第19話 愛別離苦

 瑠璃るりの警報からいくらも経たないうちに、慌ただしい乱暴な足音が、徐々にこの部屋へと迫ってきた。

 こういう展開になれているのか、少女は慣れた手つきで机上にあった『ホシ』をすぐに黙らせ、懐にしまう。



 一拍遅れでバッという豪快な音を立てて襖が開いた。

 室内にいた3人が当然のように顔を向けると、そこには常盤ときわの姿があった。

 走って帰ってきたのだろう、息が絶え絶えで、額に薄っすらと汗が浮かんでいるのが確認できるのだが、なんというか……そういう類とは別の部分で、どこか様子がおかしい。

 全体的に顔色が青く、そして大きく見開かれた両目が酷く血走っているのだ。



 そんな状態で眼球をしきりに動かして、やがて初対面であろう少女を捉えて、ようやく視線の迷走は止まった。

 そのまま、常盤ときわの落ち着かない息遣いだけが部屋を動き回っていた。



「お、おいみやび、どうしたんだよ?」



 そっと問いかけてみたが、反応がなかった。

 焦点となっている少女も少女で常盤ときわを見入り、その状態で固まってしまっている。

 静止したような膠着がしばらく続いて、不意に常盤ときわが、少女を見据えたまま、覚束ない口調で打ち明けた。



「変な、人にね……後を、つけられて」

「変な人? 変な人って?」



 すかさず問いかけるが、また返事が返ってこない。

 たまらず、赤羽あかばねは質問の矛先を瑠璃るりに変えた。



「ねえ、みやびが帰ってくる最中に、何か変な足音とか声とか聞こえたりした?」

「いや、聞こえなかったけど」



 もしもそんな輩がいれば、瑠璃るり超聴覚ドッグ・イヤーならば容易に聞き取れるはずだが、その瑠璃るりが何も聞いてないというのは、……一体どういうことだろうか?



「なあみやび、本当にいたのか、そんな奴。お前の気のせいなんじゃないのか。瑠璃るりさんが聞こえないって言ってるくらいだし」

「でも、いたの、本当に。私が嘘ついてる、って思ってる?」



 心外だったのか、そこでようやく常盤ときわの視線が少女から逸れる。

 急に向けられた異様な視線に、たまらず右の人差し指でこめかみを掻きながら視線を逸らし、「いや、別にそういうんじゃないんだけどさ」と言葉を濁すことしかできなかった。



「まあ、あたしにだって聞き取れないモンがあるからね。怪しい奴はいなかった、だなんて一概に断言することもできないわよ。ま、それこそ言い出したらきりがないけど」



 危険が継続中であることを示唆するような物言いに、常盤ときわの鋭いまなざしが今度は瑠璃るりに向けられる。



 常盤ときわの口にする『変な人』の存在が、沸々と現実味を帯びてくる。

 赤羽あかばねはある可能性に行き着いた。もしかしたら、その『変な人』というのは、例の高峰たかみねのぞむの配下であったあの黒服の連中かもしれない、と。

 もしかしたら、どうにかして自分の情報を手に入れ、ついにはこの柊までも特定されてしまったのかもしれない、と。

 そして、たまたま柊に帰還するところだったみやびが後をつけられたのかもしれない、と。

 つまり、そこで恐らくは拳銃など物騒なものを目にしたに違いない。赤羽あかばねもそれと同じ恐怖をつい2日前に味わったばかりだ、そう考えればこの異常な様子も合点がいく。



 赤羽あかばねは、自分の考察を言葉にしてみんなと情報共有しようとしたその直前、常盤ときわが「うっ」と声を漏らし、口を右手で抑えるとそのまま、大急ぎでこの場を後にしていったのだ。



