第31話 ただれた思い出

 常盤ときわみやびが柊で暮らすことになり、瑠璃るりとふたりで柊に向かっていたときのことだ。



 初対面の瑠璃るりに対し、常盤ときわは最初、しかめ面で無口を決め込んでいた。親戚連中の大人がどいつもこいつも殺してやりたいほどの人でなしだったので、必然的に大人というものに偏見を抱いていたのだ。

 そんな腹積もりでいると、瑠璃るりが尋ねてきた。



「ねえみやび。お前は、あのサンタを憎んでるらしいね?」



 常盤ときわは声をださず、頷くことで意思表示をする。



「そっか。じゃあさ、復讐とかって考えてたりするの?」



 その何の装飾もない単純明快な言葉に、常盤ときわは潔く、もう一度頷いた。



「ふーん。ま、そりゃそうだよね。……うん、わかった」



 一体何がわかったというのか。少しだけ興味が沸き、そのまま傾聴する。

 そこで瑠璃るりは、はっきりとこう言い放ったのだ。



「いいよ。復讐したければすればいい。あたしは止めないし、なんなら、できる限りのことは協力もしてあげる」



 突然、この人は一体何を言っているのだろうか? 純粋にそう思った。

何も知らないくせに。理解者づらしてでしゃばるな。



「だけど、それを達成するには、まずはたくましく生きなきゃいけないよね。亡くなったご両親の分までしっかりと。そうでなきゃ復讐なんかできやしないんだからさ」



 ……それはまあ、たしかにその通りだけど。



「そういえば、お前は過剰超紡績ストリング・オクテットについて、どれくらい知ってるの?」



 そこで初めて、「え」と声を発することになった。

なぜこの人は過剰超紡績ストリング・オクテットのことを知っているのだろう、と疑問に感じたからだ。父親からは、自分にしかない特別な超心理アンプサイだと聞いていたのに。市場に出回っていないから認知もされていないはずなのに。



 それに、どれくらいと言われても、と困った。

 ただ、亡き父親からは滅多なことがない限りは使ってはならないと耳にタコができるくらい注意喚起されていた。その旨をボソボソと、なんとなく正直に伝える。



「そっか。それじゃあこの際だから教えてあげるわ。過剰超紡績ストリング・オクテットっていうのはね、体のなかの栄養を元に、最大で8本の糸を指先から紡ぎだせる、って超心理アンプサイなんだけど、これって実はすごく危険なことなのよ。簡単に言うと、使ったぶんだけ寿命が縮まるようなものってことだからね」



 そんな話は聞いたことがなかった。少しぞっとする。

 いや、まだ今日出逢ったばかりの人が言っているようなことだし、にわかに信じられない。というかそもそも、この人はどうしてこんなに詳しいのだろう。一番の謎はそこだ。



「あたしは、そんなことでお前に死んでほしくはない。だから、今まではごくたまに使ってたみたいだけど、もうこれからは絶対に使っちゃダメよ。わかった?」



 そこで瑠璃るりは、微笑みながら常盤ときわの頭を撫でた。

 結局、瑠璃るりが何を言っているのか、何を伝えたかったのか、半分も理解できなかった。

 だが、復讐という黒い感情を否定もしなければ今日会ったばかりに過ぎない子供に死んでほしくないと語る瑠璃るりへの敵愾心が、不思議と収まっていた。

 それが何故なのかわからず、柊に向かう道中に考えてみて、それっぽい答えがひとつ浮かんだ。



 もしかしたら、母親の愛を知らないで生きてきたから、大人の女の人に微笑みながら頭を撫でられた瞬間、なんとなく、母親にされているような気になってしまったのかもしれない、と。



 どうしてそんな気になったのだろう。

 この人のことなんか、全然知らないじゃないか。

 ……いや、それはお母さんも同じか。



 ちょっとした自己嫌悪を覚えながら、そっと瑠璃るりを見る。

視線に気づいた瑠璃るりは、「ん? 何? どうしたの?」と、再び笑顔を振りまいてきた。

 それを見ると、やっぱり反抗する気が削ぎ取られてしまう自分がいることに気付く。親戚連中のところにいたあいだにすでに息絶えていたはずの『誰かに甘えたい、優しくしてほしい』という欲求が、再び生まれてくる。



 でも、やはり瑠璃るりは母親じゃない。瑠璃るりに母親像を投影して甘えたくはない。



 こうして常盤ときわは、欲求と自己嫌悪の板ばさみに遭いながら、悶々と過ごした。

 あの事件が起こるまでは。



 柊にやってきて、そこで常盤ときわ赤羽あかばねと出逢った。

 出逢ってすぐに、常盤ときわ赤羽あかばねが大嫌いになった。



 もちろん、このときの常盤ときわはこの赤羽あかばねこそが父を殺した張本人だということを知るはずもない。なにより赤羽あかばね自身も記憶を失くしていたがゆえに自覚もない。そういったことが起因しての心象ではない。



 誰とも話したくないからひとりになりたくてわざわざ渓流まで行くのに、何故かいつも、心配そうに付いてくるからだ。ついてこないでと言ったのは一度や二度じゃない。それでも懲りずについてくる。うっとうしいことこのうえなかった。最終的には、逆に常盤ときわのほうが拒む言葉を吐くのも面倒になるくらいに。



 何が目的なのかわからなかった。もしかしたら、自分を監視するように裏で瑠璃るりに命じられていているのかもしれないとすら思った。

 考える時間がいくらでもあった常盤ときわは、復讐の方法や離れ離れになった兄が今どうしているのかを空想する傍らで、そんなふうに邪推していた。



 しかし、赤羽あかばねに対するそんな嫌悪感は、ある日を堺に一転──いや、洗い流される。

 あの日──常盤ときわのせいで赤羽あかばねが足を滑らせ増水した渓流を流れた、あの日。いつもと違って口を開いたばかりか、しつこく警告してくるのが耳障りで、常盤ときわはついかっとなって赤羽あかばねを突き飛ばした。

