書籍化記念SS
※完結後、前話のフェルの内容につながる話です。
※書籍版に合わせまして、サイを少年呼びを青年に変更しています。
サイと目を合わせることができない、とラビィが気づいたのは彼の告白を聞いてしばらく経ってからのことだ。
思い出すあれやこれやで一歩進んでは悲鳴を上げる。ベッドの中で悶える、壁に頭を打ち付ける。といった様々な奇行を目にし、ラビィ専属であるメイドのマリは、最近は随分ましになってきたと思ったけれど、やっぱりおかしな令嬢なのではと自身の主からじりじりと距離をとっていたが、それは別の話である。
「さ、サイ様、お久しぶりで……」
「ラビィ様も、お元気そうでなによりです」
なんとも不思議なことだ。今まで、定期的にバルドと面会をしていたはずの温室の席で、サイが座っている。初めて出会った日は、彼はバルドの背後に控えていたというのに、今ではそれが当たり前のようにサイの目の前にはほのかに湯気が立つティーカップが置かれている。慣れない。これでもう二度目なのに。とにかく慣れない。
久しぶり、というほどではないかもしれない。それでも以前はラビィの監視のためと毎日顔を合わせていた。そして幾度も池パチャの往復に付き合わせていた。今考えると想像以上にヤバく、サイの苦労も伺えた。頭が痛くて別の意味で顔が合わせることができない。主に申し訳無さとか。
当初、ラビィの婚約者がサイに変わることに対して、周囲では多くの驚きがあった。ラビィ自身は直接目にしてはいないが、もともとの婚約者であったバルドはさらなる衝撃であったはずだ。新たな婚約者を立てる際に、貴族は国に承認を得る必要がある。そのときの話は深く思い出すのは置いておくとして、ラビィはそっとカップのハンドルを三本指で掴みつつ、死んでしまおうと考えた。緊張で死ぬ。胃が痛い。もう十分にものが食べられるはずなのに、お腹に優しいものがほしい。
だって考えてみてもほしい。心の底で気づいてはいたけれど、自分なんかがとずっと深く、胸の内に沈み込ませていた気持ちがあった。それをいとも簡単にサイは引っ張り上げてしまったのだ。
二人きりになることは、まったくない。バルドのように護衛がいるわけではないが、今だって、ラビィの背後にはマリが付き添っている。なのに、色々と、本当に色々と思い出して、このまま一人で逃亡して自室でスクワットを行いたい。ラビィは最近筋肉を鍛える喜びに目覚めてきた。
本当に、端的にまとめてしまえば緊張する。心臓だってぎゅっと掴まれたみたいに痛くなる。向こうはなんてことのない顔をしているのだ。こちらばかりがそんな素振りを見せるのは、単純に、恥ずかしい。婚約者となってからサイはヒースフェン家に訪れてくれるようになった。その事実を思うと嬉しいし、この時間を大切にしたい。
一度目は大した会話もしていないのに、あっという間に時間が過ぎてしまった。二度目の今もそうだ。困っていることはありませんか、お体の具合はどうですか、気をつけていらっしゃいますか。一つ一つのサイからの質問に思った。お父さんか。
たまに出張から帰ってきて娘と会話を探すお父さんなのか。
と、思わず考えてしまったのはさておき、「困っていることはありません。随分サイ様にはお力をお借りしましたから。体の具合も健康まっしぐらです。医者にも見ていただきました」 ネルラに操られているふりをしているときは難しかったが、有限の時間を味わうように、ゆっくりと前に進んでいる、確かな感覚があった。
手の中の紅茶の温度も相まってか、口元からほっと温かい息がこぼれた。そんなラビィを見て、サイは目尻を柔らかくさせた。
「――そうか、だったらいいんだ。よかった」
さてこの台詞、実のところ、少し珍しいものである。サイはラビィに対して、いつもひどく丁寧な仕草と口調で相対する。婚約者となった今でもそうだ。ようは、真面目な男なのだ。しかしときおり、ぽろりと敬語がとれてしまうことがある。いつもはあなたとラビィに言うくせに、君、となったりだとか。
普段のサイの柔らかな言葉遣いはもちろん好きだ。なのになぜだろう、ふとしたときに見える、彼の心の内のような気がして、可愛らしくも感じた。こんなに大きくて、しっかりとした体つきの人なのに、と自分でも笑ってしまう。
サイを見ることができないと思っていたのに、嬉しくて視線を上げて彼を見つめていると、サイ自身も気づいたのだろう。自分の口を慌てて閉じて、手のひらで隠すようにしていたが、わずかに耳元が赤い。
