第33話 ヒースフェン家の羊



「婚約者がいる身でありながら、男を侍らせていると? 一体、何を考えていらっしゃるのですか」




 ええー……、えっ、あ、ええーーー……?




 なんて思わずラビィがコメントに困りながら、生ぬるい顔でフェルを見つめるその少しばかり前に、時間は遡る。





 ***





 サイとの訓練の時間は、ひどく有意義なものだった。一人きりのご飯だって、特にさみしいと思ってはいなかったはずなのに、並んで食べると、ほっと心が安らいだ。でもそれだけだ。ネルラの攻略対象相手に気持ちにうつつを抜かすことなんてできないし、そんな気にもなれない。そうラビィは自分に言い聞かせて、今日もありがとうございましたと互いに頭を下げながら中庭から出た。



 そうすると、サイとラビィの距離は、途端にただの他人に戻ってしまう。よくよく見れば、サイがラビィの周囲を警戒するように背後を歩いているとわかるかもしれない。ありがたいことだと帰宅までの道のりを辿っていると、ふと珍しくサイがすぐそばにいた。



「ラビィ様、服が汚れています」

「あら?」



 腰の辺りに、と告げるサイは、すっかり口数も少なくなっている。周りの視線を気にしているのだ。朗らかな笑みなど、もちろんどこにもない。けれどもこれが彼の思いやりなのだと思うと、逆に落ち着く。腰の辺りが汚れている、と言われて、思いつくのは中庭での行動だ。お尻を気にせず地面に座ることも何度かあった。葉っぱの一枚や二枚はついているのかもしれない。



 両手でお尻を叩いても、手が届いていないのか、サイは小さく首を振った。「こちらです」 長い指でさされた箇所をなんとか首を回して確認する。ここかしら。違うかしら、と格闘していたのは、大して長い時間ではない。ただし時間と場所が悪かった。気づけば迎えの馬車で待つフェルが、厳しい瞳でラビィを見ていた。そして、件のセリフである。



 本来なら、ラビィが気をつけるべきだった。今更フェルにどう言われたところで、少しばかりちくりとくるがその程度だが、それにサイを巻き込むとなると申し訳がなかった。



(というかね、フェル。彼は皇子の命令で、私のもとにいるのよ?)



 なんて言い訳をしたくなったが、まさか怪しさのあまりに監視役をつけられています、と事情も知らない弟に暴露するつもりもないので、ため息がでるばかりだ。



「……フェル、彼はそんな人ではないわ。サイ様、それではごきげんよう」



 汚れている、と言われた箇所をこっそりもう一度片手で叩いて、サイを見送る。ほんの僅かな変化だが、サイの瞳が、こちらを気遣わしげに見ていたことには気づいていた。本当にありがたい、と思うべきなのだろう。しっかりとした味方とは言えないが、それでもラビィを気にかけてくれている。それでもラビィの立場を気にして、すぐさま消えていく彼の背中を見送り、フェルの視線は無視して、さっさと馬車に乗り込んだ。



 そもそも、婚約者がいてどうこうと言うのならば、バルド本人はどうなのだ。ネルラが貴族という身分を得て、学舎にやって来た途端、人目もはばからずにいちゃついていらっしゃる。



 とかなんとかいう事実は、おそらくフェルは知らないのだろう。中等部とは校舎が異なるから、噂もあまり出回らない。ネルラがヒースフェン家のメイドであったときは、もう少しおとなしくお忍びデートを繰り返していた。ちなみにそのことをラビィが知っているのは、まいどまいど、ネルラが自慢話をしていたからだ。



 ――――お尻がふわふわ軽いのは、フェル、あなたの想い人の方なのよ?



 なんて事実を伝えたところで、フェルとの険悪の仲は更に加速してしまうだけだし、ネルラと同じように他者を貶めたいわけでもない。ここはラビィが黙っていれば済む話だ。



 嫌われていることは百も承知だ。この弟と折り合いが悪いのは今に始まったことではなく、彼だって被害者なのだ。誰だって頭がおかしい姉なんて、関わり合いになりたくないに決まっている。その割には、フェルは辛抱強いとさえもラビィは考えていた。なぜならここ最近は毎日と言っていいほど、馬車の中で顔を合わせている。