 それが原因で、足を踏み外した赤羽あかばねは、転げ落ちるようにして川に落ちてしまったのだ。


 はずみでしでかした自分の悪行に、子供ながらも素直に震えた。

頭のなかで一瞬前の光景が何回も繰り返し蘇り、固まってしまっていた。



 しばらくして我に返り、急いで川の流れを辿っていくと、大きな岩に打ち付けられでもしたのか、ぐったりしたまま水に浮かび流れていく赤羽あかばねを発見した。

 それを見た常盤ときわは、瑠璃るりに禁じられていたものの、躊躇うことなく過剰超紡績ストリング・オクテットを使用した。自分の寿命を削ってでも、あの子を助けなければと思った。

 どうしてそう思ったのかはわからない。ただ、体が勝手に動いていた。



 ぎりぎりまで近づき、闇雲に右手の4本を送りこんだ。だが、流れが速すぎてうまく定まらず、どうにか一本付着させるのがやっとだった。



 ただ、子供とはいえ、人ひとりをこれまた子供の常盤ときわの片腕で引き上げるのにはどうにも無理がある。しかも、ふたりを結ぶのは、たかだか一本の糸。経験上、強靭さや耐久力にはそれなりに自信があったが、もしもはがれようものならそれまでだ。



 このままではいけないと考え、すぐさま常盤ときわは左手も行使した。さっきと違って赤羽あかばねがある程度定まった場所にいるため、今度は4本とも付着させることができた。



 そのままその場に立ち尽くす。それでも糸の張力と川の流れの合力が生まれ、迂回してしまうことにはなるが赤羽あかばねを川岸にまで引きつけられる。

 生来より糸を操る常盤ときわにとって、合力とか小難しい理屈は抜きに、それを感覚的に理解していた。



 そうしてなんとか川から救出はしたものの、赤羽あかばねは目を閉じたまま動かず、ぐったりとしていた。しかもその顔には、深く酷く抉られたような跡ができていて、そこから鮮血が絶えることなくにじみ出してもいる。



 まさかもう死んでいるのかも、と思って胸に耳を当ててみたが、鼓動は止まっていなかった。でも、このままだといずれはそうなってしまうかもしれない。



 ……どうしよう。どうしよう、どうしよう。

 ちょっと押しただけのつもりだったのに。悪気はなかったのに。本当に。

 けど、この子がこうなってしまったのも、そのすべての原因は間違いなく私にある。

 もしもこの子が死んでしまったら、そしたら、私は──私は、あのサンタと同じじゃないか。



 雨水や川に全身を浸していながらも、その身を焼き焦がすような苦しみが沸き立つ。見様見真似で、両手で胸の圧迫などを試みようとしたが、顔から血を流し、ぐったりとした様子を目にすれば、逆にそんなことをしていいのかという気持ちになってしまう。。

 もはやこれ以上、常盤ときわにできることはなかった。



 そこへ幸運なことに、瑠璃るりが駆けつけてきたのが見えた。

超聴覚ドッグ・イヤーのお陰だろうか、と思い至った瞬間、常盤ときわは冷水を浴びせられたような気になった。聞こえて駆けつけたのであれば、私がこの子を突き落としたのも聞こえていたに違いない、と気付いたからである。



 生憎と今はこの土砂降りで、しかもこの激流だ。そんななか、いく瑠璃るりと言えど、さっきのことまできちんと聞き分けることができるのだろうか? もしかしたら、そこまでは聞こえていなかったのかもしれない──と都合よく考えようとしたところで気づく。赤羽あかばねの体にはあれほど使用を控えるよう止められていたあの過剰超紡績ストリング・オクテットの糸が今も纏わりついていることに。



 どう転んでも、瑠璃るりに怒られるに違いない。

 瞬間、それは嫌だ、という感情が芽生えていた。



 だが、予想に反して瑠璃るりは突き飛ばしたことに対しても、過剰超紡績ストリング・オクテットを使ったことにも、叱責や言及をしてこなかった。それどころか、「よく助けだしたね」と礼を言われてしまう始末。

 それ以上の問答もせず、瑠璃るりはそそくさと赤羽あかばねを抱えて柊に向かっていく。棒立ちになっていた常盤ときわは、瑠璃るりに呼ばれてようやくその後を追いかけた。そうして急いで病院へ向かった。



 一向に『手術中』のランプが消えず、外で待ち焦がれている最中に、寮生活を送っているはずの3人が駆けつけてきた。そこで常盤ときわは、3人ともそろって涙を流しているところを見てしまった(瑠璃るりは、どこかに連絡すると言ってその場にはいなかったが)。

 そんな様子を目の当たりにして、常盤ときわは違う意味で泣きたくなっていた。



 サンタによってすべてを失い、不幸というものがどんなものなのかを体験したはずの自分が、物の弾みとはいえ、結果的に、他人に不幸を振りまいてしまった。

 これじゃあサンタを憎む資格もありはしないじゃないか。



 加えて、怖かった。

 少年が九死に一生を得たとして、回復したときに自分へと注がれるであろう憎悪の視線が怖かった。

 自分がそれをするぶんには何とも思わなかったのに、それを人にされるのが嫌だというのだから実に現金なものだ。かといってもちろん、このまま死んでほしいとは露ほども思わない。



 ありとあらゆる方面からの自己嫌悪で心が押しつぶされそうになる。

 たまらず、常盤ときわはひとりでそっとトイレに向かい、しばらく吐いていた。



 手術が終わり、赤羽あかばねはどうにか一命を取り留めた。そしてみんなが赤羽あかばねの元へ向かうなか、常盤ときわは病室に入ることもせず、その様子を病室の外で聞いていることしかできなかった。

