのに、私はただ下を向いていた。泣いてはいない。言い返せない自分が情けなくて、悔しいだけ。


「緋菜。自分を綺麗に見せることは確かに大事だ。でも、せめてそれに伴うような中身がなければ、その外見は光らないんじゃないか」

「どういう意味よ。私だって……」


 後に続く言葉がなかった。体型の維持や肌の手入れ。そう言った努力は惜しまずにやっている。けれど、確かにそれらは外見を整える術でしかない。私の中身は何もないの?


「多分な。中身が素敵な女性なら、見た目云々関係なく、その人に惹かれるんだと思う。あの子もそうだ。緋菜にとったら、大したことのない女なのかも知れない。でもな、あの子は明るくて朗らかで、いつでも笑っている。そういう所、俺は素敵だと思うけどな」


 彼は何を言っているのだろう。その目は何かキラキラしている物を見ているようで、ここにいる私をすっかり透明にした。あのブルーのニットを着た女。どこが良い女なのか、私にはやっぱり分からない。


「……じゃあ、俺はもう行くな。今まで有難う」


 何も言わない私を少し待ってから、彼は席を立つ。それから小さな声で、誕生日おめでとう、とだけ言った。手にしているジャケットは、去年買った彼のお気に入りだ。それを着込みながら去って行く彼の背を、私は唖然としながら眺めていた。


 彼が居なくなっても、私はスマートな強い女の振りをしている。頭の中は、これまでにない程のパニックを起こしているのに。カフェオレに伸ばした手が、小刻みに震える。もう冷め始めていたそれが、乾いた私の中に静かに落ちていく。彼があの時、飲み込んだ言葉を思うと、ポタリと涙が零れた。

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