第32話 愛と悲しみの八重奏
その奇妙な静けさが、雪が降るほどに外気は冷え込んでいるにもかかわらず、
「
勢い任せで口をついて出た言葉が、冷ややかで重苦しい場の空気に飲みこまれてしまう。もっとも、この後にどんな言葉を続けるつもりだったのか
「危ないっ!」
そんなふうに自意識にふけっているところに、強烈な猛風が突然右半身を襲う。
まるで見えない面が直撃して横に払いのけられたような衝撃。それは、わずかに足を浮かびあがらせるほどであった。
突然のことであり、また一瞬とはいえ足の支えを失ったことで、
そのままの状態で猛風の根源である
20メートルは離れた所にいたはずが、この一瞬で詰められている。
しかも、その体勢がまた恐ろしかった。
右脚一本で体の重心を支配したまま、半身をひねって左脚を思い切り前方へ突きだすようにしているのだ。それはちょうど、ついさっきまで
それはもう、疑いようもなく明確な『攻撃』だった。
詰めよった
反して
左脚を折りたたんでしゃがみこむと、すぐに
この体勢で回避する手段はない。
そこに
なまじ攻撃態勢に入っていた
だがその途中、両手を床に押し付けて4本足の獣のような姿勢になり、半透明よりも白味が強くなってきた屋上を滑るその威力を一気に削減していた。
そうして体が止まりきるよりも先に、まさに獣のように前方へと飛び掛かかった。
今となっては、
すぐに接近を察知した
案の定、
ただし今の
しかし、
「今のうちに早く逃げてっ!」
滞空状態にある
ここで
たしかに逃げることもできたはずだった。だが、この惨状を引き起こしていた原因である自分がこの場から逃げてどうするつもりなのか? と一瞬でも考えてしまったことが、足をその場に釘付けにしてしまったのだ。
これまでとは違い、すぐには動こうとしなかった。膝をつく形となっていて、呼吸もだいぶ荒い。今までの連続的な動きの疲労が蓄積したのか、あるいは全力で見えない檻と戦っていた影響だろうか。
だが次の瞬間、
不発に終わった第一撃目の蹴りが思い出され、反射的に視線が胸元に向く。
予想通り、視界の隅に
勢いの乗った右脚は、標的を容易に絡め取っていった。その結果、
そうして今まさに左へと倒れ込んでいる最中、低姿勢のままでいた
この一連の動きは
崩れる体勢に対して、あまりにも逸脱した脚力での直撃。
突然沸いた激痛に悲鳴を上げながらも、
一瞬にして
上昇しだした
その後、下降が始まる──ちょうどそこで、今度は
そうして
すでに重症の
是が非でも受け止めざるを得ない。
結果、想定の半分にも満たない微風になってしまった。
威力がてんで相殺されていないまま、
両腕のなかで苦痛に悶える
奇妙なめぐり逢いを経て
あのときのことを謝りたくても覚えていないし、一方的に謝って昔のことを喚起彷彿とさせるわけにもいかない。かといって、まるであの件をなかったように、あのときの後悔を忘れ去ったかのように、ヘラヘラと接することなど出来るはずもなかった。
だからもう、とにかく自分の感情を押し殺して押し殺して──そんなふうに追い詰められた心情のときに話しかけられたせいで、ついぶっきらぼうに「黙ってください」という言ってしまった。
こんな素っ気ないと嫌われてしまう、と遅れて思い至ったが、立て続けに思い出した。
あの最後の瞬間、この顔に、『大っ嫌いだよ』と言われたことを。
……そうだ。嫌われればいいんだ。
嫌われるくらい、冷淡になればいいんだ。
結局、そのほうがお互いのためなんだし。
そうしてこれまで私情を一切捨てて接してきたわけだが、結局はそれも完遂できなかった。些細な失言が綻びとなり、ほつれ、最終的には開き直って自分から口を割ってしまったというのだから情けないにもほどがある。
そして、その結果がこの惨劇だ。
またしても自分のせいでこのふたりが不幸になっている。それがどうにも切なかった。
ここで
よくよく見れば、
その左腕の周囲にだけ風の結界のようなものを凝縮させて。
もちろん床との接触時には風のクッションを用意して衝撃を和らげたわけだが、蹴り落されるその途中に腕から零れ落ちた
その渦の先端が、うねりながら
本来なら、落下中で無力な
だが、竜巻の接近を目にすると瞬時にファイブ・セブンを放り捨て、左手から最寄りの屋上の縁へと糸を飛ばしつけていた。それを強引に手繰り寄せるように辿って、竜巻の直撃から逃れてみせる。
その際、あいた右手で携帯していた手榴弾をふたつ、プレゼントのように渦の中心にお見舞いしながら。
爆発は
もしやと思い、こんな状況だが校庭に一瞬だけ視線を向けてみると──案の定、
そうと気づいて見上げれば、いつの間にか雲が雷雲へと変わり、唸り声をあげてもいる。
状況からして、
だが、
……私はいい。風でどうにでも防げるから。
でも、おにーちゃんは……ダメだ、呼びかけたりしている暇はないっ!
