第2章 捕まらない怪盗

第02話 世間を沸かす予告状

 何の変哲もないワンルームの一室に訪れる早朝。

 吐息すらもたちまち白濁してしまうほどに冷え込んでいる。

赤羽あかばねは、数分前からゴロゴロと、布団に広がる中毒的な温もりに抗えずにいた。

ついさっきまで見ていた夢──およそ6年前にあった出来事について浸りながら。



 とはいえ、セットした目覚まし時計はまだ悲鳴を上げていない。今が何時なのかはわからないが、まだ定時を迎えていない以上は何をしようと自由だ。

 だが、枕元に置いていた携帯電話がそれを許してくれなかった。寝返りを打ったところで、耳障りな悲鳴が撒き散らされる。



 平日の朝の着信。発信者別に着信音を設定しているというわけでもないのだが、これまでの経験則からして、それが誰からなのか、そして何の要件なのか、簡単に予想ができる。



 だからこそ緊張が走った。まさか今日もまた遅刻しているのか? と。

 赤羽あかばねの脳が一気に覚醒に向かう。続けざま、寒さなどお構いなしに布団から這いでて携帯電話を手にとり、がなり立てる着信音や画面に映る発信者の名前には目もくれずに、とにかく時間だけを確認して、そして絶句した。

 案の定、時計は一時限目の始まるちょうどその時間を示していたからだ。

 


 だがおかしい。目覚ましが鳴らなかったのはどうしてなのか。

 セットミス? いや、ちゃんとセットしたのを覚えている。目覚ましが寝坊なんて笑い話にもならない。



 恨めしいように目覚ましを見て──そこで、あんぐりと口を開けて狼狽してしまう。

 視線の先にあるのは、盤面を保護する透明な板が粉々に割れていて、秒針はカチカチという無機質な音に合わせてまるで痙攣しているかのように小刻みに震えている、死んだも同然の時計だった。



 まったく身に覚えがないが、夜から朝にかけての犯行である以上、犯人は自分以外にはいない。アラームを止めようとして、力加減でも間違えたのだろうか。

これには赤羽あかばねも小刻みに震えだす他なかった。つい最近プレゼントされたばかりの新品だったというのに。



 そこからはもう、気が気でなかった。

教師から「明日だけは絶対に遅刻するなよ。したら留年だから」と口を酸っぱくして言われた昨日の光景が頭をよぎる。背中に嫌な汗が湧いているのは、布団の温もりのせいではないだろう。



 危機感のスイッチが入った赤羽あかばねは、さっきまでの怠惰な状態から一転、まるで動画の早送りでもしているかのように機敏に準備にとりかかった。

未だに着信は続いているが、こうなっては電話に出る時間も惜しい。一刻を争う事態なのだ。そう思い、ほったらかしにした。



 洗面台の前で、なかばやけくそに歯を磨きはじめる。

 視線の先には、左眼の下から鼻をまたいで右頬にまで伸びたアイスの棒くらいの長さをした傷と、そして──右眼の下から鼻をまたいで左頬にまで伸びた、大地の亀裂を彷彿とさせるような痛々しい傷痕がある男がいた。



 歪なバツ印を顔に刻み込んだその男は、前髪からのぞかせるやや小さめの目の下に、いつもどおりクマがあった。

 手触りのよさそうな黒髪は、男性としては長めの部類に入る。人の視線を奪う顔の傷をほんの1ミリでも隠したい、という心の表れなのだが、今のところ本人にその自覚はない。

基本的に寝癖がつかない髪質ということだけが、遅刻常習犯の赤羽あかばねにとって唯一の救いだった。



 常に首からさげている、遠い昔に亡くなった両親の形見のふたつの指輪をひもごと内側に隠すようにしてワイシャツを着、それからワインレッド色の上着と灰色のズボンに着替えると、セールを見計らって箱買いした缶コーヒーのひとつを鞄に放りこんで準備完了。

 こうして、日課とも呼べる中距離走が今日もまた、否応無しに始まりを迎えたのであった。



 ワンルームの個室が密集した3階建ての学生寮の、その最上階に位置する自室から、片側3車線の大通りの歩道に出て、左に向かって走ること約1分。するともう、赤羽あかばねの通う学校──『聖ニコラス学園』の、その大正門が見えてくる。



 両親を亡くしたことで柊での生活を余儀なくされていた赤羽あかばねだったが、4年前──世間でいうところのちょうど中学生になる年齢から、この中高一貫校である私立の聖ニコラス学園で寮生活をしている。

