第19話 愛別離苦
こういう展開になれているのか、少女は慣れた手つきで机上にあった『ホシ』をすぐに黙らせ、懐にしまう。
一拍遅れでバッという豪快な音を立てて襖が開いた。
室内にいた3人が当然のように顔を向けると、そこには
走って帰ってきたのだろう、息が絶え絶えで、額に薄っすらと汗が浮かんでいるのが確認できるのだが、なんというか……そういう類とは別の部分で、どこか様子がおかしい。
全体的に顔色が青く、そして大きく見開かれた両目が酷く血走っているのだ。
そんな状態で眼球をしきりに動かして、やがて初対面であろう少女を捉えて、ようやく視線の迷走は止まった。
そのまま、
「お、おい
そっと問いかけてみたが、反応がなかった。
焦点となっている少女も少女で
静止したような膠着がしばらく続いて、不意に
「変な、人にね……後を、つけられて」
「変な人? 変な人って?」
すかさず問いかけるが、また返事が返ってこない。
たまらず、
「ねえ、
「いや、聞こえなかったけど」
もしもそんな輩がいれば、
「なあ
「でも、いたの、本当に。私が嘘ついてる、って思ってる?」
心外だったのか、そこでようやく
急に向けられた異様な視線に、たまらず右の人差し指でこめかみを掻きながら視線を逸らし、「いや、別にそういうんじゃないんだけどさ」と言葉を濁すことしかできなかった。
「まあ、あたしにだって聞き取れないモンがあるからね。怪しい奴はいなかった、だなんて一概に断言することもできないわよ。ま、それこそ言い出したらきりがないけど」
危険が継続中であることを示唆するような物言いに、
もしかしたら、どうにかして自分の情報を手に入れ、ついにはこの柊までも特定されてしまったのかもしれない、と。
そして、たまたま柊に帰還するところだった
つまり、そこで恐らくは拳銃など物騒なものを目にしたに違いない。
「……どうしたんだ、あいつ」
「どうやらトイレに向かったみたいよ」
「トイレ?」
「そう。何があったのかはわからないけど、相当まいってるみたいね」
けれど少し遅れて、『嘔吐している』という回答にたどり着いた。
嘔吐している。それはつまり、それだけの何かが起こったに違いない。
もしかしたらそれは──その何者かに、何か乱暴をされたのかもしれない。
気付いたときには
──と、そこで顔をしかめる。さっきまで室内に充満していたあのオルゴールのメロディが、どうしてか息を吹き返したのを耳が聞き取ったからだ。
見れば、固く口を結んだ少女が、今までにないほどに強い眼差しを
***
声をかけるかどうか。一瞬迷った末に、恥を承知でドア越しに声をかけた。
「
「だい、じょう……ぶ」
「全然そんなふうに聞えないぞ。一体何があったんだよ」
「なんでも、ない、から。お願いだから、もう、あっちに、行ってて」
こんなときにまでかたくなであることに、どうにも歯がゆさを覚えてしまう。
大丈夫と言って自分を頼ってくれない虚しさ。
力になりたいのに、あっちに行っててとあしらわれる悲しさ。
自分にできることといえば、言われた通り、この場から去ることだけなのか。
もしも……もしもこれが
そんな雑念を振り払うために首を左右に振って、そして改めてドアを見つめて自問自答する。
ドアの向こうには
あっちに行けと言われた。でも、
一度断られている以上、ドアを開けば、お節介だとか気配りがないとか、後でたくさん罵られるかもしれない。けど、そんなのは痛くもかゆくもない。
……結局俺は、
それこそ、6年前のあのときだってそうだったように。
頭の雑念を整理して、「
そんな
許容したのか、はたまた単にその力すらないだけなのか。
それを見て、すぐにしゃがみ込み、深く考えることもなく、悶え苦しんでいる
声はかけない。この状態に声をかけたところで、うっとおしいだけだろう。
そこで、嘔吐の波がもう一度襲ってきたらしい。
──しばらくして収まり、脱力したのを感じ取って、また背中をゆっくりとさすった。
「……ごめん、ね」
「バカだな。謝ることなんてないだろ。いいから、そのまま楽になるまでじっとしてろって」
そんななか、騒ぎを聞きつけたらしい施設の子どもたち3人が、そろって──といっても
「「
「ああ、ちょうどいい所に来てくれたな。みんなにちょっとだけ手伝ってほしいことがあるんだ。そうだな……
事態があまり飲み込めていない3人は、躊躇いつつも
ほとんど移動を必要としない
おおむね綺麗に拭きとったところで、タオルを折り直し、そして今度は涙の痕に宛がった。
次に戻ってきた
「ほら、水だぞ。これで口をゆすげ」
飲ませる形で口にコップの縁を沿わせ、ゆっくりと水を含ませる。
「どうだ、少しは楽になったか?」
「うん、だいぶ楽になった。……ごめんね、本当に」
「だからさ、こういうときは『ありがとう』って言うんだってば」
それを聞いて「そうだね。ありがとう」と微笑む
「とにかく、体調がよくないならしばらく部屋で横になってろよ。布団とか、みんなに準備してもらってるところだから。ほら、行こうぜ」
「そうだね。うん、わかっ──あれ」
手を握り、立ち上がろうとしたところで、足がもつれたときのように
「お、おい、大丈夫か、本当に」
そのままふたりでトイレから出たところで、またしても
そうした思考が横やりを入れてきたせいで、
「ねえ」
「ん」
「おんぶ」
「え?」
「おんぶ。ダメ?」
だからこそ
たいして深い意味はないはずだ。
足腰に力が入らないから仕方なくそう言っているだけ。そうに違いない。
ただ、頼ってくれているだけ。それだけだ。
なのに──俺は何を考えているんだ?
本当、情けない。
心に、後ろめたさのようなものを滲んでいく。
それでもまだ、気持ちの躍動は完全には収まってくれない。
それを隠すために「わかったよ。ほら」とぶっきらぼうに言うと、未だに赤く染まっているであろう頬を見せまいとして背中を向け、そそくさとしゃがみ込んだ。
「ごめ──ううん、ありがとう」
優しく呟くと、
両肩から胸元にかけて垂れている
それ以外にも、左の耳に生暖かい吐息を感じたり、肩甲骨のあたりに
雑念に意識を持っていかれないようにと一度深呼吸をした。けれど、全身で最愛の存在を感じている以上、もはや心の完璧なコントロールなど到底不可能だった。
「ねえ、
「ん、なに?」
「胸、あたっちゃってるね」
「な──あのなぁ、こういうときにそういうこと言うのやめろって。こっちだって考えないようにしているんだから」
「ってことは、考えていた、ってことだよね?」
「……まあその、仕方ないだろ、こう見えても男なわけだし」
「フフ。本当、バカ正直だな、
その言葉のあと、
「お前、ひょっとして遊んでる? 俺で」
「バレた?」
「バレた? じゃないっての。でもまあ、悪ふざけができるくらいは気分も落ち着いてきたってことだよな」
「許してくれる?」
「許すも何もないだろ。そもそも最初から怒ってなんかいないって」
「フフ。よかった」
だんだんと理性を取り戻してきたところで、再び歩を進める。
少しして、耳元で「ありがとう」というかすかな声がした。
ただそれだけ。たったそれだけなのに、それが無性に嬉しくもあり、それ以上に切なさを覚えた。
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