 行き先が同じと言えど、よくもまあこんな広くもない空間で我慢できるものだ。もちろん、貴族用の馬車であるため、市井で使われるものよりもずっと快適だろうが。




 ときおり聞こえる馬の嘶きを耳にしながら、フェルとラビィは互いに顔を逸らして外の景色を見つめていた。少し前まで、ラビィはひどく病弱であったから、学院に行く日も少なかった。だからこそ、そこまでの居づらさを感じることはなかったし、いくら嫌われていると言っても、彼は弟だ。部屋に引きこもってばかりで父母と顔を合わせることもなかったから、以前のラビィはフェルとのこの時間は、少しばかり嬉しくも感じていた。いつもどこか寂しくて、誰かに側にいてほしかったのだ。



(と、いうのはラビィ側の事情だから、フェルはいくらでもわがままを言えばいいのに)



 仮にも、天下のヒースフェン家だ。まさか馬車代をケチるわけもなく、姉と関わり合いたくもないと主張すれば、いくらでも御者を用意することができるだろう。

 それとも以前からこうしていたから、今更変える必要性を感じていないのだろうか。



「……さきほどの」



 ふと呟かれたフェルの声にラビィが気づくには、少しの間が必要だった。彼の声は車輪の音で、ほとんどかき消されていて、それこそ聞き間違いだとさえ思った。「……えっ?」 少しばかり困惑して、ラビィは慌ててフェルに顔を向けた。相変わらず少年は難しい顔をしながら、ラビィに目を向けることなく外ばかりを見つめている。



「さきほどの、男です。一体、あなたは何を考えているのですか」



 まだまだ可愛らしい顔の眉間には、深い皺が刻まれている。



「何をって……」



 終わったはずの会話を、随分ほじくり返してくる。無理やり話をまとめて馬車に乗り込んだから、腹に据えかねているのだろうか。怒り足りなかったのかもしれない。とは言え、ラビィにとってはフェルの怒りよりもサイの名誉の方が重要だ。まさか彼との色恋を肯定するわけにはいかない。ラビィは毅然とした態度で声を落とした。「何もないわ。彼は皇子の護衛よ。何かあるわけがないでしょう」 ため息まで出てきそうだ。



「あなたがそう思っていても、周囲の目というものがあります」



 それはネルラに言ってちょうだい、という言葉を飲み込む自分は、随分我慢ができていると思う。「それに」 ついでに言えば、フェルはひどく苛立っていた。そうしてラビィの想定外の言葉を吐き捨てた。



「あの男、ひどく嫌らしい目をしていた」



 さすがに変な声が出そうになった。「ひっ、ふぇ……」 実際でた。それはないだろ、と笑いそうにもなる。思春期の男の子には、男女が揃えば何でもそんな風に見えてしまうのだろうか。っていうかサイがいやらしい目って面白いな。




 正直笑いたくてたまらなかったのだけれど、火に油を注ぐわけにもいかず、ラビィはグッと唇を噛み締めながら、フェルと同じく外を見つめた。それっきり、フェルとの会話もなかった。珍しい弟との会話だった。まあ、もうしばらくは無いだろうなと思っていたところ、その日のこと。夜食を終え満足したお腹をかかえて、気持ちはスキップしつつも慎重に屋敷を歩いていたはずなのに、互いの前方不注意にて、思わずフェルとぶつかってしまいそうになった。



「うわっ!」

「ひゃっ!?」



 二人で尻もちをついて、目の前をちかちかさせた。何があったの、と周囲を見回し、フェルが出てきた部屋に目を向けた。ラビィの記憶では、そこは使用されていない部屋のはずで、普段なら鍵をかけられている場所だ。彼女の視線に気づき、フェルはさっと立ち上がった。そして扉を背にへばりついた。「…………」「…………」 明らかに何かを隠している。「…………何か」「いえ、まあ、はあ」 いや怪しいよ。



 とかなんとか突っ込まない自分は大人である。そっと立ち上がり、「フェル、あなたも早く寝たらどうなの?」 姉らしい助言を残して、さっさと消えてあげた。



 あそこがフェルの、秘密の場所だったのね、と考えるのは、ゲームの知識からだ。とは言え、腐っても彼の姉であるので、ハリネズ知識に関係なく、フェルの趣味のことぐらいもともと見当はついている。ラビィ個人としては好きにすればいいと思うので、こんな遅くに大変ね、という感想が出てくるくらいである。

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