第05話 十字の絆

 柊にやってきた当初の常盤ときわは、言ってしまえば今とは真逆の少女だった。

 柊に姿をみせたときから一貫していて、基本的に笑うことはなく、無表情で、しかも無口。ただし瑠璃るりに話しかけられたときだけは例外のようで、聞かれたことについては一応業務的にしゃべる。

 ただそれだけだった。



 そんな常盤ときわが普段何をして過ごしていたのかというと──柊には、裏庭にあたる場所から斜面を下にくだっていくと山々の間隙を縫うようにして蛇のようにうねる渓流が通っているのだが、誰にも告げずに、なにかとそこにひとりで向かうようになっていた。



 単純にひとりになりたかっただけなのか。

 それとも、赤羽あかばね瑠璃るりと必要以上に関わりたくはなかったのか。

 そのあたりの事情は、打ち解けた今も正確なところは明らかにはなってはいない。

 いずれにせよ、渓流に連なる大きな石のひとつに膝を曲げて座って、ただただ川の流れを黙々と眺めているということに一日の大半を費やし、それを繰り日も来る日も続けていた。それが常盤ときわという少女のすべてだった。



 そんな様子を見ていた赤羽あかばねが、最初こそ恐怖にも近い感情を抱いていたものの、それが同情や共感へと変わり、やがて心配するようになっても不思議なことではない。



 たとえ赤羽あかばねが記憶喪失であっても、ひとつだけわかることがあった。

 それは──誰かが傍にいるというのは、別に何かをされなくても、それだけで心の支えとなる、ということだ。

 赤羽あかばね自身、身をもってそれを知っている。むしろ、それを一番よく知っている。



 みんながいてくれたから、寂しさを感じないで済む。

 みんながいてくれたから、今も自分は笑っていられる。

 だから、今度は自分が誰かの傍にいる番だ。

 そうすれば、何かのはずみで会話ができるかもしれない。

あの子も、心を開いてくれるかもしれない。

 


 そんな想いのもとに、赤羽あかばねはなるべく常盤ときわの傍にいるようにした。

 もちろん、自分の後に初めて柊に属すことになった子への配慮という意味合いもある。

 それとは別に、常盤ときわが一日中そうしていることで、どんな気持ちになるのか、何を考えているのか、何を想っているのか、単純にそれを知りたいなという興味も少なからずあった。

 だから常盤ときわのマネをして、一緒に(と当時の赤羽あかばねは思っていた)渓流を眺めるようになった。



 けれど、このときの赤羽あかばねはひとつだけ失念していたのだ。

 なまじ自分が辛い体験を覚えていないがために、そういった意味での配慮が一切できないということを。



 北風と太陽の話のようなもので、どんなにが積極的に働きかけてみたところで、そもそも相手の気持ちを理解してやらねば、傷心しきった常盤ときわの心を十分には汲み取ってやらなければ、むしろ逆効果である。

 結果はいうまでもなく、赤羽あかばねの思慮のない善意は当然のように空回りを続け、常盤ときわは一向に心を開いてくれはしなかった。



 けれど赤羽あかばねにはその理由がわからない。

そしてまた、どんなに川を眺め続けたところで、やはり常盤ときわの気持ちを理解するには至らなかった。

 それでも、他にどうすることもできないので、とりあえずは常盤ときわの傍にいようとする。

悪循環である。

 しばらくのあいだ、そんな無意味な毎日が続いた。


 

 結局、自分たちのあいだには見えない壁のような何かが存在していて、どんなにがんばって働きかけても、マネをしてみても、心の距離はいつになっても縮まることがないのかもしれない。理解し合えないのかもしれない。

 だったらもう、こんなこと、しなくてもいいのかもしれない。

 どんなに尽力しても好転しない事態に、赤羽あかばねはやむなくそう結論づけようとして──しかし、ふたりを結びつけるきっかけとなった出来事は唐突にやってきた。

 


 それは、とても雨脚の強い日が3日と続いた、その最後の日のことだった。

 渓流は連日の雨で水かさが増し、まるで猛獣の唸り声のような音が柊の屋内にまでも届いているほどだった。ともすれば、外出などできないのは火を見るより明らかだし、ましてその渓流に近づくなど論外である。