(……なんだ、私と同じなのね)
今のラビィは、彼のことが、以前よりもずっとわかる。サイが、自分なんかを気にかけてくれるわけがないと思いこんでいた気持ちも、すっかりほどけて、柔らかいものに変わってしまったからだ。サイとこうして二人でいることに緊張しているのは、ラビィだけではなく、サイだって同じなのだと知った。
「あの、サイ様。もしできればなのですが、学園でお昼をご一緒しませんか。サイ様がご卒業されるまで、少しの時間ですけれど」
「それは……」
皇子からの監視命令であったときならばともかく、婚約者であろうとも、まだ学生同士だ。節度を持った関係でいるべきだろう。もちろん、こんなことは背後にいるマリに聞かれてしまえば怒られてしまうので、そっと声を潜めてだ。サイもわずかに言葉をあぐねた。多分、以前の自分ならここで引いていた。いやこちらから誘うなんてことは、そもそもするわけもなかったけれど。
サイの様子を見てこれは止めておこう、仕方がない、と諦めることにした。ひどく自分が恥ずかしくなった。そのはずなのに、「あの、私、サイ様と、もう少しでいいので、お会いしたく……」 全然諦めてなんていなかった。
違う、二人きりに、どうしてもなりたいわけじゃない。無理だと言っている相手に、無理をさせたいわけではない。ただ、自分の気持ちを伝えたかっただけだ。彼のことを好きだという気持ちを伝えたい。
サイは、おそらく正しくラビィの気持ちを受け止めた。彼女を前にして、このところは朗らかな表情ばかりであったその顔を、ぐっと眉の間の皺を深くし、口元を引き結んだ。けれども残念なことに、相変わらず耳の縁がわずかに赤い。彼だって、思うところもある。耐えられない。普段は辛抱強い彼だったが、こればかりは難しかった。「俺も」 ひどく、静かで冷静な声だった。
「君に、もう少しばかり、触れたい」
しかし、ラビィの想像から二、三段ほどふっとばした言葉が返ってきた。
さすがに息ができなくなるかと思った。いやそこまでは言っていない、と考えたらいいのか。でも正直に答えてしまえば、あれやこれやを思い出して悲鳴を上げていた中には、もちろん壁ドンからの彼の先の行動が主だったし、それを否定するつもりももちろんない。カップを触って、あわあわして、そんなラビィをサイは優しく見つめている。もう一度視線を合わせて、ほんわりした――ところで、背後からのマリの咳払いが聞こえた。
メイドが主人の会話を途中で中断させるなど、本来はあってならないものだが、おそらく聞かれていたのだろう。むしろラビィは思う。止めてくれてありがとう。今何か、思考がどこかに飛んでいきそうだった。なので今度は、もう少し声を潜めて、再度提案してみた。
「バラ園なんて、どうでしょう。以前よりは来る人も減っているかと思いますし」
人気のスポットとしてのピークを過ぎている、と言いたかっただけであるはずなのに、なんだかこの言い方だと人が少ないことを良しとしているようなと、慌てて首を振った。人が少ないところでいちゃつこうぜと言ったと思われたのならさすがに死ぬ。「あの、すみません、少し言葉を間違えたような、その」「わかっています」 苦笑するようなサイの声に、よかった、と息をついた。
「楽しみに、しています」
「俺もです」
さて、お弁当は何にしよう。
ずっと以前、ネルラに操られていたあのとき。ラビィは食べることが怖かった。いや、食事の時間が来ることを恐怖していた。満足にものを食べることもできず、空腹が体の隅まで重たく染み渡る感覚が恐ろしくて、わずかな食事を必死に嚥下し、飲み込んだ。こんな日々が、ずっと続くのだろうかとぼんやりと窓の外を見上げた。記憶の中では、いつもしとしとと雨が降っていたように思う。そんなわけがないのに。
ネルラから解放された今も、どこか不思議な感覚だった。いつしか、あの日々に引き戻されてしまうような、そんな気さえする。サイとともに食べる食事を考えて、楽しくて、跳ね上がるような気持ちは、まるで遠いどこかにあるような。――だからこそ、今の日々が愛おしく感じるし、時間が有限であることを知っている。
約束ですよ、と笑うラビィの言葉を、今度はマリは聞かぬふりをしてくれたらしい。明日が、ひどく楽しみだった。その次も、その次の日も。
サイとともにいる日々が、愛おしくてたまらない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます