フェル・ヒースフェン(完結後)
フェルには三つ年上の姉がいる。
長くすれ違ってはいたが、ラビィ・ヒースフェンという鶏ガラのような少女は、フェルには想像することもできなかった重たい苦しみを背負って生きていたと知ったのは、つい最近のことだ。その苦しみを気づくことができなかった自身を今更悔やんでも仕方ないが、悔やんでも悔やみきれない気持ちはある。初恋の少女との記憶もそうだ。今はただ空虚に過去を見るばかりだ。
けれども。
これは、ない。
「いい天気。お弁当日和だわ」
「はい。そうですね」
呟くようなラビィの言葉に、フェルにとってみればでかすぎる男がゆっくりと頷いている。独り言のつもりだったのだろう。口元を小さな手で覆って、隣に座る男に照れたように笑う姉の姿を見て、ふと柔らかい気持ちが溢れた、のは一瞬で、お前誰だよと男を見る。知ってるけど。めちゃくちゃに知ってるけど。
すっかり人気スポットとなってしまったバラ園のベンチに座って小さなラビィを見下ろし、サイは朗らかに笑った。互いに瞳を合わせていたのに、先に視線を逸らしたのはラビィだ。すっかり照れてしまったらしい。ほんの少し赤くなった頬に細い指先をそえて口元を引き結ぶ様は、我が姉ながら愛らしく感じた。膝の上に弁当と思しき謎の液体を載せていたけど。おかゆというその物体をフェルは未だに口にする勇気はない。
そのラビィの姿を、さらに愛しく見つめる姿があった。普段は小難しげな顔をしているくせに、今は瞳を緩めて少女を見下ろしている。だからお前は誰よ。……知ってるけど!
姉の婚約者が、バルドからこのサイという男に変わってしまったと聞いたとき、フェルは開いた口が塞がらなかった。正式に紹介はされたものの、腑に落ちない気持ちばかりで、サイが学園を卒業するまでの短い時間を貴むようにバラ園で二人ひっそりと昼食をともにしていると知って、いてもたってもいられず気づけば飛び出し、フェルはむぎゅりとベンチの端に座り込んだ。僕もこちらでお昼をいただきます、と叫んで弁当を握っている。内二人は小柄なラビィとフェルだといっても、ベンチに三人並ぶとさすがに狭い。そして自分からやって来たというくせに、幸せなオーラがぐさぐさ刺さってそろそろ苦しい。
「フェル、顔色がよくないようだけど、どうかしたの?」
「い、いえ姉上。大丈夫です。姉上とご一緒できて嬉しいだけで」
そういうと、ラビィはひどく嬉しげに瞳を細めた。自身のその表情に、多分、彼女だって気づいていない。失ってしまった姉弟の時間を、これから少しずつ作っていく――と、いいたいところなのだか。
「……だから、ひどく嫌らしい目をしていると言ったんだ」
「えっ」
「なんでもありません」
少し、聞こえてしまったかもしれない。でも、すぐにフェルは突っぱねた。ちらりと、サイを見た。こちらは聞こえていたようだが、あえてというところだろう。素知らぬ顔をするこの男。やっぱり自分の目は確かであったようだった。
がるると威嚇を始めるべくじわじわと犬歯をむき出しにする――と、いうところで、フェルは静かに、頭の中でちくちくと刺繍を始めた。これをすると、ひどく落ち着く。最近はレース編みにも凝っているので、弁当を膝の上に置いて、まるで指揮棒を操るかのように右手をそっと動かし、想像力を働かせる。心の中は花畑だ。すっかり冷静である。
仕上がったものをこっそりと姉に見せて、称賛の言葉をもらうことが、実はとても嬉しく思う。家に帰って、早く続きを作りたい。すっかり意識を飛ばしてしまっていたことに気づいて、そんなことより、とフェルは改めてラビィとサイの二人を見つめた。おかゆ、おじや、雑炊、リゾット……何の話をしているのかわからないが、ラビィが語る言葉を、サイは静かに聞いて、ときおり合いの手を飛ばしていた。
「もうなんでも食べることはできるんですが、やはり原点を大切にしたいという気持ちもあるんです……! 次はお米を炒めて、洋風にしてみようかと!」
弾むような姉の声だ。やっぱり何を言っているのかわからないが、幸せそうだ。そのことがよくわかる。よかった。けれども、と重苦しい気持ちが胸の底に沈んでいく。
ヒースフェン家の間に走った溝は、ひどく深く、一朝一夕では埋まらない。わかっている。長い時間、多くの人間が苦しんだのだ。仕方がない、なんて思いたくもない。まだ幼いフェル自身の力は小さなものだが、父と母、そして姉であるラビィとの階(きざはし)となりたいと願っている。そのためには、とフェルはきしゃあと威嚇した。
――お前、姉上の婚約者というのなら、僕の力になってくれよ
ぎんぎんと視線を送る。送られたサイは妙に鋭い視線に気づいてはいるが、さすがに思惑までは伝わらない。(色々と、協力してもらうからなァ……!!) ぶわりと羊の毛を膨らませるようにがるがるした。伝わらない、伝わりはしない、が。
もし、フェルのこの気持ちをサイが知ることになるのならば、しっかと両手を握って頷いたであろう。そのことにまだ互いに気づきはしないし、関係性を結んでいない。
これからサイとフェルは、ラビィを通じて長い年月を関わっていくこととなる。案外、サイとフェルの二人は、互いに近しい距離にいて握ることができる手のひらを持っていると知ることは、そう遠い未来ではない。
「ご飯が美味しいということはとても幸せで、幸せの、幸せでして!」
「ああ。わかった。しかし口元についていらっしゃいます。動かないでください」
「あぶっ!? さ、サイさま!?」
「近い近い近い近い!!!」
いや、やっぱり多分遠い。
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