 けれど常盤ときわは、何故かその日も柊を抜けだしてそこに向かっていた。



 初日と2日目は瑠璃るりがいて、むやみやたらに外出することは叶わないと常盤ときわも理解していたようで自粛していたが、そのときは運悪く、瑠璃るりが食材の買い出しに行っていた。連日の悪天候で買い出しを控えていたがゆえに食材が底をつき、どうにも調達しに行かざるをえなくなったのである。

 常盤ときわは、その瞬間を狙った。

 


 常盤ときわの姿が見当たらないことからそうと気づき、傘を片手に慎重に足を運んでみて、赤羽あかばねは我が目を疑った。

 常盤ときわは傘すらささず、豪雨に打たれながら、いつものように平然と石の上に座っていた。理解が追いつかず、いよいよ同情や共感といった感情が元の恐怖へと寝返ってしまう。



 どうして今日もそんなことをしているのか。

 こんな日にそれをすることに、いったい何の意味があるのか。

 わからない。ただ純粋にわからない。常盤ときわの考えていることのすべてが。



 ただ、だからといってこのままひとりで引き返すことも間違っている。

 このままだとあの子は、いずれは川に飲みこまれてしまうかもしれない。そうでなくても風邪は引くだろう。それとわかっていて見過ごすことはできない。見過ごすくらいなら最初からここには来ていないはずだ。



 だから、赤羽あかばね常盤ときわのもとに駆け付け、普段とは違って力いっぱい説得した。

 こんな日にここにいちゃ危ないよ、と叫んだ。

 早く柊に戻ろう、と常盤ときわの手を引いた。

 だが、その手を拒むように常盤ときわが暴れた。

 そのはずみで赤羽あかばねは濡れた大石に足を滑らせ、そのまま激流に飲みこまれてしまったのだ。



 飲まれるまいと必死に抵抗した。しかし、10歳の、それも貧弱な体質であるその体が大自然の驚異に勝るはずもない。流されていくうちにあっという間に体力は消耗し、気付けば息継ぎすることすら叶わない状況にまで陥っていた。



 だからこそ、刺々しい断面をした大木が目前に迫っていたことなど気付けるはずもなかった。

 そうと気付いたときには、もう手遅れだった。



 そこから自分の身に何が起きたのか、赤羽あかばねにはその記憶がない。

 再び意識を取り戻したときには、自分のいる場所が渓流から病室に移り変わっていた。

 そして鏡を見て、驚愕した。

 テレビアニメで見たミイラのように顔中に包帯が巻かれていたからだ。それ以外にも腕や脚、腹回りなどに打撲や擦り傷のあとがちらほらあった。



 自分の意志で体を動かそうにもうまく反応してくれないし、そのくせ激痛が噛みつくように襲ってくる。顔の中心あたりも熱を持ったように妙にうずいるような感覚があった。



 瑠璃るりに病室に来るまでの経緯を伝聞される。

なんでも、帰宅途中だった瑠璃るりが持ち前の超聴覚ドッグ・イヤーで事態を聞きつけ、そのまま駆けつけて赤羽あかばねを川から何とかして救出したとのことだった。



 あの流れのなかを、いったいどうやって助けだしてくれたのか。少々疑問に感じた赤羽あかばねだったが、そんなことを忘れてしまうくらいの追加情報がふたつ、瑠璃るりから与えられた。



 ひとつは、元々あった顔の傷とは別に、それよりも遥かに大きな傷が新しくできたということ。顔のうずきはそれが原因らしい。

 もうひとつは、今回の件で、両親の形見である指輪が紛失したということである。言われて、いつも胸にあったそれがないことに気づいた。 



 なんでこんなことになったんだろう。

自分は、ただあの子を連れて帰ろうとしただけなのに。

 なんでこんな酷い怪我をしなくちゃいけないんだろう。

 なんで、父さんと母さんの形見の指輪を失くさなくちゃいけないんだろう。

 あのとき、あの子さえ暴れなければ……。

 あれもこれも……みんな、あの子のせいだ。



 赤羽あかばねは、常盤ときわこそがすべての元凶だとして、純粋に憎んだ。

 次に常盤ときわの顔を見たとき、どんな言葉を使って詰責しようか、どうすれば自分のこの辛さをわかってくれるか、それだけを考える日々が続いた。



 そして、柊のみんなが学園の寮から病院へとお見舞いに来た──もっとも、柊のみんなは、赤羽あかばねが緊急搬送されたときに瑠璃るりの呼びかけで駆けつけていたが、気絶していた赤羽あかばねがそれを知るはずもなかった──わけだが、そこには、当事者であるはずの常盤ときわの姿だけがなかった。



