一章「ジアとルル」
第3話
魔王ルルと勇者ジアの出会いより一週間ほど前。
まだ魔王でなかったルルは自宅の書庫にいた。
自宅の書庫といっても、そこは小さな図書館ほどの大きさがある。中には禁書と呼ばれる閲覧を禁止されたような書物まであった。
そこでルルが読んでいた本。それもまた禁書。禁書とはそのほとんどが人間の言葉で書かれた書物。神は人間の言葉を穢れた言葉として読むことも話すことも禁じていた。
それでもルルには人間の言葉を理解する必要があった。
役に立ちたかった。魔族有数の名家、ビダル家の一員として。魔族のために。
父のように母のように姉のようにビダルの血に連なる先祖たちのように……ルルもまた何かをなしたかった。
でもルルは魔力に恵まれてはいない。魔力は生まれ持った才能こそが全てであるため努力では覆せない。
だからルルは人間の言葉を学んだ。人間を学んだ。
敵を知ることは魔族にとって大きな力になると信じて。
例えそれが魔族の禁に触れるものであったとしても、それで魔族の力となれるのなら構わなかった。
古い柱時計の重く低い音が部屋に響く。
ルルは読みかけの本から目を離して時計に目をやった。
時計の針は新しい一日の訪れを告げている。
しおりを挟んで本を閉じた。椅子に腰掛けたまま腕を大きく伸ばして伸びをする。
そして本に視線を戻そうとしたとき――書庫に靴音が響いた。
『もう、こんな時間よ。そろそろ寝なさい。体に毒よ』
姉だった。姉のレーネ・ビダル。姉は父のベネディクトと同じ銀の髪と瞳を持っている。
そもそも魔族の髪と瞳の色は魔力の属性を表す。赤なら火、青なら水、茶色なら土、緑なら風。
そしてその例外が魔王の金と、絶対的な魔力を持って生まれた銀の魔族と呼ばれる者たちの銀。
そんな魔族の中にも数人しかいない最高位の魔力を宿す証、銀の髪と瞳をルルの姉と父は持っている。
『もう少し、後一時間くらいしたら寝る』
本に視線を戻しながら言う。
『また、人間の本を読んでいるの?』
『うん』
頷く。父は知らないが、姉はルルが魔族の禁を犯し人間の言葉を学んでいることを知っていた。
『ルル。無理をする必要はないのよ。ルルはルルのしたいことをすればいい。私もお父さんもそう望んでいる。家のことなんて全然考えなくていいんだから』
『ありがとう、お姉ちゃん。わかってる。だから勉強してるの。私は私がしたいから勉強してるの』
『そう……じゃあ、私はもう寝るわ。ルルもあんまり夜更かしはしないようにね。夜更かしばっかりしてるから、そんなにちびっちゃいまんまなのよ』
『うっさい。おやすみっ』
『おやすみ。ルル』
そう言って、レーネは書庫から出て行く。
わかっていた。父も姉もルルに何も望んではいない。
それは別にルルが出来損ないで諦められているということではない。二人はルルを大切に思ってくれていた。だからビダル家のために無理することを望んではいなかった。
二人はただルルの幸せだけを願ってくれている。
だからこそ、ルルは力になりたかった。自分が愛し、自分を愛してくれる家族の力になりたかった。
もう……誰も失いたくはなかった。
人間との戦いで母は死んだ。
五年前にあった、魔族と人間の大きな戦い。その戦いに父と共に参加した母は戦場で人間に殺された。
その後、父は魔王補佐の役職に就いた。
魔王補佐――それは魔王の次に高い地位。二百年に一度、神に選定される魔王が現れるまでは魔族最高の地位だ。
姉もまた銀の魔族として王室魔法研究局、局長に就いている。
だから、ルルも何かをなしたかった。ビダル家の一員として。天国にいる母に恥じぬよう。
人間に復讐することを望んでいるわけではない。望んでいるのは戦いのない平和な世界。
そのために力を求めた。それが人間の言葉。
ルルは本を開いて、再び読み進める。力を得るために。
視界にこぼれ落ちてきた赤い前髪を指に絡めて弄りながらも、意識は本に集中していく。
――不意に、背後に気配を感じた。
その気配の正体を探ろうとルルは振り返ろうとする。
しかし、体はピクリとも動かない。
そして声がした。
『力が欲しいか?』
その声は耳ではなく心に響いてきた。中性的で澄んだ美しい声。
力が欲しいか? ルルはその問について考える。
欲しかった。ずっと力を欲してきた。
家族を幸せにできる力。友を全ての魔族を幸せに導くことのできる力。
それは誰でもなく自分自身の幸せのため。
だから答えは簡単だった。
『…………』
体が動かない。声も出すことができない。
だから――心の中で強く強く思う。
『力が欲しい。力が欲しい。力が欲しい』
何度も何度も心の中で願う。その言葉だけで心が一杯になってしまうくらい強く、何度も。
『欲するのなら、与えよう』
言葉と共に気配が消えた。体に自由が戻る。
ルルが振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
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