第05話 十字の絆
柊にやってきた当初の
柊に姿をみせたときから一貫していて、基本的に笑うことはなく、無表情で、しかも無口。ただし
ただそれだけだった。
そんな
単純にひとりになりたかっただけなのか。
それとも、
そのあたりの事情は、打ち解けた今も正確なところは明らかにはなってはいない。
いずれにせよ、渓流に連なる大きな石のひとつに膝を曲げて座って、ただただ川の流れを黙々と眺めているということに一日の大半を費やし、それを繰り日も来る日も続けていた。それが
そんな様子を見ていた
たとえ
それは──誰かが傍にいるというのは、別に何かをされなくても、それだけで心の支えとなる、ということだ。
みんながいてくれたから、寂しさを感じないで済む。
みんながいてくれたから、今も自分は笑っていられる。
だから、今度は自分が誰かの傍にいる番だ。
そうすれば、何かのはずみで会話ができるかもしれない。
あの子も、心を開いてくれるかもしれない。
そんな想いのもとに、
もちろん、自分の後に初めて柊に属すことになった子への配慮という意味合いもある。
それとは別に、
だから
けれど、このときの
なまじ自分が辛い体験を覚えていないがために、そういった意味での配慮が一切できないということを。
北風と太陽の話のようなもので、どんなにが積極的に働きかけてみたところで、そもそも相手の気持ちを理解してやらねば、傷心しきった
結果はいうまでもなく、
けれど
そしてまた、どんなに川を眺め続けたところで、やはり
それでも、他にどうすることもできないので、とりあえずは
悪循環である。
しばらくのあいだ、そんな無意味な毎日が続いた。
結局、自分たちのあいだには見えない壁のような何かが存在していて、どんなにがんばって働きかけても、マネをしてみても、心の距離はいつになっても縮まることがないのかもしれない。理解し合えないのかもしれない。
だったらもう、こんなこと、しなくてもいいのかもしれない。
どんなに尽力しても好転しない事態に、
それは、とても雨脚の強い日が3日と続いた、その最後の日のことだった。
渓流は連日の雨で水かさが増し、まるで猛獣の唸り声のような音が柊の屋内にまでも届いているほどだった。ともすれば、外出などできないのは火を見るより明らかだし、ましてその渓流に近づくなど論外である。
けれど
初日と2日目は
どうして今日もそんなことをしているのか。
こんな日にそれをすることに、いったい何の意味があるのか。
わからない。ただ純粋にわからない。
ただ、だからといってこのままひとりで引き返すことも間違っている。
このままだとあの子は、いずれは川に飲みこまれてしまうかもしれない。そうでなくても風邪は引くだろう。それとわかっていて見過ごすことはできない。見過ごすくらいなら最初からここには来ていないはずだ。
だから、
こんな日にここにいちゃ危ないよ、と叫んだ。
早く柊に戻ろう、と
だが、その手を拒むように
そのはずみで
飲まれるまいと必死に抵抗した。しかし、10歳の、それも貧弱な体質であるその体が大自然の驚異に勝るはずもない。流されていくうちにあっという間に体力は消耗し、気付けば息継ぎすることすら叶わない状況にまで陥っていた。
だからこそ、刺々しい断面をした大木が目前に迫っていたことなど気付けるはずもなかった。
そうと気付いたときには、もう手遅れだった。
そこから自分の身に何が起きたのか、
再び意識を取り戻したときには、自分のいる場所が渓流から病室に移り変わっていた。
そして鏡を見て、驚愕した。
テレビアニメで見たミイラのように顔中に包帯が巻かれていたからだ。それ以外にも腕や脚、腹回りなどに打撲や擦り傷のあとがちらほらあった。
自分の意志で体を動かそうにもうまく反応してくれないし、そのくせ激痛が噛みつくように襲ってくる。顔の中心あたりも熱を持ったように妙にうずいるような感覚があった。
なんでも、帰宅途中だった
あの流れのなかを、いったいどうやって助けだしてくれたのか。少々疑問に感じた
ひとつは、元々あった顔の傷とは別に、それよりも遥かに大きな傷が新しくできたということ。顔のうずきはそれが原因らしい。
もうひとつは、今回の件で、両親の形見である指輪が紛失したということである。言われて、いつも胸にあったそれがないことに気づいた。
なんでこんなことになったんだろう。
自分は、ただあの子を連れて帰ろうとしただけなのに。
なんでこんな酷い怪我をしなくちゃいけないんだろう。
なんで、父さんと母さんの形見の指輪を失くさなくちゃいけないんだろう。