 なんでも、柊とニコラス学園の資金融資者が同一人物らしく、柊の子供達は適齢期になると自動的にニコラス学園に進学する運びとなっているらしい。



 そんなニコラス学園は、山奥にある柊とは比べ物にならないくらい豪奢な造りをしていた。

 立地は東京の都心部の一角。そんな場所に広々と構えられていて、しかもその敷地は上空から見下ろした限りではほぼ正方形。

その周囲には横幅10メートル近くある人工的な水路が造成されており、緩やかな流れで学園を避けるように二股となって流れ、再び合流している。

 地上からだいぶ下にある水路の、そのいたる所には植栽がしてあって、春になれば辺り一面が見事な薄い桃色に染まるその圧巻の光景はこの街の風物詩となっている。



 学園の敷地内にたどりつくためには、その水路をまたぐ橋を渡らなければならない。それは大正門の前にのみしか用意されていないため、生徒や教師や来訪者はもとより、遅刻者も不審者もそこを通らない限りは学園に侵入することができないのだ。



 やや弧を描くように膨らんだ形状でかけられた、横幅6メートルはある橋を正面に見据える。橋の向こうに見える大正門は正規の時間を過ぎると不審者対策のために閉ざされてしまうのだが、案の定、今も閉ざされていた。



 しかしそこは遅刻常習犯の赤羽あかばねだ。守衛ともかれこれ4年にも渡る濃密な付き合いをさせてもらっている。そこまでいくと不要なやり取りもなしに顔パスで通れてしまう。もっとも、本来なら実に不名誉なことなのだが。



 例によって会釈をし、守衛も笑顔になって片手をあげて返事する。そうして守衛が手元に視線を戻して何かの操作をすると、大正門のわきにひっそりと用意された、人ひとり通れるくらいの扉が自動的にゆっくりと横にスライドしていった。



「いつもすいません、ありがとうございます」

「おう、今日もがんばれよ。明日は遅刻すんなよ」



 もはや定型文となっている会話だ。

 最後には「はい」といつも答える赤羽あかばねだが、それがそのまま実行されたことがほとんどないこともまたお互いにわかりきっている。



 そのまま走りだそうとして、不意に背中から「そうだ、赤羽あかばねくん」と守衛に声を掛けられる。赤羽あかばねは半身を翻し、「なんですか?」と尋ねた。



「明日で学校も終わりだけど、今回もやっぱり柊に帰るのかい?」

「ええまあ。あそこが俺の家ですから」

「そうかそうか。んじゃあ、瑠璃るりちゃんによろしく言っといてくれな」



 60はとっくに越えているであろう初老の守衛は、春と夏と冬の長期休暇に入る直前──赤羽あかばねが柊に戻る頃になると、決まってこう言ってくる。まるで親戚か何かのように。

 どういう関係なのか気になって前に一度尋ねてみたことがあったが、瑠璃るりは「古い知人よ。んで、あたしの絶大なファンの1人でもあるわね」と笑いながら答えるだけだった。



 その言葉の真偽はさておき、守衛が赤羽あかばねにいつも便宜を図ってくれている以上、赤羽あかばねも義理を通さねばならない。「了解です」と微笑んで、片手をあげた。



 守衛が微笑んだのを確認すると正面に向き直り、そこからはもう、敷地の真ん中に位置した昇降口のある円柱状の建物を目がけて、ひたすら全速力で走るだけだ。



 敷地内のいたるところには、水路と比べても負けず劣らずといった具合に色とりどりの植物の姿がある。もうすぐ新しい年を迎えようとしているこの時期ですら華やかさを損なわない絶景だ。



 内外ともに西洋の雰囲気を醸しだすような細工が施された校舎は、敷地のちょうど中央にそびえ立つ円柱状の建物から東西南北を指し示すようにしてそれぞれ直角に伸びて存在している、という奇妙な造りをしている。

 それを上空から見下ろすと『十』という字に見え、さらに外壁や水掘を考慮すれば、ちょうど『田』の字に見えるとも言われている。



 ちょうど今、目の前に広がる校庭で授業が行われていないのをいいことに、赤羽あかばねは勝手気ままに縦断し、最短距離を通って昇降口にたどり着いた。急いで上履きに履き替え、そのまま一気に4階まで息を切らせながら螺旋階段を駆け上がる。



 そうしてついに教室の前にまでたどり着いたわけだが、この時点ですでに赤羽あかばねは、全身で呼吸していたし、両膝に手をもついていた。

 もちろん朝食は抜きだったし、寝起き直後でこれほどまで必死に走ればそうなるのも無理もないかもしれない。けれど論点はそういったところとは別にあった。

最近になって、赤羽あかばねの体には、例の物を冷やすという特別な異能以外にも多くの謎があることがいろいろとわかってきたのである。



 たとえば、どんなに規則正しい生活をしても、眼窩の下のクマがどうしてか消えないこととか。それに、10代半ばの成長中の男性にもかかわらず、たかだか数百メートル走っただけで眩暈を起こしそうになるほど消耗してしまうこととか。

