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アパートに帰ると、私はリビングに使っている部屋の隅にバッグと大きな紙袋を置いて、すぐにダイニングへと向かった。
想定していたよりも時間を食ってしまった。雨で濡れた髪を乾かす事もせず、シンクの左隣にある冷蔵庫に向かうと、中から今朝準備した朝食の残りを出す。野菜炒めと、スクランブルエッグにほうれん草や玉葱などを混ぜた卵とじ。それらを順にレンジに入れて温める。それから、昨夜作った煮物をコンロの火に掛けた。
夕食は大抵前日の夜か、今朝の残り物で済ませている。夕食が終わってから、次の日の食事の準備をするというのが日課だった。
―このアパートに済むようになったのは半年ほど前からだ。それまで実家暮らしだった私は、半年前に発生した「ある出来事」を境に一人暮らしを始めていた。
それが、この地を襲った大地震である。
今から半年前、私の住む町を襲った地震。マグニチュード6.9と報道され、この町でも震度6から場所によっては震度7に近い揺れを観測した。半年前、まだ大学生だった私は、卒論の締切りに追われていた。卒業間際だというのに、全くもってのんびりできない日々を過ごしていた矢先に発生したあの地震。
地震当日は、休日だったこともあり、自室で卒論を書いていた。夕方、母親が夕食の準備に取りかかり始めた頃合いだったと思う。
突然、ドーン、という音共に、床から突き上げるような衝撃を受けて、椅子から転げ落ちそうになった私は、一瞬何が起きたのか訳が分からなかった。
バランスを崩し、机の淵に捕まるようにしながら、周囲に目をやった時には、既に本棚の中か沢山の本が飛び出し、テレビが床に転がり落ち、窓枠がギシギシと嫌な音を立てながら激しく揺れているのが見えた―ところで、部屋の電気が消えた。
地震だ―!
そう思った時には、既に室内の光景は一転していた。物という物が散乱して、自分のいる空間が、一瞬で全く別の空間になってしまったような錯覚を覚えた。それは錯覚ではなく、紛れもない現実だったわけだが、激しい揺れの中、私はなすすべもなく、床に尻餅をついたまま、ただただ私の部屋の光景が変わっていくのを眺めていることしかできなかった。
どのくらい揺れが続いただろうか。おそらく一分以上は揺れていたと思うが、正確なところは分からない。
地震直後の激しい揺れが少し治まったかと思うと、すぐに激しい横揺れが襲いかかってくる。間髪を置かずに大きな余震に何度も見舞われた。
揺れが治まってから逃げよう、と思っていた私は、完全に逃げるタイミングを逸脱していた。
暫くして、外の方から、話し声が聞こえてきた。その声が、自分の母親の声だと気付いて、ようやく私は我に返った。
家具や本が散乱した部屋からなんとか抜け出すと、損壊した壁のクズや、天上から落下した板切れなどを避けながら、裸足のまま外に逃げ出した。そうして、自宅の外の様子を見て、改めて言葉を失った。
家の外に出た瞬間、先に庭に避難していた母親が私に駆け寄ってきて「怪我はない?大丈夫!?」と大声で駆け込んでくるのを、私は呆然と聞いていたと思う。玄関先のアスファルトから、庭に面した通りまで、至る所に地割れや段差ができており、私の家の近所では、倒壊した家屋も何棟か見えた。
それから、次々と外へ避難してきた近所の住人達が集まり始めた。ラジオや懐中電灯、毛布やコートなどを持ち出し、近くの枯れ草や木の枝をかき集めて火を付けて暖を取る。ラジオで情報を収集しながら、震源地がこの町の付近である事と、M6.9、震度6強であるという事実を知ったのだった
電子レンジが小気味良い効果音を奏でて、頭の中に描いた回想が途切れる。暖めが完了した音だ。
私はレンジから皿を取り出すと、テーブルに適当に並べる。そうしながら、部屋の隅に目をやった。
先程手に入れたばかりのモノがそこにあった。茶色い、大きな紙袋に入れられたモノ。雨で少し濡れてしまっているが、中までは浸水していないようだ。
私は部屋の隅まで移動して、茶色い紙袋を取り上げる。中から、一体の人形を取り出した。
先程ショーウィンドウの中に飾られていて、なぜか私の視線を捉えて放さなかった、薄い水色のドレスを着たビスクドールだった。
人形の腰の辺りを右手で掴みながら、目の高さまで持ち上げてみる。それから、紙袋を投げ出し、両手で、幼子を「高い高い」するみたいにして抱え上げる。こうして実際に手に取ってみると、思った以上に重量感があった。
人形には全く詳しくない私だが、人形が来ている服やクルクルにカールしたウィッグに手が触れる度に、その生地の滑らかさと精巧な作りに、素直に驚愕させられた。
手を移動させて、人形の顔の部分にそっと触れてみると、冷たい肌に僅かながら弾力が感じられた。この手の人形に詳しくない私は、そもそも一般的にどんな素材が使われるのか知らないのだが、少なくとも、安物のプラスチックのようなチープさはない。シリコンゴムよりは少し固めの樹脂のような、僅かに弾力のある感触だった。