「……どうしたんだ、あいつ」

「どうやらトイレに向かったみたいよ」

「トイレ?」

「そう。何があったのかはわからないけど、相当まいってるみたいね」



 赤羽あかばねは最初、瑠璃るりが何を言っているのかわからなかった。

 けれど少し遅れて、『嘔吐している』という回答にたどり着いた。

 嘔吐している。それはつまり、それだけの何かが起こったに違いない。

 もしかしたらそれは──その何者かに、何か乱暴をされたのかもしれない。



 気付いたときには赤羽あかばねは、立ち上がって開かれたままの襖から廊下に出て、トイレを目がけて駆け出していた。



 瑠璃るりはそれをあえて止めようとはせず、茶を少しだけ口に含むと、赤羽あかばねの去った襖あたりをおぼろげに見つめていた。

 ──と、そこで顔をしかめる。さっきまで室内に充満していたあのオルゴールのメロディが、どうしてか息を吹き返したのを耳が聞き取ったからだ。



 見れば、固く口を結んだ少女が、今までにないほどに強い眼差しを瑠璃るりに向けていた。



 ***



 赤羽あかばねがトイレの前にまで来ると、中途半端に閉ざされつつあったドアの隙間から、悲痛の色をまとった声が漏れ聞こえてきた。

 声をかけるかどうか。一瞬迷った末に、恥を承知でドア越しに声をかけた。



みやび、大丈夫か」

「だい、じょう……ぶ」

「全然そんなふうに聞えないぞ。一体何があったんだよ」

「なんでも、ない、から。お願いだから、もう、あっちに、行ってて」



 こんなときにまでかたくなであることに、どうにも歯がゆさを覚えてしまう。



 大丈夫と言って自分を頼ってくれない虚しさ。

 力になりたいのに、あっちに行っててとあしらわれる悲しさ。

 自分にできることといえば、言われた通り、この場から去ることだけなのか。

 もしも……もしもこれが葛城かつらぎならば、この返答はまた違っていたのだろうか。今考える事ではないのに、どうしても頭をよぎってしまうその可能性。いつの間にか、右手が握りこぶしを作っていた。



 そんな雑念を振り払うために首を左右に振って、そして改めてドアを見つめて自問自答する。



 ドアの向こうにはみやびがいる。

 あっちに行けと言われた。でも、みやびはひとりで苦しんでいる。

 一度断られている以上、ドアを開けば、お節介だとか気配りがないとか、後でたくさん罵られるかもしれない。けど、そんなのは痛くもかゆくもない。

 ……結局俺は、みやびからどう思われていようと、そんなことは関係なしに、いつだってみやびを見過ごすことなんかできないんだ。何故だかわからないけど、放っておけないんだ。

 それこそ、6年前のあのときだってそうだったように。

 


 頭の雑念を整理して、「みやび、入るぞ」と断りだけ入れて、ドアをゆっくりと開いた。

 そんな赤羽あかばねを、常盤ときわは咎めはしなかった。

 許容したのか、はたまた単にその力すらないだけなのか。赤羽あかばねに背中を向けたまま、嗚咽交じりに便器に顔をうずめている。

 それを見て、すぐにしゃがみ込み、深く考えることもなく、悶え苦しんでいる常盤ときわの背中をさする。触れた瞬間、常盤ときわの全身が微かに震えたような気がした。



 声はかけない。この状態に声をかけたところで、うっとおしいだけだろう。

 そこで、嘔吐の波がもう一度襲ってきたらしい。常盤ときわの体が力んだのを感じ取り、さするのを止める。

 ──しばらくして収まり、脱力したのを感じ取って、また背中をゆっくりとさすった。



「……ごめん、ね」



 常盤ときわは、苦痛を孕んだ声で、顔を向けずにそう言った。



「バカだな。謝ることなんてないだろ。いいから、そのまま楽になるまでじっとしてろって」



 赤羽あかばねは、できるだけ優しく囁き、背中をさすり続けた。

 


 そんななか、騒ぎを聞きつけたらしい施設の子どもたち3人が、そろって──といってもつむぎだけ少し遅れていたが──トイレの前に現れる。



「「りょうお兄ちゃん、どうしたの?」」

「ああ、ちょうどいい所に来てくれたな。みんなにちょっとだけ手伝ってほしいことがあるんだ。そうだな……つむぎはそこにしまってあるタオルを取ってくれ。叶多かなたはコップに水を入れて持ってきてくれ。春香はるかみやびの部屋に行って、布団を敷いといてくれないか」 



 事態があまり飲み込めていない3人は、躊躇いつつも赤羽あかばねの表情を見て緊急事態だと察したらしく、すぐその場から駆け足で去っていった。



 ほとんど移動を必要としないつむぎは、すぐそばの洗面台の隣にある棚から持ち出したタオルを「おにいちゃん、これ」と手渡す。赤羽あかばねは半身を翻して「ありがとうな、つむぎ」と左手で受け取ると、それで常盤ときわの口周りを丁寧に拭き取った。



 おおむね綺麗に拭きとったところで、タオルを折り直し、そして今度は涙の痕に宛がった。



 次に戻ってきた叶多かなたから水が並々と入ったコップを受け取ると、「ありがとう、後は俺がやるから、ふたりは春香を手伝いに行ってくれ」と言ってふたりをこの場から退けさせた。



