彼女の決意

第40話 不穏の足音

 様々な想いが交差していた。





 ラビィはフェルと手をつなぎ、互いに真っ赤に目をはらして馬車に乗った。彼と話すことができる時間はごく僅かだ。ぽつぽつと溢れるようなフェルの言葉をきいて、ラビィは自身の未熟さを恥じた。記憶の中で、娘は悪魔に憑かれてしまったと嘆く母に、父は『フェルがいるじゃないか』と慰めていた。



 幼心にそれなら自分は必要がない人間で、ヒースフェン家から除け者にされたと、そう感じた。悲しくてたまらなくて、それを吐き出す方法もわからなくてベッドの中で丸くなって、ただただ泣いた。次第に彼らと顔を合わすこともなくなり、ぼろぼろの姿で引きこもって、恨めしく、楽しげに笑うネルラたちを窓際から見つめたものだ。



 ラビィは家族にも裏切られた。そう考えていた。けれどもどうだろう。フェルだって苦しんでいた。それなら父と母だってそうなのかもしれない。でも、違うかもしれない。ラビィなど、いっそのこといなくなってしまえばいいのにと望んでいるのかも。



 わからなかった。わかろうともしていなかった。自分のことに必死だったと言えば聞こえはいいが、いつもどこか諦めていて、いつかネルラに許されることを願って、流されるままに生きてきた。



(悔しい……)





 ネルラへの恨みは尽きることはない。けれども同じくらいに自身が情けなかった。涙で滲んだ目頭を慌てて指先で拭った。フェルも相変わらず目元を赤くしながらも、ラビィの正面に座り、膝の上には硬く両の手を置いて、拳を作っていた。



「姉上が、以前のような言動を行っていたからには、何らかの理由があるのでしょう」



 彼自身も、そう願っていたと言っていた。返事をすることができなかった。

 すべて彼に伝えたかった。けれどもだめだ。察しのいいネルラのことだ。フェルの影の日を、ネルラは知ってしまったのかもしれない。弟を巻き込みたくはなかった。それに、ラビィは彼の前から姿を消す。今更どんな言い訳を重ねたところで、何の意味もない。



「姉上が、以前の姉上のままであったことを、嬉しく思います。けれども、僕はヒースフェンです。ヒースフェン家の長男として、恥じない姿であらねばなりません」



 つまりは表立ってはラビィに与することができないということだ。



「もちろんです。私はフェルが弟であることを誇りに思うわ」



 少年にも、様々な逆風があったに違いない。フェル自身も、一人きりで戦い続けてきたのだ。ぶるりとフェルは唇を噛んだ。そうして、今度こそ必死に涙をこらえた。そうだ、非難されなければならないのは、ラビィの方だ。ラビィは今から、彼らすべてを投げ捨てて逃げ出す。



 サイを、フェルを、両親を。大して興味もないが、嫌っているわけでもないバルドが次なるネルラの毒牙にかかることもあるかもしれない。いや事実、そうなるだろう。その覚悟はできていた。ラビィはただ生き抜くためだけに、努力を続けてきた。頃合いだった。





 ――――私は、絶対に、負けないわ。ただの一人でも、生き残ってみせる





 馬車に揺られながら、そう誓ったはずだ。けれどもあのときの強さを、ラビィは今も持っているだろうか? 誰もかもを見捨てて逃げることなど、できるのだろうか。



 わからなかった。



 自分一人が生き抜くことができればそれでいい。そう考えていたはずだ。フェルを巻き込みたくないと思う気持ちは、ただのエゴだ。そう思うのなら、ネルラの恐ろしさを語ってやればいい。そうして、ラビィが消えたあとに、彼の危険を少しでも少なくしてやるべきだ。そうわかっているのに、何も踏み出すことができなくなっていた。



(負けてはいけない)



 ときおり、ラビィの中で聞こえる声だ。負けないということは、戦わないこと。逃げてしまうこと。今まではそう考えていた。けれども本当は違うことは知っている。負けないということは、勝つこと。ラビィはネルラに勝たなければいけない。でも、そんなことが可能なのだろうか。ラビィが持っているのは、ただの根性一つで、頭の中身は過去の記憶があろうともただのどこにでもいる少女と同じだ。あちらの方が、一枚も、二枚も上手なことは間違いない。