 合わせる顔がなかった。あるはずがなかった。



 次の日になっても、常盤ときわはいっこうに赤羽あかばねに会わずにいた。謝れないでいた。

 ここまでの大惨事、どうやって謝ればいいのか逆にわからない。許してくれる可能性なんてもとより皆無だ。

 だが、それでも何かせずにはいられなかった。

 赤羽あかばねの為に。ただそれ以上に、自分の罪を少しでも軽くするために。

 ではどうすれば罪滅ぼしができるのかと考えた結果思いついたのが、あの指輪を探しだすということだった。



 聞いた話だと、赤羽あかばねは両親の形見である指輪にひもを通し、それをいつも胸に下げているらしいのだが、それも川に流されて行方不明になってしまったらしい。



 それからというもの、常盤ときわは毎日、日が暮れるまで一生懸命、川辺で指輪を探した。じっくりと見たこともないので指輪がどんな仕様だったのかわからないが、それでもそれっぽいものを手あたり次第に探した。

 冬の川の水に毎日朝から日が暮れるまで手を浸からせていたせいか、両手は荒れに荒れた。それでも探した。風邪もひいた。それでも探した。

 是が非でも、罪を償いたかったから。



 しかし現実はそう甘くない。いくら探しても小さな指輪は見つからなかった。



 正直な話、最初から見つかるとは思っていなかった。

 あんな小さいものをこんなにも広い山奥で探し出すなんて、奇跡でも起こらない限り無理に等しい。

 でも、だからこそ、その奇跡にすがった。

 そんな奇跡が起ころうものなら、きっと自分の罪も少しは軽くなるだろうと、そう信じて。



 そうして赤羽あかばねが川に落ちてからちょうど一週間が経過した日のことだ。今まで我慢していたが、とうとう常盤ときわは探しながら泣きだしてしまう。



「なんでよ……なんで、見つからないの……」



 その言葉を呪詛のように何度も繰り返しながら、涙をこぼしながら、未だに起こらないでいる奇跡を恨みながら、夕日に照らされた渓流を探し回った。

 きっとどこかにあると信じていた気持ちも、もうすっかり涙で萎れてしまっていた。



 だが、そんなときだった。「みやび」とどこからか瑠璃るりがひょっこりと現れたのは。



「捜し物はこれでしょ」



 ほら、と差しだされたその手には、指輪があった。

たしかにあの指輪だった。常盤ときわの苦労も知らずに、瑠璃るりの掌で、夕日を受けて凛凛と元気よく輝いている。小憎たらしいくらいに。



「どうして……どこにあったの?」

「ここからもっと先の、下流よ」



 どうりで見つからないわけだと思った。常盤ときわ赤羽あかばねが落ちた地点から救出した地点までの間しか探していない。そして今いるのは、ちょうど赤羽あかばねを救出した辺りだった。

 


 いずれにせよ、奇跡は起きた。

 必死の努力は報われたと、最初はそう思った。

 でも、……違う。

 自分が追い求めていた奇跡とは、何かが違う。



 仕草からして、瑠璃るりはその手にある指輪を渡そうとしているのはわかる。だが、素直にその指輪を受け取ることはできなかった。



「どうしたの。これ持って、りょうに謝りに行こうと思ってたんじゃないの」



 図星だった。流された指輪は見つけてくるし、心は見透かされているし、超聴覚ドッグ・イヤーどころか、まるで千里眼か読心術でも体得しているのではないかとすら思えてきてしまう。



「でも……でも、これは私が見つけたんじゃないから、その……」



 そんなのは公平じゃない、と常盤ときわは思った。うまく説明できないが、罪を償うものとしての一種の矜持というか、美学というか、そのようなものが、アレルギーのように反応してしまっていた。

だから受け取れない。受け取ってしまってはいけない気がした。



 そんな姿に、瑠璃るりは一笑する。



「いーんだよ、そんな細かいことは。大事なのは『探し出したのが誰か』ってことじゃない。『一生懸命探したのが誰か』ってことでしょ? お前は一生懸命探した。それこそ死に物狂いにさ」



 すると瑠璃るりはしゃがみ込み、開いたほうの手で常盤ときわの手を取った。その手は乾燥していて、どの指先にもささくれが見られ、もはやボロボロだった。

 それを瑠璃るりは閉口したままじっと見つめると、次の瞬間、



「よく頑張ったね」



 満面の笑みで優しく微笑み、体ごと引き寄せ、そのまま抱擁したのだ。



 常盤ときわは唖然とした。生まれて初めて、父や兄にすらそんなふうにされたことがなかった常盤ときわにとって、親戚の家でゴミ同然の扱いをされ人の温もりに飢えた常盤ときわにとって、それは、これ以上なく冷めた心を暖めてくれる行為だった。



 どうしてなのかわからないが、認められた気がした。

 実際、瑠璃るりは今日までの努力を認めてくれているのだろう。

 だがそういう意味ではなく、もっと高次の──たとえば尊厳とか、存在とか、そういった類のものを。



 常盤ときわは声を上げて泣き散らした。

認められて嬉しかったはずなのに、どうしてか涙が止まらなかった。ただおもむろに、衝動に身をゆだねて、おおいに泣いたのだった。

 気付けば両腕が、なぜか勝手に、瑠璃るりの背中に巻きついていた。



 しばらくして常盤ときわが落ち着いてきたところで、瑠璃るりはゆっくりと体をはがし、右手で常盤ときわの頬を覆いつつ、零れきらないでいた涙を親指で拭いながら、「それじゃあ、謝りに行く?」と問いかけてきた。



 こうして指輪が見つかった以上、それは必然的な流れに他ならない。

でも、それを聞いてどうしてか、心から温もりが消え去り、俯いてしまう。



「……許して、もらえる、かな」

「ん?」

「謝りに行っても、許してもらえない気がする」

「でも、そのためにこれを探してたんでしょ?」

「うん……でも」



 なぜか自分の胸中をうまく説明できない。自問自答する。

 そこで常盤ときわは、己の深層心理を邪推してしまった。『もしかして、自分が今まで指輪を探していたのは、単純に、謝りに行くのを先延ばしにしたかっただけなのでは』と考えてしまったのだ。



