第29話 忘れた罪、忘れる罰

 赤羽あかばねの視覚は今、まるで壊れたテレビが映しだすようなモノクロの嵐をとらえていた。

だが、そうして目の前に広がる光景に、とにかく理解が追いつかなかった。



あんなにも淀んでいた夜空が今は澄みきっていて、無数の小さな粒がそれぞれその存在を主張するように力強く煌めいている。

雪ですらも一粒として降っていない。けれど周囲を見渡せば、立派に雪化粧された針葉樹が肩を並べてどこまでも林立している。いくらか地面も白い。

 そして目の前には隙間を縫うようにして蛇行した細い浅瀬があった。耳を撫でるせせらぎが、妙に心地いい。

雰囲気からして、どこかの山奥のような光景だった。



 右隣には焚き火があった。いくつかの薪がおもむろにくべられていて、オレンジ色の光がゆらゆらと踊っている。その周りにいくつかの丸太が横たわっていて、ちょうど焚き火を囲うかたちになっている。

 視界の奥のほうには丸太作りの小さな家が何件か密集して構えており、どの家からもそばにある焚き火と同じようなオレンジの光が内側から外へとこぼれ出している。



……何だこれ? それに、どこなんだここは?



 もっと情報を仕入れようとして目や顔を動かそうと試みる。だが奇妙なことに、体のどれひとつとして赤羽あかばねの意思に無反応を決め込んでいた。つまり、視点が否応なしに固定されていることになる。



「いよいよ明日はお前のデビューの日だな、飛鳥あすか。──って、どうしたんだよ、そんな深刻そうな顔をして。さてはお前、緊張してるんだろ? え?」



 その声に、視界が強制的に反転する。

そこには、長髪の少年がいた。

顔立ちからして、金鵄きんしの幼いころのようだ。このころからすでに髪の色は茶色く、声は今とは違ってまだ中性的だ。

ただ何よりも違和感を覚えるのはその言葉遣いや雰囲気である。いかにも溌剌な子供のそれだった。今のそれとはまさに対極的である。



「し、してないもん!」



 疑問が解消しきらぬうちに、今度は幼くて甘ったるい感じの少女の声がした。

 不思議なのは、その声があたかも己の口元からでたように感じられた、ということだ。

 その声に併せて、赤羽あかばねの意思とは無関係に、視界が首を振ったときのように左右にぶれた。

 これらの経験から、なんとなく赤羽は現状を理解した。

 


……そうか。つまりこれは、飛鳥あすかが見聞きしたものなんだ。

 だから、飛鳥あすかが実際に目で見たものがそのまま映像として広がっているし、飛鳥あすかの声が自分の口からでているように感じるんだ。そういうことなんだろう、きっと。



「そうは言うけど、手、震えてるぞ」

「ふ、震えてなんかないもん!」



 記憶の追体験というだけでも物凄いことだが、さすがに当時の霜月しもつきが何を思い何を考えていたのか、その思考までは把握できるはずもない。だからこうして金鵄きんしの挑発に必死で反発しているのも、嘲弄されていることに対しての怒りなのか、はたまた図星なのか、あるいはそれ以外なのか、赤羽あかばねにはわかりはしない。

 ──と、そこで、上から頭を押さえつけられるように、視界が少しだけ下にぶれた。



「なんだ、緊張してるのか?」



 その声に、振り向くように映像が右に反転する。

 見れば、金鵄きんしと同じくらいの背丈をした、前髪だけが鼻尖くらいにまで伸びた黒髪の少年がこちらに向かって歩いてきているところだった。



「大丈夫だって。明日はこの俺がついてるんだしさ」

「うん! 私、がんばるからね!」



 狼狽とも呼べる今までの様子をどこかに吹き飛ばしたかのように、元気に答える。黒髪の少年の口元が弧を描いた。

 よく見れば、その黒髪の少年の左手には非常に短い木刀のような金属の棒が握られていた。それに気づいた金鵄きんしが「ようやくできたのか、それ」と投げかける。



「うん、今受け取ってきたところなんだ」

「今度こそ大丈夫そうか?」

「多分ね。受け取るときにも一応いろいろと試してみたけど、この通りちゃんと形を保ったままだし、まあ大丈夫なんじゃないかな。なんでも、今度のは『たんぐすてんかーばいと』とかっていうすっごい金属でできてるらしくってさ。いくら『悪魔マクス証明ウェル』でもちょっとやそっとじゃ壊れたりしないだろう、って。そう瑠璃るりさんのお墨付きももらったくらいだし」

「ふーん。ま、瑠璃るりさんがそう言ってんなら問題ないだろうけどな。でもこれで、ようやくお前も全力が出せるってことか」

「まあね。でもさ、丈夫なぶん、結構重いんだよなぁコレ。振り回すだけでも一苦労だし」



 黒髪の少年は、手に持った金属棒を曲芸師のように軽く振り回してみせる。

 それに興味を持った金鵄きんしが、「へぇ、そんなにか。ちょっと貸してくれ」と片腕を伸ばす。

 そして受け取った途端、その金属棒に腕を引かれるかのようにして前かがみになってしまった。すぐに表情を変えて足の踏ん張りを利かせたことでなんとか難を逃れる。

改めて両手で握り直したことで、胸の高さにまで持ちあげることができていた。



「おま、マジで? こんなもんを振り回すのかよ?」

「な? 重いだろ?」



 黒髪の少年は笑いを零しながら、片手でひょいと金属棒を奪いとる。

 そのまま、さっきまでのような素振りを始めた。



「とりあえず、まだ時間もあるわけだし、明日までにはなんとかなるだろうさ。……飛鳥あすか、明日はコレで守ってやるからな」

「うん!」

「おいおい。お前のほうが張り切ってどうするんだってーの。明日の主役は飛鳥あすかだろうが」

「あ。そっか」



 そうして、3人の笑い声が辺りを包んだ。

 そこで映像が次第に色褪せていき、やがて最初に見たあのモノクロの嵐が再来した。



 ……何だったんだろう、今のは。 

今の映像に一体どういう意味があったんだ?