 それとはまた別に、虚弱体質なのかと思うくらいに線が細い。

 柊での慎ましい食生活が身に染みているせいもあって暴食することもないが、それにしても標準体重よりもだいぶやせ細っている。



 もしかして内臓の何かがおかしいんじゃないか? と思い、意を決して一度だけ大きな病院で診てもらったこともあったが、特に異常と呼べるものは見当たらなかったというのだからますます謎が深まるばかりである。

結局、わからないということがわかっただけにとどまっただけだ。

 私生活にそこまで支障はないし、健康とはいえなくても不健康でもないのであればもうそれでいいや、と一応の結論付けをして、それ以降は深く考えることを放棄していた。



 呼吸が十分に落ち着いたところで目の前にある教室の後ろ扉にそっと右手を伸ばした──が、いざ扉に触れそうになった瞬間、なかから妙なざわめきが漏れ聞こえてきた。つい触れるのをためらう。

 だが、ここまで来ておいてじっとしているわけにもいかない。音を立てないようにそっと扉を動かし、すっと首を覗かせてみた。

 するとどうしてか、クラスメイトが教室の前方に群がっていた。そのうえ、授業中のはずなのに豪く賑やかでもある。



赤羽あかばねからではその群の中心に何があるのかまではさすがに確認ができない。

 何事かと身をかがめたまま、とりあえずこんなところを誰かに見つかる前に教室に入っておくだけでもしておこうと静かに行動を起こしていると、また弾けるように賑やかになる。



「どうです、みなさん。これがわたくしの『超紡績シルク・ロード』ですわよ。すごいでしょう?」



 しゃがんでいることと人混みのせいではっきりと姿は見えずとも、溶けた飴が伸びてまとわりついてくるような甘ったるい特徴的な声とその嬉々とした口調でわかった。今のが、茶色く染め上げた縦ロールの髪が特徴の金銀蓮花ががぶた真理子まりこだということが。



 そうとわかれば、今何が起こっているのかもだいたい想像ができる。

 ただそれにしても、今は本来授業中のはずでは?

 教師が人混みで隠れているかもしれない可能性を払拭できないため、下手に自席に着くこともできない。とりあえず赤羽あかばねは、静かに賑わいを俯瞰することにした。



「すっげー。その超紡績シルク・ロードって、たしか来月に発売されるってヤツだろ。なんでもう持ってんだよ」

「クリスマスプレゼントに特別な超心理アンプサイが欲しい、ってパパにおねだりしたら、おもしろいものがあるっていって、それを扱っている会社の社長さんに直に頼んでみなさい、って取り次いでくれたんですの。それで直々にお願いしたら、特別だよ、って発売されるよりも前に入手できたんですのよ。まあ、わたくしだけ、特別に、ですけど」

「えっ、マジで。それじゃあ、超紡績シルク・ロードをつくった会社の社長とも知り合いってこと?」

「ええ。なにせ、社長さんとパパは懇意の仲ですの。わたくしも小さいころからのお知り合いですし」

「あたし、昨日やってた特番を観てたんだけどさ、たしか超紡績シルク・ロードって、7000万はくだらない、って話じゃなかった?」

「あ、それウチも観た! そうだよね、たしかそれくらいの金額だったような……」

「あんたら何言ってんのよ、金銀蓮花ががぶたさんにとってみれば、それくらい、はした金に決まってるじゃない。ねえ、そうでしょ?」



 金銀蓮花ががぶたは肯定も否定もせず、「そんなことないですわ」と一応の謙遜を口にする。



「それに、どうやらみなさん勘違いなされているようですけど、さっきも言ったように、わたくしは超紡績シルク・ロードをクリスマスプレゼントとしていただいたんですのよ」

「……じゃあ、タダ、ってこと?」

「ええ。すべて社長さんの好意ですの。でもこれも、わたくしだけ、特別に、ですけど」



 撒き餌のようなその言葉に、取り囲んでいた同級生たちが食らいつく。

 そこからは「私にもなんとか!」とせがむ者が現れ、続けざま「俺も」「私も」と便乗する者もでてきていたほどだ。



 欲望に駆られ、すがり、自分を崇め奉ろうとしているクラスメイトたちを見て、それに優越感を覚える。それが金銀蓮花ががぶたの人となりだ。こういった何かのお披露目会も事あるごとに行われている。今回はたまたまそれが超心理アンプサイだった、というだけのことだ。