 どうして肝心のあの子がいないのか。

 当然の疑問ではあったが、けれどなんとなくそれをみんなに問いただす気にもなれず、その日は悶々としてうまく寝付けなかった。


 

 そのまま、常盤ときわが姿を見せないまま、毎日が過ぎていく。

 それに比例して、段々と赤羽あかばねの疑問と不満、そして憤怒が膨れあがっていく。



 もしかして……あの子は、自分が悪いと思ってないんじゃないか。

 人をこんな目にあわせて謝りにも来ないなんて、どう考えてもおかしい。

 謝りに来たって許すかどうかはわからないけど、でも……それが、人としての『れいぎ』ってものなんじゃないのか。

 ひょっとして、今も平気であの石の上にいたりして。

 本当、なんて酷い子なんだ。

 


 他にできることもなかったので、黒い感情にエサをやることだけに邁進する毎日。

そうして赤羽あかばねが事故に遭って6日目の夜のことである。

 なんの前触れもなく、病室に瑠璃るりがやってきた。

 


「ちょっとお前に話があって来たんだ。突然だけどさ、みやびのこと、どう思う?」



 まるで自分の心を見透かされているかのような直球の質問にいささか驚いたものの、素直に「嫌い」と答える。

 すでにこのとき、依然として姿を見せないでいる常盤ときわに対しての熟成されてきた赤羽あかばねの感情は、最終的に憎悪というかたちとなって帰結していた。


 

「ふーん。で、なんで嫌いなの」

「なんで? なんでって、あの子のせいでこんな怪我をしたんだよ? それに、お父さんとお母さんの指輪も失くしちゃったわけだし。それなのに謝りにも来ないじゃん。だからあんな子、僕、大っ嫌いだよ」



 溢れんばかりの吐露に、瑠璃るりは涼しい顔をして、なんとも不思議なことを言ってのけた。



「その指輪なんだけど、ここにあるんだよなぁ。ほら」


 

 差しだされた手のひらにあったのは、間違いなくあの指輪だった。もちろんふたつともそろっている。

 これまたいったいどうやったのかはわからなかったが、どうにかして見つけだしたのだろう。赤羽あかばねは素直に感謝を述べ、そのまま受け取ろうと手を差しだす。

 だが、瑠璃るりは微動だにしなかった。



「悪いけど、今これを返すわけにはいかないのよね」

「え? 返すわけにはいかない、って……それってどういうことなの?」

「試してるんだ。色々とね」

「試してる?」

「ねえりょう。お前が入院してから、みやびがここに来たことはある?」

「あるわけないじゃん。そんなことは瑠璃るりさんだって知ってるはずでしょ。そもそも、なんであの子は来ないの?」

「なに、来てほしいの? さっきは大っ嫌いとか言ってたくせに」

「べ、別にそういうわけじゃ……」

「ごめんごめん。今のは意地悪だったね。お前が言いたいことはわかってるから。じゃあちゃんと、真面目に教えてあげる。みやびがここに来ないのはね、毎日、朝から晩まで、なのよ」