あのとき、あの子さえ暴れなければ……。
あれもこれも……みんな、あの子のせいだ。
次に
そして、柊のみんなが学園の寮から病院へとお見舞いに来た──もっとも、柊のみんなは、
どうして肝心のあの子がいないのか。
当然の疑問ではあったが、けれどなんとなくそれをみんなに問いただす気にもなれず、その日は悶々としてうまく寝付けなかった。
そのまま、
それに比例して、段々と
もしかして……あの子は、自分が悪いと思ってないんじゃないか。
人をこんな目にあわせて謝りにも来ないなんて、どう考えてもおかしい。
謝りに来たって許すかどうかはわからないけど、でも……それが、人としての『れいぎ』ってものなんじゃないのか。
ひょっとして、今も平気であの石の上にいたりして。
本当、なんて酷い子なんだ。
他にできることもなかったので、黒い感情にエサをやることだけに邁進する毎日。
そうして
なんの前触れもなく、病室に
「ちょっとお前に話があって来たんだ。突然だけどさ、
まるで自分の心を見透かされているかのような直球の質問にいささか驚いたものの、素直に「嫌い」と答える。
すでにこのとき、依然として姿を見せないでいる
「ふーん。で、なんで嫌いなの」
「なんで? なんでって、あの子のせいでこんな怪我をしたんだよ? それに、お父さんとお母さんの指輪も失くしちゃったわけだし。それなのに謝りにも来ないじゃん。だからあんな子、僕、大っ嫌いだよ」
溢れんばかりの吐露に、
「その指輪なんだけど、ここにあるんだよなぁ。ほら」
差しだされた手のひらにあったのは、間違いなくあの指輪だった。もちろんふたつともそろっている。
これまたいったいどうやったのかはわからなかったが、どうにかして見つけだしたのだろう。
だが、
「悪いけど、今これを返すわけにはいかないのよね」
「え? 返すわけにはいかない、って……それってどういうことなの?」
「試してるんだ。色々とね」
「試してる?」
「ねえ
「あるわけないじゃん。そんなことは
「なに、来てほしいの? さっきは大っ嫌いとか言ってたくせに」
「べ、別にそういうわけじゃ……」
「ごめんごめん。今のは意地悪だったね。お前が言いたいことはわかってるから。じゃあちゃんと、真面目に教えてあげる。
さっきから
「えっと……ん? 探しているって、なんで? 指輪はここにあるんだし、もう探す必要なんてないでしょ?」
「そうだね。たしかに指輪はここにある」
「だよね? それじゃあ……」
「
「それってつまり、わざと教えないでいる、ってこと?」
「そゆこと♪」
「どうしてそんな酷いことするの?」
どこまでも意味がわからない
すると、不思議と
優しくて、温もりに満ちたような微笑みを。
「あーよかった。そう言ってくれて。あたしも安心したよ」
「……もう。さっきから
「安心? 安心っていうのは、心が安らぐってことだけど」
「そういうことじゃないってば。もう、真面目に答えてよ」
「ハイハイ。安心したっていうのは、お前が嘘をついてたってことがわかったからよ」
「嘘?」
「そう。さっきお前は言ったじゃん。
「嘘なんかじゃないよ」
「嘘だよ。じゃなかったら、あたしが指輪を見つけたのを
バラバラに撒き散らされた言葉がパズルのように組み合わさったとき、口から声にならない声が漏れた。
「普通、嫌いな相手に『酷い』だなんて言葉は使わないよ、ってことは──」
「そ、それはたまたまだよ。ついはずみで出た言葉っていうか」
「たまたま? ふーん。まあ、そういうことにしておこうか」
「そ、そんなことよりも、どうして指輪を見つけたことを黙ってるの?」
「だから、さっきも言ったじゃん。試してるんだ、って」
「だから、何を?」
「
そこで、終始おどけ気味だった
「そもそもさ、溺れたお前を救い出したのはあたしだっていうふうに説明したけど、あれ、本当はあたしじゃないんだよね」
「じゃあ、もしかして……あの子が? どうやって?」
「それはわかんない。きっとその辺にあった木の棒とかうまく使ったんじゃないの? あたしが駆けつけたときにはもうお前は川から救い出されていたし。まあとにかく、あとちょっとでも遠くに流されてたしたらそのぶん救出も遅れただろうし、体中にもっと傷を負ってたに違いないわ。もしかしたら本当に死んでいたかも。でも──お前はこうして生きている。だからさ、これだけは忘れないで。たしかに
話し始めてから一番の、
「でも
「でも、いくら探したって──」
「そう。ここにあるから見つかるはずがない。ちなみに、あたしがこれをみつけたのはお前が怪我をしたその日のことね」
「ってことは……」
これまでの6日間、あの無口で無表情な子が、自分に謝るただそのためだけに、ずっと独りでがんばっていたということだ。
つまりは、それだけ今回のことを真摯に受け止めて後悔しているということだ。
もしもそれが本当なら──それに比べて、自分はいったい何をしてきたのだろう。
自分本位に恨んで、一方的に憎んで。
そうすることがまさに被害者の特権でもあるかのように、憑りつかれたように負の感情を育んでいただけだ。
いっそのこと、指輪探しを諦めてくれていれば。仲良くなるのは無理だと諦めつつあった自分のように。
どうにもおさまりが悪いせいで、謝りに来ないことにあれだけ憤慨していたくせに、ついついそんな利己が生まれてしまう。
「なんであの子は諦めようとしないの?」
「それはアレよ。自分で考えてみなさいって」
「そんなこと言われたってわかんないよ」
「仕方ないなぁ。じゃあちょっとだけ教えてあげる。そもそも今の
「そんな……でも、どうして? もしも僕が同じ立場なら、絶対に無理だよ」
「だから、それを自分で考えてみなさいって言ってんの。いいわね?」
どうしてあの子は諦めようとしないのか。その理由は
では、どうしてそこまでして許されたいのか。それは──そこにも何かしらの理由があるに違いない。
たとえば元々がすごく仲良しとかだったなら、すぐに納得できる。仲良しの相手に対して悪いと思っているから、だからどうしても許してもらいたい。仲良しならそう思うものだろう。
でも、
……本当、どうしてなんだろう。
黙々と考えているところに、「明日で一週間ね」と
「え?」
「だから、明日でちょうど一週間じゃん。お前が怪我して」
「まあ、そうだけど」
「どうする? まだ続けさせる?
それは、簡素ながらあまりにも強烈な一言だった。全身がほてり、今までの思考がすべて吹き飛んでしまう。
そんなふうに言われてしまうと、あたかも自分が
これは
逆に、まだ気は済まないか? と自分が
いつの間にか
「もしも
二の句が挙げられないでいたところに、追撃される。
もはや、提案を拒む気は起こらなかった。
なぜなら、ここでその提案を拒むほど強烈に、
指輪は見つかった。怪我だって、傷跡は残るだろうがいずれは回復する。そして、どうやら
「いいけど、でも、もしも明日あの子が探すのをやめてたら? そうしたらどうするの?」
「うーん、それはないと思うけど、そうしたらあたしが返しに来るかな」
いずれにせよ、明日になれば指輪が返ってくるということだ。
だが、肝心なのはそこではない。それを持ってくるのが誰か、ということである。
もしかしたら、あの子がやってくる。謝りにくる。そう考えるだけで、今までそれを待っていたくせに、どうしてか緊張が込み上げてきた。
そうして
そうして向かえた次の日の夜のことだ。
病室を訪ねてきたのは、
話に聞いた通り、毎日川を探していたのだろう。その証拠に、指輪を大事そうに持ったその両手があかぎれだらけだった。風邪も引いているらしい。しきりに鼻をすすっている。
そういった体調不良とは別に、視線が泳いでいた。どこか脅えているように見えなくもない。
今や冷徹さのかけらもない。あるのは、ただただ弱弱しさだけだ。
それを見て
「ありがとう、
その言葉に、
「なん、で? どうして、ありがとう、なの?」
今まで一度も交わることのなかった互いの視線が、ここで初めて重なる。
「
「でも……だって、そもそも私が、つ、突き飛ばしたりなんかしたから! だからこんなことになっちゃったんだよ! 私があんなこと……しなければ……」
「違うって。たしかに押されはしたけどさ、あそこで足を滑らせたのは僕なわけだし。僕が流されちゃったのだって、あのとき川の水が多かったせいでしょ? 全部たまたまだったんだって、たまたま。だから
「でも……だって……」
「じゃあこうしようよ。今から握手しよう。それで仲直りってことでどう?」
「なか、なおり?」
「そう。僕はさ、
照れながら差しだした手は、握り返されることはなかった。
すでに涙を浮かべていた
昨夜、
そもそも、どうして自分は突き飛ばされたのか。
それは、やはり目障りだったからに違いない。ひとりになりたかったに違いない。
では、どうしてひとりになりたかったのか。
ひとりになりたいというその気持ちは、
だからこそ、その逆の気持ちが、ひとりになりたいということなのだ、と気づけた。
もしも柊のみんなが今とは違って、全く優しくなかったとしたら?
それでも自分は笑っていられただろうか。今のように振舞っていただろうか。
そんなことはないだろう。縮こまって、極力みんなと関わろうとしなかっただろう。
それこそ、あの子のように。
つまりあの子は、柊に来るまで、そういうところにいたんだ。
誰も自分に優しくしてくれない。だから、誰とも関わりたくない。そう思っているんだ。
そもそも
だからこそ、今度こそ本当に歩み寄ることにした。
たしかに、すべては
でも、こうなるに至った原因のいくらかは、やはり自分にもある。
だからこそ、この話はもう、許すとか許されるとか、そういったものじゃない。
お互いが悪かった。だからこれは──そう。ただの仲直りだ。
『どうしてそこまでして謝りたいのか』という理由までは結局わからず終いだったが、夜遅くまで整理した自分の気持ちが最終的に行き着いた先は、それだった。
それからというもの、
最初はぎこちなかった会話も、徐々に軋轢がなくなり、いつしか
退院してからは、ふたりで外を駆け回ったり、もしくは
そんな自覚が芽生えてから、さらに高次の感情にまで至っていることを自覚するのに、そう時間はかからなかった。
同じ施設の仲間としてではなく、異性として、
一方で、
それが嬉しくもあり、それ以上に辛くもあった。
聖ニコラス学園に入学すると、
元来運動神経が優れていたらしく、そこに柊での生活で野山を走り回って過ごしてきたこともあってか、2年生にして早くも陸上部のエースとなる。
加えて、生まれつき備わった端整な容姿が加わり、
しかし、
そんなことが続いたから、いつしか『幼馴染の
このことには
複雑な心境でありつつも、とりあえず否定を続けていく。だが、回数を重ねていくうちに、ある疑問に蝕まれるようになった。
それは、『実際のところ、
異性として好きか嫌いか、というのももちろん気にはなるが、そういう趣旨ではない。
もしかして──
あいつの頭には、未だにあのときの罪悪感がある。それは明らかだ。ということは、もしかして俺は、
俺が、あいつを縛り付けているんじゃないのか?
そう思い出した途端、
同時に、こうも思った。
もしもあのときのことがなければ、この傷を負わなければ、俺と
好きだからずっと一緒にいたい。それは当たり前の感情だ。
だが、
自分の気持ちを再確認した
そして──今日、
なのに。
それなのに、素直に喜べない自分がいた。
心が入り乱れて、痛痒でしかなかった。
なかでも自分自身で一番気に障るのが、『今こうしているあいだも、
何に対してなんだろうか。この後悔は。
何気なく深いため息がでる──と、そこで進行方向の延長線上に、自動販売機が合計3機、それぞれが何十種類もの在庫を蓄えつつ無駄に眩しい明かりを放ちながら、右側の壁に背を向けるように並んで鎮座しているのが目に飛び込んできた。そして自動販売機の左側(つまり、
唐突に、手に持っていた缶コーヒーが空になっていたのを思い出した。
他の3人は当然のようにその自動販売機を素通りしたが、
そして、なかば八つ当たりのように空き缶を握りつぶし、そのままゴミ箱に入れようとして、ためらう。
「……本当、簡単に捨てられたらいいのにな。この空き缶みたいに」
それだけつぶやくと、嘆息したのち、今度こそ空き缶をゴミ箱に捨てて3人のあとを追った。
新しい缶コーヒーを買おうか一瞬迷ったが、もうほろ苦い味は間に合っていた。
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