 ……そんなつもりはない。

 今でも、ちゃんと謝りたいと思っている。でも……でも。



 自分がどんどん薄汚い存在になっている気がした。

質問に答えられず、さらに俯き加減になってしまう。



 そんな常盤ときわに、瑠璃るりはしゃがみこんだまま、口を開いた。



「なら、無理して謝りに行かなくてもいいんじゃない」

「え……?」

「でもさ、みやびりょうに許されるかどうか以前に、お前のは、そんな自分を許すことができるの? 本当に重要なのは、そこなんじゃないの?」



 そして瑠璃るりは。常盤ときわの胸を軽く指でつついた。



 常盤ときわは最初、何を言っているのかわからず、瑠璃るりの指先と自分の胸を俯瞰して見ていた。

 遅れて瑠璃るりの意図に気づく。ようは、謝らないでもお前は平気でいられるのか、ということを問うているのだ、と。



 もちろん平気でいられるはずがなかった。平気でいられるものなら、こんなになるまで指輪を探したりなどしない。悪いと思っているから、身を焼かれるような思いに耐えかねて、贖罪のつもりで今日までの一週間、ずっと行ってきたのだから。

でも、謝らなければ、その努力は無駄に終わる。



 ……いや、努力とか、そんなものはこの際どうでもいい。

 あの子だって、結果的に指輪があれば、その過程なんてどうでもいいに違いない。

 問題なのは、私の心だ。心の在り方だ。

 私は、あの子に悪いことをしたと思っている。

 私は、あの子に謝りたいと思っている。

 だけど私は、許されないと思っている。

 だから私は、あの子に会うのが怖いと思っている。

 ダメな私は、あの子に会いに行くのを渋っている。そう、渋っている。

 そんな私を、やっぱり私は許せない。

 謝って許されなかったとしても、それは仕方ないじゃないか。自分のせいだもの。だけど、謝らなければ許されるはずがない。あの子からも。そして、私自身からも。

 許されたいと願うなら、逃げずにちゃんと立ち向かわなければ行けないんだ。

 あのサンタのように……逃げたくはない。



「……行く。謝りに」



 見つけた答えを、決して折れない一本槍に昇華させて、常盤ときわははっきりとそう口にした。



「そっか。でも、その前に」



 常盤ときわの決意に瑠璃るりは特段の反応を見せはしなかったものの、すぐさま意地悪そうな表情を浮かべ、



「今からそんな強張った顔してちゃ持たないわよ。一度リラックスしないとね」



 常盤ときわの両頬を軽くつまんで、「ホラホラホラ!」揉みほぐすように引っ張った。この場にそぐわない、変な顔になってしまう。常盤ときわ常盤ときわで、「ふにゅうう」とか、今まで発したことの内容な言葉を漏らしてしまう。



 10秒と経たずして、つまんでいた頬を、今度は掌で挟み始めた。ムンクの『叫び』に描かれているもののようになった。軽く押し付けるように頬が揉まれる。「うにぃい」とまたしても変な声が出た。それも10秒もせずに終わる。



「どう? これで少しは緊張もほぐれたでしょ?」

「うう。こんなにほっぺたを腫らしてたら、恥ずかしくて謝りになんか行けないよ」

「そう? じゃあ今のを逆の手順でやろっか? そうすれば元に戻るかもしれないよ?」

「またそんなこと言って。騙されないよ」



 そこで、ふたりは見つめ合って笑った。

 柊に来て常盤ときわが笑ったのは、このときが初めてだった。



「じゃあ、行こっか」



 瑠璃るりはそこで立ち上がり、そして左腕を差し向けた。

 常盤ときわは、迷いなくその手を握った。



 その後、瑠璃るりのおかげで恐怖心がいくらか収まったものの、病院に近づくにつれて、緊張が進んでいく。

 初めになんて言えばいいか。どういうふうに話を持っていけばいいか。もしも罵詈雑言を浴びせられ、許されなかったときには……。常盤ときわは授かった指輪を強く握りしめながら、到着するまで何度も何度も頭の中で納得のいく段取りを想定した。



 やがて病院に着き、そして瑠璃るりと手をつなぎながら寡黙に、一歩ずつ白い内装の中に身を投じていく。足の運びよりも、鼓動のほうが余程早かった。そしてついに、病室の前にまで来た。



 目の前には扉が1枚。この向こう側には、あの子がいる。

そう思うだけで、押し殺したはずの恐怖が、また顔をのぞかせてくる。体も強張っているのかなんなのか、少し震えている。

 このまま立ち尽くしてはいけない。油断すれば足が固まったまま動けなくなってしまう──とわかっていても、肝心の一歩目が進まない。



 しかしそこで、瑠璃るりが背中に触れたてきた。常盤ときわの目をじっと見て、頷きかけてくる。気付けば体の震えが止まっていた。意を決し、常盤ときわは扉に手を差しだした。



 病室に入ってみると、ベッドの上に、顔面を包帯で隠した赤羽あかばねがいた。あの日以来の顔合わせである。そして、自分のしでかした罪の重さを改めて認識した。途端、固まってしまう。こんな酷いことをされて許すわけがない。そう思ってしまったのだ。