 さっきから瑠璃るりが何を言っているのか、そもそも何の話をしているのか、さっぱりわからずにいた赤羽あかばねだが、なかでも今の一言は格別に意味がわからなかった。



「えっと……ん? 探しているって、なんで? 指輪はここにあるんだし、もう探す必要なんてないでしょ?」

「そうだね。たしかに指輪はここにある」

「だよね? それじゃあ……」

みやびは知らないんだよ。あたしが指輪を見つけていることを。だから、一生懸命この指輪を探してるところなんだ」

「それってつまり、わざと教えないでいる、ってこと?」

「そゆこと♪」

「どうしてそんな酷いことするの?」



 どこまでも意味がわからない瑠璃るりの行為に、赤羽あかばねは素直にそう問いかけた。

 すると、不思議と瑠璃るりは微笑みを零したのだった。

優しくて、温もりに満ちたような微笑みを。



「あーよかった。そう言ってくれて。あたしも安心したよ」

「……もう。さっきから瑠璃るりさんが言ってること、僕には全然わからないんだけど。安心って何のこと?」

「安心? 安心っていうのは、心が安らぐってことだけど」

「そういうことじゃないってば。もう、真面目に答えてよ」

「ハイハイ。安心したっていうのは、お前が嘘をついてたってことがわかったからよ」

「嘘?」

「そう。さっきお前は言ったじゃん。みやびのことが嫌いだって。あれ、嘘でしょ」

「嘘なんかじゃないよ」

「嘘だよ。じゃなかったら、あたしが指輪を見つけたのをみやびに黙っていることに、いい気味だとかって言うはずじゃん。それが今、お前はなんて言った?」



 バラバラに撒き散らされた言葉がパズルのように組み合わさったとき、口から声にならない声が漏れた。



「普通、嫌いな相手に『酷い』だなんて言葉は使わないよ、ってことは──」

「そ、それはたまたまだよ。ついはずみで出た言葉っていうか」

「たまたま? ふーん。まあ、そういうことにしておこうか」

「そ、そんなことよりも、どうして指輪を見つけたことを黙ってるの?」

「だから、さっきも言ったじゃん。試してるんだ、って」

「だから、何を?」

みやびが、自分のしたことをどれだけ重く受け止めているかを、ね」



 そこで、終始おどけ気味だった瑠璃るりが大人の表情を見せる。



「そもそもさ、溺れたお前を救い出したのはあたしだっていうふうに説明したけど、あれ、本当はあたしじゃないんだよね」

「じゃあ、もしかして……あの子が? どうやって?」

「それはわかんない。きっとその辺にあった木の棒とかうまく使ったんじゃないの? あたしが駆けつけたときにはもうお前は川から救い出されていたし。まあとにかく、あとちょっとでも遠くに流されてたしたらそのぶん救出も遅れただろうし、体中にもっと傷を負ってたに違いないわ。もしかしたら本当に死んでいたかも。でも──お前はこうして生きている。だからさ、これだけは忘れないで。たしかにみやびのせいでお前は散々な目にあったかもしれない。痛い思いをしたかもしれない。けどね、今こうして生きていられるのもまた、みやびのおかげなんだってことを」



 話し始めてから一番の、瑠璃るりが真剣な眼差しだった。



「でもみやびはね、お前の命を救ったのにもかかわらず、自分には謝るどころか、会いに行く資格すらないと思ってる。だからせめて指輪を見つければ少しくらいは許してくれると思って、それで毎日頑張ってるってワケよ。だからここに来ない。逆に言えば、ここに来るときは、指輪が見つかったときってことね」

「でも、いくら探したって──」

「そう。ここにあるから見つかるはずがない。ちなみに、あたしがこれをみつけたのはお前が怪我をしたその日のことね」

「ってことは……」



 これまでの6日間、あの無口で無表情な子が、自分に謝るただそのためだけに、ずっと独りでがんばっていたということだ。

 つまりは、それだけ今回のことを真摯に受け止めて後悔しているということだ。

 もしもそれが本当なら──それに比べて、自分はいったい何をしてきたのだろう。

 自分本位に恨んで、一方的に憎んで。

 そうすることがまさに被害者の特権でもあるかのように、憑りつかれたように負の感情を育んでいただけだ。

 いっそのこと、指輪探しを諦めてくれていれば。仲良くなるのは無理だと諦めつつあった自分のように。

 どうにもおさまりが悪いせいで、謝りに来ないことにあれだけ憤慨していたくせに、ついついそんな利己が生まれてしまう。



「なんであの子は諦めようとしないの?」

「それはアレよ。自分で考えてみなさいって」

「そんなこと言われたってわかんないよ」

「仕方ないなぁ。じゃあちょっとだけ教えてあげる。そもそも今のみやびはね、指輪を諦められないんじゃない。罪を償うことに諦められないんだよ。自分のしたことを本当に、心から後悔しているから。そういう人間っていうのは、辛いから、苦しいから、なんとかして許してもらいから、だから、許してもらえるなら何でもするんだよ。たとえ他人から見たら信じられないようなことでもね」