与えられた情報は、抱えていた疑問を解消することなく、むしろ肥大させるに至った。

そうして消化不良を起こしているうちに、映像の不具合が復活する。



 察するに、さっきまでの続きではないらしい。

夜は夜らしいが、もうあの星々の姿はない。夜空は一面分厚い雲で遮断されてしまっている。そこからこぼれ落ちてくるようにして無数の雪がひらひらと舞っていた。

 


場所もあの山奥ではなかった。

そこは西洋風の街中で、自分──というか幼い霜月しもつきは、何かの建造物の屋上らしき場所にいるようだった。見える景色からして、視線が地上よりもだいぶ高い位置にあるような感覚がある。



視線の中央先には、見渡す限りここらで一番背の高い部類のビルが群れを成している一角が見据えられていた。さらにそのなかでもっとも背の高い時計塔は、まさにこの辺り一帯のランドマークであると自己主張するかのように、遠目からもそれとわかるほどにまで豪奢にライトアップされている。そのお陰もあって、時計の短針が、盤面にある『Ⅸ』の印字をもう少しでちょうど指し示すところだというのがはっきりとわかった。

 もちろんそれ以外の数多のビルも時計塔に負けじとそれぞれが個性的な光で身形を繕っている。やたら派手なものもあれば質素なものもある。

 



 かくして世界は、濁った夜空にもかかわらず色彩が豊かだった。それこそパーティー会場のように。

 とはいえ、どうやらこのときの霜月しもつきは例のゴーグルをしているらしい。今見ているこの映像も、本来の色味よりも若干濁って見えていることだろう。本当は今目にしているものの何倍も素敵に違いない。



 右隣と目前にはそれぞれ、全身白のジャージのような見た目の、つまりサンタの正装を着た人物がいた。

右にいるサンタは、その腰にやや大きめの、まるで拳銃のホルスターのような収納を左右にもったベルトを巻いていて、右側にはあの金属棒がそれこそ刀のように備えられており、左側には、どうしてなのか透明の液体で満たされたペットボトルがあった。

それらの装備や背丈からして、さっきの黒髪の少年のようだ。

頭には何もかぶっていないのに、両目を覆う大きなゴーグルのせいで、顔の半分が隠れてしまっている。



対して目前にいるのは、少年よりもだいぶ背の高い──つまり大人だった。

 基本的には少年と同じ服装だが、特に武器のようなものは持ち合わせていない。ただ、その頭に白のニット帽をかぶっていた。それが赤羽あかばねには、まるで霜月しもつきがサンタの格好のときにかぶっているものと瓜ふたつに思えた。



「外の警官達は私が注意を惹きつけておく。いいかふたりとも、くれぐれも油断するなよ」

「「はいっ!」」



 ふたりの返事を聞くと、ニット帽をかぶった大人は頷き、ふわりと屋上の床から浮かび上がる。

 たちまち、霜月しもつきが得意としているあの風の結界と同質と思われる現象を1秒とかからずに身の回りに展開させ、地上で蠢く警官隊の群れへと物凄い速度で滑空していった。



「じゃあ、あの城に入ったら二手に分かれるけど……本当にひとりで大丈夫か?」

「う、うん。大丈夫だもん」

「そっか。よし、じゃあ行くぞ」



 少年の掛け声を合図に、差しだされた右手が少年の左手と握り合った。そして時間を掛けてゆっくりと球状に整えられた風の結界が、ふたりを包みこむように展開される。

 こうしてふたりは夜空に向かって垂直に浮上していった。

 そこでまた、映像がモノクロの嵐で乱れた。



 そうして映像が途切れたのは一瞬だけのことで、新たな映像はすぐに始まった。



 次に目にしたのは、豪勢な屋敷に見られるようなテーブル、椅子、照明、暖炉、オブジェなどが犇めく、どこかの居城にありそうな厳かで豪華な一室だった。



 どうやらこのときの霜月しもつきは低空飛行で飛び回っていたらしく、焦点が特定の何かに定まらない状態が続き、目に飛び込んできた映像がすぐに後ろに流れていく。



 次の瞬間、視点が振り向くように後ろに変わった。視線の先には、30代後半から40代前半くらいの、頭にいささか白髪らしき毛髪を蓄えた、中々に男前の男性が追いかけてくる様子があった。しかもその右手には、回転式の自動拳銃があり、こちらに向けられてもいる。



「くそっ、待て、サンタクロースめ!」

「ひいっ!」



 銃弾が発砲されるよりも前に霜月しもつきは回れ右をして男性に正面を向きけ、そのまま両手を前に突きだす。たちまち風の結界が召喚された。

それが功を成し、遅れて発射された銃弾が風の結界で軌道を逸らされ、周囲の壁や天井に着弾した。男性が苦い表情を浮かべている。



 そのまま、男性にむかって猛風を浴びせかけたらしい。突如として室内にある家具が音を上げて微動しだした。

 男性は、向かい風に身構えて耐えようとするも、滑るようにして少しずつ確実に後退をしいられた。いくらかして、ついに後転してしまう。



絶好のチャンスと言わんばかりに視点が反転すると、そのまま勢いよく部屋を飛び出した。

絶えず飛翔を続けながら、直面した横に長い廊下をとりあえず左に進み、現れた突き当りをそのまま道なりに左に折れる。すると正面に大きな扉が現れた。



とりあえず着地して、なりふり構わずに扉を開けてみようとするが、鍵がかかっているようでピクリとも動こうとしない。

こうなってくると、この状況は行き止まりであるのと同義である。引き返すしかなくなる。



 しぶしぶ反転して──そこで、今しがた自分を狙っていた男性が、銃に新たな弾を補充しながら、一歩ずつ、勝利を確信した顔をさせて迫ってきていた。「さあ、観念しろ」と距離を縮めてくる。



「思えば、この日をどれほど夢見たことか。サンタクロースを捕まえて解剖し、その力を解明するのが幼い頃からの私の夢だった。それにしてもまさか、そのサンタがこうして自分の元に現れる日が来るとはな。まったく、悪いことはできないものだ。フフ」

「あ、あ……」



 やがて男性は立ち止まり、腕を伸ばして、銃口を向けてきた。

先ほどとは違って、もうわずかな油断も微笑もない。引き金にかけてある指が今にも引かれようとしている。

 そこで突然、視界が黒で塗り潰された。どうやら恐怖が勝って霜月しもつきが目を閉じたらしい。

とどのつまりそれは、相手への無条件降伏の宣言でもある。

 抗うことを忘れた標的に待ち受けるのは、もはや銃声しかない。



けれど、それよりも先に、『ガチン!』という、金属で他の金属を叩きつけたときに響くような冷たい音が耳に飛び込んできた。



 ゆっくりと視界が鮮明になっていく。するとそこには、白い服で身を包んだあの黒髪の少年の後ろ姿があった。例の金属でできた短めの木刀を左手に持ち、まるで何かを払いのけたような大仰な構えを取っている。