 けれども赤羽あかばねは、極めてくだけた雰囲気で常盤ときわに声をかけ、あろうことか、助けてくれてありがとうと感謝までしてきた。



 たしかに瀕死のところを助けたのは常盤ときわだ。でもそれとこれとはまた別問題である。むしろ、常盤ときわ赤羽あかばねを押さなければ、すべては起こらなかったはずだ。

 その旨を伝えても、赤羽あかばねは怒らなかった。逆に、微笑んでいた。

 許されるかどうか以前に、糾弾や罵詈雑言を覚悟していた。それが当たり前だと思っていた。でも、そうはならなかった。



 わからない。どうしてそんなに穏やかでいられるのかわからない。

 許されたいという常盤ときわの願いはあっけなく叶った。本来ならそれは歓喜すべきことだ。けれど常盤ときわは心の底から喜ぶことはしなかったし、むしろ、今回の罪に加えて、今まで赤羽あかばねにどんな酷いことをしてきたのかを激しく後悔していた。



 余談だが、このときの切ない気持ちを忘れないためにも、仲直りの記念ということで瑠璃るりが病室でふたり並んだところを撮ってくれた写真(とはいっても、赤羽あかばねはベッドに横になったまま上半身だけを起こしている状態で、その横で常盤ときわが椅子に座っている、といった構図だ)を、常盤ときわは携帯電話の待ち受け画面にしている。



 この一件を機に、常盤ときわ赤羽あかばねと仲直りできたし、他の柊のみんなとも赤羽あかばねのお陰で次第に打ち解けていくことができた。

 世界のすべてを恨むような顔をしていたはずが、いつのまにか笑顔でいることが多くなっていた。

 そのことにしばらくして常盤ときわは気付く。



 ……いつの間に、私はこんなに笑うようになったんだろう。



 いつからなのかは、思い返してみてもわからなかった。ただ、そうなった理由は、間違いなく瑠璃るり赤羽あかばねのお陰だと理解していた。

 でも、どうしてあのふたりといると笑顔になるのかは、具体的にはわからないでいた。別に、それ以外にムスッとしているわけではない。ただ、あのふたりがそばにいると、より一層笑顔になれるのだ。



 ……多分、大好きなんだろうな、あのふたりのことが。



 常盤ときわはそう解釈した。

 しかし一概に好きと言っても、それぞれに対しての気持ちは趣が異なっていた。

 瑠璃るりへの好意は、親を敬愛するのと同じような感情だった。そばにいると安心できるし、不安を取り除いてくれる。

 それに対して、赤羽あかばねへの好意は、なんとも表現しづらいものだった。好きは好きだけど、話したり遊んだりしていると、楽しい反面、時々モヤモヤした気分になる。そしてそのモヤモヤが、不思議と心地よかったりもした。



「それって、好きってことなんじゃん?」



 たまらず、瑠璃るりに相談してみたところ、返ってきたのはそんな言葉だった。



「だから、りょうくんのことは好きだけど、そうじゃなくって」

「そうじゃなくって、じゃなくて、そういうことでしょ」

「? 瑠璃るりさんが何を言ってるのかわかんないよ」

「んと、……あたしは、お前はりょうが好きなんじゃないの、って言ってるんだけど?」

「だから、さっきからそう言ってるもん」

「あら、あたしだってさっきからそう言ってるもん」



 瑠璃るりは冗談交じりに、常盤ときわの真似をした。さすがに常盤ときわも少し機嫌を悪くする。

 ただ瑠璃るりは、持ち前の読心術のような察知力で、失笑しながらもすぐに合掌して謝った。



「ごめんごめんみやび。お前が妙にかわいかったから、ついからかいたくなっちゃったのよ。この通り、許して」

「……もう。真面目に聞いてよ」

「聞いてるよちゃんと。ただまあ……これは、あたしがああだこうだ言って一から説明するようなもんでもないし、自分で考えるんだね。ゆっくりと」

「えー。ズルいよ。わかってるなら教えて」



 断られても渋る常盤ときわに、瑠璃るりはやれやれといった顔で嘆息し、渋々答えた。



「特別ってことなんじゃないの。世界で1番ね」



 それだけ言うと、瑠璃るりは「もうこれ以上は何もいーわないっと」と離席し、夕飯のための買い物に出かけてしまった。



 その後、常盤ときわ赤羽あかばねと留守番をしていたわけだが、赤羽あかばねをチラチラと盗み見るようにして、瑠璃るりから最後に言われた言葉を振り返っていた。



 世界で1番特別な存在。その言葉の意味は、下手に探ろうとしなくてもわかっていた。

 瑠璃るりにそう言われて、初めてわかったというだけだ。

、と。



 柊に来た当初はあんなにも嫌っていたのに、それがいつの間にか、反転していた。

 でも、一体何が原因だったんだろう。そんなふうに考えてみて、最初に頭に浮かんできたのは、あの包帯だらけの笑顔だった。それを思い出してみて、常盤ときわもひそかに笑顔になっていた。



「? どうしたの、みやびちゃん。急にニコニコしだして」

「! ううん、な、何でもない」



 赤羽あかばねの問いかけに、ちょっと焦りながらも、より一層の笑顔で応じる。

 この瞬間、常盤ときわは、自分のなかの赤羽あかばねへの気持ちを悟った。



 月日が経ち、赤羽あかばね常盤ときわはニコラス学園に入学した。

 入学してからというもの、その美目麗しい容姿と控えめで思いやりのある性格から、常盤ときわは事あるごとに学園中の男子に告白されることになる。しかし、赤羽あかばねを想っている手前、当然のことだが、1度としてよい返事を返しはしなかった。



 そんなことが続いていくうちに、必然的に『幼馴染の赤羽あかばねと恋仲なのでは?』という噂がどこからか流れ始めたわけだが、それを知ったときの常盤ときわの動揺は尋常じゃなかった。



 ……も、もう。誰よ、そんな噂を流したのは!

