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 ブオォー―ッ

 という音と共に、強い風が全身に当たる。

 全身を真っ白なナイロン製の作業着に包まれながら、エアシャワー室と呼ばれる小さな空間で、私はしばらくの間強風を浴びていた。

 クリーンルームと呼ばれる広い作業エリアの前室に設けられたエアシャワー室。この場所で、作業着に付着した細かい埃などを吹き飛ばして、クリーンルーム内に埃を持ち込まない様にすることが目的だ。その作業着も、特殊な白いナイロン製の服で、頭から足首まですっぽりと覆い尽くす形となっている。靴も、同じく白いナイロンの外装に、靴底部分だけが分厚いゴム製で出来ている。薄い黄色のゴム手袋に、ゴム紐のややきついマスクを着用して入室する。それがクリーンルーム―私の仕事場に入室する際の規則になっていた。

 前室で三十秒ほどエアシャワーを浴びた後、クリーンルーム内に入室する。時間は八時二十五分。始業まで、あと五分あったが、既に室内は慌ただしく、早出の社員達が忙しそうに動き廻っていた。

 このエリアの広さは、およそ十五メートル四方くらいだろうか。工場には、このようなクリーンルームと呼ばれるエリアが他にも三カ所あり、この部屋はその中でも一番狭いエリアだ。

 精密部品を製造する際は、埃などの異物が混入しないように、このようなクリーンルームという特殊な部屋で作業することとなっている。私の作業も例外ではない。

 室内には、光沢のある銀色のステンレス製の作業台や、顕微鏡や様々な測定機、その他、製造ラインで使用する大ぶりな治工具類が整頓されて設置されている。部屋の広さの割に、物で密集している感じはあるが、常日頃からこのエリアを管理にしている担当者が整理整頓を徹底するよう指導しており、その甲斐あってか、エリア内は散らかっている感じはしない。

 私は、普段作業しているスチール製の作業台に向かうと、本日もおそらく丸一日業務を共にするであろう、マイクロスコープの準備を始めた。と、そこへ、

「おはよう、石田さん。これ、今日のノルマね」

 と言って、A4の用紙を1枚渡してきたのは、私が担当しているケーブル加工ラインのチームリーダーをしている山家さんだった。

 私は、渡された用紙に目をやる。その日一日の生産予定量と、製造に使用する部品の入庫時間、完成品の出庫納期などが綿密に書かれた予定表。私の一日の業務量は、この予定表で決まる。今日のノルマは……まあ、普段と同じか少し多いくらいか……。

「ただ、悪いんだけど、中野さんの作業が少し滞っていて、僕もフォローに入るようにするつもりだけど、午前中は手漉きになるかもしれない」

「……分かりました」

 中野さんというのは、私の前工程でケーブルやコネクタなどの洗浄作業を担当している女性の方だ。

 このような生産ラインでは、後工程が暇にならないように、常に前工程側の完成品をやや多目にストックしておくのが基本になっている。そうしないと、後工程の作業がどんどん停滞してしまい、そのしわ寄せが最終工程に及ぶことになるからだ。そうなると、最終工程を任されている担当者は、本日のノルマを完遂するまで中々帰ることが出来ない。いや、そもそも作業を始めることすら出来ない。

 比較的、工程の上流にいる私は、そういった意味で幸運なポジションと言える。

 始業開始のチャイムが鳴って、私は作業に取りかかり始めた。

 ゴム手袋越しに細いファイバケーブルを掴み、その端面に異常が無いかを観察しながら、慎重にケーブルをコネクタに接続する。もし端面に異常がある場合や、形状が歪な場合は、研磨したり専用のケーブルカッターでカットした後、再洗浄してからコネクタに接続する。ケーブルの反対側は、決められた長さにケーブルカッターでカットして長さを整える。入社時から続けており、かなり神経を使う作業だが、今では大分慣れてきた。そのせいか、作業中は無心になれる。

 時折雑念が紛れ込んでくることもあり、今日も例外ではなかった。むしろ、今日に限ってと言うべきなのか、様々な事が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。

 あの人形のことだ。

 どういうわけか、昨日手に入れた、いや、手に入れてしまったあの人形のことが頭から離れないのだ。

 今朝出勤時にも、昨日と同じ通りを通ってきたが、コンビニの隣の建物は、ショーウィンドウに灰色のアコーディオンカーテンがしてあり、中の様子は確認出来なくなっていた。さすがに時間帯が早いせいなのか、あるいは夜しか営業していないのか。いや、そもそもあの場所は何なのだろうか?人形を売っている、という訳でもなさそうだが……。

 試しに入り口付近に近づいて、庇の真下に掛けられた看板に目をやると、『Dolls Mansion』の文字が確認出来た。

 ―人形の館……。つまり、あの女が言ったように『人形の家』という意味なのだろう。

 ……人形……。

 玩具として、観賞用として飾る人もいれば、まるで本物の子供を相手にするように、抱っこしたり話しかけたりする人もいるというが、結局のところ彼らに共通するのはみな「人の形」をした造り物だという事。当然だ。当然なのだが……。

 人形のことが頭から離れないのは、単にあの人形を始めた見たときのインパクトや、なぜか目が離せなくなった不思議な魅力によるものではない。もっと、具体的な理由。

 そう、あの人形が背中に身につけていた、赤い傘……。

 ―パチン。

 いつもよりも、少し大きな音を立ててファイバケーブルを工具で切断する。

「あ……」

 そこで、私は自分の犯したミスに気付く。

 ケーブルをカットする際に使用する金属製の定規の目盛りを読み間違えていた。定規は、片方の端面にメートル寸法のメモリが、反対側の端面にインチ寸法のメモリが記載されている。普段はメートル寸法側で長さを測定するところを、インチ寸法で測定してしまっていたらしい。

 既に切断していた数本のケーブルを確認すると、全部同じ長さになっている。それより前にカットした物は大丈夫のようだ。途中から、寸法を間違えていたらしい。

 幸いにも長めにカットしていたのでやり直しは利く。危ないところだった。やはり、作業に集中しなければ。

 単調作業ではあるが、注意力散漫になると細かいミスを犯しやすい作業でもある。

 私は、頭の中から人形のことを排除して作業に専念することにした。

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