6
「痛ッ―!」
反射的に、ファイバーケーブルを掴んでいた手を引っ込める。左手の人差し指の先に、鋭い痛みを覚えて、左手の指で掴んでいたケーブルを落としてしまう。
右手に持っていたケーブルカッターを作業台の上に置き、左手を見ると、薄手の黄色いゴム手袋の人差し指部分が破れており、その隙間から赤い色が覗いていた。どうやら指先の腹を切ってしまったらしい。
「どうしたの?石田さん。大丈夫?」
近くでケーブルの洗浄作業をしていた中野さんが声を掛けてくる。
「あ、はい……。すみません。ちょっと、指を切ってしまって」
「ケガですか?」
今度は、山家さんが近づいて来た。
私が押えている左手の方に目を配ってきている様に思えて、私は反射的に左手を後ろに隠すと、
「ちょっと、カッターで切っただけですから。絆創膏、もらってきます」
それだけ言って、私は、何か言いたげな二人を振り切るようにしながら、その場を離れた。
クリーンルームから出て、エアシャワーを早足で抜けると、外のロッカールームで手袋を脱いだ。少しだけ、血がついていた。
別に、ケガをしたことを知られたくなかった訳でもないが、何となくばつが悪かった。
例によって、作業に集中することができず、どこかぼんやりとしてしまっていたのだ。だから、手元が狂ってしまった。
ただそれだけのこと、と言ってしまえば身も蓋もないが……。
連日ミス続きというのは、やはりみっともない。
(あまり、深く考えないようにしよう……)
ミスをしてしまったことに対してもそう思ったが、それ以上に、自分自身の頭の中を支配している物事に対しても、改めて自分にそう言い聞かせた。
気を取り直して、絆創膏をもらいに行こうと、作業服を脱ぎ始める。総務部に行けば、もらえるはずだった。大きなケガであれば、労働災害報告書を書かされるのだが、この程度であれば、そんな必要も無い。
そう思って、作業服に血がつかないように注意しながら、作業服から左手を抜こうとした瞬間、ふと違和感を覚えた。
つい先程まで、ジクジクと痛んだ人差し指の痛みがほとんど無くなっていたのだ。
ふと、左手を見る。
人差し指の指先の腹には、五ミリほどの長さの線傷と血の跡があったが、既に出血は止まっていた。
今日は、定時を大きくオーバーしての帰宅となった。
作業ミスはあったが、さほど時間をロスしたわけでもなかったし、前工程もスムーズに運んでいたから、仕事自体は問題なかった。
遅くなったのは、別の理由からだ。
(……はぁ……。本当に、どうかしてるな……)
今朝出社してから、クリーンルームで作業をし、昼休みに立ち寄った食堂から、再びクリーンルームに戻り、現在時至るまでに自分が移動した軌跡を、さっきまでもう一度辿っていたところだった。
―社員玄関から外に出て、駅に向かいながら何度目かの溜息を吐く。
先日は傘を紛失したが、今回はそれどこではない。一万円札だ。帰宅直後、ロッカーで荷物をまとめている最中に、ふとポケットに突っ込んだ財布に違和感を覚えたのだ。
二つ折りの財布だが、札入れの部分は折りたたんでいても僅かながら中身が見えるような構造になっており、いつもとその見え方がどこか違って見えたのだ。
反射的に中身を確認すると……。足りない。
一万円札が1枚足りないのだ。
電車は定期券で往復しているし、会社で現金を使うことなどまず無い。だから、財布の中身はほとんど変化しないのが常だった。従って、どのくらいの現金が入っているかも、大体把握している。細かい小銭はともかく、紙幣の枚数くらいは……。
記憶違いではない。一万円札が1枚足りなかった。
ザワリと背中がシビれるような緊張感が走る。と、同時に、急速に頭を回転させて、記憶を辿る。会社で財布を出す事は、まず無い。だから、今財布の中の金が足りないという事は、そもそも、会社に来る時点で既に足りなかった可能性の方が高いのだが……問題は、いつから足りなくなっているのかが分からない事だった。
とりあえず、会社の中で、自分が立ち寄る場所(可能性がある場所)を一通り歩き回って探してみたが、やはり、見つからなかった。
