第38話 姉と弟3

「ち、違うんです!!!」



 絞り出した声は、あまりにも情けない言い訳だった。


 だってそうだ。確かに、あのときはフェルのことで頭がいっぱいで、サイについて考える暇もなかった。でも、決して彼に負けて欲しいと思っていたわけではない。勘違いなんてしてほしくない。サイからすると、どうでもいいことなのかもしれないけれど、と考えたあたりで、少しばかりラビィは悲しくなった。



「私は、決してあなたの勝利を祈らなかった、わけでは……」



 そうしているうちに、どんどん声が小さくなる。サイは幾度か瞬きを繰り返してラビィを見下ろしていた。それから、ラビィは彼に気づかれないように、小さなため息をついた。そうだ、本当に、彼にとってどうでもいいことに違いないのだから。それに、と続きを考えたところで、「いえ、ご家族の応援をされるのは、至極まっとうなことです」 柔らかい声だ。



「当たり前のこと……」



 そうなのだろうか。フェルとは互いに距離をとって生きてきた。おそらく、それはこれからも変わらない。ラビィがネルラから逃れる日が来るということは、彼らの前から姿を消さなければいけないからだ。



 奇妙な間があった。ラビィは無言のまま、自身の足元を見つめた。サイといえば、彼は彼で何を考えているのか口を閉ざして、かと思えば、僅かに笑った。ラビィは不思議に彼を見上げると、サイは肩を震わせて、「いや、情けない」 そう言って笑っていた。



「いくつも年が下の少年に、ああもあっさり負けるなど」



 護衛というにはあまりにも情けない、と自分自身に呆れてだか、皮肉に口の端を上げてサイにしてはあまり見慣れない彼の表情だったものだからラビィは心底首を傾げた。



「とは言っても、サイ様は、まったく本気を出していらっしゃらなかったではないですか」



 ラビィが何の気なしに話した言葉に、サイはひどく目を丸めた。「なぜそれを?」 くるりとした灰色の瞳が、ラビィを見つめているものだから、なぜだかひどく恥ずかしくなってしまった。「なぜと、言われましても……」 サイは一切、魔法を使う気配はなかった。そもそも彼の媒介は自身の長剣であって、今現在彼が持っている刃が潰された訓練用の剣ではない。彼は始めから手加減ありきで勝負に望んだのだ。



「見れば、わかりますとしか……」



 ラビィが彼を応援しなかった理由の一つだ。そもそも本気を出そうとしていない事情があるのだから、目線の先は弟ばかりに行ってしまった。「み、見ればって」 堅物な少年が、こうまで慌てる姿を見せることはあまりないことだ。僅かに耳の後ろを赤くして、必死に唇を噛んで睨みをきかせた。ラビィからしてみれば久しぶりの眼光の鋭さに震えてしまった。こうやって彼があまりに立派にごまかすものだから、ラビィに少年の内側など伝わるわけもない。



 すぐさまサイは短く息を吸い込み、普段の彼となった。「護衛が、皇子をぶちのめすわけにはいかんでしょう」「そういうことでしたか」 合点がいった、とラビィは小さな両手を合わせた。相変わらず、真面目な少年だ、というところが今のラビィの認識だ。



「……とは言え、驕っていたことに間違いはありません。自身を恥ずかしく感じています」

「そ、そんなことは……」



 そもそも、魔法もなしで本戦に上がって来ること自体が化け物なのだ。ナルスホル家は王家の影のような存在だから、そうやすやすと魔法を使うことはない。



 普段から気苦労の多い少年だ。その上、彼のだいたいの面倒事はラビィ自身が犯人だ。バルドの命令とは言え本来は護衛であるはずの彼は、学院ではほとんどその任を果たすこともできずに、ただ中庭と学舎をラビィと共に往復して、たまにご飯を一緒に食べる日々である。まったりか。



(ああああ~~~~!!!)



 考えれば考えるほどに、申し訳無さが積もり積もった。その上、ラビィにとってはサイの“苦労”がありがたいのだ。彼がいなければ、ラビィはとっくの昔にネルラに飲み込まれていたに違いない。



「あ、あの、サイ様、お腹が減っていらっしゃいませんか!?」



 だから何かできることはと考えてみれば、出てくるのは食べ物ばかりである。ご飯を食べればすべて元気に、いや違う。そんなわけあるか。たまに思考がすべて食に支配される自分が恐ろしい。食を得られなかったトラウマだろうか。



「おにぎりしかありませんが!?」



 なのに勢いあまって叫んでいた。万一の非常食である。多分ちょっと求めるものとは違う。



 ころころした、お漬物によく合うおにぎりだ。可愛らしくて、ラビィからしてみれば見ているだけで元気になる。『とうとうお嬢様、おやつまで主張するようになりましたね!?』と作る使用人は悲鳴を上げていたが、食べ物はラビィの成長の象徴だった。だから、それを渡すことは彼女にとって、とても、とても大事なこと――――なのだけれども、これではただの飴玉を配布するおばちゃんと同義である。いやいや。「ハッ!」 我に返ってしまった。



