第39話 姉と弟4


「あなたは、誰、なのですか……?」





 聞かれた言葉に、ラビィは息を飲んだ。まるでフェルがすべてを知っているのではないかと、そんな錯覚を得てしまった。ラビィが前世の記憶を思い出してしまったこと。そうして、ラビィと過去が入り混じってしまったこと。



 けれども、ラビィはラビィだ。確かに、過去を思い出したことで、多少の思考の変化はあった。けれどもそれはただ視野が広がっただけに過ぎなくて、彼女は胸を張って、自分がラビィ・ヒースフェンであると言える。だから、彼に対して目をそむける必要なんてなかった。「私はラビィよ。何を言っているの?」 吐き出した声は驚くほど芯が通っていて、強くフェルを見つめ返した。



 意外なことにも、フェルはすぐさま言いよどんだ。「いえ、そうではなくて、僕は」 ひとつひとつ、思い出すかのように、自分自身で確認していくかのように、ラビィに問いかけた。



「あなたは、僕に針を渡した」



 銀色の、もとはラビィのものであった針だ。



「あなたは、あれが何か、知っていたんだ」



 ラビィの裁縫箱から、フェルがこっそりと盗んだものであることを知っていた。それから一人で隠れて行っていたことも。「あなたは、ずっと、知っていたんだ」 絞り出すような声だった。そうしてフェルは顔を伏せた。震えていた。「あなたは」 いいや、と首を振った。「姉さんは」



「狂ってなんて、いらっしゃらないのですか……?」



 体中が、ひび割れてしまうかと思った。


 恐ろしくて、息もできなかった。フェルはネルラに恋をしている。彼に知られてしまうということは、全てが終わってしまうということだ。どう答えるべきかもわからない。すぐさまに逃げるべきだった。少し予定よりも早いが、無理はない範囲だ。幸い、レオンの店で調達できた資金は今日で目標に近い額になった。逃げなければ。早く、この場を去らなければ。



 消えてしまわなければ。



 そう、一歩を踏み出して、ラビィが逃げ出そうとしたとき、フェルはひどく苦しげに自身の胸を押さえた。幾度も呼吸を繰り返して、嗚咽を飲み込んだ。それから、こらえきれなくて、ぼろぼろと涙を流した。鼻を真っ赤にして、幾度も涙を拭って、それでもだめだった。「フ、フェル……?」 



 あんまりにも”嬉しくて”少年は泣いていた。



 ラビィは、こんなにも子供のようにフェルが泣いている様を見ることは初めてだった。子供から一歩踏み出した、そんな年齢なはずなのに、彼はいつも大人びていた。ラビィは、何もわかってはいなかった。「ヒースフェン家には、僕しか、いないと」 かすれたような声でひくつく喉を必死に抑えて、苦しんで、泣いていた。




 ――――フェルは、察しが良すぎたのだ。幼い頃から周囲が求める姿を読み取り、責任感で自分自身を縛り付けた。




 そうラビィはわかっていたはずなのに、本当に、何にもわかってはいなかった。



「僕は、刺繍は、姉さんに教わったんだ」



 ラビィがまだ自由に彼の頬を撫でることができたとき、フェルはたった3つの子供だった。だから覚えているはずなんてないと思っていた。けれども彼はラビィとは違って賢く、覚えもよかった。ラビィがおかしくなる反面、両親の期待は彼にのしかかった。ヒースフェン家のすべてを支えるため、ラビィとは距離をとった。頭がおかしいと噂される姉との確執を演じるため、心にもないことを言った。心にもないことをした。それでも、馬車に乗る時間をずらすこともできなくて、ただ口をつぐんで、学院までの道のりを歩んだ。



 大粒の涙を流して、フェルは子供のように泣きじゃくった。姉さんと、ラビィを呼んだ。そんな彼の姿を見て、気づけばラビィはフェルを抱きしめていた。



「ごめんね」



 呟いたはずの言葉は、ひどくかすれていた。そうして、自身も涙ばかりが流れていることに気づいた。「ごめんね、フェル……!!」 互いを、必死で抱きしめていた。小さな手だと思っていた少年は、気づけば大きくなっていた。その姿を、ずっと一緒にいることができなかったことを、ラビィはひどく悔いた。幾度も、フェルはラビィを呼んだ。そうして、互いに真っ赤に目をはらした。



 ねえねと笑う、声が聞こえる。

 とても、嬉しかった。それでも苦しくて、やっぱり、辛かった。





 ***





「ネルラ、一体どうしたんだい?」



 柔らかな声が聞こえる。



(ああ、暑い。本当に嫌だわ)



 面倒な試合だ。勝者にはお疲れ様と声をかけて、敗者には優しく頬を撫でる。彼らが求める、勝手な女という偶像を作り出すことなど簡単だ。己の容姿も相まって、男は簡単にネルラに尻尾を振る。それはひどくつまらないことだ。この男もそうだった。少しばかり面倒な立場であるものの、ネルラにかかれば、こうもいとも容易く手の上で躍ってくれる。



「いいえ、先程のバルド様の見事な勇姿を思い出しておりましたの」



 思い出すと、胸がどきどきするばかりですわ、と心にもない言葉を吐き出して、間抜けな皇子を笑った。取り繕うことばかりが得意な、優柔不断の、ネルラからしてみればただのつまらない男だ。これならば、彼の護衛であるサイと言うあの男の方が楽しめるというものだが、残念ながら、中々機会が見つからない。



「……フェルには負けてしまったけどね」

「勝負は時の運という言葉もあります。少なくとも、私には一番バルド様が輝いていらっしゃいました」



 よくもまあ、好き勝手に舌の上で言葉がすべるものだ、と自分自身でも驚いてしまう。バルドも、もう少しばかり悔しがってみればいいものを。何もかもがつまらなくてたまらない。



 そうしてネルラの脳裏に、ひどく目立つ銀の髪が映り込んだ。多くの人の中でも、はっきりと分かるあの腹立たしい髪の色だ。自身の弟と一体何を話していたのか定かではないが、彼女が孤独に苦しむ様を求めているのに、つまらないことだ。フェルもフェルだ。今までなら、甘い言葉をかけてやれば犬のように喜んでいたくせに、試合が終わるとこちらの笑みに見向きもせず、すぐさまどこかに消えてしまった。



(ああ、腹が立つ……)



 あの女が嫌いだった。許せなかった。だから、どうにかしてやろうと思ったのだ。



(いつでも、どうにかなると思っていたけれど、好きにさせすぎたかもしれないわね)



 邪魔な虫けらは踏み潰すべきだ。


 羽根をもいで、惨たらしく地を這う姿を、指をさして笑ってやろう。とても楽しく。腹を抱えて、笑ってやろう。

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