第31話 誰かの騎士

 なぜサイが、ラビィをかばってくれたのか。




 考えても考えてもわからない。あまりにもラビィが情けない姿だったから、哀れんでくれたのだろうか。可能性としても、なくはないだろう。バルドには、謝罪と、また日を改めたいということを手紙で伝えた。彼からの返事は、ネルラが残念がっていたということ以外は何のひねりもなにもない内容で、すぐさま捨ててしまった。これで次の茶会は、もう少し引き伸ばせるはずだ。



 あまりの緊張と、恐怖に吐き気がした。そのままベッドに入り込んで、立てなくなるかと思った。しかし、そんなことをしてしまっては、またあの体力がない頃に戻ってしまって、今までの努力が、水の泡になってしまう。すべてをなげうって逃げておいて、なんの説得力もないわけだが。



(あんな馬鹿なこと、もう、絶対にしない)



 冷静になればなるほど、情けなかった。ネルラと向き合う覚悟はとっくの昔にできていると思っていたのに、長すぎる10年という時間がラビィの足に絡まりついて、離れなかった。考えてみれば、ネルラをいじめたと断罪されかけたときも、結局何を言うこともできなかった。自分は何の成長もできていない。その事実を認めることが悔しかった。




 だからそれを拭い去るように、無理な訓練を繰り返した。いつもよりもずっと速く足を動かして、息を切らせて、サイに教わった魔力の基礎を思い出して、悲しいほどに小さな魔力を、幾度もぐるぐると循環させた。どこかに抜け道があるのではないか。小さな彼女の手の中で、ただ回り続ける水の塊は、まるでラビィと同じ袋小路の中にいるようで、悔しくて、ひどく目の前がぐらついた。それは本当に、周囲の景色が歪んでいるのだと気がついたのは、真っ青な空を見上げていると知ったときだ。



「いい加減に、なさってください!」



 仰向けで、パタリと倒れてしまいそうになったとき、ラビィの背中をサイが支えていた。ずっと背後にいたことは知っていた。彼はラビィの監視役だからだ。でも、添えられた手があんまりにも硬くて、それでいてしっかりとしていたものだから、ラビィはふと、彼に笑った。きっと安心した。そうして、すとりと意識を落っことしてしまった。





 そうすることで、どれだけこの若い騎士が慌てたのかラビィは知りもしないことだが、次に目をあけたときには、ちらほらと可愛らしい小さな花弁がラビィの瞳をくすぐった。赤とピンク、と黄色と、色とりどりで、見覚えがある場所だ。誰からも忘れられているような中庭の、その端にぽつんとあるバラ園の一つだ。あんまりにも小さなベンチが一つあるくらいで、花を愛でるには学舎からも遠く、具合もよくないものだから可愛らしい場所なのに、ひとけなんて誰もいない。



 ラビィはぱちぱちと瞬いて、周囲を見回した。呆れたように、騎士がラビィを見下ろしていて、「魔力切れです。本来なら医務室に向かいたいところでしたが、色々と都合が悪いかとも思いまして。申し訳ありません」 訓練でもよくあることですから。と考えながら、ぽつぽつと言葉を落とすサイの意味を、ラビィも同じく、ゆっくりと考えた。



 医務室ならば、ふかふかのベッドがあったから、こうして体を硬くすることはなかったのかもしれないけれど、ラビィは仮にもバルドの婚約者だ。そんな中で、バルドの命と言えど、サイが彼女を抱えて飛び込んだところで、奇妙な噂のもとになることなどわかりきっている。彼自身、見覚えのある症状に、すぐさま目を覚ますだろうと判断してこちらに抱えこんだというわけだ。



「いえ、お気遣いいただきましてありがとうございます。こちらこそ、申し訳ありませんでした」



 奇妙な気まずさがあった。ヒースフェン家での茶会から、ラビィはサイを避けるようにしていた。もともと、楽しげに会話をする仲ではないから、避けようとすれば、いくらでもそうすることはできる。背後の視線をいないものとして、歩いて、歩いて、歩き続ければいいだけだった。



 あちらから、ラビィに話すこともないだろう。そうラビィは判断して、すぐさまベンチから立ち上がった。少々迷惑をかけてしまったが、何をするにも時間が足りない。悠長にしている場合ではない。ただ気持ちだけが焦っていた。