「ねえ金銀蓮花ががぶたさん、まだ時間もあるし、せっかくだから他にも何かやって見せてよ」

「それもそうですわね。でしたら、あと少しだけですよ」



 なかば困ったように左手首に巻いた黄金に輝くブランド物の腕時計に目をやるが、その顔に困惑の色はなく、むしろ嬉々とした感情が滲みでているようにすら見える。



「そうねぇ、何がいいかしら」



 今度は本当に思案顔だった。口元に手を当てながら教室中をざっと見渡す。

しばらくして、すぐ傍の机に置いてあった、誰かの新品未開封のペットボトルに照準を合わせると笑みをこぼした。そこで長い茶髪を左手でいたずらに遊ばせながら「それでは皆さん、少し下がってくださる?」と注意を促した。一同はそそくさと、教卓からその机までのわずかな距離を軸として左右に分かれる。



「では、行きますわよ」



 さっきまでと打って変わって、金銀蓮花ががぶたが神妙な面持ちになる。つられて活気だった周囲も一気に静まり返った。

 右手を握り拳から人差し指だけ突きだした状態にして、それを腕ごとゆっくり振り上げる。その細い腕の先端に、全ての視線が集う。



 無音。息遣いすらない静寂。

それから少し間隔をあけて、「えいっ」と腕が釣り竿のように振りかざされた。



指先から、裁縫針程度の太さの、白濁色をした一筋の繊維がビュッと音を立てて飛びだす。そのまま狙いよく、目当てのペットボトルに付着した。

 そして紡がれた糸がちゃんと張り付いているかを軽く指を動かして確認すると、再び「えいっ」と声をあげて勢いよく腕を引き、捉えた獲物を引き寄せて、それを左手で捕獲してみせたのだった。まるでカウボーイさながらである。



 歓声とともに湧き上がる拍手の津波に、陶酔しきった金銀蓮花ががぶたの笑顔は、それはそれは醜悪なものだった。



 今から約4か月前──9月の初めに転入してきた金銀蓮花ががぶたは、世界に名を馳せる大富豪の一人娘で、親の財力をひけらかして目立つのが一にも二にも大好きな女子だ。

 そのためか、事あるごとに人の目を惹こうとする傾向があり、今回のようなパフォーマンスも今に始まったことではない。もっとも、その気質を矯正するために両親がこの学園へ転入させたらしいというまことしやかな噂がささやかれていたりもするのだが。



 性格はさておき、事実として気品のある容姿をしているし、常日頃から高価なものを食しているのだろうか他の女子達より肌艶がよい。もしかしたら、まだ高校生なのにエステとかに行っているのかもしれない。可能性としてはおおいにあり得る。

 とにかくそんな理由から、当然のように男子から一定の人気はあるし、そして美容に興味のある一部の女子には崇拝され、それの恩恵に少しでもあやかりたいハイエナのような生徒などから日々追い掛け回されたりと、ある意味本人の性格と合致した学園生活を過ごしている。



 けれども、こういった人種に嫌悪感を抱く者だっているのもまたたしかである。

 赤羽あかばねの自席は教室の窓際の最後列の、そこからひとつ廊下側にずれた位置にあるのだが、そのひとつ奥──まさに窓際の最後列に、教室前の集団に加わることを拒む意志表示のごとく頬杖をつきながら、黙々と窓の向こうを眺めている1人の女子がいた。そのほかにも数人、集団からはみ出して自席に着いている者たちがいる。

 かくいう赤羽あかばねも、嫌悪感とまではいかないものの、ああいうものを好ましいと思うほうではない。



 教室には、どういうわけか教師の姿はどこにもなかった。よくわからないが、とりあえず怒られないで済みそうだ。

とはいえ、今さらあの集団に加わろうとも思えない。ここに来るまでで疲れてもいる。

そんな理由から、場の空気を壊すことのないように足音を殺して歩き、自席に座って体力の回復に勤しむことにした。



そこで、窓際の最後列の女子が赤羽あかばねの存在を感じ取ったようで、頬杖を辞めて振り向く。

冷ややかであったその目が、ぱっと見開かれた。



 肩甲骨あたりまである麗しい黒髪はゴムでひとつに束ねられていて、右の鎖骨から胸元にかけて流れるように存在している。

 見開かれた両目はアーモンドのような曲線を描いていて、くっきり二重のややつり目。瞳は大きく、男女問わず視線を交えた者に魅惑的な印象を植えつけるのは間違いないだろう。