 一方で、男性の手は留守になっており、しかも痛みに耐えるようにもう片方の手が添えられていた。表情も渋い。

 一拍置いて、少し離れた位置から何かが落下したような物音が聞こえた。



男性はすぐに新たな拳銃を一丁、即座に懐から取りだす。だが、その銃口を向けるよりも先に、少年がすでにその懐へと潜り込んでいた。

その場で下から縦に一回転するようにしての蹴り上げが炸裂し、男性の顎に直撃する。よほどの衝撃があったようで、男性は軽く吹き飛ぶようにして床に大の字になり、それから動かなくなった。どうやら気絶したらしい。

 それを確認して、少年から警戒心が霧散する。深いため息が漏れた。



「大丈夫か、飛鳥あすか。まったくもう、心配させないでく──」

「おにいちゃぁんっ!」



途端、泣きつくような声とともに、少年が視界いっぱいに広がる。

「怖かったよう」という涙声の訴えかけに、少年は「よしよし、もう大丈夫だから」と、短くないあいだ頭を撫でるなりして優しくなだめてくれていた。



落ち着きを取り戻したところで、少年と揃って鍵のかかった部屋の扉を見入る。



「どうやらここみたいだな」

「え、ここ? でも、鍵がかかってたよ。さっき開けようとしても開かなかったし」

「大丈夫、大丈夫。そんなのどうってことないって」



 さもなんでもないことのように言うと、少年は一歩前に出て扉と向き合った。そしていくらもしないうちに、「ほい、開いたよ」という言葉に併せて扉を押してみせる。するとどうしたことか、扉はさっきまでが嘘のように何の抵抗もなくその内側を曝けだしたのだった。

具体的に何をしたのかは、背中越しで見えなかった。



そうして訪れた室内は、とにかく暗かった。

霜月しもつきは不用心に身を投じていくが、その最中に明かりが灯る。振り向けば、少年が入り口付近にあったらしい部屋の照明のスイッチを押していた。

 


浮かび上がったのは、先ほどの豪華な部屋と似通った構造をした一室だった。

 高級そうなソファとベッド、そしてアンティーク調の机と椅子。壁にはどこかの風景を描いた絵画が何枚か掲げられている。暖炉だって設けられているし、収納のための家具もそれなりに用意されている。



 ただ、そこまで充実した内装なのに、見た限り、どうしてなのか生活感がちっとも伝わってこない。整理整頓もされているのに、埃っぽいというか。例えるならば、この部屋だけがいつの頃からか時間が止まってしまったような。

窃盗をしにきたふたりにはそんなことはまるで関係ない──と言わんばかりに、ふたりは手分けしてお目当てのものを探しにかかった。



「これかなぁ? 龍の牙」

「ん? あー、それは琥珀だよ。っていうかそもそも、色が全然違うじゃんか」

「そうなんだ。んー、よくわかんないや。ナハハッ♪」

「お前なぁ……まあ、いつものことだけどさ。いいか、龍の牙はサファイヤでできてるんだ。だから蒼いんだってば。蒼っ」

「ふーん、そうなんだね。さすがおにいちゃん。なんでも知ってるね」

「違う違う、俺だって瑠璃るりさんから聞いただけだって。それよりも、次からは事前にちゃんと盗む物の写真を見ておくんだぞ。じゃないと時間ばっかくっちゃうからな」

「うん、わかった!」



 的外れだが快活な返事に少年が苦笑してみせた──とそのとき、視界の奥のほうで、蒼いがどこか透明感のある、1リットルパック程の大きさの、先の尖った円錐状のオブジェが格納されたガラスケースが目についた。

目の前の少年を避けて、一目散に迫る。



「お、おにーちゃん、見てこれっ! これがきっと今言ってた龍の牙ってやつだよ」



 褒めてもらいたいという一心か、元気な声で示唆し、振り向いた。

 だが、少年はこちらを見ていなかった。じっと自分の手元に見入っている。別のものに気を取られている様子だ。



「おにーちゃん? ねえ、聞いてる? これだってば、龍の牙は。私が見つけたんだよ?」

「ああ、うん……」

「……もう、さっきから何を見てるの?」



 視線を移さぬまま空返事の少年にしびれを切らし、サファイヤの塊を手にすることなく、少年の傍にまで駆け寄ってみた。



「わぁ……綺麗」



 その手元にあったのは、息を呑むほどに見事な装飾品だった。

首から下げるタイプのもので、こぶし大ほどの大きさをした、雪の結晶を象ったような6角形の、半透明なレモン色をした宝石が胸元にくるようになっていた。

それを吊り下げる紐自体もまた光の粒をまき散らしているが、宝石に比べれば慎ましいものだ。あくまで主役を引き立たせるための脇役としての存在に徹している。



「これ、何ていう宝石?」

「えーっと、……多分だけど、クリソベリル──金緑石ってやつじゃないかな? 質のいいのだと世界で1番高価な宝石になるって、この前たしか瑠璃るりさんが言ってた気がする」

「ふーん。瑠璃るりさんが言ってたんじゃ間違いないね」



 そのまま、ふたりして至高の宝石に目を奪われているような状態が少し続く。しばらくして、少年が「貰っちゃおうか。これも」と呟いた。



「え?」

「だってこれ、多分、すっごく貴重な物だよ。ひょっとしたら龍の牙と同じくらいのお金になるかもしれないし」

「……そっか。じゃあそれも貰っちゃおう」

「決まりだな。じゃあ帰るまで飛鳥あすかが持ってなよ。首につけてあげるから」

「うん? うん、わかった」 



 視界が反転する。無防備な後頭部を晒す。

 少年は、もたつきながらもなんとか霜月しもつきの髪の上から首に巻きつけ終えた。そして後ろ髪を整えつつ正面に向き直ると、少年はたった今自分が取り付けた装飾品に見入っていた。



「? どうしたの?」

「……似合ってる。うん、よく似合ってるよ、飛鳥あすか



 少年は、ゴーグルごと前髪を掻きあげ、紅潮した素顔を晒して、微笑んだ。

そうして露になったその顔を見て──赤羽あかばねは、息を飲んだ。



 …………お、……俺?



 それは、紛れもなく、幼き頃の赤羽あかばねの顔に違いなかった。



柊にある赤羽あかばねの写った写真のなかでもっとも古いものと何も違わない。

 唯一違うと言えるのは、顔の中央にバツ印がない、という点だ。常盤ときわとの一件で負った太く歪な傷はおろか、もう片方の、事故で負ったはずの細く鋭い傷すらも見当たらないでいる。



 赤羽あかばねはおおいに混乱した。

双子の兄弟という可能性もなくはないが、それならば逆に、どうして生き別れになっているのか、どうして自分だけサンタでないのか、謎が膨らむだけである。しっくりくるのは、やはりこの少年が過去の自分である、ということだ。



けれど、そうなってくるとおかしい。

記憶を失うまでは、両親とともにサンタから逃げ隠れする生活を送っていたのではないのか。つい昨日、瑠璃るり霜月しもつきの口からそう聞いたばかりではないか。



 ……待てよ? 

