7
翌日の夜、帰宅途中に、私は足早に『人形の家』に向かっていた。
先日までの作業ミスの遅れを取り戻す意味も含めて、無我夢中で仕事に専念し、定時で業務を終わらせると、そそくさと会社を出て、なるべく早い時間帯の電車に乗り込んだのだった。
そうして、自宅最寄りの駅で電車を降りると、ほとんど駆け足にも近いスピードで歩き続け、『人形の家』の前で立ち止る。相変わらず、ショーウィンドウには何体もの人形が並んでおり、それらが通りを見つめていた。
私の方を見つめている人形もある。
私は彼ら―彼女らを一瞥すると、『Dolls Mansion』という看板が掛けられた、茶色い扉の前まで移動する。すぐ隣にあるコンビニの出入り口は、会社帰りの時間帯という事もあってか、人の出入りが慌ただしい。
それと対照的に、この建物の出入り口は閑散としている。考えてみれば、毎日この道を通っているが、この建物に出入りしている人間は見たことがない。と言っても、この『人形の家』が出来たのは、多分つい最近のことだろうが……。
閉ざされた、茶色い扉の周囲を見渡し、インターホンや呼び鈴らしき物が見当たらないことを確認すると、ひとつ深呼吸して、右拳を握り込み、目の前の扉を数回叩いた。
それ程強い津からで叩いたつもりは無かったが、ドンドンと大きな音が響く。見た目の綺麗さとは異なり立て付けが少し悪いらしく、扉が少しがたついているのが分かった。
―返事は無い。
私は暫く耳を澄ませて、目の前の扉を穴が空くほどじっと見つめた。もう一度、扉をノックする。先程よりも、少し強く。
……。だが、中からは何の応答もなかった。
さすがに、勝手に扉を開けるのは躊躇ったので、一旦踵を返してショーウィンドウの方に移動する。そこから、建物の奥の方へと目を凝らしてみる。
沢山の人形が並べられた室内。しかし、あるのは人形だけで、人の姿は確認出来ない。少し明るすぎるくらいの照明に、ガラス越しでも目がチカチカしてきそうだった。この状況で留守というのは考えにくい。聞こえないのか、それともわざと出てこないだけなのか。
もう一度、茶色い扉の前に移動し、ノックをしようと右手を振り上げた瞬間、
「―何か、ご用ですか?」
すぐ真後ろで声が聞こえて、飛び上がらんばかりに驚いた。勢いよく振り返ると、すぐ目の前に真っ黒なフードを可ぶっと人物が立っていた。
「ほっほっほ……これは失礼。驚かすつもりはなかったのですが……。何か、ご用ですか?」
先日もここで会った黒ずくめの女。私にあの人形を渡した女だ。
「あ……あの……。ちょっと、聞きたいことが……」
早まる鼓動を抑えるために、数回大きめの呼吸をしつつ、私は目の前の女に問いかけた。
「あの人形……。あれは、何なんですか?」
女は、私の質問の意味を考えるように、僅かに首を傾げて視線を泳がせた。
「あの人形……?……ああ、よく見れば……あなたは、先日の……。ああ、成程」
ただでさえ距離が近いのに、女はこちらに身を乗り出すように顔を近づけてくる。真後ろが扉で逃げ場を失った私は、背伸びするようにしながら女の顔から逃れた。
「ほっほっほ……、少し、目が悪いので……。失礼。で、あなたは、あの子を渡した主様ですね。あの子が、どうかなさったのですか?」
主様……?
何となく、女の言い方に違和感を覚えたが、気にしないことにする。それよりも、今は確かめたい事があった。
「あの人形……あれは、どういった人形なのでしょうか?」
「……どういった、とは?」
「何だか……変なんです。あの人形」
「変?」
私が変だと言った瞬間、女の表情に目に見えた変化が見られた。訝しげに、怪しむように目を細めたかと思うと、眉間に皺を寄せながら私の方を睨んできた。
「これ、あの人形が握っていました」
言いながら、私は、しわくちゃになった一万円札を女に向かって差し出した。
女はそれを受け取ると、紙幣を広げ始める。
「ほう……。あの子が、これを……?」
「それだけじゃありません。あの人形、背中に、赤い傘を差しているんです」
「ほう……。赤い傘を。あの子が……?」
「私が持っていた傘と、同じものでした」
それだけ言うと、女は少し大きく目を見開いて、私の方をじっと見つめてくる。先程まで浮かんでいた怒りにも似た表情は消えていた。ほとんど無表情だが、目を見開いた表情が、どこか人形のそれに似ている。
「そのお金も、多分……私のお金です」
「ええ、それはそうでしょう」
「え?」
「あの子は、あなたの物ですから、あの子が持っているお金は、あなたの物です」
「いや、そういう意味じゃなくて……。何て言うか……その……」
「ふふふふふ……」
女は軽く俯くと、体を震わせて笑い出した。どことなく不気味な笑い。
「どうやら……混乱していらっしゃるようですね。ふふふ……」
「私が持っていた赤い傘は、この間無くしたばかりでした。一万円札も、つい昨日なくしたことに気付いて……。そしたら、あの人形が背中に傘を差していて、この一万円札もあの人形が持っていて……。偶然にしては……おかしいですよね……。どうして、私の持っていた物を、あの人形が」
「偶然にしては、おかしい……。ならば、それが必然だと、考えてはいかがでしょうか?」
「は……?」
「あなたは今混乱していらっしゃる。もう暫く、あの子と一緒に生活をすれば、次第に分かってくるでしょう。そう……あなたがあの子とここで偶然出会うことができたのも、実は偶然ではなく、必然だと考えれば良いのです」
そう言って、女は私のすぐ脇を通り、茶色い扉に手を掛けるとドアを開けて、建物の中へと身を滑り込ませた。
「では、お休みなさいませ」
足下まで黒いローブのような衣装で身を包んだ女は、まるで足を持たない幽霊のように見えた。
アパートに戻ると、私は夕食も食べずに、寝室で人形と向かい合っていた。
一体、この人形は、何なのだろうか?