 小さく控えめだが歪みのない造形の鼻と薄紅色に彩られた唇を持つ上品な口。それらひとつひとつがバランスよく噛み合って、かの女子は卓越した容姿を兼ね備えていた。



 その名は、常盤ときわみやび

 赤羽あかばねが10歳のときに施設にやって来て、以来6年の付き合いがある、家族でもあり幼馴染でもある存在だ。



 そんな常盤ときわは一瞬こそ明かりの灯った表情を浮かべはしたものの、すぐさまそれをかき消し、じっと、じとーっと、冗談半分で訝しむような視線へと露骨に切り替えた。

普通なら威圧的なそれも、秀麗な顔立ちの常盤ときわが行うと威力も半減してしまっている。むしろ、人によっては拗ねた子猫が見せる可愛い仕草のそれと同類として受け止める者もいるかもしれない。そういうのがの人種からすれば威力倍増かもしれない。

 だが彼女をよく知る赤羽あかばねにしてみたら、一周回ってそれがやはり威圧的に感じられた。



 とりあえず「おはよう」と平然とした口調で言ってはみたが、常盤ときわは「おはよう」とは返事せず、未だにじとーっと凝視したままでいる。

 とりあえず自席に座ろうとしたところに、「さっきので起きたんでしょ」と唐突に口を開いた。幼さの残る声には威厳などまるで感じられないが、だからこそ怖いこともある。



「えーと、さっきのって?」

「電話。出なかったけどさ、りょうくん」

「あ、あー、ってことは、さっきのはやっぱりみやびだったのか。ごめんごめん、急いで仕度してたから出れなかったんだ。ってわけだから、あのときだってちゃんと起きてたんだって」

「ふーん」

「……まるで信じてない、って顔をしてるな」

「あれ? そう? 気のせいじゃないの? そんなことよりも、ねえ、アレ使ってないの?」 

「アレって、例の目覚まし時計のことだろ? つ、使ってるってちゃんと」



 もう壊したけど──とは嘘でも言えない。

アレは、少し前に常盤ときわからプレゼントされたものだった。



「ふーん。それならなんで遅刻したりするのかな? 今日こそ遅刻しないって、先生たちと約束したよね、たしか」

「うーん、なんでだろうな。ハハハ」

「……もういい。ちゃんと答える気がないなら」



 そう言って常盤ときわはそっぽを向いた。どうやらご機嫌斜めらしい。



 自分のつれない態度がそうさせたのかもしれないことに素直に反省を覚えるが、かといってこのタイミングで目覚まし時計を破壊してしまった事実をつまびらかにすれば、火に油を注ぐ結果になりかねない。

 


 一考した結果、ここは素直に謝ることにした。

 ただし、事実をほんの少しだけ改ざんして。



「ごめんみやび。お前の言う通り、あの着信で起きたんだ。うっかりしててさ、またアラームをかけ忘れてたみたいで」

「ほらやっぱり。まったく、何でそう、つかなくていい嘘をつくのかな」

「それは、えっと……」

「とにかく、明日からはちゃんとアラームをセットするんだよ? いい?」

「あ、はい」



 赤羽あかばねの返事を聞いて、常盤ときわは「うん。じゃあもうお説教タイムは終了ね」と顔をほころばせる。

 そんな顔をされては、壊しただなんて口が裂けても言えなくなくなってしまう。

 いつかは打ち明けなければならないだろうが、そのときにはどんな目に遭うか怖くて想像すらできない。同時に、明日以降どうにかして遅刻を回避するその何らかの措置も講じなければならなくなってしまう。



 代替案として妥当なところは携帯電話のアラーム機能だろうが、もしもその効果が十分見込めるのであれば、そもそも目覚まし時計なんて常盤ときわもプレゼントしたりはしない。

 


ならば常盤ときわが直接迎えに来る、という案が次に浮かぶが、これも却下だ。

 入学当初、ふたりは放課後の夕方から夜にかけて互いの部屋に行き来し、一緒に料理をして夕飯を食べ、夜に自分の部屋に帰る、というのが習慣になっていたのだが、その延長線上ということで、常盤ときわにお願いして朝も訪問してもらっていた時期があった。



 しかしそれが、男女それぞれ別々の寮なのに常盤ときわが男性寮を訪れる頻度があまりにも多すぎて、いつしか常盤ときわ赤羽あかばねの部屋に泊まっているのではという妙な噂が立ってしまったことがあったため、監査指導が入る事態にまで進展してしまい、そのときにはシロとして判定されたわけだが、誤解を生みかねない行動は慎むようにと言い渡されてもいた。

とはいっても、お互いの部屋を行き来するのをやめたわけではないが。



 さてどうしたものか、と悩んでいると、続けざま常盤ときわが話を振ってくる。



「でも、先生にはちゃんと謝りに行っておいたほうがいいよ」

「それそれ。それなんだけどさ、先生は? 授業はどうしたんだよ?」

「どうしたって、昨日のホームルームでそういう連絡があったじゃん。ほら、あそこにも書いてあるし。もう、それも覚えてないの?」



 教室の前方へと向けられたその先に視線を合わせると、人だかりのせいで今まで気付かなかったが、たしかに黒板に大きく『自習』の文字が書かれている。

 常盤ときわは昨日連絡があったと言うが、赤羽あかばねにその記憶はない。きっとまた、そのころにはいつものように睡魔に負けて机に伏して寝ていたに違いない。



「なるほどな。それでガガブー(金銀蓮花ががぶたの愛称として赤羽あかばねはそう呼んでいた)がここぞとばかりに、例によってあんなふうにしゃしゃってるのか」

「そういうことみたい」

「ふーん。でも、さっきのはたしかに凄かったよな。超紡績シルク・ロードっていったっけ、アレ」

「……さあ。ちゃんと聞いてたわけじゃないし、よくわかんない」



 それを境に、常盤ときわは肘をついて再びガラスの向こうの世界をうかがいだした。



 有体にいって常盤ときわは、金銀蓮花ががぶたを毛嫌いしている。

 いわく、親の威光を振りかざしているところがどうにも気に入らないらしい。

 正直、そこは赤羽あかばねも同感だった。むしろ、孤児であるふたりからしてみれば、それも当然のことといえるだろう。

 だからといって、ふたりが露骨に金銀蓮花ががぶたと距離を置いているのかというとそうでもない。事情はいろいろあれるだろうが、一応はクラスメイトだ。話す機会や必要があれば話もする。ただ積極的にかかわろうとしないというだけである。



 常盤ときわとの会話が一段落したところで、カバンからそっと缶コーヒーを取りだした。机の下で、それを両手で握りしめる。

 冷え切った状態の缶コーヒーを、自身に宿る異能によって、高温にするために。



 瑠璃るりの『誰にも話すな』という言いつけこそしっかり守ってはいるが、赤羽あかばねももう16歳だ。ある程度の分別はできる──と、少なくとも本人はそう思っている。

 そんなわけで、瑠璃るりの監視下を離れているのをいいことに、およそ1年前から、人目を盗んでは超加熱ウォーム・ブラッドを極秘に使用するようになっていた。

 ちなみに、赤羽あかばねに不思議と備わっているもうひとつの力である『物を冷やす力』だが、柊に来てから6年が経った今でも未だにその真相は究明できていない。ただ、ややこしいので名目上、超加熱ウォーム・ブラッドに倣って『超冷却クール・ブラッド』と呼称している。



 そして──これは頻繁に使用するようになったがゆえに改めて痛感したことだが、赤羽あかばねに宿っている超加熱ウォーム・ブラッドは、非常に効果が薄いようだった。もはや欠陥品と言っても過言ではないほどに。



 こうして握っている缶コーヒーも、市販されている通常のそれであれば、まず5秒もあればぬるま湯くらいに温まり、それからさらに10秒もすればプルタブを開けたときに蒸気が溢れるほどになる。それを赤羽あかばねがやるとそうはならず、ぬるま湯にするだけでも最低で10分近くかかってしまう。

なによりも厄介なのは、余りにも効力が薄いので、こうして一度温め始めてしまうと、温まりきるまでは目立った行動がとれなくなる、ということだ。

今も不用意に離席することすらできず、人目の付かないよう机の下に隠し、まさに卵を温める親鳥のような心境でじっと、温まるのを待つほかない。



こんな中途半端な異能では、金銀蓮花ががぶたのように見せびらかして優越感に浸ることすらできやしない。むしろ笑われるだけだ。

せいぜい『無いよりはあったほうがいいくらいなもの』で、仮にこれがなかったからといって、特にどうということもない。

だからやっぱり、自分は化け物じゃない──それが赤羽あかばねの素直な感想だった。



 常盤ときわはさっきから変にじっと外の様子ばかり気にしているし、どことなく気軽に話しかけられるような雰囲気でもない。それに、無駄話をしようものなら目覚まし時計の件でボロが出てしまう可能性もある。話しかけるのをためらってしまう。

 そうしてじっと、人知れず缶コーヒーを握りしめていると、教室の後ろ扉がそっと、少しだけ開いたの気づいた。

 見れば、ひとりの男子生徒が悪びれもなく堂々と、厚さが5センチはありそうなハードカバーの本を片手に抱えながら入ってくるところだった。



 両耳を覆い隠して首元まで届くほどに長く伸びた明るい茶色の髪の、その前髪の隙間からふたつ、牛乳ビンの底のように分厚いメガネのレンズが薄っすらとうかがえる。



 金鵄きんし鳴海なるみという名前のその生徒の席は、常盤ときわの前に位置していた。そのため、必然的に赤羽あかばねの前を横切ることになる。



「よう。おはよう、鳴海なるみ

「……今日はもう来てたんだな」

「ああ。といっても、今さっき着いたばっかりだけど」



 ぼそぼそ言う金鵄きんし赤羽あかばねは苦笑いをしてみせたが、金鵄きんしは素っ気なく、表情として唯一窺える口元が綻んだりすることもなく、無口なまま淡々と席に着き、そして手にしていた本を広げた。



 この態度に特段の不満や不快を覚えることはなかった。金鵄きんしはいつでもどこでも、誰に対してもこんな感じだからである。

 会話は必要最低限の単語しか口にしないし、しかも声も小さい。

そもそも長くて多い前髪と分厚いレンズの二重防壁のせいで対面していても視線がどこに向いているのかわからない。どんな表情を浮かべているのかもわからない。



 こう表現すると影の薄い存在のようだが、明るい茶髪のせいで嫌でも目立ってしまう。

 本人曰く、地毛とのことだが、いずれにせよ、性格と外見がミスマッチしていると言っても過言ではない。

 

 そんな金鵄きんしの行動パターンは、基本的には朝から放課後まで永遠に本を読んでいるのが日常的であった。もちろんそれは授業中も例外ではない。仮に教師に見つかって指導されようが、その場で謝りはするものの、3秒後には本を開いている。そんなことが入学当初から今日までの約4年間、ずっと続いている。



1年生の夏頃にはすでに学園一厳しいといわれている教師から目をつけられ、それから何度か説教をされたようだが、最終的にはその教師のほうが根負けしてしまったらしい。そうなってくると、もはや誰が説教しようとも聞く耳を持たないのは明白である。以来、金鵄きんしが授業中に本を読んでいても注意する教師はもう誰一人としていなくなってしまった──というのは生徒のあいだで語り草になっている。

 


 唯一本を手放すのは実技教科の実技のときだけなのだが、体育に限っては持病があるらしく、入学当初から見学のみとなっている。ただ、見学の時間ですらも本を読んでいるくらいだから、本の虫という表現がこれほどまで当てはまる人物もそうはいないだろう。



 こんなふうに好き放題やっている金鵄きんしだが、定期テストの成績は常に5本の指に入るくらいときている。これがまたかえって不気味だとかで、赤羽あかばねが顔に刻まれた十字傷のせいで陰では『赤バツ』と揶揄されているのと同様に、金鵄きんしは『接触禁止の金鵄きんしくん』と呼ばれていた。



 そんなわけで、最近では金鵄きんしに声をかけるのは基本的に赤羽あかばね常盤ときわのふたりくらいなものだった。

 というのも、赤羽あかばねら3人は入学してから4年間ずっと同じクラスだったからだ。



金鵄きんしは入学当初から今のように無口で友達を作ろうともせず、クラスメイトも何度か声をかけたりはしていた。だが金鵄きんしがこんな人間であるため、時間が経つにつれて声をかける人間が少なくなっていき、ついには赤羽あかばね常盤ときわだけになってしまっていた。



 ふたりを相手にしたとしても、最初こそ(今でもかもしれないが)金鵄きんしはぶっきら棒で無視を決め込むことすらあったが、あるとき赤羽あかばね金鵄きんしから本を借りたことがきっかけとなり、3人は徐々に会話の量が増えていった。また、金鵄きんしの影響でふたりが本好きになったという経緯もある。



 そんな金鵄きんしがまさに今読もうとしている本のタイトルが『魔女リカ★魔女ルカ』という、いかにもメルヘンチックなものであったのを会話の合間に目ざとく確認して、人知れず苦笑いを浮かべる。また金鵄きんしの新たな一面を知ったような気がした。



 金鵄きんしとのほんのわずかな交流も終えて黙々とコーヒーを温めているところに、一時限目の終了を告げるチャイムが鳴り響くよりも早く、教室の前扉が勢いよく開く音がした。