そして、透き通ったビー玉のような薄いブルーの両目は、改めてよく見ると、実際にガラス玉が埋め込まれているようであった。その奥にある茶色い虹彩がじっと私の方を見つめていた。
(なぜ、あの女性は私にこの人形を渡したのだろう……)
黒ずくめの女が『人形の家』と称していたあの場所で、女は私が見とれてしまっていたこの人形をショーケースから持ってくると、私に差し出してきた。
「この子は、きっとあなたが持っていた方が喜ぶでしょうから」
と、意味のよく分からない事を言いながらも、どこか嬉しげな笑みを浮かべていた。
そして、間近でその人形を目にした私もまた、どういうわけか、特に疑問も感じずに、自然な気持ちでこの人形を手に取っていた。
初めて人形に触れた瞬間、なぜか私の中には「懐かしい」ような「切ない」ようなそんな感情が沸いてきた。幼い頃を思い出したと言うわけではない。そもそも、このような人形を手にした記憶も無い。だが、人形に触れた時、確かに私の中にある過去の記憶が呼び起こされたのも事実だ。
―そう、あれは……。あの地震の時に……。
私が人形を受け取ったのを、肯定の意味と解釈したのか、女は茶色い大きな紙袋を持ってくると、私の手から一旦人形を取り上げ、丁寧に紙袋の中に入れると、
「この子の魂があなたと共にありますように」
と言いながら、紙袋を私に押しつけてきたのだ。
少し悩んだ末、私は人形を寝室の本棚の上に置くことにした。
あまり雑多に物を置くのが好きではないので、寝室は至ってシンプルだった。ある意味、あの地震の後遺症と言えるのかも知れない。地震以来、特に背の高い家具を置くことに抵抗を感じるようになっていたのだ。
部屋の中は、シングルベッドと小さなパソコンデスクが部屋の隅に一台。他にはデスクの左脇に胸の高さくらいの茶色い本棚がひとつあるだけだ。
その本棚の上に、『彼女』はちょこんと腰を下ろしていた。本棚の天板の縁に、両膝からつま先をだらんと投げ出し、太股の上で両手を丁寧に組み、本棚の上からじっとベッドの方を見つめている格好になる。飾り気のない部屋に、妙にその人形だけが浮き立って見えた。
そのすぐ横で、私はデスクに向かいノートパソコンを起動させると、日記を書き始めた。就職してからずっと続けている、その日あった出来事を整理する時間。いつも使っているテキストエディタに今日の日付と、天気―曇りのち雨―を記入しながら、今日あった出来事を回想する。
今日あった出来事と言っても、会社であった出来事に限って言えば、普段と変わらない。いつものように、流れ作業の中の一要因として、ただただ地道な作業をこなしていただけだ。
小さな町工場の生産ラインの業務。私の様な、まだ研修の一環として業務をこなしている新人には具体的な事はあまり聞かされていないが、パソコンやスマートフォンなどを製造する海外の工場設備で使用される装置の一部品だという事だけは聞かされている。
光ファイバケーブルと呼ばれる、非常に精細なケーブルを加工し、それをこれまた精密なコネクタに接続する作業。それが毎日私が行っている仕事だった。言葉で言えばそれだけなのだが、結構神経を要する作業で、まず光ファイバケーブル自体がガラスで作られたケーブルのため、非常に折れやすくかつ高価なため、かなり慎重に扱わなければならない。それをコネクタに接続する工程でも、百分の一ミリという精度で位置調整をしなければならないため、当然肉眼では作業出来ない。専用のマイクロスコープと呼ばれる顕微鏡に似た装置を使いながら、慎重に一本ずつ接続していくのだ。一本接続するだけで数十分という時間を要する。それを一日に何十本とこなさなければならない。
とは言え、考え方によっては、これほど気楽な仕事もないと思っていた。生産ラインという仕事は、ただただ流れてくる製品をロボットのように組立てていけば良い。面倒な人間関係に悩まされることもなく、そういった意味では私にとって、ある意味楽な仕事だった。
日記の最後には、今日訪れた『人形の家』であった出来事と、一体の人形を手に入れた事を記録した。
日記を書きながらも、私はチラチラと『彼女』の方に目をやっていた。
ガラス玉の目が、私の方をじっと見つめている。顔はベッドの方を向いているのだが、丸いガラス玉が全方向に光を反射させるせいなのか、その奥にある茶色い瞳だけが私の方を向いているように見えるのだ。やはり、ここに置くのはやめようか。気になって仕方が無い。
日記を書き終わると、私は人形を移動させようと思って『彼女』の体を抱き上げた。
そこで、ふと背中の部分に、服の生地や人形の体の素材とは異なる感触を覚えた。何だか、細長い棒状のものが背中から腰に掛けて埋め込まれているようだった。
なんだろう?と思い、私は『彼女』の体を裏返してみた。
薄いブルーのドレスとは対照的な真っ赤な色をしたものが、そこにあった。背中から腰の当たりに掛けて、まるで昔のサムライが刀を背負うようにして、一本の赤い棒状のものが固定されている。
傘だった。
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