会社でなくしたかどうかも分からないので、遺失物の届を出すわけにもいかない。ひとまず、帰宅して部屋の中を探してみるしかない。習慣的に買い物はカードで済ませるため、そもそも現金を使う事が滅多に無い。従って家でも現金を扱う事はあまりないから、多分見つからないだろうが……。
モヤモヤとした気持ちを抱えたままアパートに戻ると、まず、真っ先に寝室に向かった。現金や預金通帳などは、一通り寝室の中で金庫に保管しているのだ。昔から、お金に関してはかなり几帳面に管理するクセが付いていて、加えて半年前の地震で自宅に保管していた現金を幾らか紛失してしまってから、より一層神経質になっていた。
一人暮らしではあるが、家計簿も自分ではマメに付けている方だと思っている。パソコンを起動させて、表計算アプリを起動させると、家計簿のファイルを開いた。大体、毎月一回くらいの頻度で、預金残高、現金として保有している分の金額の照合を行っている。
家計簿と手持ちの現金を照らし合わせると、やはり、丁度一万円分だけ足りない。
……どうしたことだろう……。
一体、どこでなくしてしまったのか。まるで記憶が無い状況に、頭を抱えてしまう。必死で記憶の糸を辿り、ここ最近の出費状況を回想してみる。
……いや、多分出てこないだろう。
そもそも、ぴったり一万円足りない、と言うのが不自然だ。切りよく一万円の物を購入していれば、さすがに記憶に残る。少なくとも先月の時点では合っていたハズだし……。
とすると、やはり無くしてしまったのか……。
金庫を閉じると、私は、起動したままのパソコン画面を見ながら半ば呆然としてしまっていた。それから、相変わらず私の隣で、瞳だけをこちらに向けている『彼女』の方を一瞥する。
そういえば……。
ふと思う。この人形を手に入れたときの経緯を、私は改めて思い返してみる。
ほんの数日前の出来事だから、記憶にはある。だが……私は本当にこの人形をもらったのだろうか……?そんな疑問が沸き上がってきたのだ。
もしかしたら、あの黒服の女から、一万円で買ったのではないか?
この人形に、(なぜか)目を奪われ、心を奪われて、呆然としている内に、つい一万円札を払ったことを、忘れてしまったのではないか……。
いや、さすがにそれはおかしい。
いくらあの時、呆然としていたとしても、そこまで記憶がなくなるのは不自然だと思う。しかし、他に現金で買い物をした記憶も無い。
私は、隣で本棚に座っている『彼女』の体を手に取った。
ブロンドの前髪で少し隠れた薄いブルーの目を見つめる。ほとんど無表情なのに、微妙に両端の唇が頬に向かってつり上がっているようにも見え、それが微かな笑みを浮かべているようにも見て取れる。
私は視線を動かし、改めて人形の全身を見据えて、この人形を最初に手にした時の事を思い出してみた。
……そして、やはりいくら思い起こしても、あの時お金を払った記憶は出てこなかった。
黒ずくめの女がこの人形を、正面をこちらに向けた状態で差し出してきて、私はそれを受け取った。あの時と同じように再現してみる。人形の腰から、太股の上で組まれた両手の辺りを掴んでそれを受け取ったのだ。それが、この人形に触れた最初の瞬間だった。
―カサリ……。
という音がして、眉を顰める。
人形の、太股の辺り、両手が組まれたところから、紙を握りつぶすような音が聞こえたのだ。
なんだろう?そう思って、私は、膝の上で丁寧に組まれた両手の当たりを子細に見つめる。そこで、息を呑んだ。
まさか……。
私は溜らずに、人形の―丁寧に組まれた両手を指で掴んで、半ば無理矢理押し広げようとした。可動式の関節を持っているわけではないので、丁寧に合せられた両手が簡単に離れる事は無かったが、それでもやや弾力のある素材でできているらしく、人形の両手と足の間に僅かな隙間ができた。そして、その間に挟まっている「もの」を強引に引っ張り出した。
くしゃくしゃになった、灰色の紙だった。
それを広げる―までもなく、それが何なのかは、すぐに分かった。
一万円の紙幣だった。
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