 りょうくんと私が、こここ、恋人だなんて……そりゃあまあ、そうなればいいな、と思ったことは1度や2度じゃないし、なんなら今だって思っているけどさ。

 でもこれじゃあ、次に会ったとき、どんな顔をして会えば……意識しすぎて、顔が赤くなったりしていたらどうしよう……うう。

 いや……でもこれは、考えようによっては、チャンスなのかも。

 もしかしたら、りょうくんがこれを機に、私のことを意識してくれるようになるかもしれない……うん、そうなれば怪我の功名だし、もしも、もしもりょうくんが私のことを元々好きでいてくれていたのなら、りょうくんだってこの噂に少なからず動揺しているに違いないし。だから……次にりょうくんに会ったとき、何か普段と様子が違っていれば、例えばあからさまに私を意識しているようだったら、それは……へへ。



 これまでは、ふたりで笑っていられるその関係を、距離間を崩したくはなかったという思いから、自分の想いを告げようとはしてこなかった。今までは、それで十分だった。

 けれど、それは柊で生活していたころの話である。二次成長を迎え、心も体も成熟を始めたとなれば、必然、求める関係性も変わってくる。ただし、今までが今までだけに、既存の関係性を変える一手を中々打てないでいた。失敗したら目も当てられない結果が待ち受けているのだから。



 そんななかでの噂である。適度な間隔のままそれ以上は近づかないでいたふたりの距離が、一気に縮まるかもしれない。この事態を常盤ときわは前向きに捉えることにした。



 しかし、そんな桃色の希望はすぐに霧散することになる。

 次に赤羽あかばねに会ったときのことである。赤羽あかばねは、表情や態度に、何も変化を見せなかった。



 まだ噂を耳にしていないに違いない。心が乱れるよりも早く、常盤ときわは自分にそう暗示をかけた。

 自分の口から噂の存在を示唆することも変なので少しばかり様子を見ていたが、それでも一向に、赤羽あかばねに特段の変化は見られなかった。常盤ときわの高揚が、しぼんでいった。



 最初は、『他に好きな子がいるのかな』と思った。でも、幼馴染の常盤ときわを差し置いて赤羽あかばねとふたりきりでいるような女子はいなかったし、赤羽あかばねから積極的に特定の女子に話しかけているところを目撃したこともない。状況だけで判断すればその線はないが、ただこれは、赤羽あかばねに面と向かって聞いてみないことには詮無きことだ。



 次に、『もしかして未だに噂を知らないか、もしくは噂に無関心なのかな』と思った。でも、あるとき廊下を歩いていると、赤羽あかばねがクラスメイトの男子から例の噂についての真偽を問われ、「俺たちはそんな関係じゃない、ただの幼馴染だ」と即答しているところを目にした。そして、赤羽あかばねがうんざりしているのを目にした。やはり噂はちゃんと耳に届いているのだ。



 ただそれを見て、最期に、『私に興味がないのか、もしくは嫌われているのかな』と思った。特定の女子にお熱の様子もない。噂を知らないわけでもない。それでも赤羽あかばねに変化が見られないとなると、自ずとそういう結論にたどり着く。



 いくら何でも嫌われているとは思えない。それならばそもそも、口もきいてくれないはずだ。ならば、興味がない、ということになる。



 何度も告白されたことで、常盤ときわは少なからず自分に自信を持ち始めていた。とはいえ、自惚れるほどでもなければ誰かを見下すわけでもなく、ただ、俯瞰して「私ってそうなんだ」と思う程度である。ただ、わずかでもそんな自信を持ってしまったがゆえに、赤羽あかばねが自分に興味がないと考えて、より深くショックを受ける羽目となってしまったのも事実だった。

たとえ学園中の男子から告白されたところで、好きな人に振り向いてもらえないならば、そんな経歴にどれほどの価値があるというのだろうか。無駄でしかない。



 興味がないとは、信じたくなかった。

 ニコラス学園に入る前からの付き合いで、柊では朝から晩まで一緒にいたのに。

 クラスメイトの金鵄きんしが貸してくれたいくつかのマンガを読み解くに、恋愛においては『幼馴染イコール最強のアドバンテージ』という法則が成り立っているはずなのに。

 それなのに、赤羽あかばねは自分に興味がない。

 それじゃあまるで、嫌われているみたいじゃないか。



 そう思った瞬間、常盤ときわのなかで何かがカチリとはまった。同時に、何かが枯れ落ちた。

 赤羽あかばねに嫌われている。今までそんなことは思いもしなかったが、逆にそうだと理解して原因を探求すると、実に明快な答えがすぐに返ってきた。



 あの日から随分と時が経って、常盤ときわは忘れていないようで忘れていたのだ。

 自分のしたことを。

 自分の罪は──刻み込んだ傷は、赤羽あかばねの顔から一生消えないということを。



 思春期のせいか、最近の赤羽あかばねは、妙にあの傷を気にしだし、隠すような素振りを見せるようになっていた。ただでさえ目立つ傷だし、それが原因で、学園では学年に関係なく見ず知らずの生徒からも影で『赤バツ』だなんて中傷されている始末。その単語を耳にするたびに常盤ときわの胸が痛む。

そういうときの赤羽あかばねは笑ってこそいるが、幼い頃から赤羽あかばねの笑顔を見慣れている常盤ときわにとって、それが虚栄であることは明らかだったし、内心あの傷を気にしているということを知っているせいで、余計に切なくなった。



 あの日のことは、勇気を出して謝ったことで、赤羽あかばねから許されている。だが、罪を償ったのかどうかと問われれば、常盤ときわ自身もその自信はなかった。

 だからこの現状は、そんな常盤ときわに課せられた罰だったのだと解釈した。



 自分の想いは決して成就することはない。常盤ときわは理解した。理解してなんとか自分を説得し、ついには赤羽あかばねへの想いに鍵をかけることにした。苦渋の選択だったが、もうどうにもならないのだ。あの日のことをなかったことにすることはできないのだから。



 だが、常盤ときわの想いはあくまで鍵をかけただけに過ぎず、それ自体が消えたわけではなかった。むしろ、抑制がかかったぶんだけ、反動で、皮肉にも余計に想いが膨らんでいってしまう。自分の意図に反して。それがとても痛痒に感じた。



 赤羽あかばねの傍にいたい。けれど自分が傍にいれば赤羽あかばねに辛い思いをさせる。そして、一応注目の的であるらしい自分がいつもそばにいると、結果的に他の女子と仲良くする機会も奪われてしまう。赤羽あかばねの幸せを願う身としては、それは避けたいところではあるが、かといって、赤羽あかばねが他の女子と自分よりも仲良くしている瞬間なんか見たくもない。

 慈愛と自分勝手がないまぜになった心を抱え、進退窮まった状態のまま、ただただ月日だけが過ぎていった



 そんな袋小路から常盤ときわが抜け出す転機が訪れたのは、2学期が始まったときのことだった。

 世界的資産家の娘である金銀蓮華ががぶた真理子まりことの出逢い。生き別れの兄との6年ぶりの再会。そして憎きサンタの胸元で煌き輝く、亡き母の形見のオーナメントの発見。

 それらがタイミングよく重なっていい具合に混ざり合い、忘れかけていたサンタへの復讐心や地獄のような日々の苦しみ、思い返すだけで胸が煮えたぎるような憎しみに再び火が灯る。それらが、これまで抱えてきた苦悩に取って代わった。



 陸上部をきっぱりとやめて代わりにアルバイトをし始めた、という体裁の裏で実は兄の元で戦闘訓練──主に銃の取り扱いを学び、日に日に普通の生活から遠ざかっていく。

 次第に、ニコラス学園を卒業した後には赤羽あかばねと離れ離れになる、という理想が現実味を帯びてきてもいた。

これでいいんだ、と常盤ときわは何度も自分に言い聞かせた。

なにより、すでに殺人を犯しているらしい兄を放ってはおけなかった。



 そんなふうに非日常に身を染めていけばいくほど、これまでの日常がいかに幸せなものだったのか、そして瑠璃るり赤羽あかばねに出逢えたことがどれほど素晴らしいことだったのか、痛感することになった。



 ……あのふたりがいなかったら、私だってもうずっと前に兄さんのようになっていたに違いない。あのふたりがいたからこそ……たった数年だけど、それでも十分幸せだったなぁ。



 柊で常日頃から走り回って遊んでいたせいもあって運動能力は高い常盤ときわだったが、元来の性格は慎ましく穏やかであり、決して好戦的でもない。そんな常盤ときわにしてみれば、犯罪組織の一員となること自体が多大なストレスなのだが、それに加え、憎き親の仇とはいえ、これから殺人に手を染めようとしているのであるから、そのストレスは相当なものである。



 かといって、仮に気が変わったとしても、今更引き返せないところにまですでに足を浸からせている。だから常盤ときわは、そうやってふたりのことを、楽しかった日々を回想することで、心のバランスをなんとか保っていた。



 だが──いや、だからこそ、常盤ときわの心が一度崩壊を始めてしまうと、それは連鎖的なものになってしまった。



 サンタの手がかりを掴むために微かな可能性を信じ、真に忍びない思いで赤羽あかばねに盗聴器つきの携帯電話を託した矢先のことである。そのせいで常盤ときわは、知ってはいけない事実を知ってしまった。

 柊が怨念をぶつけるべきサンタの監視下にあり、瑠璃るりがサンタに通じた人物だったという受け入れがたい真実を。



 それは、霜月しもつきが柊に現れたときのことだ。

そのとき常盤ときわは、黒服としての活動を終えてひとり電車に乗って柊に帰っている途中だった。

 常盤ときわは頭がいい。だからいかに霜月しもつき瑠璃るりが隠語を使ったりしていても、赤羽あかばねの尋常ではない態度と反応からして、つまりそこに誰が現れたのかを理解した。理解して、同時に柊で過ごした掛け替えのない日々や瑠璃るりへの愛情に大きな亀裂が走った。

気付けば、胃のなかで何かが蠢いていると感じるほど気分が悪くなっていた。



 サンタの足がかりが掴めたかもしれないという期待と、瑠璃るりが自分を騙していたのかもしれないという疑念。それらを複合して都合のいい解釈をでっちあげるのも、さすがに無理があった。



真実をこの目で確かめようと、最寄りのバス停から急いで柊に戻ってくると、そこには瑠璃るりと、赤羽あかばねと、そして6年ぶりに再会した、あの殺したいほど憎いサンタが仲良く茶をすすっているという、あるまじき光景を目の当たりにする。

その薄気味悪い映像が胃を蝕み、我慢できず、ついにはトイレで激しく嘔吐してしまった。



 空になったはずの胃がまだ何かを追いだしたがって、たとえようのない疲労感で満たされる。半面、心にぽっかりと穴が開いた。修復不能の穴が。

 そうして自然と溢れる涙を無理に止めることなく自由にさせているところに、赤羽あかばねが駆けつけてきた。



 当然のことながら、常盤ときわは自分の惨めな醜態を見られるのは嫌だった。けれど、それでも赤羽あかばねは目を逸らさずに介抱をした。その優しさ──いや、愛する人からの慈しみが、心の穴に対して一時的に蓋をする効果を担った。



 そして、今まさに失ったばかりの温もりをより強く欲し、衝動的に赤羽あかばねに甘えてしまった。こそばゆくて、恥ずかしくて、普段の自分なら絶対に口にできないようなことも、不思議な酩酊感が後押ししてくれた。

おかげで、空になった心が十分に満たされた気がした。



 瑠璃るりとの絆は崩壊した。けれど、それでも赤羽あかばねとの絆さえ残っていれば、まだ自分はどうにか大丈夫だと思った。その一方で、やっぱり赤羽あかばねが大好きなんだということを思い知らされて、けれど自分の未来に赤羽赤羽あかばねは絶対に寄り添っていないともうひとりの自分が訴えかけてきて、ついには布団に横たわりながら泣いた。