、は?



 嫌な予感がした。

このままコレを見続けてはいけない──そう本能が訴えかけてくる。

だが、赤羽あかばねの意志とは無関係に、そして斟酌することもなく、なおも映像は淡々と流れ続けていく。



 そこでふと、部屋の出入り口に、いつの間にか、先程気絶したはずのあの男性の姿があったことに気づいた。睨みつけるように片目を閉じて構えている拳銃のその銃口は、その存在に未だ気付いていない少年を狙っているようだった。



「っ! 危ないっ!」



 少年を庇うため、体が乱暴に前に出て少年をどける。

同時に、間髪いれず銃声が盛大に響いた。



 視界がよろめく。

最中、口を明けて、目を点にしている少年の顔が見えた。

 しかしそれはすぐに視界から消えて、代わりに、まるで頬ずりでもするかのように床が視界の半分を占めていた。



「……あす、か……? 飛鳥あすかぁっ!」



叫び声と共に、すぐに少年が駆け寄ってきた。

最初こそ抱き起こそうとしたようだが、漏れる呻き声に反応して、すぐにやめた。

潤わせた両目で、こちらと左肩辺りを交互に覗き込んでくる。

サンタの身なりをした少年のその純白の右手には、赤い染みができていた。



「貴様が付けているそれは、私の妻のものだ。貴様らなんかに……くれてやるものか!」



男性は怒鳴り声をあげつつ、しかしどこか落ち着きのある様子で、一歩ずつゆっくりと迫ってくる。

いや、落ち着きというよりかはむしろ、余裕や自信といった雰囲気を彷彿とさせている。

さきほど少年に見事なまでにやられたはずであるが、しかしそれでもこうして霜月しもつきを狙撃し得たことが起因しているのかもしれない。



 カウントダウンのような足音だけが耳に届く。

未だ男性に背を向けたまましゃがみ込んでいた少年は、一度左腕の裾で顔を拭うと、再びゴーグルで顔を覆った。

 そしてその場で立ち上がると、振り向くことはせずに左手で例の金属棒を引き抜き、そしてもう片方の手で腰にぶら下がっていたペットボトルを鷲掴みにする。



 そこまでしても、未だに振り向こうとはしない。男性に背を向けたままだ。

 ただ、気のせいか、視界に映る少年の金属棒の周辺の空間が、歪んでいるように見えた。



 そうこうしているうちに、男性が少年の背後まで辿り着く。

見えはしないが、拳銃を発砲する構えをとっているに違いない。

おそらくは少年の背中か、あるいは後頭部などに銃口を突き付けているに違いない。



「死ね、薄汚いコソドロどもめっ!」



 吐き捨てるように言い、間髪入れずに銃声が轟く──その、一瞬前だった。

 少年の握っていたペットボトルが、突然手榴弾のように爆発したのは。



ペットボトルのなかにあった水分のせいか、あたりにうっすらと靄のような白煙が無数の蛇のように細かく線を描いて、少年に渦巻くように立ち込める。



とっさに危険を察知したのか、男性はいつの間にかだいぶ離れた位置に避難しており、厳しい表情をして様子を窺っている。

 それが、この状況を俯瞰している赤羽あかばねには奇妙に思えた。

これまで何度か目にしてきた男性の身のこなしと照らし合わせると、どう考えてもこの一瞬でそんなところにまで回避できるはずがなかったからである。



 ゆっくりと靄が晴れていく。少年の姿が鮮明になっていく。

するとそこには、太陽のような赤紅色を内側から灯すように発している刀を左手に、歪な表面をした50センチくらいの長さの半透明な氷柱──いや、槍を右手に構えた少年の後ろ姿があった。



よく見れば、氷の槍を握る右手はその表面自体にも氷で覆われている。まるで槍と一体化しているかのように。そして、さっきまでそこにあったはずのペットボトルの姿はどこにもない。



「……うおぉおおおっ!」



 少年は、発狂したように悲痛な絶叫をあげて、自ら急造したふたつの奇怪な武器を手にして敵に立ち向かっていく。

この瞬間にはもう、氷の槍の長さが金属棒と同じくらいにまで長く太く成長していた。



 少年は、これまた子供とは思えない驚くべき俊敏さで一気に距離を縮めると、氷の槍を思い切り突き出した。

対する男性は、少年に劣らないほどの高速移動を披露してそれを難なく回避してみせ、一瞬にして少年の右手側真横にまで回り込む。攻撃を繰り出した右手側からの銃撃ならば、死角にもなるし、体勢もままならない、という考えのもとだろうか。



そう動くことを予見していたのか、少年は槍を突き出した動作から流れるようにして反時計回りに回転し、その勢いを利用して左手の金属棒を男性に向かって投射した。



重量と極熱を孕んだ金属棒の飛来。それだけでも強力な攻撃、あるいは威嚇になるだろうが、しかし男性はひるむことなく、そして難なく回避してみせる。

命中し損ねた金属棒は、そのままその半身近くまでを滑るようにして壁に突き刺さった。



そして即座に銃声が轟く。しかしそれはひとつではなかった。

いつの間に用意したのか、右手の銃と同じものが左手にも握られていたようだ。



 左右の銃弾は軌道に沿って、少年を目がけて音速で接近をしたはずだった。

 だがしかし、少年を穿つには至らなかったらしい。投射したことで留守になった無防備状態の左手を、その掌を見せびらかすように男性に向けて平然としている。

 様子からして回避した素振りもない。どうやったのか?



