5

 その日の業務が終わったのは、夕方六時半を回った頃合いだった。

 クリーンルーム内の共通パソコンを使い、いつも通りその日の作業日報を記入する。その日一日に行った作業内容と時間を記録する事が、この職場のルールとなっているのだ。

 日報を記入すると、まだ残業をしている社員に挨拶をしてクリーンルームを後にする。

 クリーンルーム前室のエアシャワー室を抜け、ロッカールームに移動してクリーン服から普段着に着替えると、ロッカールームを出て薄暗い廊下を歩いていく。

 今日も一日が終わった。達成感らしき感情は、あまりない。単調で、平凡な毎日。それを繰り返す事に、退屈でもなく、安心感があるわけでも無く、だからと言って不満があるわけでも無く、大いに満足しているわけでもない。

 虚無感……。

 一番しっくりくるのは、そんな言葉だろうか。

 ……そう感じる原因を、私自身、よく分かっているつもりだった。分かってはいるが、どうしようもない、と言うのが現実なのだ。

 もし、この虚無感を消せるとするなら、それは「時間の経過」くらいしか無いのだろう。

 無意識のうちに廊下を歩き続けて、社員玄関に辿り着く。

 社員玄関脇に設置されている傘立てを一瞥する。昨日紛失した―あるいはここから盗まれた?―傘が戻されているかもしれないと思ったが、無かった。もっとも、今日は雨など降っていなかったから、傘立てはほとんど空っぽの状態だったが。

 会社を出ると、いつも通り最寄りの駅へ向かい、電車に乗る。そのままアパートに近い駅で降りると、アパートへの道を歩き始める。

 昨日と同じ通りを歩き、昨日と同様に『人形の家』なる建物の横を通り過ぎる。

 今朝、アコーディオンカーテンで閉ざされていたショーウィンドウは明るく、その光が暗い歩道を照らしていた。

 私は、歩きながらショーウィンドウの中に目をやる。昨日とほぼ同じような光景がそこにあった。ガラス越しに通りを見据える人形達。ただ昨日と明確に違うのは、昨日までそこにあった『彼女』が居なくなっていることだった。

 歩きながら建物の中を見るが、相変わらず沢山の人形が並んでいるだけで、他には人の姿らしきものは見えない。

 特に用事も無かったし、昨日の奇妙な女に絡まれるのも嫌だったので、立ち止らず『人形の家』を素通りしていく。

 それにしても……。この建物は、一体何なのだろうか。

 人形専門の店というわけでも無さそうだし、かといって、彼らをマネキンにした服飾店というわけでも無さそうだ。そうであれば、少なくとも『Dolls Mansion』などという看板など掲げないだろうし。

 あまり深く関わらない方が良いかもしれない。私は、隣のコンビニに入る。そこで今夜の夕食代わりになりそうな食材を買っていこうと思ったのだ。

 備え付けの籠を手に取り、幾つか商品を入れてレジに向かう途中、私はふと入り口付近に置いてある傘に目をやった。無くした傘は、多分戻ってこないだろう。一応、急な雨に備えて買っておこうか、と思ったのだ。

 だが……。

 ふと赤い傘の影が脳裏にちらついて、私は目を閉じる。

 やめておこう。そう思った。


 この日も私は夢を見た。

 この日の夢は、とても鮮明な夢だった。私自身、見覚えのある情景から始まった。それは、小田舎の風景で、民家があまり密集して折らず、ポツポツと古びた木造建築が点々としていて、ぐねぐねと入り組んだ細い道路が通っている、そんな場所だった。道端には草木や背の高い樹木が茂っており、高低差のある段々畑や棚田も確認出来る。

 小さな農村のような場所だった。

 だが、よく見れば、その所々には痛々しい程の「傷跡」が見て取れた。

 狭い道路は所々がひび割れており、棚田の斜面には地滑りらしき痕跡もあり、中には半分くらい崩落してしまっている田んぼもあった。

 点在している民家も、一見すると普通に建っているように見える家も、よく見ると、一部窓がなかったり、柱が傾いていたり、屋根瓦が地面に落下していたりと、半壊している家屋がほとんどだった。

 そんな傷んだ道路を、私は一人で歩いていた。狭い道路。車一台がやっと通れるくらいの細い道は、やはり所々に地割れや段差があり、歩く度に、パラパラとコンクリートの破片や石ころが転がっていく。無論、自動車など通れやしないだろう。

