第5話

 ――それから五日後。

 ルルは逃げていた。

 追っているのは二人の銀の魔族。姉のレーネ・ビダルと魔王軍近衛隊長のバティ・バルネッタの二人。

 ルルは城を出ると、体内を巡回する魔力を操って髪と目の色を人間と同じ黒に変えて、その足で人間の里を目指した。

 二百年前、前回の魔王と勇者の戦いに魔族は敗れた。だから魔族の領土は人間と比べるとずいぶん狭いと言われている。城からでも意外と簡単に人間側に行くことができた。

 そんなわけでルルは城を出て五日後には人間側の領地に侵入していた。

 そして今、森の中。ルルは追われている。ほぼ間違いなくルルを城に連れ戻すため。

 だからルルは逃げていた。

 捕まるわけにはいかなかった。もう決めたのだから、人間と話すと。

 魔王として、ビダル家の一員として、ルルとして。多くのものを秤にかけて、その上で決意したのだ。

 今更捕まって、城に戻されるわけにはいかない。

 だからルルは走る。必死で走った。

『ルルーー! 止まんなさい』

 レーネの叫び声が聞こえた。二人との距離を確認するためにルルは走りながら振り返る。

 二人の姿をルルの瞳が捉えた瞬間――足がもつれた。

 危ない――そう思ったときにはすでに遅かった。ルルは転んでしまう。

 二人はゆっくりとルルの下に歩み寄って来た。

 そのとき――不意に森の茂みから男が現れた。

 そして突然に戦闘が始まった。

 あまりに突然で、ルルは事態を把握できない。

 ただ……座り込んだままの姿勢で始まった戦闘を見つめていた。

「もう、大丈夫。安心して、君は僕が守るから。こう見えても僕は勇者なんだ。僕は大丈夫だから、君は早くここから逃げるんだ」

 男はルルに笑顔を向けてそう言った。

 驚愕した……

 それは人間の言葉だった。

 そしてあろうことか、この人間の男は自らを勇者と名乗った。

 ルルは考える。必死で事態の把握と今、自分のなすべきことを考える。

 とりあえずは――事態の把握。

 目の前で繰り広げられているのは戦闘だった。

 人間の勇者対レーネとバティ。どうやら勇者はルルを守ろうとしているようだった。ルルを魔族に追われる人間だと判断したのだろう。

 だったら、ルルのなすべき行動は――

 目の前にいる男が本当に勇者だったのなら、ここで討ってしまえば戦いは終わる。

 魔族と人間の戦いは魔族の勝利に終り、これから二百年間、魔族の繁栄が約束された。

 それはきっと簡単な選択。

 しかしそれではルルがここまで来た目的、人間との対話ができなくなってしまう。

 それでもなすべきことは理解していた。

 魔王として……ビダル家の一員として……

 それは本当に簡単な選択。

 迷う必要などない。

 今ここで人間を一人殺すだけで魔族の幸せが約束された。

 きっとルルに力を与えてくれた神もそれを望んでいるはずだ。

 だから、それをなそう。

 そう決意を固めたとき――勇者は振り返り、ルルを見た。ルルもまた真っ直ぐに勇者を見つめた。

 ルルに向かって火球が迫っていた。

 目の前には勇者の後姿。そして勇者に向かって剣を振りかざすバティ。

 問題はなかった。例え勇者がそれをかわしたとしても……

 魔王となったルルの魔力なら、以前は足下に及ぶことさえ叶わなかった姉の魔法も簡単に打ち消すことができる。

 しかし――その必要はなかった。

「絶対に守る……」

 勇者が右腕を失いながらも守ってくれたから……

 ルルはティアネの言葉を思い出す。彼女は言った……人間は優しかったと。

 それは嘘ではなかった。

 だから――ルルは思考する。

 勇者は本当に命を賭けて自分を守ってくれていた。それはルルを人間と勘違いしているからだ。しかし、それが彼の優しさを否定することにはならない。

 それに彼は勇者なのだ。人類の希望であるはずだった。

 その命は、こんなところで名も知らぬ一人の女のために賭けていいものではないはずだ。

 それなのに……

 勇者はわずかな迷いすら感じさせることなく駆ける――瀕死の傷を負ったまま、ルルを守るために。

 そして戦いの勝敗は決した。

 バティの魔法が勇者を貫く。血が溢れる。

 それでも勇者は、また一歩――踏み出した。

 それはただルルを救うため……人類の命運を背負った勇者がルルのためだけに命を賭けてくれていた。

 ルルは思う。

 きっと彼は自分に正直なのだ。彼は優しいのだ。目の前に救いを求める者がいればそれを見過ごすことなんてできないのだろう。

 その想いの前では自身の立場も敵の強大さも、何の意味もなさない。

 ルルはそれをうらやましいと思った。

 自分もそう在りたいと思った。

 自分もそう在ろうと決めた。

 そう……ルルはルルになることを決意した。

 魔王でもなくビダルでもなく……今このときルルは、ただルルになった。

 だから……

「僕は…守るんだ……」

「ありがとう……もういいの」

 ルルは勇者を背後から抱きしめた。

「ありがとう。私なんかのために……うれしかったし、とても温かかった」

 言いながらルルは勇者とバティの間に割って入る。

 そして勇者の顔を真っ直ぐに見据えた。

 ボロボロで血だらけだったけど優しい顔をしていた。とても戦士には見えない中性的な顔。

 そんな勇者を見つめながらルルは笑顔で言った。

「あなたのおかげでわかった。私は私の在りたいように在ればいい。私の名前はルル。そう……私はルル!」

 ルルはジアを強く抱きしめる。

「あなたは私が守る。あなたがそうしてくれたように。もう決めちゃったんだから。例え世界を敵に回しても、神を全てを敵に回すことになったって。私がね、私が! 自分でそう決めたんだ! あなたを守るって。よかった。あなたと出会えて本当によかった。私の勇者様……」

 そう言って、ルルは勇者に唇を重ねた。

 人間の書物に記された勇者の物語で、勇者に助けられた女たちがしていたように。

「安心して。あなたはこの私、魔王ルル・ビダルが全てを賭して守るから」

 言って、ルルは押さえていた魔力を開放しながらバティとレーネに対峙する。

『どういうつもり?』

 レーネが問う。

『私は決めた。私が決めた。私は彼と話してみようと思う』

 ルルは意識を失った勇者を抱きとめ、魔法で止血を施しながら答えた。

『あなたは魔王なのよ』

『うん。でも私はルルよ』

『人間と話しをするにしてもそれは止めておきなさい。かなり強かった。私とバティの二人がかりでも負ける可能性すらあった。危険よ』

『うんん。彼と話すって決めたの。だからお願い。彼の怪我を治すのを手伝って、お姉ちゃん』

『そう……』

 一瞬考えるようなそぶりを見せるが、すぐにレーネの表情に笑顔が宿る。

『ルルにお願いされたら、お姉ちゃんは断れない。仕方ないなぁ』

『ありがとう、だからお姉ちゃん大好き。ほら、バティさんも手伝ってください。回復とか細かいの得意ですよね?』

『ふっ。私も魔王様の勅命を断ることはできないな』

『ありがとうございます。後……彼、たぶん勇者だから』

『えっ?』

『なっ?』

 二人の驚きの表情を受けて、ルルは満面の笑みを浮かべた。

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