第17話 名に価値など見出せない

 幾度か彼女を呼んで、僕は彼女を事務所まで送迎するようになっていた。

 少なからず気を惹かれた女性を他の男に差し出すようなもの、その気持ちの矛盾を押し殺すように、僕は彼女に対して、自分の気持ちを悟られないように自然に振る舞っていた。

「桜雪ちゃんは変な人だね?」

「どこが?」

「だって、他の客は、アタシの名前とか、住所とか、色々聞きたがるよ」

「連絡ならアドレスを教えてもらったし、キミの本名を聞いたところで、それが何になるの?」

「さぁ? でも知りたがるじゃない、好きなら」

 好きなら…そういうものなのだろうか?

 僕は彼女のことが好きだ。

 だけど、彼女は風俗嬢だ、僕の知る名が本名なわけが無いし、別に彼女が何処の誰であろうと、関係なかった。

 ゆえに、彼女の本名など気にも留めていなかった。

「好きなら…知りたがるものなのか?」

「そうだよ、皆聞くよ、誰にでも教える訳じゃないけどね、こういう風に会っているのに聞かれないの初めてかも」

「そう…」

 別にだからと言って、聞こうとも思わなかった。

 彼女は、そういう態度が意外であったらしい。

 彼女とキスを交わして、事務所の近くで別れる。

 それだけ…抱きたければ金を払って会えばいい。


 彼女にとってキスはお礼、それ以上は金が発生する行為なのだ。

 好意など僕の一方通行、両想いなど在り得ない、僕のような男が何人かいて、僕は特別というわけではない。

 強いて言えば『特別な客』というだけだ。


 その彼女の名前など聞いても…それが何になるのだろう?


「アタシの名前はね…」


 今、思えば…聞かなければ良かったのだ。

 彼女を本名で呼ぶようになり、僕は少しだけ彼女に近づいてしまった。

 彼女の実家の場所を知り、過去を知り、彼女の事を知るたびに…近づくたびに…僕は。


 だんだん、解らなくなっていた。

 彼女は僕をどう思っているのだろう?

 便利な足程度かもしれない。


 何をしているのだろう…彼女との関係を悩みだしたころ、不倫関係も終わり…僕は会社を退職した。

 色々なことが、崩れていく…

 落ちるときは転がるように、堕ちるとこまで堕ちれば心に魔が巣食うものだ。


 僕は心を閉ざした。


 風俗嬢に利用されているだけの無職の中年。

 それが自分だと気づくと、あまりに惨めだった。


『恋』は辛いのだと…僕は知らなかった。

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