かたや
そこに突如として自らの周囲に激しい風の気流が展開されたことに、意識が向かう。この不自然な現象が
そのあいだ
そうして蓄えられた力はすぐに開放され、縁の段差となる壁面にヒビが入るほどの脚力を発揮して、憎悪の毛皮を被った猛獣となって一気に
だからこその、この風の結界か──と
薄暗い夜空から、果てしなく眩しい光が白い大地に突き刺さったのは。
そして一拍置いてから、脳を激しく揺さぶるほどの衝撃波、つまり大爆裂音が、雪と共に屋上に降り注いだ。
頭痛がしそうなほどの耐えがたい大音量に、
事実、備えのなかった
こうして生まれた隙に、
問題は、到着を優先するあまり、自身に加えて
経験則からして、あの大音量に完全に無防備だった
だからこそ、ひとつの銃声が妙なタイミングで響いた。
それは、今しがたの轟音と比較してしまえばあまりにも些末なものにしか聞こえなかったが、それでも十分すぎるほど凶悪な音だった。
その音で
目の前には、歯を食いしばり片手で耳を押さえながらも、近くに落ちていたはずの銃を右手に構えた
その銃口から、白い煙が立ち上っていることに。
「っ、ぐぁあああああ──」
刹那、左脇腹から、骨折や鼓膜の痛みをも軽く凌駕するほどの酷い激痛が一気に沸きあがった。時を同じくして、赤い液体がゆっくりと、だが止め処なく姿を見せてくる。
痛みに全神経が向かって、もはや立っていることもままならず、その場で崩れるように倒れ込んでしまう。
辺りの白い雪はかき乱され、ところどころに赤い斑点が浮かんでいた。
「お……おにいちゃんっ!」
急変した事態の深刻さに、
……わ、私のせいだ。
私のせいで、おにーちゃんがこんな目にあっている。私のせいで、またっ!
充満した自責の念が冷静さを削ぎ落し、盲目にさせる。
その結果、
だが、そんな隙だらけの白い蝿を捉えるために
もはや耳からの苦痛も過ぎ去っていたこともあり、容赦ない飛び蹴りを
案の定、蹴りは防ぐことができた。
だが、間髪入れずに襲いかかってきた8本の白い糸までは、そうはいかなかった。
対して
そしてそれが今、右腕の二の腕部分、鳩尾近辺、右脚の大腿部分の合計で3か所に糸が張り付いてしまった。
そこに追い打ちをかけるように、さらなる糸の波が襲い掛かってきた。
かくして
風で強引にはがしにかかろうにも、時間がかかる。
全力の暴風を発生させたとしたら、その余波で下手をしたらあの状態にある
まさに八方ふさがりである。
この窮状を打破するにはどうするのが最善か、と悩んでいるところで
不 思議なことに、これまで繰り出されていたのは周りの雪と同化するほどに純白だったはずだが、それが今、突如として所々に、綺麗な赤いシミが斑点模様のように浮かんでいたからだ。
この赤色……多分、内出血の影響に違いない。きっとそれが、紡ぎ出す糸に染み込んでいるんだ。
こんなことになっているなら、本当なら仕様者本人であるあの人が自分の体の不調に気づかないはずがない。でも……生憎と、あの
私と戦い始めてからだから、もうだいぶ経つ。そのあいだ、ほとんどずっと動き回っていた。人間の限界を超えて。だから本当はもう、ボロボロのはずなんだ。ああして動いていられるのも、もう時間の問題。
あと少しであの人は、何をしなくても……止まってしまう。
自分の意志とは無関係に、止まってしまう。
半永久的に。
「もうやめて、
だが、完全に傍にまでは近づかなかった。体ひとつぶん手前で、どうしてか立ち止まる。
そうしてそれからは一向に動こうとせず、今にも消え入りそうなほどに酷く弱弱しい呼吸の、長い間自分を騙し続けていた詐欺師を、静かに見おろしていた。
これまでの猛追が嘘のように、そっと、じっと。
激痛と出血で意識が朦朧とするなかで
その顔は、まさに出会った頃のように完全に凍てついたもの──と思っていたが、実際はそうではなかった。
どうしてそんな顔をしているのか、わからなかった。
わからなかったが、この表情を晴らすために今どうすればいいのか、すぐにわかった。
「ご……めん、な。
動かずにいる
その胸にまできちんと届いているのかはわからない。でも、続ける。
「俺、は、さ。川で、流された、あのとき、に、ちゃんと……死んで、おく、べき、だった……んだ、な。そう、すれば、お前に、こんな、思い、させ、なくて、済んだ、のに、さ」
しかしお構いなしに続ける。
果てしなく続く痛みに耐えながら、片腕で、這うようにして、体を縁の段差に乗り上げていく。
「でも……今度、は……大丈夫、だから。今の、俺が、ここから、落ち、れば、今度こそ……一発だ。ハハ」
段差に乗り上げることに必死で、