「そんな……でも、どうして? もしも僕が同じ立場なら、絶対に無理だよ」

「だから、それを自分で考えてみなさいって言ってんの。いいわね?」



 瑠璃るりはもうこれ以上は教える気がなさそうだったので、言われた通り、自分の頭で考えてみる。



 どうしてあの子は諦めようとしないのか。その理由は瑠璃るりが言ったように、許されたいからだろう。

 では、どうしてそこまでして許されたいのか。それは──そこにも何かしらの理由があるに違いない。

 たとえば元々がすごく仲良しとかだったなら、すぐに納得できる。仲良しの相手に対して悪いと思っているから、だからどうしても許してもらいたい。仲良しならそう思うものだろう。

 でも、赤羽あかばね常盤ときわは大目に見てもそんな関係ではない。一瞬、自分が記憶を失う前の友達か? という線も考えてみたが、常盤ときわの様子からしてそれもないだろう。

 ……本当、どうしてなんだろう。  



 黙々と考えているところに、「明日で一週間ね」と瑠璃るりの語りが飛び込んでくる。



「え?」

「だから、明日でちょうど一週間じゃん。お前が怪我して」

「まあ、そうだけど」

「どうする? まだ続けさせる? みやびに」



 それは、簡素ながらあまりにも強烈な一言だった。全身がほてり、今までの思考がすべて吹き飛んでしまう。



 そんなふうに言われてしまうと、あたかも自分が瑠璃るりにお願いして、そうさせているように聞こえた。

 これは常盤ときわへの懲罰であり、その決定権を握っているのがあたかも自分であるかのようにも聞こえた。

 逆に、まだ気は済まないか? と自分が瑠璃るりに糾弾されているかのような気にもなった。自分は被害者のはずなのに。なぜかその自分こそが加害者であるかのように。

 いつの間にか赤羽あかばねは、自分にも罪悪感という槍が胸に刺さっていることに気づいた。


 

「もしもみやびが明日も懲りずに探し続けてたら、みやびにこれを渡して、ここに来させる、っていうのはどう? お前さえよければそうしたいんだけど」



 二の句が挙げられないでいたところに、追撃される。 

 もはや、提案を拒む気は起こらなかった。

 なぜなら、ここでその提案を拒むほど強烈に、赤羽あかばねはもうすでに常盤ときわを恨んでもいないし憎んでもいなかったからだ。

 指輪は見つかった。怪我だって、傷跡は残るだろうがいずれは回復する。そして、どうやら常盤ときわは謝ろうと思っているようだし、そのために必死にもなっている。それでも許さないのは──逆に、許されることなのだろうか。

 


「いいけど、でも、もしも明日あの子が探すのをやめてたら? そうしたらどうするの?」

「うーん、それはないと思うけど、そうしたらあたしが返しに来るかな」



 いずれにせよ、明日になれば指輪が返ってくるということだ。

 だが、肝心なのはそこではない。それを持ってくるのが誰か、ということである。

 もしかしたら、あの子がやってくる。謝りにくる。そう考えるだけで、今までそれを待っていたくせに、どうしてか緊張が込み上げてきた。



 そうして瑠璃るりが帰ってから、赤羽あかばねは夜遅くまで、未だ答えが見いだせていなかった『どうして常盤ときわがそこまでして指輪を見つけようとしているのか』について、夜遅くまで思考を巡らせ続けたのだった。


 

 そうして向かえた次の日の夜のことだ。

 病室を訪ねてきたのは、瑠璃るり──に付き添われた、常盤ときわだった。



 話に聞いた通り、毎日川を探していたのだろう。その証拠に、指輪を大事そうに持ったその両手があかぎれだらけだった。風邪も引いているらしい。しきりに鼻をすすっている。

 そういった体調不良とは別に、視線が泳いでいた。どこか脅えているように見えなくもない。

 今や冷徹さのかけらもない。あるのは、ただただ弱弱しさだけだ。



 常盤ときわは一向に口を開けずにいた。見かねた瑠璃るりが背中を押すが、言葉は紡がれないまま。

 それを見て赤羽あかばねは、昨夜のうちに整理し、そしてたどり着いた自分の気持ちが今も変わらないでいることをしっかりと自覚したのち、そっと口を開いた。



「ありがとう、みやびちゃん」



 その言葉に、常盤ときわは戸惑いを見せた。



「なん、で? どうして、ありがとう、なの?」



 今まで一度も交わることのなかった互いの視線が、ここで初めて重なる。

 