「お嬢様、今日はまともに髪をセットしていただけるのですね」



 考えにふけっていると、鼻歌まじりにマリがラビィの髪を熱心に触っている。



「そうね、たまにはね……」



 髪の毛をぐちゃぐちゃにするまでもなく、頭の中身がぐちゃぐちゃだ。ため息がでた。そうして、目の前の鏡を見ていると、くりくりしたマリの瞳や、茶色い髪が目についた。ネルラも同じ茶の髪だが、マリの方が、より色味が深い。それから、どちらかというと彼女もラビィと同じ小柄で、いつもちょこまかと忙しく動き回っている。



「マリ、あなたの名前って、マリ・スクワノル、だったかしら?」

「え? はい、そうですが……」

「つまりはリス……」

「はい?」



 いや、何がどうというわけではないけれど、相変わらず、動物達が多いのだな、と思っただけだ。ラビィに関わる人間すべてが、そうなるようになっているのだろうか。ラビィとマリ、合わせて小動物コンビだ。とても弱そうだった。






 決めることなんてできなかった。ネルラが聖女となるまでに、まだいくつかのイベントがある。だからまだ大丈夫だ、と考える反面、準備は整ったのだから、さっさと逃げてしまえばいい、と囁く声も聞こえる。馬車に乗って学院に向かい、そのときばかりは二人でこっそりと話して、フェルに「姉さん」と呼ばれることが嬉しかった。



 だから外では互いに視線を逸らすことしかできないけれど、寂しさなんてなかった。学院に着くと、いつもと同じように入り口にそっと佇むサイに気がついて、フェルが唸るように牙を見せたが、所詮は羊だった。サイには飄々と受け流され、とぼとぼと消えていく。そうしている間も、ラビィは自身の足元を見つめていた。考えばかりがまとまらなかった。



「ラビィ様?」



 かけられた声に顔を上げた。珍しくも、すぐ近くに彼がいた。いつもならば周囲を気にして、ある程度の距離をあけているはずだ。「えっ、あの」「お顔色があまり良くはないようですが」 心配をされてしまっていることに気づいて、慌てて足を動かした。



「大丈夫です、少し寝不足なだけですから」



 問題ないです、元気ですよ! と主張するつもりでどんどん進んで学舎に入っていったのに、ラビィの必死の歩きも、すぐさまサイに追いつかれる。足の長さの理不尽を恨んだ。「しかし」とサイは言いよどみながら、眉をひそめた。「大丈夫です!」 もう一回伝えて、サイを見上げた。にかりと笑う。



 短い、ラビィの銀の髪が揺れた。ふと、サイは瞬いた。いつもと少しばかりラビィの姿が違うことに気がついたからだ。今朝はぼんやりとしていたものだから、マリが整えた髪をくしゃくしゃにすることを忘れてしまった。細い銀の糸が、サイの視界を覆った。それから、ひどく胸が熱くなって、拳を握りしめたくなった。「ラビィ様」 何を言うわけでもないのに、彼女の名を呼んだ。「俺は」 悲鳴が上がった。




 ラビィとサイの二人が振り返ったのは同時だった。轟音が聞こえると同時に、幾人もの生徒が助けを呼ぶ声が聞こえる。閉まりきった教室の中で、一体何が起こっているのか。すぐさまサイはラビィを背に隠した。そうして、逡巡したのち、彼女の肩を掴んだ。



「様子を見てくる。絶対に動くな」



 ラビィは頷いた。飛び込むように消えたサイの背中を追って、両手を握りしめた。彼女ができることと言えばそれくらいで、そんな自身が、どうにも歯がゆかった。そのときだ。



「はじめまして、ラビィ・ヒースフェン様」



 ――――気配なんて、感じなかった。




 一人の少年が立っていた。赤髪の、特になんてことのない少年だ。学院の制服に身を包んでいて、目を逸らせば、すぐに忘れてしまいそうだった。けれどもあまりの違和感に思わず後ずさったラビィと相反して、少年は愛想のいい顔をしながらも、彼女に片手を差し出した。



「こんにちは、ヒースフェン家のご令嬢。私はユマン・ルプレノン。あなたと同じ、ネルラ・ハリィに敵対するものです」



 ルプレノンと名乗る男は、細い瞳を弓なりにして、いっそ非現実なほどにその場所に立っていた。




「私はぜひともあなたと手を組みたい。ご一考、いただけませんか?」

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