そんな赤羽あかばねの疑問も、少年の左掌の周囲がまるで世界が歪んだかのように、陽炎のように揺れて見えていることと、その掌から溢れんばかりの白濁の蒸気が迸っていることで、やがて氷解する。

つまり少年は、迫ってきた銃弾を、想像しがたいほどの極悪な熱波をもってして融かした──いや違う。跡形もなく蒸発させていたのだ。信じ難いことではあるが、目に映る事実がそうだと物語っている。

 そうするのにいったいどれほどの熱量が必要なのか、浅学な赤羽あかばねにはまるで理解が及ばない。



 ともすれば、氷の槍の成長は著しかった。

今やそれは槍というよりも先のとがった荒削りな氷の丸太と呼ぶに相応しいほどにまで長く、そして太く肥大している。そのせいか、氷の侵食も右肘にまで及んでいた。



 銃弾が効かないどころか、まさか蒸発させられるとは思ってもみなかったのだろう。男性は口を開いて驚愕している。

その隙に、と少年は距離を詰めるような構えを見せた。

ただ、右手の丸太ほどの氷塊のせいで、完全に機動力を欠いているのは誰の目にも明らかだ。先ほどまでの俊敏な動きは不可能に違いない。



 もしもこれが赤羽あかばねなら、じれったさを覚え、いっそのこと氷を解かしてしまおうと考えただろう。

 だが、少年はそうはしなかった。むしろ、赤羽あかばねとは真逆の発想で追撃してみせる。



構えていた少年は、その場から1歩も脚を動かすことなく、氷塊ごと右腕を突き出しただけだった。

しかしそれが為されたとき、丸太ほどでしかなかった氷塊は今までの比ではないくらい一気にその長さを伸ばしていった。先端も、指先のようにみっつに枝分かれしてもいる。

これらの事実に着眼すると、まるで少年の腕自体が伸びたような錯覚に陥ってもなんらおかしくはなかった。



 想像の範疇を超えた現象が立て続けに起こったことに虚を突かれていたのだろう。男性は今までと異なり、完全な回避をすることができなかった。左手側に移る最中、みっつの突起のうちのひとつが脇腹をかすめ、少なくない血が飛び散る。

ほんのりと赤く染まった氷の腕は、標的を追いかけることはなく、そのまま突き進み、辿り着いた壁に直撃した。

そうして生じた大小さまざまな氷の飛沫が、桜の花びらのようにゆらゆらと舞う。



 ここで赤羽あかばねは思った。この氷の攻撃には致命的な弱点があると。

ただでさえ機動力を欠く状況で、そこからさらにこれだ。今のように命中が逸れてしまうと、むしろ逆に自分の身動きを完全に封じることになる手枷となってしまうのだ。



 男性自身もそうと理解したのか、今しがた氷の丸太に向けていた目を少年に戻し、銃を構えようとする。

 だが、男性は銃を構えるよりも先に、再三の驚愕を余儀なくされていた。

 少年が、氷に埋もれていたはずの右手をもってして、内側から難なく氷の丸太を破砕しながら猛突進を始めていたのだ。



 赤羽あかばねにはわかる。少年は今こそ、今度こそ、究極なまでに対極であり続けてきた力を逆流させているのだと。



 迫りよる白い狼に、男性はもはや回避する暇もなかった。

 中途半端に持ち上げていた銃口がたちまち少年の、氷のグローブでもはめたような大きな左手に包み込まれ、力ずくで上に向けさせられてしまう。

とっさに左手の銃も用意しようとするが、それが氷を喰らってきた左手に噛みつかれる。

遠くから見ると、まるで互いの手を取り合いながら押し合いをしているような状況だ。



 だがそれも長くは続かなかった。というよりは、ほとんど一瞬で白黒ついた。

苦痛に悶える声と共に、男性の左手から拳銃が零れ落ちる。それは全体が飴細工のようにただれていた。一方で、男性の右手の拳銃はしっかりと握られたままだった。というよりかは、あまりの冷たさに皮膚ごと張り付いてしまっているらしい。全体に白い霜のようなものも確認できる。



 こうなってしまえば、もはや男性に反撃の目はない。

少年が戦いの終止符となる蹴りを腹部にお見舞いする。そして男性が背中を壁に打ちつけ、崩れるようにして床に伏せたのを確認してから、少年は深い息を漏らし、それからこちらへとゆっくり歩み寄ってきた。



 しかし、ここでおかしなことが起こる。

 男性は、たった今背中を打ちつけるほど強く腹部を蹴られたのにもかかわらず、すぐに黙々と立ち上がり、凍傷中の右手と一体化している拳銃を構え、平時のように、これまで負った苦痛などなかったかのように、そのまま引き金を引こうとしていたのだ。



「っ! お、おにい──」



 必死な声に事態を理解したのか、こちらに向いていた少年が慌てて半身を翻す。

だが、遅かった。痛快な銃声が響く。

続けざま、一拍を置く間もなく、ゴーグルの粉砕とともに少年が床に倒れ込んだ。



「お、おにいちゃんっ!」



 それは、まるで今の銃声にも負けないくらいの悲痛な叫びだった。

それに応じるように、少年の体が微動する。わなわな腕を震わせながら、上体を起こしていく。



被弾こそしたものの、一命は取り留めたらしい。

ただ、長い前髪から覗かせるその顔の中心には、大破したゴーグルのガラス片で切ったのか、鼻に鋭い切れ込みが走っていた。赤い液体を滲ませて、肉を除かせている。



 次の瞬間、少年へと向けられていたはずの霜月しもつきの視線が、急に何かに遮られた。

見れば、男性が目の前にいて、こちらを見下ろしていた。その顔に苦悶の色はない。

そのまましゃがみこみ、無慈悲にも右手に握った拳銃を視点のやや上──つまり霜月しもつきの額に押し当てててくる。

漏れ聞こえる幼い声から、霜月しもつきが怯えきっているのが伝わってきた。




「さあ、それを返してもらおうか」



 差しだされた左手が、爛れた掌が、徐々に視界を埋め尽くしていく。

 ──そのときだった。



飛鳥あすかに触るなぁああっ!」



 遠くから吠える声がした。

その一瞬後、目前にいる男性の左胸から、金属棒と氷の槍がいきなり突出してきたのだ。

 至近距離で目の当たりにしてもすぐには理解できない事実を、肉を焼く音と臭いが十二分に補填してくれる。



 男性はむせるように吐血しながら、胸部をしばし見入っていた。

少しして、刺さっている金属棒をどうにか取り払おうと左の手をやる。だが、触れた瞬間に手の表面の皮膚が蒸気を上げてただれ落ち、やがて3秒と経たずして白い物体が露わとなった。



ふたつの穴が穿たれた胸部は、刺さったままの金属棒の熱による侵食で垂らしたインクが紙に染み渡っていくように、波紋状に空洞を広げていく。たしかにそこにあったはずの体組織が、煙となって霧散していく。



やがてふたつの穴は同化したことで、氷の槍は熱の余波により表面が溶けていき、流血と、そしてそれ以外のもはや何だかわからないものと、混沌と交じり合って床にしたたっていた。



 やがて男性は、糸の切れた人形のように正面から崩れ落ちた。そうして男性の代わりに視界に現れたのは、自分の顔の怪我による出血と男性からの返り血とで純白だったその全身を真紅に染め、息を荒げながらふたつの武器を両手に構えた状態の、血まみれの顔の少年──つまり赤い悪魔の姿だった。



…………嘘だ。

 こんなの、嘘に決まってる。

 だって、そんな……俺、なのか?