「す、すみません。というかこれ、中は梅でした! 種はとっていますけど、塩だけで漬けているので、死ぬほどすっぱいです! だめです! サイ様が死にます!」



 梅はあったけれども、赤紫蘇が手に入らなくて、干すにも大変だと塩のみで漬けてみたところ、案外美味しくできた自信作なのだが、使用人からは目の裏がつんとしておかしくなると大不評である。漬物でさえ口元を押さえていた彼だ。これはいけない、と手をひっこめようとしたとき、サイはその大きな手で、ひょいとおにぎりを持ち上げた。あっという間に口にふくんで、それからびっくりしたような顔をして、びりびりと体を震えさせたくせに思いっきり飲み込んで、最後はちょっと笑った。奇妙に、ラビィの指先が熱かった。



「元気がでました、ありがとうございます」



 少年は礼を言って、ラビィの頭を撫でようとした。でもやっぱりやめた。彼女の白いほっぺたが、すっかり真っ赤に染まっていたことにサイは気づいて、少しだけ距離をとった。そうして、親指と人差し指をこすり合わせて、顔をそむけた。「……次に」 正直なところ、彼自身も困惑していた。「次に、機会があれば、少しはまともな姿を見せたい」 呟くような言葉だったから、すっかり敬語が消えてしまっている。



 そのことを自身でも理解して、すぐさまサイはラビィから視線を逃した。



「いつも、サイ様は立派かとは思いますが……」



 偽りのない言葉なのだが、サイからしてみれば納得のいくものではなかったかもしれない。「それなら、今度はしっかり応援させてください」 誰よりも大声を出してみせます、と約束のつもりで小指を出したが、真面目な彼だ。互いに指を絡ませることは難しかった。「よろしく、お願いする」 けれども、ふとしたように言葉が漏れた姿は少しばかり可愛らしかった。



「すみません、そろそろ皇子の元に向かわねばなりませんので」

「そうですね。すっかり引き止めてしまって」

「いえ。失礼します」



 素早く頭を下げてラビィとは反対に試合場に戻るサイとすれ違うように、ふわふわとクリーム色の頭をした少年が通り過ぎた。フェルだ。サイの姿に気づいた瞬間、彼は剣呑に瞳を細めたが、すぐさま顔をそむけ、ラビィに向かった。「こんなところにいたのですか」 それにまたあの男と、と舌を打って、見るからに苛立っていた。



「フェル、なんでここに……それにネルラは?」

「ネルラ? あなたを探していたに決まっている。なぜここに、というのなら、それは僕のセリフだ」



 フェルがラビィを探していた、という言葉がどうにもピンとこない。今頃、フェルはネルラに頬にキスの一つでもされて、舞い上がっている頃合いだと思っていたのに。いや、今回は交流度の一番低いはずのフェルが、本来の優勝者であるバルドさえも打倒して勝利したのだ。本編とはあまりに異なり過ぎて、ラビィの想像すら追いつかない状況になっていることは間違いない。



「さっさと帰りますよ。御者も待たせています」

「か、帰るわ。帰るわよ。でもそう引っ張らないで、痛い、痛いから!」



 ラビィの利き手を握りしめていた少年は、彼女の悲鳴を聞いて慌てて手のひらを放した。「す、すみません」「いいわ、大丈夫。驚いただけ」 右手をさすりながらラビィは首を振った。どうにもこの弟が、いつもより少しばかり可愛く感じてしまうのは彼を吹っ切れたように応援したせいだろうか。



 目立つ行動をしてしまったから、のちのちの不都合はあるかもしれない。けれどもネルラが命じる、令嬢らしからぬ行動と言えば間違いはないし、それほど問題はないだろう、とラビィ自身は考えてはいた。それよりも、決まりきった物語でも、覆すことができると知ったこの事実の方が大収穫だ。



 ラビィは一人満足げに口元を緩めた。そうしてフェルはと言えば、自身の後をしずしずとついてくる姉をちらりと振り返った。そうして、ひどく、大きな違和感に胸が締め付けられた。おかしい。こんな反応はおかしい。彼が知っている姉と言えば、まともな会話も成り立たず、一人ではまともに歩くこともできない。いつも苦しげで陰鬱で、身勝手な女であるはずだ。だから、おかしい。



 フェルに針を渡したときもそうだ。考えてみれば、ラビィが長い髪をばっさりと切り落としたときから何かが彼の中で渦巻いていた。


 ――――これは、知らない“女”だ。


 彼の本能が、そう告げていた。ぴたりと、止まった。ラビィは彼の小さな背にぶつかった。鼻をぺちゃんこにして、自分と同じ程度の背丈の少年を不思議に見つめた。少年は、言葉に迷った。



 ゆっくりと真っ赤な瞳と金の瞳が、かち合った。不思議な沈黙だった。サイとは、またどこか違った空気で、ひゅうひゅうと、風ばかりが吹いて、通り抜けていく。


 遠く、試合場からのざわめきが聞こえてくる。




「……あなたは」



 フェルは、ラビィに問いかけた。なんとおかしな問いかけなのだろう、とフェル自身でも気づいてはいた。





「あなたは、誰、なのですか……?」

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