第二話「濃度」

 社内最奥さいおうの小部屋に二人、部長と先月スパイだと発覚したわか社員が長机をはさんで対面していた。少々薄暗い部屋の壁には金属光沢があり、つ窓は一つも見当たらない。

 ねらわれていたはずの部長が、お命ちょうだいの女にかたりかける。

「いやー、それにしても最近、君が立ち上げたプロジェクトが好調みたいだねぇ」

「はい。じゅんえきにして十億かせぎました」女は淡々たんたんと答えた。

「十億! はぁー、が部下ながら天晴あっぱれだ、ハッハッハ」

 部長はかいそうにうなずきながら言葉を続ける。

「うんうん。君のゆうしゅうさを考慮こうりょしてかいしなかった甲斐かいがあるってものだよ、ハハハ。そう、この仕事が君の天職なんだから、スパイだったことは忘れよう! さぁ、もう定時だね。今日はもう上がるとしようか」

 じょうげんな部長が帰り支度じたく済みのかばんを手にした時、ずっとかない表情だった女が「いえ、忘れられません」とじゅっかいした。

 部長はしょうり付けてざんだまっていたが、落ち着いた様子で「素直すなおなのは、いことだ」と女をさんする。

 女は「ありがとうございます」と言って頭を下げた。

 めて伸ばすタイプの上司はかわいた笑いをらした後、少々あきれ気味に「まーだあきらめてなかったの?」と言った。

「はい、あきらめきれません!」

 部長は一つめ息をいた後「君、裏でみんなからどう呼ばれてるか知ってる? 『スパイちゃん』って呼ばれてるからね、君」とげた。

「えぇ! バレていたんですか!」

 隠密おんみつさに自信があった女は、自分の正体が周知されていることにきょうがくする。

「バレてる。バレてる。すっごいバレてるよ。最近なんてつうの間では『パイん』とか『パ』ってりゃくされてるんだから」

「いや、めっちゃイジられてるじゃないですか! 呼び名が半濁はんだくひと文字なんてあります?」

「でもねぇ、俺はひそかに『パイんちゃん』を流行はやらせたいんだけど、どうかね?」

「知りませんよ! なんの話なんですか! 『スパイちゃん』りゃくして『パイん』だったのに『パイんちゃん』だと元の言葉が『スパイちゃんちゃん』になるのは無問題モウマンタイなんですか?」

 不満げなパイんちゃんの抗議を、部長は「アダ名でじゅうごんなんて気にしないさ」と軽く流した。

「『パイんちゃん』はアダ名というよりべっしょうに近いと思うんですが……」

「そうだね、イジメに発展しないようかんしておくから、そこは安心したまえ。まあ、これ以上イジられたくなかったらスパイなんてめることだね」

 部長は再三さいさん女をスパイ業界からはなそうとする。しかし、女は手をむねに当て「いえ、イジメになんてくっしません! 私はほこり高きスパイですから!」と声高らかに宣言した。

「スパイのおそろしさを部署にとどろかせたいんです。だから、部長! 私は貴方あなたたおさないといけません。スパイの尊厳そんげんまもるため、私はたたかいます!」

 女はスーツの内側からばやけんじゅうを取り出し、部長のひたいねらいを定める。

 部長は「うーん、どうしてそんな発想になっちゃうのかなぁ」とつぶやきながらゆっくりと両手を上げた。部長は極力女をげきしないようにしんちょうである。

「今度こそ、実弾が飛ぶのかい?」

「いえα線です」

「何がしたいんだ君は」

 声には冷淡れいたんの色が混じっている。部長は「それ今の所ただのモデルガンだからね」と続けた。

「部長は状況が以前と変わっていないとお思いですか?」

 意味深長な言葉に部長は目つきを少しするどくし「何が言いたいんだね?」と女の画策かくさくさぐる。

 その時、会議室の外から騒音そうおんが聞こえてきた。それは草刈くさかり機のエンジン音に、ぴちゃぴちゃと水音みずおとじったようなものである。

「分かったんです。空気がじゃでα線が飛ばないのなら、真空にしてしまえばいのだと」

 騒音そうおんの正体をさっした部長は「まさか、この音はロータリーポンプ!」とさけんだ。

「ご名答めいとう! 今この部屋の空気は真空ポンプによってどんどんっていっています。α線が部長のひたいつらぬくのも、時間の問題ですよ」

 女は得意げである。

「いやしかし、ただの会議室が真空にえられるはずがない」

 部長は自分を安心させるように問題点をてきしたが、女は案外平気そうである。

「そう、普通なら外側からのあつりょくで部屋がつぶされてしまうでしょう。だから私は、この部屋を真空にえられるように改造いたしました!」

「えぇ!? だからこの部屋だけ無駄にメタリックだったのか……」

「なかなかおおかりな工事で、プロジェクトで得たえき十億を全額んだんですよ」

「うわあああ! 勿体もったいない! 勝手に何やってるんだ君は!」

 巨万きょまんとみが女のスパイごっこのために溶けてしまった。しかし痛いはそんなこと気にもめない。

はいが始まると扉は開かないように設計しています。もう逃げられませんよ、部長。貴方あなたはこのα線銃で命を落とすのです!」

 女は自分の完璧かんぺきな作戦にいしれている。おのれのスパイ伝説がここから始まるのだと確信していた。

 ここで部長が「え、いや、それだとα線とか関係なく酸欠さんけつで共倒れなんじゃ……?」と根本的な問いを投げける。

 女はしばらく考えてみて、真顔で「……たしかに」という言葉をらした。

「えぇ!? そりゃーそうだよ! 一般人でも分かるよ!」

 女は「はい中止! はい中止!」とさけびながら重厚なとびらたたく。

「どうして君のスパイ仕事はこんなにも手ぬるいんだい!」

 部長は普段敏腕びんわんな部下の不甲斐ふがいない仕事ぶりをなげいた。女は激しく壁をたたいていたが、声が次第に弱々しくなってくる。

「誰かー! 残ってる人ませんか!? 誰か、残業……残業してる人は、ませんか……?」

「どうだろうね、が社は残業少ないから」

「ホワイト企業なのが、にくい……!」

 女はたたく手を止めて座り込んでしまった。

「そうだね、残業ゼロに『幽閉ゆうへいされると助けが来ない』なんて欠点があったとは俺も知らなかったよ」

 このままでは死へ一直線である。流石さすがの女も取りみだし始めた。

酸欠さんけつで死ぬなんて嫌です! 私、しんじゅうするなんて真っ平ですよ!」

「ちょっと! 君がしでかした事態なんだから、せめてもっと情熱もってよ! 俺を殺すんでしょ!? だったらもっとちがえるぐらいの気でさぁ! 来られてもこまるけども!」

 部屋の空気はどんどんうすくなってゆく。

 二人の生死をけたたたかいはまだ始まったばかりだ。

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