瑠璃るりさんに聞いたんだよ。みやびちゃんが助けてくれたんでしょ、僕のこと。だから、ありがとうなんだって。もしみやびちゃんがいなかったら、僕は本当に死んでいたかもしれないみたいだし」

「でも……だって、そもそも私が、つ、突き飛ばしたりなんかしたから! だからこんなことになっちゃったんだよ! 私があんなこと……しなければ……」

「違うって。たしかに押されはしたけどさ、あそこで足を滑らせたのは僕なわけだし。僕が流されちゃったのだって、あのとき川の水が多かったせいでしょ? 全部たまたまだったんだって、たまたま。だからみやびちゃんは悪くない。だからさ……だから、そんなふうに泣かないでよ」

「でも……だって……」

「じゃあこうしようよ。今から握手しよう。それで仲直りってことでどう?」

「なか、なおり?」

「そう。僕はさ、みやびちゃんと仲直り──ってうか、もっと仲良くなりたいんだ。だって僕たち、同じ柊の仲間でしょ? ダメかな?」



 照れながら差しだした手は、握り返されることはなかった。

 すでに涙を浮かべていた常盤ときわが、そのまましゃがみこみ、泣き崩れたからだ。



 昨夜、赤羽あかばねは考えた。

 そもそも、どうして自分は突き飛ばされたのか。

 それは、やはり目障りだったからに違いない。ひとりになりたかったに違いない。

 では、どうしてひとりになりたかったのか。

 ひとりになりたいというその気持ちは、赤羽あかばねにはまったく理解できないものだ。ときには嫌なことをされたり怒ったりもするけど、それでも柊のみんなと離れてひとりになりたいなんて思ったことは一度もなかったから。 

 だからこそ、その逆の気持ちが、ひとりになりたいということなのだ、と気づけた。



 もしも柊のみんなが今とは違って、全く優しくなかったとしたら?

 それでも自分は笑っていられただろうか。今のように振舞っていただろうか。

 そんなことはないだろう。縮こまって、極力みんなと関わろうとしなかっただろう。

 それこそ、あの子のように。

 つまりあの子は、柊に来るまで、そういうところにいたんだ。

 誰も自分に優しくしてくれない。だから、誰とも関わりたくない。そう思っているんだ。瑠璃るりや自分やほかの柊のみんなはそんな人間じゃないのに。



 そもそも赤羽あかばねは、柊が孤児の集まる施設であるという、その前提を忘れていたのだ。

 常盤ときわの冷徹な態度にばかり気をとられ、そうなった背景を度外視していた。先輩面をして歩み寄ろうと息巻いていたくせに、結局それは恣意的なものでしかたなかったのだ。

 だからこそ、今度こそ本当に歩み寄ることにした。



 たしかに、すべては常盤ときわに突き飛ばされたことから始まった。

 でも、こうなるに至った原因のいくらかは、やはり自分にもある。

 だからこそ、この話はもう、許すとか許されるとか、そういったものじゃない。

 お互いが悪かった。だからこれは──そう。ただの仲直りだ。



 『どうしてそこまでして謝りたいのか』という理由までは結局わからず終いだったが、夜遅くまで整理した自分の気持ちが最終的に行き着いた先は、それだった。

 


 それからというもの、常盤ときわは毎日病室に訪れて献身的に赤羽あかばねの世話をしだした。

 最初はぎこちなかった会話も、徐々に軋轢がなくなり、いつしか常盤ときわから進んで話しかけてくれるようになった。



 退院してからは、ふたりで外を駆け回ったり、もしくは瑠璃るりを含めて3人で遊んだりと、柊に来た当時からは想像すらできないほどに常盤ときわは閉ざしていた心を開いていった。そして、よく笑うようになった。



 常盤ときわといるのが楽しかった。

 常盤ときわが浮かべる笑顔を見ると、自然と赤羽あかばねも笑顔になっていた。

 常盤ときわが悲しんでいると、なぜか赤羽あかばねも胸が苦しくなった。

 そんな自覚が芽生えてから、さらに高次の感情にまで至っていることを自覚するのに、そう時間はかからなかった。

 同じ施設の仲間としてではなく、異性として、常盤ときわを好いているという事実を。



 一方で、常盤ときわ赤羽あかばねの思っている以上にあの事故を引きずっているようで、赤羽あかばねになにかあると過保護な姉のように、もしくは家政婦のように、些細なことにも自分を犠牲にして世話を焼いてくれる。それは6年経った今ですら、程度の差はあっても基本的に変わりはない。