「ほら、水だぞ。これで口をゆすげ」



 飲ませる形で口にコップの縁を沿わせ、ゆっくりと水を含ませる。常盤ときわはある程度まで含んでからそれを便器に吐き出した。そして、少し余った水分をタオルのまだ綺麗な部分に湿らせて、常盤ときわの顔全体を改めて、優しく拭う。



 常盤ときわは、まだ顔が若干青白いままではあるものの、ずいぶんとさっぱりした表情になっていた。



「どうだ、少しは楽になったか?」

「うん、だいぶ楽になった。……ごめんね、本当に」

「だからさ、こういうときは『ありがとう』って言うんだってば」



 それを聞いて「そうだね。ありがとう」と微笑む常盤ときわだったが、やはりその表情には活力が感じられない。



「とにかく、体調がよくないならしばらく部屋で横になってろよ。布団とか、みんなに準備してもらってるところだから。ほら、行こうぜ」



 赤羽あかばねは先に立ち上がり、常盤ときわに手を差しだした。



「そうだね。うん、わかっ──あれ」



 手を握り、立ち上がろうとしたところで、足がもつれたときのように常盤ときわがふらついた。手を握っていたおかげで、前かがみに倒れそうになるところをどうにか支え受け止めることができた。



「お、おい、大丈夫か、本当に」



 赤羽あかばねに体重を預ける形になっている常盤ときわは、赤羽あかばねの肩を借りて、ふらつきながらもなんとか体勢を立て直す。

 そのままふたりでトイレから出たところで、またしても常盤ときわがよろめいた。陸上部で足腰を鍛えていたはずの常盤ときわのこんな様子を目の当たりにして、どうにも意外感を禁じ得なかった。



 そうした思考が横やりを入れてきたせいで、常盤ときわにじっと見つめられていたことに遅れて気づく。

 常盤ときわは、赤羽あかばねが気づいたことを理解してから、そっと口を開いた。



「ねえ」

「ん」

「おんぶ」

「え?」

「おんぶ。ダメ?」



 常盤ときわはいつになく、甘え媚びるような声で、潤みかかった瞳で、そう訴えかけてきた。

 だからこそ赤羽あかばねが、こんなときにもかかわらず胸をときめかせてしまったとしても、無理もない。



 たいして深い意味はないはずだ。

 足腰に力が入らないから仕方なくそう言っているだけ。そうに違いない。

 ただ、頼ってくれているだけ。それだけだ。

 なのに──俺は何を考えているんだ? 

 本当、情けない。



 心に、後ろめたさのようなものを滲んでいく。

 それでもまだ、気持ちの躍動は完全には収まってくれない。

 それを隠すために「わかったよ。ほら」とぶっきらぼうに言うと、未だに赤く染まっているであろう頬を見せまいとして背中を向け、そそくさとしゃがみ込んだ。



「ごめ──ううん、ありがとう」



 優しく呟くと、常盤ときわはゆっくりと赤羽あかばねに身をゆだねた。



 両肩から胸元にかけて垂れている常盤ときわの腕に、まるで強く、しっかりと抱擁されているかのような不思議な感覚に襲われる。今はそんな力があるはずもないのに。

 それ以外にも、左の耳に生暖かい吐息を感じたり、肩甲骨のあたりに常盤ときわの胸の弾力を感じもした。

 雑念に意識を持っていかれないようにと一度深呼吸をした。けれど、全身で最愛の存在を感じている以上、もはや心の完璧なコントロールなど到底不可能だった。



「ねえ、りょうくん」

「ん、なに?」

「胸、あたっちゃってるね」

「な──あのなぁ、こういうときにそういうこと言うのやめろって。こっちだって考えないようにしているんだから」

「ってことは、考えていた、ってことだよね?」

「……まあその、仕方ないだろ、こう見えても男なわけだし」

「フフ。本当、バカ正直だな、りょうくんは」



 その言葉のあと、常盤ときわはよりいっそう身を寄せるように、さらに強くしがみ付いてきた。

 赤羽あかばねはしばらくのあいだ、冷えた氷を素肌に宛がわれたときのように前進が力み、息が詰まった。歩みも止まってしまう。



「お前、ひょっとして遊んでる? 俺で」

「バレた?」

「バレた? じゃないっての。でもまあ、悪ふざけができるくらいは気分も落ち着いてきたってことだよな」

「許してくれる?」

「許すも何もないだろ。そもそも最初から怒ってなんかいないって」

「フフ。よかった」



 だんだんと理性を取り戻してきたところで、再び歩を進める。

 少しして、耳元で「ありがとう」というかすかな声がした。

 ただそれだけ。たったそれだけなのに、それが無性に嬉しくもあり、それ以上に切なさを覚えた。

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