漠然とした疑問が頭を駆け巡る。
私がなくした赤い傘を、この人形が持っているという事実。そして、私がなくした紙幣を、この人形が握りしめていたという事実。これらは紛れもない事実だ。だが……なぜ……なぜ……。
なぜ……?
そこに理由を求める必要などあるのか?いや、あるわけが無い。なぜなら目の前の「これ」はただの人形に過ぎないからだ。そう、これは人形だ。であれば、一連の出来事も、全て偶然だと片付けるしか無いでは無いか。
あの女は何と言った?偶然にしてはおかしい、ならばそれが必然だと考えてはどうか、と。全く持って馬鹿げている。偶然は、偶然でしかない。そう。偶然が重なる事もある。
例えば、私が自分の傘を無くしたから、それはこの人形が奪ったからだ、等と考えるのはあまりにも馬鹿げている。そう。人形が赤い傘を持っていたのも最初からで、一万円札を握りしめていたのも最初からで、たまたま私が赤い傘と紙幣を無くしたタイミングと、私が人形の体からそれを見つけたタイミングが一致しただけのこと。
そう考えるのが現実的な解釈だ。いや、そう考えなければ辻褄が合わない。
「ふふっ……」
思わず笑みがこぼれる。
こんな人形如きに、惑わされていた自分自身を笑ってみる。そして、人形が着ている水色のドレスに手を掛けた。
試しに、この人形の身ぐるみを剥がして、他に何を持っているのか、全て調べ尽してやろうかと思った。そうすればハッキリするだろう。この人形が今何を持っているのか、それを明らかにすれば、こんな馬鹿げた妄想に振り回されることもなくなる。
扇形に広がった、ひらひらのドレスの裾に手を掛け、それをまくり上げようとしたところで、人形と目が合った。
唇をつり上げた、異様な微笑が私の方を向いていた。
「……!」
思わず、反射的に人形を放り投げる。
ゴトン―!と、大きな音を立てて、人形が床に転がる。
「はぁ……はぁ……」
心臓の鼓動が煩い。息が上がっていた。
その夜、私はまた夢を見ていた。
夢の中で、私は、自宅の机に向かって参考書とノートを広げていた。
(これは……この光景は……)
まだ、今のアパートを借りる前、実家暮らしをしていたときの、私の自室……。参考書の内容と、ノートの内容は、どういうわけかぼやけてしまっていてよく確認出来ないが、参考書の方には無味乾燥な数式やら記号やらが書かれているところを見ると、数学か何かの本だろうか?
私は、右手に万年筆を持ち、忙しそうにノートに書き込んでいた。自分でも、何を書いているのか、よく理解出来ていない。だが、忙しいという感覚だけは感じていて、そして、一刻も早くこの作業を終わらせなければならないとも思っていた。
この作業を終わらせた後、あそこに、あの場所に行かなければならないから……。
……あの場所?
机の脇に置いてある、黒い掌に載るくらいの小さな箱を見やる。とても大事な箱。これを持って、あの場所に行かなければならない。
焦る気持ち、いや―逸る気持ちと言った方が正しいか。私はもの凄い勢いでノートに文字を書き込んでいく。何を書いているのか、よく分かっていないが、確信めいた感覚を持ちながら、書いている。
ひとしきりその作業を続けた後、私は、万年筆を置いて大きく伸びをした。休憩を取ろうと思ったのだ。
そして、傍らに置いてある黒い箱を手に取ると、箱を開けた。
何度も確認した事だが、改めて見ると本当に自分はこれを渡すつもりなのかと、弱気になりそうだった。
中には仄白く光る小さな指輪が入っている。決して高価な物ではないが、表面に、よく目を凝らさなければ確認出来ない程の大きさで、鳥の絵柄が刻印されている。それを手に取って見ようと思いながら、やめる。
その瞬間だった。突然床から突き上げるような振動が起きたのは。
ドーン、と言うもの凄い音と共に、座っていた椅子が数センチは浮き上がっただろう。その勢いのまま、私の体は椅子から投げ出された。同時に、目の前の―机の上に積んでいた本や書類の山がバラバラと崩れ、机の周囲にある本棚が倒れていく。
床の上に飛ばされた私は、反射的に両手で頭を抱える。
地震だ―!
部屋の明かりが消え、一瞬のうちに周囲が暗がりに包まれる。部屋の、明かりが消える直前、机の上で指輪がキラリと光ったように見えた。
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