第一話 三山緋菜、二十七歳(上)
「あっ、すみません」
東京駅に着いて急いでいた私は、すれ違うサラリーマンとぶつかる。怪訝な顔をされたが、勢いよく頭を下げた。ムッとした彼は何か言いたそうにも見えたが、直ぐに背を向けて歩き始める。ホッと胸を撫で下ろして、私は目的地へと急いだ。
大手の食品メーカーに勤める彼とは、付き合い始めて今年で二年目。こう気を急いているのは、もしかしたら、なんて気持ちが心の中で踊っているからだ。気を付けなければ、鼻歌でも歌ってしまいそうなくらい。ウェディングドレスを着るには、きっと若い方が良いに決まっている。最寄りの駅を通り越して、上野駅からJR線に乗る。待ち合わせの東京駅までは、山手線で八分。ドキドキするのは私の勝手だけれど、期待してもいい、よね?
「えぇと……こっちかな?」
東京駅で待ち合わせることなんて、ほどんどない。分かりやすいように『動輪の広場』と言われたけれど、丸の内方面であること以外はほぼ勘で動いている。新しく買ったブーティ。珍しく巻いた髪。いつもは穿かないスカート。ポイントにチェックのストールをバッグに挟んである。彼は、何て言うだろう。柔らかい濃紺のプリーツスカートは、ウロウロする私の足元で揺れた。
「おぉ、これだな」
待ち合わせ場所に着いたのは、珍しく十五分も前。少し人は立っているが、彼は見当たらない。私がいつもギリギリか少し遅れるから、彼も急いではいないのだろう。そうだ。彼も今日は、昼間に用事があるって言っていた。それならば連絡は入れず、静かに待とう。動輪を背にし、改札の前に立つ。真新しいブーティを見て、誰にもバレないように小さく微笑んだ。
「今日は、出て来てもらっちゃって悪かったな」
「いえ、私の方こそ。お休みなのにすみませんでした」
「おぉ、それはいいよ。俺も、あい……あぁ、まぁ気を付けて帰れよ」
私がここに立って、ほんの二、三分経過した時。左後方から男女の声が近付いて来る。私はそれに、何だか聞き覚えがある気がした。この甘ったるいような、柔らかい声……
「じゃあ。また、月曜日に」
「おぉ。またな」
二人が歩を進めて、その声の男が私の隣に並ぶ。それまで上げられずにいた顔を少しだけ持ち上げ、離れて行った女を目で追った。綺麗なブルーのカラーニットを着た女。改札へ向かい、クルリと振り返って小さく会釈をする。それからゲートを抜け、また振り返って小さく手を振った。チェックのプリーツロングをひらりとさせ消えていく様は、何だか浮かれているようにも見えた。
ボォッとその背を見つめた。真っ青なニット。休日のくすんだカラーの中で、綺麗に映える。真横に立った男の右手がそっと降りた。あぁこの靴。いつだったか二人で出掛けた時に、買った物と同じだ。
私は、薄々は気付き始めている。今の声の主は、私の彼、だと。
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