「どちらに行かれるのですか」



 サイの問いかけに、答える気なんてどこにもなかった。たとえ借りがあろうとも、彼の目的もわからない。それでもあのときのことに対して、きちんと礼を言うべきだともわかっていた。惨めな格好をしていたラビィを、ただサイは哀れんだだけなのかもしれないが、彼のその行動が、ラビィを窮地から救ったのだから。



 けれどもそうすることで、あの日、ラビィが叫んだ言葉の真意を尋ねられることが怖かった。何がどう転がるかもわからない。彼女は薄氷の上に立っている。一歩進めば、パキリと足元は割れてしまって、穴の中に転がり落ちて行ってしまう。


 失礼します、と頭を下げて、サイを振り返ることなく細い足を踏み出した。そのときだ。確かに、彼に腕を掴まれた。



「お待ち下さい」



 びっくりして、すぐさますっ転んでしまいそうになった。サイにしてみれば、わかっていたはずなのに、やはりそれでもラビィが軽くて、こちらも慌てた。何をどうなったのか、土の地面の上で、ラビィはサイの膝の中に丸まりこんでいて、「えっ」と声をあげたときにはじわりと耳の裏が痛くて熱くなった。



 互いにすぐさま距離をとって、そんな困惑した自分を忘れてしまおうと、ラビィは彼女に似合わず俊敏に立ち上がって、スカートについた土を叩いた。サイもそれに倣って居住まいを正して、また何かを言おうとしていたが、ラビィは無視して立ち去ろうとした。「お待ち下さい!」 なのに、想像よりも彼の声が大きくて、しっかりとしていたから、思わず立ち止まってしまった。



「ラビィ様、俺は、あなたに謝罪しなければ、ならないと」



 一体なんのことだ、とラビィが瞬いたのは無理はない。ただ、ぱくぱくと幾度も口を開けて、閉めてと苦しげな様は、どこかで見たことがあるような気がした。考えてみれば、図書室でも同じような仕草をしていたような気がする。「あなたの、腕が、その、細いと」「……はい?」 本当に、なんのことだ。



「座り込んだあなたの手を引くとき、あなたの腕が、細いと、そう、言ってしまったことを、ひどく、後悔をして」



 くるくると、記憶を巻き戻した。そうして、彼が言っているそれを理解したとき、そんなことを、今まで気にしていたの? とびっくりして、口元に手を当てた。それからひどく気まずげに、頭を垂らした騎士を見て、「そ、そんなのもう、私、忘れていたわ!」 声が震えてしまったのは、笑ってしまったからだ。



 確かにあのとき、ラビィはひどく傷ついた。自分でも、事実であるはずのことを言われて、なぜこんなに傷ついているのかわからなくて、恥ずかしさを感じていたことだ。でもそんな小さなことで、この少年は心の中を重くしていたのかと思うと、笑ってしまった。自分でも、びっくりするくらいに大声で笑ってしまったのだ。けらけらと目尻に涙をためたラビィに、サイは僅かに赤面した。それでも、彼はどこかホッとしていた。彼は確かにバルドに命じられてラビィの監視を行っていたが、自身での意思でもあったのだ。



「ラビィ様」



 だからこそ、もう一つ告げなければいけないこともあった。



「もう一つ、謝罪すべきことがあります。俺は、あなたがバルド様の婚約者であると聞き、こうして今いるよりも以前から、あなたの調査をしておりました」



 それは不思議ではない。初めて彼と出会ったとき、サイは刺すような視線をラビィに送っていた。婚約者にふさわしくもない、狂った令嬢であると、そう思っていたのだろう。彼の考えは理解できる。「そう」 だからラビィはただ頷くだけの返事をした。そのことに関して異議を唱える権利は、ラビィにはない。



「確かに、以前は素行も悪く、おかしな……失礼」



 言いづらく咳を一つしたサイに、「どうぞ続けて」 片手を出した。頭がおかしい、と言われないだけ彼の優しさがわかる。「俺には、違和感があります」 真っ直ぐと、こちらを見つめた瞳に、ラビィは震え上がった。けれども、それを知られるわけにはいかなかった。そんなラビィを知ってか知らずか、サイは静かに息を飲み込み、一つ、ラビィに問いかけた。



「あなたは、一体何におびえているのですか」



 体が、ひどく震えた。



 吐き出す息が重く、苦しい。これ以上、何を言われるのか怖かった。土足で、彼女の内面に許可もなく踏み込むサイというこの男が、ラビィにとっての恐怖に染まるのは一瞬のことだった。震えながら一歩足をひいて、首を振った。そうして、ヒースフェン家と同じように、お粗末なラビィの体はいとも簡単にバランスを崩して、土だらけの中で尻もちをついた。もしかすると、涙さえも滲んでいたかもしれない。



「ち、ちがう、そうじゃない!」



 それに慌てたのはサイだ。その大きな体で、崩れ落ちたラビィの体に、必死に視線を合わした。「あなたの何を暴きたいのか、そんなつもりは俺にはない。ただ……なぜ、あなたがこんなにも」 小さなラビィの手を、サイは静かに見つめた。幾度も池に向かって、歩いて、そして魔力の制御を知りたいと、彼女は必死だった。細いと言ったはずの彼女のその体で、ラビィは何かに恐れて、ただ懸命に日々を生きていた。

 その姿を、彼はただ真摯に見つめていた。



「俺は、バルド様の騎士だ。あなたの味方になることはできない。けれども」



 幾度も、彼が考えたことだ。



「あなたのその努力を見ないふりをすることもできない」



 ラビィは、ぱちぱちと瞬いた。そうしてサイの言葉をゆっくりと噛み締めたとき、ふいにやってきた嗚咽を、慌てて飲み込んで、唇を噛んだ。泣いてはいけないと思った。そんなことをしてしまえば、彼に甘えて、何もかもが無駄になってしまうような気がしたからだ。それでも、何度も鼻の頭が熱くなって苦しくなった。



 座り込んだまま何を言うこともないラビィに、サイは静かに問いかけた。彼としても、複雑な立場だった。「もし俺に、何かできることがあるのなら、力になりたいとは思っています」 おそらく、彼女が望む多くのことは難しいだろうが、それでも兎のように震える少女を見捨てることができなかったのだ。



 ラビィは、あんまりにも甘くてこちらを誘うような誘惑の言葉に苦笑した。すべてはネルラが仕組んだことであると、彼に伝えることができれば、どんなにいいだろう。彼は誠実に、ラビィを見ている。けれども、サイは、あくまでも攻略対象の一人だ。ネルラに恋をする男の一人のはずなのだ。特に彼は後半にストーリーを盛り込まれている。これからどうネルラと接触するのか、ラビィには予想がつかない。



(それでも、この人は、私にとって十分にありがたい存在だわ)



 サイがいてくれるから、ネルラの行動を、何とか阻止することができている。サイにとっては知るよしもないことだが。



「……でしたら、こうして一緒にいてください」



 監視対象として、存分にラビィのそばにいて欲しい。そう言った意味だったのだが、堅物なこの少年は、ラビィの言葉にひどく動揺した。「は、はっ!?」 これほどまでに素っ頓狂な声を上げることは珍しい。耐性もあまりないものだから、ひどく耳の端を赤らめて、慌てて仰け反りながらラビィから逃げた。



「もちろん、サイ様がこうしていらっしゃることは、バルド様の命令ということは理解しております。存分に、監視なさってください」

「えっ、あ、いえ、そういう、ことか……」



 それから自身の勘違いを理解して、さらに顔を赤らめたが、一瞬のことだ。ラビィは気づきもしなかった。




 サイとネルラが、どう繋がるのか、予測もつかない今となっては恐ろしくもあったが、ひどく嬉しいような、そんな気持ちもあった。一人ではない。そう思えることがきらきらとしていて、両手いっぱいに星を抱きしめているような、そんな温かな気分だった。



 ラビィは少しばかり瞳を伏せた。それから、やはり甘えてもいいだろうかと、そうも考えたのだ。



「……サイ様、私はこの通り、体力もなく、魔力の扱いも下手で、情けない体をしています」



 相変わらず二人で座り込んだままだったが、ぺたりと薄い体に手のひらを置いた。言葉にしてみると、やはり情けなかったが、事実なのだから仕方がない。サイはすぐさま否定しようとしたが、彼女がそれを望んでいないことにも気づいていた。だから続きを待った。



「強くなりたいのです。まともな体を手に入れたい。できる限りで結構です。あなた様は騎士です。人よりも、鍛錬を重ねていらっしゃる。ですから私にどうか――――私を強くする、手助けをくださいませんか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る