最後に頭に残ったのは、すべての因果の原点であるサンタへの憎悪だった。



 霜月しもつきが柊を去りそうになったときには、サンタを一網打尽にする目的のもと、今すぐにでも殺してやりたいのを我慢して、持参したという包みに発信機を忍び込ませて返した。もっとも、それはすぐに見抜かれてしまったようで、何の効果もなかったようだが。

 霜月しもつきに包みを渡し終えたあと、常盤ときわは再び横になり、この布団一枚すらもサンタの恩恵なのかと胃が痛むのを我慢しながら、またしても涙をこぼした。



 ……瑠璃るりさんは、私がサンタを憎んでいるってことを、引き取るよりも前に知っていたはず。それなのに引き取ったのは……引き取ることで、私に対しての罪滅ぼしになるとでも思ったのかな。

ハハ……笑わせないでよ。結局、私はこうして悲しんでるじゃない。



 瑠璃るりが許せなかった。これまでずっと騙されてきたんだと思った。だから常盤ときわは、次の日の朝、一方的に言いたいことを言って、柊との縁を断ち切った。

もっとも、瑠璃るり瑠璃るり常盤ときわの罵声を一心に受け止め、言い訳もせず、無理に引き留めることもしなかった。



 もはや柊の存在自体が許せなくなっていた常盤ときわは、サンタの討伐後には、柊を潰し、そして柊のみんなを解放しようと考えた。みんなは、いってしまえば何も知らないで集められただけに過ぎないのだから。赤羽あかばねだって、そのはずだから。



 思い返せば……あの高峰たかみねが偽の予告状クリスマス・カードを世間に公表したことでクラスがその話題で持ちきりになっているなかで、『デートだからいかない』と嘘をついたときに一瞬見せてくれたその表情が、鍵をかけたはずの想いに響いて。



 人気のない場所にある黒服のアジトにサンタを呼びよせたとき、そこに現れたのには本当に驚いたし、殺せと命令がでたときには気が気ではなかった。



 なんとしても守りぬこうと必死で先回りして、そこでのを見つけたときには、急いで過剰超紡績ストリング・オクテットでビルの屋上まで飛び上がり、そこからありったけの銃弾を注ぎ込んだ。

 もちろん、サンタだけを狙って。



 しばらくして、空から降ってきたあの指輪を見つけると、なんとなく、身に着けていたくなった。もちろん返すという選択肢もあったが、自分が持っていること自体があまりにも不自然であるのでその案は却下だった。



 自分と気づかせずにそれとなく返そうかとも思ったが、よくよく思い返してみればこれは、ふたりを繋いでくれた大事なものだ。だから、これがあればいつでも思い出に浸れる。ずっと傍にいてくれているような気にさせてくれる。だから、これさえあれば自分は生きていける。

 これから別離することへの先駆けと言い聞かせて、本人には内緒で胸に、服の下にずっとぶら下げていた。

 


 夜が明けて、未だ行方不明のままの赤羽あかばねに対して見つけ次第殺せという命令がでたときには、高峰たかみねに土下座までしてそれを取り消させた。もっとも、代替案として、見つけたら何らかの手段を講じて盗聴器を仕掛けるという約束を強いられたわけだが。



 ふたりで柊へ帰宅している途中、電車で会話したとき、兄を恋人と偽ったまま、その恋人と同棲するという大嘘をついたときには、明らかにショックを受けていた。これにはたまらず自意識過剰にも近い感情が込み上がってきたわけだが、手渡した携帯電話に盗聴器が埋め込まれているとも知らず『別れのための餞別』と笑って言われたのには、正直相当応えた。自己嫌悪が止まらなかった。



 知ってはいけない事実を知り、翌日になって衝動的に柊を退所したあと、高峰たかみねや兄との議論の末に赤羽あかばねを捉えることとなり、常盤ときわが渋々電話をしたときには、何を言われるのか怖くてしょうがなかった。

 しかしそれでも、まるで私の心を汲んでくれたかのように問いただすこともせず、それどころか私の言う通り、ニコラス学園に来てくれることを承諾してくれた。一方的で、急な要件にも関わらず。ひとえにそれは、ふたりのあいだに未だ確固としてある信頼関係の賜物であると信じ、心がそっと躍った。

 だが遅れて、けれどそれを今からぶち壊そうとしているのを自覚して、悲しかった。

 後になって、おそらくこれが最後の会話だったんだな、と気づいた。



 兄が女子寮で赤羽あかばねを襲ったときには、盗聴器から漏れ聞こえてきた悲痛な声に耐え切れず、常盤ときわはつい電話をしてしまった。兄を抑止するために。



 柊を退所する際、早朝という時間を選んだのは、みんなとお別れをしたくなかったから。

 単純に「さよなら」の一言が赤羽あかばねに言いたくなかったから。

 それが仇となったのか、すぐに再会してしまった。よりにもよって、修羅と化していた最中に。



 ならばもう、狂ったように振舞い演じきるほかなかった。

 今この場で、とことん嫌われてやる。

 もう近づこう、関わろうと思わないぐらい、徹底的に。

 そして、自分の未練をすべて断ち切るために。

 顔ではあざけて、心で泣くことを選んだ。



 ──そんなふうにどこまでも赤羽あかばねを想っていたからこそ、現実を目の当たりにした常盤ときわは、狂ったようにではなく本当に、完全に発狂した。



 もはや常盤ときわの心には、生きるうえでの支えとなっていたふたつの愛はどこにもない。数々の思い出が腐敗し、毒素に変わっていく。

 溜まったそれを体から排出するかのように涙が溢れるせいで、ゴーグルが満たされていく。



もうこんなものは邪魔でしかないと言わんばかりに強引に取り外して適当に放り投げ、右腕の裾で両目の前を2度往復させた。



 叫び終え、涙も枯れた以上、常盤ときわの心にはもう、何も残っていなかった。

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