「本当は、その、手で……俺を、殺し、たかった、だろう、けど……お前、の、手は、よご、させ、たく、ない、から。これ、じゃあ、気が、済まない、かも、だけど……大目に見て、くれ」
懺悔でもあり遺言でもある独り言は、何にも邪魔されることなく、言い終えることができた。
「それ、じゃあ、な。ほん、とう、に、今まで、……ごめん」
最後にそれだけ付け加えると、残された力を振り絞って、自らを屋上の外へと放り投げた。
できることなら『今までありがとう』と最後に言いたかったが、どの口が言うんだと思い、やめた。
地上から屋上までの高さは約15メートル。死が訪れるまで数秒も掛からないが、あとはもう自由落下にすべてを任せて、ついに瞼を閉じる。
これでようやくすべてが終わる──そう達観したことと痛みの猛威が合わさって、絶命よりも先に意識が途絶えてしまう。
よもや自ら飛び降りるとは思っていなかったのか、ずっと立ち尽くしていた
するとたちまち、妙な閃光とバチバチと弾けた怪音を纏い引き連れた、白い身形の茶髪の人物──つまり
燦燦たる状態を把握して、
「お前がやったのか、これ」
もちろん自分に向けられた言葉だと理解してはいるが、答えはしない。
「お前が
問答に応じるつもりはなかったが、まるで自分を知っているような物言いに少しだけ引っかかるものがあり、
「……誰?」
今度は
いくら旧友の仲とはいえ、この状況だ。声も変えているし、もとより名乗るつもりもない。
名乗ったところで、何かが好転するとは思えなかった。
口を閉ざしたままの
一歩遅れて反応した
次に
「随分とヘマをしたみたいだな」
「ナハハ。面目ない」
「それで? 一体どういう状況なんだ、これは」
「その……本当のことをね、おにーさんに教えたの」
それを聞いた
「教えたって、昔のことをか?」
「……ごめん。教えてくれってせがまれて。それで問答を続けているうちに私がボロを出しちゃったの。しかも、それを
たまらず、
そこに、ふたつの銃声が口を挟んできた。
そんなことをするのは、この場にひとりしかいない。
だが、銃声の後もサンタのふたりは平然としていた。
「とりあえず、話は後だ。今は
結果的に、切断を始めてから20秒とかからずに
一歩前に出て、
「俺がやるから、お前は
「でも、それじゃあ」
「わかっている。
「……うん」
背中越しの言葉に、
もちろん、その隙に
そしてそれとは別に、糸の赤いまだら模様と全身に感じる倦怠感から、体がもう限界の一歩手前にまで近づいていることも自覚していた。
ならば唯一の攻撃手段として銃を手に取ったわけだが、結果はあのざまだ。
以上から、せっかく捕まえたサンタの拘束を解くことになるのは口惜しいが、それでもこの時間は、休息と共にふたりのサンタの始末方法を模索するのに費やすのがもっとも合理的と判断したのだった。
新たなサンタの移動速度は尋常じゃない。その速度で攻撃されれば回避できないかもしれない。ならば、こちらから仕掛けるしかない。
もちろん回避されるだろう。ただ、回避したその位置をどうにか予測し特定して、迅速に発砲する。この二段構えでいけば、あるいは──その考えの元、
だが、予想に反して、それを金髪のサンタは回避しなかった。身を翻しつつも、
途端、
「がああっ──っ!」
それは、先ほど
だが予想に反して、
「……なるほど。服にも織り込んであるのか」
本来、蜘蛛の糸は電気を通しにくい。たまに電線の間で蜘蛛の巣がはってあるのを見かけることがあるが、もし蜘蛛の糸が電気伝導率のよい材質ならば、こんな光景はまず有り得ないだろう。
その性質とは別に、この糸はただでさえジェット機を捕獲できるほどの柔軟性と耐久力を備えている。それを織り込まれた衣類となれば、非常に有用な緩衝材となるのは必然である。
端的に言って、
もっとも、だからといって
一瞬間には劣るが、それでもとても電撃で麻痺しているとは思えない俊敏さで左右に飛び跳ね、撹乱しながら、ファイブ・セブンの引き金を何度も引く。けれども
やがて銃弾が尽きると、
──だがそれが今、どういうわけか糸ではなくなっていた。
その様は、まさに鮮血色の槍。
突然の変化に一番驚いたのは
次の瞬間、まるで全身がひとつの心臓であるかのように、
そして壮大に、盛大に吐血した。白い雪に血だまりが浮かび上がる。
相対していた
「
いつもは無機質な
そのまま、左手で胸を押さえながらむせ続ける
だが
その一端に気づいたのか、
両目には、
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