 それが嬉しくもあり、それ以上に辛くもあった。



 聖ニコラス学園に入学すると、常盤ときわは陸上部に所属した。

 元来運動神経が優れていたらしく、そこに柊での生活で野山を走り回って過ごしてきたこともあってか、2年生にして早くも陸上部のエースとなる。

 加えて、生まれつき備わった端整な容姿が加わり、常盤ときわは上級生からも告白されるほどの有名人となっていた。



 しかし、常盤ときわは今日現在まで一度として誰とも交際をしていない。相手が誰であろうと、断ることしかしない。

 そんなことが続いたから、いつしか『幼馴染の赤羽あかばねと恋仲なのでは?』という噂がどこからか流れだした。



 このことには赤羽あかばねもほとほとまいった。知らぬうちに当事者に据えられてしまっていたので、幾度となく事実確認を受けるハメになった。

 複雑な心境でありつつも、とりあえず否定を続けていく。だが、回数を重ねていくうちに、ある疑問に蝕まれるようになった。



 それは、『実際のところ、みやびは俺のことをどう思ってるのだろうか?』というものだ。

 異性として好きか嫌いか、というのももちろん気にはなるが、そういう趣旨ではない。

 もしかして──みやびがずっと誰とも付き合わずにいるのは、俺の傍にいるためなのか?

 あいつの頭には、未だにあのときの罪悪感がある。それは明らかだ。ということは、もしかして俺は、みやびの足枷になってるんじゃないのか?

 俺が、あいつを縛り付けているんじゃないのか?



 そう思い出した途端、赤羽あかばねの胸に再び罪悪感が芽生えたのだった。

 同時に、こうも思った。

 もしもあのときのことがなければ、この傷を負わなければ、俺とみやびは、今ほど親しくなっていなかったのかもしれれない、と。

 

 

 赤羽あかばね常盤ときわが好きだった。ずっと好きだった。

 好きだからずっと一緒にいたい。それは当たり前の感情だ。

 だが、赤羽あかばねが真に望んでいるのは、そういうことではない。あのとき自分の命を救ってくれた常盤ときわが、幸せになることだ。

 常盤ときわが、本当に好きになった人と添い遂げて、そして幸せになってくれる。それこそが本当の望みだ。

 


自分の気持ちを再確認した赤羽あかばねは、人知れず自分の恋心に封をすることにした。

 そして──今日、赤羽あかばねの望みがついに現実となったことを知った。



 なのに。

 それなのに、素直に喜べない自分がいた。

心が入り乱れて、痛痒でしかなかった。

 なかでも自分自身で一番気に障るのが、『今こうしているあいだも、みやびが俺以外の男に対して、俺に向ける以上の笑顔を振りまいているのかもしれない』という、どうしようもなくみじめで無様な嫉妬心の暴走である。 

 


 何に対してなんだろうか。この後悔は。

 何気なく深いため息がでる──と、そこで進行方向の延長線上に、自動販売機が合計3機、それぞれが何十種類もの在庫を蓄えつつ無駄に眩しい明かりを放ちながら、右側の壁に背を向けるように並んで鎮座しているのが目に飛び込んできた。そして自動販売機の左側(つまり、赤羽あかばねから見て自動販売機の手前)には、みっつの穴が三角形の頂点のような配置で開いたフタがかぶせてある、やや大きめのゴミ箱もある。



 唐突に、手に持っていた缶コーヒーが空になっていたのを思い出した。

 他の3人は当然のようにその自動販売機を素通りしたが、赤羽あかばねはゴミ箱の前で立ち止まる。

 そして、なかば八つ当たりのように空き缶を握りつぶし、そのままゴミ箱に入れようとして、ためらう。



「……本当、簡単に捨てられたらいいのにな。この空き缶みたいに」



 それだけつぶやくと、嘆息したのち、今度こそ空き缶をゴミ箱に捨てて3人のあとを追った。

 新しい缶コーヒーを買おうか一瞬迷ったが、もうほろ苦い味は間に合っていた。

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