もうこれ以上、他に何も知りたくなかった。

 けれど、映像はまだ終わらない。

目を背けることはできない。許されない。



「お……お、おにい……ちゃん……」



 霜月しもつきの消え入りそうな声を皮切りに、少年から狂気が消え失せた。

そして、今しがた自分が引き起こした惨状を改めて理解したのか、途端に目を点にし、力なく膝を崩す。



「あ……そん、な。俺、まさか……俺、……俺っ!」



 さっきまでの殺気が嘘のように、まるで別人のように、死体を目の前にして子供らしく脅える。

ふたつの武器からさっと手を放し、震える両手をまじまじと見入る。



「殺し、た……のか? この人を……」

「ち、違うよ、おにーちゃんの、せいじゃ、ないよ。おにーちゃんは、悪くない。私を、助けようと、した、だけだもん」

「違う……いや、違わないっ! たった今、俺がこの手で、この人を殺しちゃったんだっ!」



 少年は頭を抱えて犯した罪の懺悔をしつつ、「どうしよう、どうしよう」と念仏のように唱えながら、その目に溢れるほどの涙を浮かべていた。



「……逃げよう、早く。ここから」

「逃げるって、そんな!」

「まず、は、お父さん、に、報告、しなきゃ。考えるのは、それからに、しよう。早くしないと、誰かが、ここに来ちゃうかも、しれないし。そしたら、おにーちゃんの、顔、も、見られちゃう、し」

「そ、それは……って、動いて大丈夫なのか?」

「うん。ものすごく、痛いけど、ね。でも、がんばる」



 会話と視界の動きからして、負傷した霜月しもつきが、必死で立ち上がったようだ。



「ねえ、おにーちゃん。私の帽子、と、あと、ゴーグルを、貸すから、さ。それで、ひとりで、先に、お父さんの、ところまで、行って」

「な……何言ってんだよ! それじゃあお前はどうすんだよ、怪我してるんだぞ? 今だってほら、まだ血が出続けてるじゃんか!」

「私は、飛べる、もん。だから、ひとりでも、なんとか、飛んで、逃げられる、し。それなら、ゴーグルが、無くっても、大丈夫、でしょ」

「それは……そうかもしれないけど、でも……」

「ごめんね。本当なら、おにーちゃんと、一緒に、逃げたい、けど、今の調子だと、ちょっと、無理、みたい。だから、ひとりで、逃げて。それで、お父さんと、合流して」

「でも、それじゃあ──」

「お願い、だから。ね? おにー、ちゃん」



 おそらく霜月しもつきは、最後に微笑んで見せたのだろう。苦痛に耐えながら。

酷く惨めな泣き顔の少年は、やるせない表情を向けていた。下唇を噛み、握りこぶしを作ってはいたが、最後には俯くだけで反論を唱えなかった。



「……わかったよ。じゃあ、先に行く。だから、お前もちゃんと逃げるんだぞ。いいな、絶対だぞ」

「ナハ、ハ……心配性、だなあ、おにーちゃん、は」



 少年は霜月しもつきからニット帽とゴーグルを取り外すと、それらを身に付けた。そして「待ってろ、すぐに呼んでくるから!」と言って疾走していった。



 その姿をじっと見送っているところに、「お父、さん?」と、背後辺りからなぜか、するはずのない人の声が聞こえてきた。



振り向けば、部屋の片隅にある暖炉の中に、どうしてなのか、四つん這いの状態の少女がいた。

それは、紛れもなく、あの人の幼い姿だった。



「お父、さ……あ、ああ……いやぁあああっ!」



 そのまま駆け寄り、変わり果てた男性の姿を見て、大粒の涙を零しながら絶叫している。

 やがて、少女の視線がこちらに向けられた。その気迫に押されたように、霜月しもつきが一歩ずつ後退していく。そしてついには力なくふわふわと浮かび上がり、少女から逃げるようにして部屋を抜けでていた。



 廊下にでると、すぐに妙な男性が倒れているのが目についた。

右腕を掴み、もがき苦しむようにして床を転げている。恐らく、この部屋を先に出た少年と鉢合わせになったか何かで、そしてやられたのだろう。

何をされたのかまではわからないが、それでも無事に生きていることは確認できる。



 霜月しもつきは、屋上か、あるいは上層階を目指しているようだった。階段を見つけては、上の階に進む道を選んで進んでいくという行程を繰り返していく。

その途中で、久方ぶりに映像がモノクロの嵐で乱れた。



 ──事の真相はこれで判明した。だから、これでもう終わりだと赤羽あかばねは思った。

しかし、映像にはさらにまだ続きがあるらしい。すぐにまた新しい映像が始まる。



 そこは、古風な造りの室内だった。

そして、目の前にはあの少年──幼い赤羽あかばねがいた。



前髪をカチューシャで掻き揚げていて、鼻にはあのときにできた、一筋の傷跡が残っている。その視線は足元に向けていて、こちらを直視していない。



さらに、霜月しもつきと少年を囲うようにして、老若男女問わず20人近くが、少し間隔をあけて立っていた。みな正面をこちらに向けている。そのなかには、酷く悲しげな表情の金鵄きんし、そして瑠璃るりの姿もあった。



「覚悟はできてるな、りょう



 右側には、スーツで身なりを決めている成人男性がいた。

声が、あのニット帽をかぶった大人と同じだった。その先入観もあってか、赤羽あかばねにはどこか超越的なオーラを発しているようにも見えてくる。

その声に応じるように、少年は視線を合わせぬまま、少し間を置いてから頷いた。



「ひっく……嫌……嫌だよ、こんなの……」



 霜月しもつきの嗚咽に、スーツの男性が檄を飛ばす。



「この期に及んでまだ駄々をこねるのか、お前は。いいか飛鳥あすかりょうはサンタの鉄の掟を破った。追放は免れないと、そう何度も言っているだろう」

「でもっ! それもこれも全部私のせいだもんっ! おにーちゃんは、私を助けてくれただけだもん。だから──」

「自分のせいだ、とでも言うのか。では聞くが、お前がその原因を作ることになってしまったのが何故なのか、それをちゃんとわかっているのか?」

「そ、それは……」

「それは、お前がどうしようもなく未熟だからだ。お前がいつまでもりょうに甘えているから、だからりょうはお前を必要以上に補助しなければならなかった。その結果が、被害者を殺めるに至ったんだ。未熟で足手まとい、そのうえ怪我まで負うだなんて……りょうから聞いて様子を窺いに行った私が階段で気絶していたお前を見つけていなければ、お前は今こうしてここにいることすらなかったんだぞ。そのことをわかっているのか?」