それは、針のように細い両目でおかっぱ頭が特徴的の、小柄な外国人留学生のリーによるものだった。

何やらただごとならぬ様子に教室の眼が向かうなか、リーは息を切らせながらその場で大声をまくしたて始める。



「た、た、大変だヨ! 今年は、今年はニッポンに来るらしいヨ、サンタクロースッ!」



たどたどしい日本語で発せられたその言葉が、たちまち教室を一気に静寂へと塗り替える。

 一拍置いて、教室内が再び、さっきの披露会を上回る勢いで弾けた。そのまま、群衆が金銀蓮花ががぶたの元からリーのそばへとそっくりそのまま推移する。



「うおーっ、マ、マジかよ!」

「ねえどこ、どこよリーっ! 日本のどこに現れるの?」

「いや、あノ」

「なあ、あいつら今度は何を盗むんだ?」

「ちょ、ちょっト! そんなにきゅーに言われてモ、僕だってわっかんないヨ! 知りたかったら自分で調べてみて、きっとニュースとかでやってるかラ!」



 その言葉に誰しもがポケットをまさぐり、即座にそれぞれの携帯電話を手にしだす。



「ちょ、ちょっと皆さん? まだわたくしの超紡績シルク・ロードの実演披露会の途中ですのよ?」



 クラスメイトの手の平を返したような態度に憤慨するも、今となっては誰もかれもがどこ吹く風だ。注意を取り戻そうと大きな声で呼びかけてみても、もはや誰も相手にしてくれない。

 ここまでくると、さすがの金銀蓮花ががぶたも観念し、下唇を噛み瞳を潤ませつつも押し黙るしかなかった。悔しそうな表情を残しつつ、しかしそれでいてひっそりと自分の携帯電話を取りだし、みんなと同じようにいじりだす。



 赤羽あかばねも当然のように自分の携帯電話を取りだしていた。コーヒーを懸命に温めてはいたが、今はもうそれどころではない。ぬるま湯にすらなっていないコーヒーをいっそ机に置いて手放し、携帯電話をいじることだけに専念した。



 リーの声は常盤ときわにも届いていたようで、気づいたころには常盤ときわも懐から携帯電話を取りだしていた。一方で、聞こえなかったわけではないだろうに、クラスで金鵄きんしだけが携帯電話ではなく本とにらめっこを続けている。



赤羽あかばねの携帯電話はそもそも、学園の入学したときに瑠璃るりに支給されたもので、そのときすでに中古品だった。そのためだいぶ型が古く、一応テレビ機能も備わってはいるが、平時から映像は滑らかではない。

案の定、今もまた画面の映りは悪いままだ。



「なあみやび、お前のはちゃんと映ってる?」

「うん。ちょっと待って、今ボリュームを上げるから」



 常盤ときわ赤羽あかばねの持つ携帯電話と全く同一のものを瑠璃るりから支給されてはいたが、今手にしているのは、最近になって個人的に手に入れていたという最新モデルのものだった。



 常盤ときわは以前まで陸上部に所属しており、なんと全国にも通用するレベルの実力者だったのだが、あとちょっとで柊を退去しなければいけないということもあって、将来のために今から蓄えを用意したいという理由から、今年の夏の大会を最後にきっぱりと部活動をやめていた。

 かくしてアルバイトを始めた常盤ときわは、まずは自分で稼いだお金で自分の身の回りのものを揃えようと考えているようだ。携帯電話はその第一歩としてはじめに買い求めたものらしい。



 常盤ときわが携帯電話を横向きにして机上に置き、赤羽あかばねは自席から椅子を引き連れて移動して、ふたりは並んで座視する。

 画面上には、中心に据えられた20代半ばくらいの女性のニュースキャスターが主導となって計4人、白を基調とした空間を背景に、湾曲した机にそれぞれついていた。右上に『緊急特番』と表示されている。



『えー、どうやら、サンタクロースから予告状クリスマス・カードが届いたというキングキャッスルへ向かった徳井さんと中継が繋がったようですね。徳井さん?』

『はい、徳井です。えー、今私は予告状クリスマス・カードの届いたキングキャッスルの入り口に来ています。キングキャッスルにはすでに200人程の警察官が警備にあたっており、同時に、オーナーであり数々の超心理薬アド・アンプサイを精製した科学者としても世界的に有名な高峰たかみねのぞむ氏から、予告状クリスマス・カードが届いたときなどの事情聴取をしているとのことです』

『はい、徳井さん、ありがとうございました。また何か新しい情報がありましたらお願いします。えー、予告状クリスマス・カードによりますと、サンタクロースがキングキャッスルに現れるのは本日の21時とのことですが、当局では20時半から特別番組を現場から生中継で放送する予定となっております。みなさま、どうぞご覧──おや、どうやら現場に動きがあったようですね。徳井さん?』

『はい、徳井です。えー今、現場では、今回サンタクロースの標的となった『龍の瞳』と呼ばれる、バスケットボールほどもあるルビーが──』



 と、そこで一時間目の終わりを告げる予鈴が教室中に鳴り響いた。しかし、誰一人として教室から外にでる者はいなかった。

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