 だが、その先に「いるハズ」の人物を求めて、私は壊れた道を歩き続ける。

 この道をまっすぐ行くと、杉の木が沢山立ち並ぶ林が見えていくるはずだった。そして、林の中は、適当ではあるが、人が通れるように踏みならされた獣道が伸びており、「目的地」への道標となっているのだ。

 今自分がいる場所の状態を考えれば、林の中の状態も、おそらく酷い有様になっている事は容易に想像ができた。だが、胸の内から込み上げる不安を取り除くには、実際にこの目で確かめるしかないのだ。

 程なく、壊れた道路の右手側に、杉の木が幾本も立ち並ぶ林が見え、その木々の隙間に、踏みならされた獣道が見えた。目印となる柱が点々と道の両側に刺さっているが、それも今は傾いたり倒れたりしている。

 薄暗い林の中に足を踏み入れると、私は、その先にあるはずの小さな小屋を目指す。それ程距離はない。数分と掛からずにその小屋が見えてくるはずだった。

 幼い頃から歩き慣れた道だった。

 家から離れては居るが、ある意味、この林は私自身にとって庭のような場所なのだ。

 予想していたとおり、林の中は大分様相が変わっていた。大きな杉の木は無事な物が多いが、それでも傾いていたり、地盤の弱い場所は大きな地割れや段差が起きていた。それでも、道順が判別出来ないほどではない。

 少し歩くと、遠目で茶色い小屋が見えた。

 物置のような、簡素な一階建ての四角い木造の小屋。最悪の状態を想像していた私は、まだその小屋が倒壊していない事に、安心せずには居られなかった。自然と早足になる。

 ただよく見ると、倒壊はしていないが、やはり所々柱や壁が傷んでおり、決して無事な状態とも言えない。

 小屋の真正面へ駆け足で向かい、入り口の引き戸に手を掛けると、戸を動かそうとする。

 力を加えても、戸はほんの少ししか移動しなかった。歪んでいて開かないのか、何かに引っかかっているのか。何度か力を入れ直して戸を動かしている内に、何とか身ひとつが通れるほどの隙間ができた。

 そこから小屋の中を覗き込む。

 中は酷く暗かった。窓もない小屋の中は、今開けた引き戸の隙間から射し込む、薄暗い林の中の僅かな光で照らされ、一部分しか確認出来ない。が、それだけでも、小屋の中の有様が凄まじいことになっているのが見て取れた。

 今はほとんど使われていない小屋だが、かつて使用者が残した棚や農作業道具やらが残されており、それらが倒れたり散らばっていたりして、足の踏み場も無いような状態だった。

 私は大して広くもない小屋の中を見渡し、小屋の中へと足を踏み入れる。

 杞憂であればそれで良い……。

 そう、誰も居なければ、それで良い……。

 そう思いながら、いや、そう願いながら、私は小屋の奥へと進み、私は適当に倒れた棚や作業用具を動かしていく。

 その瞬間、突然地面が動き、体が飛ばされた。

 もの凄い勢いで、小屋の壁にしたたかに体を打ち付ける。


 ドン―!

 という音を同時に目が覚めた。同時に、固い感触を左の腰に覚える。

 ……全身に衝撃が走ったかと思うと、腰から足に掛けてゆっくりと走って行く鈍い痛み。

 私は目を開けた。

 ベッドではない、固めのカーペットの感触を全身に感じる。視線を動かすと、少し高い位置に、本来そこに寝ているはずのベッドと布団が見えた。

 そこでようやく事の次第を把握する。

 どうやら、ベッドから落ちてしまったらしい。打ち付けた腰がズキズキと痛み始めた。時計を見ると、五時を少し回ったところだった。起き出すにはまだ少し早い。

 のろのろと身体を起こすと、私は、乱れた布団を掴み、その中に潜り込む。カーペットに落下した衝撃で、体は痛んだが、眠気はまだ残っていた。

 と言うか、半覚醒のような状態で、先程まで見た夢の情景がまだ脳の中に残っているような感覚なのだ。

(……続きは見たくない)

 そう思いながらも、私は目を閉じて、先程の夢の情景を脳裏に思い浮かべていた。

 続きは、知っている……。そう、きっとあの倒れた棚の下に、いるハズなのだ。そして、その時は、きっとまだ「生きていた」に違いないのだ。

 何度も繰り返す余震で、あの小屋は倒壊して……そして、きっと……。

 私は目を閉じたまま首を左右に振っていた。

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