 反論できない霜月しもつきは、ただひたすら、嗚咽を零すだけだ。



「どうして超邪眼ヴァ・ロールを使わなかった? お前が未だに風を十分に扱えずにいるのを危惧して、万が一の事態にも陥らないようにと授けたというのに……」

「こ、こんなの……別に、欲しくなかったもん!」

「っ、いい加減にしないか! そんな中途半端な志だから今こういう状況になっているんだぞ! そのことがまだわからないのか、お前にはっ!」

「だ、だって……うっ……ひっく……」

超邪眼ヴァ・ロールが嫌だったというのなら、もっと風を──」



 成人男性は、自分で熱くなりすぎたと気付いたのか、襟を正しながら深呼吸をした。そして最初の、比較的穏やかな口調で再び語りだした。



「いいか、飛鳥あすか。今までのお前は、どこまでもりょうに頼りきってきた。だからこうして、執り行うべき処置を、敢えてお前にさせるんだ。その眼でな。つまりこれはお前を戒めるためでもある。私の言っている意味が分かるな? ……さあ、早くその眼でりょうの記憶を消しなさい。これは命令だ」

「嫌……ひっく。お父、さん……嫌だよぉ……」



 視界がもはや鮮明ではない。霜月しもつきの嗚咽が止まらない。泣きじゃくっているのがわかる。袖で涙を拭う素振りが、何度も映る。

 話が先に進まない。



しかし、その膠着状態を断ち切ったのは、なんと少年だった。



「なあ、飛鳥あすか。お前が俺のために泣いてくれるのは嬉しいよ? でもさ、それは絶対に間違ってる。俺は、人を……殺したんだ。あのおじさんの命を奪ったんだ。『たとえどんなことがあっても、人の命だけは奪うな』って、サンタの掟にあるの、もちろん飛鳥あすかだって知らないわけじゃないだろ?」

「……ひっく」

「だから、俺にはそれに見合った罰が必要なんだって。お前にも──お前なら、わかるよな?」

「……わかんないよ、そんなこと……わかりたくない!」

「そんなに泣くなよ。そんなに泣かれると……俺だって、我慢、できなくなくなっちゃうじゃんか。……っ、早くやれって、飛鳥あすかっ!」



 そこで、少年の両目が潤い、零れ落ち、頬を伝った。

子供にできる精一杯の虚勢が、一緒に流れ落ちていく。



飛鳥あすか。もうこれ以上、りょうを困らせるんじゃない。早くやりなさい!」



 成人男性が催促する。けれど霜月しもつきは、一向に泣きじゃくったまま、行動を起こさないでいる。起こせないでいる。

そこに再び、少年が「飛鳥あすか」と優しく語りかけてきた。



「俺のために泣いてくれて、本当にありがとうな。でも、それじゃあダメなんだよ。本当に必要なのは、どうにかして俺を救済するってことじゃない。俺のせいで不幸になった人を、援助することなんだ。それが罪滅ぼしなんだって、俺は思うんだ。今回のことでお前が自分を責めているようなら、あの──俺が殺したおじさんの家族を、幸せにしてやってほしい。俺のぶんまでさ。まあ、今から消える俺がこんなこと言ったりしたら、お前に重荷を背負わせちゃうことになるだろうけど」

「……でも……だって……だって! それでも嫌なんだもん! おにーちゃんが、いなくなっちゃうのはっ!」

飛鳥あすか……」



 霜月しもつきの言葉は、嬉しくもあり、悲しくもあったのだろう。少年の顔が、歪んだ。それを隠すように俯き、腕で涙を拭い取ると、再び顔を上げた。それは涙の跡が残ったひどい顔ではあったが、それでも少年は、今までと違って、微笑んでいた。 



「もしこれだけ言ってもお前が嫌だって言うならさ、サンタの一員のルドルフとして、何よりひとりの人間としても、お前を軽蔑するよ。自分の事ばっか考えて、被害者を蔑ろにして冒涜する、ただの最低な奴だ、ってな」

「……うっく……ひっく……」

「そんなお前なんか、大っ嫌いだよ。俺は」

「うっ……っつ、ううううううっ!」



 霜月しもつきの嗚咽が、激しさを増す。

 あからさまな演技。心にもない暴言。

それらをこの場で少年に強いているという、自分の呪わしいほどの愚かさ。

間接的にこの場に立ち会っている赤羽あかばねにも、霜月しもつきの止めどない後悔が、ひしひしと伝わってくる。



 誰を憎めばいいのかわからない。

自分を憎むしかない。自分以外に憎む相手がいない。

でも、自分を憎んだところで、もう何も変わらない。

少年が消えていなくなる事実は変わらない。

自分があのときに怪我を負わなければ。

躊躇せずに超邪眼ヴァ・ロールを使ってさえいれば。

何より、もっと風をうまく操ることができてさえいれば。

そうすれば、こんなことにはならなかったのに。

 でも、もう遅い。あれもこれも、すべて自分で蒔いた種だ。

 いつもなら自分の失敗を庇ってくれる人がいた。それが少年だった。

 でも、そんな少年に言われてしまった。大っ嫌いだ、と。

 決別の言葉は、それだけでもうたくさんだった。



 十分に悶え、苦しんだらしい霜月しもつきは、右腕で涙を拭いつつ、視界が少しだけ明瞭になった。ついに観念したらしい。

 途端、視界の左半分が欠けて狭まった。どうやら左目を閉じたらしい。残った右目が、世界の色彩に薄い青を加えて捉え始めた。そのままゆっくりと、少年との距離を縮めていく。

青の侵食が濃くなっていき、少年の目と鼻の距離にまで来たときには、世界は濃紺で満たされていた。

幸か不幸か、少年の姿は不明瞭だった。



「……さよなら。おにーちゃん」



 その言葉を最後に手向け、黒に近い濃紺の光が止め処なく溢れ漏れだした。

──その最中、



「ずっと傍にいられなくって、ごめんな」



 そんな声が聞こえた気がした。



 視界がブラックアウトしてから少しして、ゆっくりと世界に色が戻る。

そこには、眠るように目を閉じて床に横たわった、亡骸のような少年の姿があった。



「……っ……ひっく……うわあぁああああっ!」



 わかってはいたことだった。わかっていたはずなのに、自分の所業の結果を目の当たりにして崩れるように床にしゃがみ込み、少年の体に覆いかぶさった。明瞭になったばかりの視界が再び水分に侵される。



 そこで映像は完全に暗転し、赤羽あかばねの視界は、霜月しもつきの赤紫に染まった虹彩を宿す右目をとらえた。



赤羽が我に返ったと悟り、霜月しもつきは寂しそうに微笑んだ。



「……ね? 真実なんて知らないほうがよかったでしょ?」



 赤羽あかばねはしばらく閉口していたが、ゆっくりと、その重い口を開いた。



「昨日……話してくれたあれは何だったんだよ? お前、言ってたよな、俺はサンタから逃げ回る母さんに連れられて、それで事故に遭ったって。なあ、そうだろっ!」

「……もうわかってるでしょ? あれが真っ赤な嘘だった、ってこと」



 もちろん、言われるまでもなかった。



「……何で……あのとき、本当のことを……教えてくれなかったんだよ」

「教えられるわけないないもん、あんなこと。それもわかるよね?」



 そう言われてしまえば、赤羽あかばねに反論の余地はない。

 次第に、できることなら今にもこの世界から消えてしまいたいと思い始めていた。

過去の──サンタだった頃の自分がまさしくそうであったように。



「勘違いしてるようだから言っとくけど、これはサンタの問題であって、そしておにーさんはもうサンタじゃない。だから、は何にも関係ない。記憶を見せてすぐに言うことじゃないけど、忘れてしまったほうがいい。すぐにでもね」

「できるわけないだろ、そんなの。お前が何と言おうと、俺が……この手が、あいつの父さんを殺したんだぞ?」

「……違うよ。。そしてあなたはサンタでも何でもない。どこにでもいるようなただの一般人。でしょ?」

「お前……そんなんで納得すると思ってるのか。俺と、みやびが」



 霜月しもつきが『自分こそが殺した』と主張してきたその気持ちも分かる。あの記憶を垣間見た今、どれほどの後悔と自責の念を抱いて今日まで生きてきたのか、想像に難くない。すべてを知るからこそ、すべての責任を負おうとしていたのだろう。

ただ、だからといって、記憶がないとはいえ自分が犯した罪を他人に擦り付けることが赤羽あかばねにはできないし、常盤ときわに真実を隠蔽したままでいることも心苦しい。なにより、真相を打ち明けるのは、その何倍も、何十倍も心苦しい。



 ……どうしてあのときの俺は、みやびの父さんを殺してしまったんだ?

飛鳥あすかを救い出すにしたって、もっと他に何か方法があったんじゃないのか?

それなのに、あんな、短絡的なことを……。



 自己嫌悪の奈落に身を埋めていくなかで、いつからか霜月しもつきが沈黙のままでいることにふと気づいた。

見ると、寒さのせいでもないだろうが、視線が何かに釘付けになったまま固まってしまっている。その表情は、今までよりもさらに青い。

まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。



 赤羽あかばねがおもむろに後ろを振り向いて、そして赤羽あかばねは凍り付いた。

 西棟の屋上の、その先端に、深々と舞い散る雪に見舞われながらも、石像のように不動のままを貫いた、黒服の姿があったからだ。



「……どうしたの? 話、続けないの?」



 その声は、とても小さかった。

これが十分な距離があるせいなのか、声量のせいなのかは定かではない。



「続けないなら、私から質問してもいいかな? ……私の父さんを殺したのがりょうくんだって、それ……どういうことなのか、教えてくれる?」



 赤羽あかばねは声をださない。声がだせない。



「……ねえ、何とか言ってよ」



 赤羽あかばねは口を動かせない。

この期に及んで、どのように口を動かせばいいのかなど、知るはずもなかった。



 小休止を終えた常盤ときわは、去っていくふたりが空を飛ぶのを目撃していたので、まずは校舎の屋上にまで昇り、そこから辺りを見回してサンタを見つけようと考えた。

 そうして校舎の窓枠やら壁の段差やらを足場にして、仮初の強靭な脚力で校舎を外から駆けあがろうとしたところで、屋上の縁に霜月しもつきがいるのを発見した。



誰かと話している様子だが、仲間のサンタかもしれないし、連れ去った赤羽あかばねかもしれない。様子見しようとして少し手前で勢いを殺し、聞き耳を立てることにした。

 そうして常盤ときわは、聞いてはいけない話を耳にしてしまったのだった。



「……そう、わかった。じゃあ質問を変えるね。……りょうくんが、サンタの一員っていうのは、本当のことなの?」



 この質問は、単純に答えがたいものだった。

昔の赤羽あかばねはサンタだったが、今の赤羽あかばねはサンタではない。そのあたりの実情をどう解釈するかで返答も変わってくる。

 しかし今、そんな些末なことはどうでもよかった。もちろん、常盤ときわの質問の意図もそういう意味ではないということも、この場の誰しもが理解できている。だが──、



「ごめん……やっぱり今のは答えなくていいや。もうその左手を見れば、だいたいわかるし……」



 言われて左手に目をやって、赤羽あかばねは息が詰まった。

 さきほど霜月しもつきの体に絡まりついていた意図を断ち切った際に副産物として生み出されていた氷塊が、未だに左手を包み込んでいたのだ。それも、舞い散る雪を糧として、今や鉤爪と称してよいような禍々しい外観をさせて。



「……最後に、教えて。ずっと……ずっと、騙してたの? 私のこと」



 ゴーグルをしているせいで表情はわからないが、その声だけで、泣いていることがわかる。



「ずっと、ずっと……傍にいて、私のことをバカにしてたの? 瑠璃るりさんと一緒になって、ずっと……」



 違う、と断言できればどれほど幸せだっただろうか。

 俺は記憶を消されて何も知らなかったんだ、と弁明したかった。

でもそれは無理な話だ。今更そんな言い訳をしたところで、赤羽あかばねの両手が常盤ときわの父の血で赤く染まっていた事実は決して消えはしない。常盤ときわにとって、赤羽あかばねりょうという人物こそが復讐を果たすべき悪魔だということに変わりはない。

 事実が改変するなどという奇跡は、起こり得ない。



 様々な感情に押し潰されて、常盤ときわは、最終的に声にならない声で吠えた。

赤羽あかばねを震撼させるほどに、酷く醜く、果てしなく。



 この瞬間、赤羽あかばねは、大切だった人の心を、今一度、跡形もなく焼き殺したのだった。

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