第30話 変化の兆し2


 一体、ネルラとバルドは、何を考えているのか。



 ここ最近、二人で揉めている姿とは、このことだろう。あの平和主義の皇子様のことだ。できれば、ネルラとラビィ二人のことは、なあなあに流してしまいたい。けれどもネルラが泣くものだから、せめて仲を取り持とうと、ネルラに提案した。それを彼女は嫌だと首を振って、バルドを困らせて、すがりついて――――やっとこさ、わかりました、と頷いたに違いない。



 もちろんすべて、演技だろう。いやいや、いじめられていた相手に、顔を合わせる。そんな、ラビィと正式に顔を合わせる状況を作り出したのだ。もしかすると、心優しい少女のふりでもしたかもしれない。ラビィ様とは、様々なことがありましたが、それでも幼い頃から一緒にいた方です。何か事情があったのかもしれません、とかなんとか。目に浮かぶようだ。




 学院にて糾弾されたときは、マシューがその場を止めたことでことなきを得たが、今度はそうはいかない。ラビィはこれから先、ネルラが発する様々な言葉で振り回されることになる。何を言われるか、わかったものではない。お茶会では、相変わらずラビィがヒステリックに声を荒げるふりをして、ネルラはそんなラビィを優しく許す。そして最後にこう言うのだ。



『ラビィ様、どうか怒りをお納めください。私は、ずっとラビィ様と仲良くさせていただきたいと思っておりました。ですから、ぜひまたこのような機会を作らせてください。できれば、次は二人きりで』



 おしまいだ。

 その言葉には、イエスと言うこと以外、許されないのだろう。




 今でこそ、互いの不仲をもとにして、サイという防波堤もあり、ネルラとの接触を極端に避けることができているのだ。それがなくなってしまえば、ラビィは彼女に踊らされるしかない。そうなる前に逃げるしかない、と両手を合わせて震えた。




 けれどもまだ足りない。一か八か、この細い体一つで屋敷から逃げ出して、果たして一人で生きていけるのか。ネルラが聖女となったとき、彼女は国中の手腕を使って、ラビィを追いかけ回すだろう。隷従の魔法は、一人きりにしか使えないから、役に立たない駒は殺すしか無い。だから、ラビィは最低でも国境を越えなければならない。

 無茶に、決まっている。





 本来なら、婚約者同士の顔合わせに別の女を連れてくるなど言語道断のはずだが、ヒースフェン家は、言うなれば、ネルラの古巣だ。ラビィの両親も、実の娘以上に可愛がっていた彼女を歓迎するだろう。それでも嫌だと皇子からの提案を断れば、ネルラに不審に思われてしまう。そうなれば、さらなる強硬な手段に出る可能性もある。八方塞がりだ。




 なんで、もっとはやく逃げ出そうとしなかったんだろう。現状にあぐらをかいて、安心していたんだろう。そう自分自身を責めて、怒って、ひとしきり泣いたあとに、そんなこともないことは、ラビィが一番よくわかっていた。彼女は、できる限りの、精一杯を生きていた。マシューに叫んだ言葉ではないが、限界というものは、たしかに存在するのだ。




 もしかすると、ラビィはネルラに、負けてしまうのかもしれない。バルドが先触れした茶会の日が近くなる。一日、一日が苦しかった。まるで処刑台の上に、一歩ずつのぼっていく感覚だ。そうしている間に、何か現状を打破する解決策があるのではないかと、諦め悪く考え続けた。けれどもそんな都合のいい話があるわけもなく、ラビィはただ、死に近づいた。



 なぜならこの話は、ネルラにすべて有利にできあがっている。ラビィは所詮、出来損ないの悪役なのだ。



 ふらつくように、日々を過ごした。マシューからもらう、人よりも一枚多い課題をただ握りしめて、いつもの通り、後ろにくっついてくる騎士ともに視線を合わすこともない。初めて出会ったときよりも、随分近い距離で歩いていたが、それでも彼はただの他人だ。ラビィを助けてくれるものは、誰もいない。



 せめてもの一縷の望みを抱いて、当日を迎えた。似合いもしないドレスだと思っていたが、最近は少し窮屈で、より不格好にも思える。切ってしまった短い髪もみすぼらしく、真っ赤な瞳は、泣きはらした後のようで、ひどく陰鬱だった。鏡なんて、見たくもなかった。



(ネルラに、命乞いを……)



 皇子を前にして、殺さないでくれと叫んでみるのはどうだろう。マリから、バルドの到着を知って、ゆっくりと歩を動かしながら考えた。今のラビィは、原作ではできるはずもない行動をすることができる。彼の前で、派手なパフォーマンスをしてみるのだ。どうだろう。想像して笑ってしまった。味方も証人もいなく叫んでは、やはりただの頭がおかしい女だと思われるだけじゃないか。



「はは……」



 口元から、乾いた笑みがこぼれた。背後を付き従うマリが、奇妙に眉をひそめた。悪役令嬢が、ヒロインに勝てるわけがない。当たり前の話で、誰もラビィが勝つことなんて望んでいない。物語は、ラビィの退場を示唆している。そのとき、胸の奥で小さな声がきこえた。その声はどんどん大きくなる。ずっと聞こえていたことだ。でも、聞こえないふりをしていた。





 逃げたい





 初めは僅かな声だった。抑えようとする度に膨れ上がって、大きくなる。逃げたい。今すぐに、逃げ出したい。準備なんてどうでもいい。苦労なんてしたくない。私はなにもしていない。苦しいことなんて嫌で、好きじゃなくて、頑張ることはもう嫌だ。怖い。とても怖い。死にたくない。つらい思いもしたくない。だから逃げたい。



 体力をつけてとか、お金を得てからとか、そんなことどうでもいい。とにかく怖いのだ。後ろから脅かされる恐怖にぞっとして、とにかく悲鳴を上げて、走って、走って、消えてしまいたかった。ずっと我慢をしていた。心なんて、とっくの昔に折れていた。それでも、前世の記憶を思い出して、この苦しさが、ただのゲームの中なのだと知って、悔しくって、努力して、努力して、努力した。なんとかなると思った。それでもずっと怖かった。



 聞こえないふりをしていたのに、どんどんと気持ちが溢れてくる。立ってなんていられない。口元から溢れそうになる悲鳴を必死に押し留めた。とにかく走り出して、逃げてしまいたかった。



「マリ」



 自分の声が震えていないことが不思議だった。



「あなたは、先に皇子のもとへ行きなさい。少し、お待ちいただくように」

「……先に、とは?」

「いいから! はやく! 私はあとで向かいます!!」



 不思議に首を傾げるマリを、無理やりにバルドのもとに向かわせた。マリの姿が消えたことを確認して、ラビィは必死に走った。歩くことはできる。でも、走ることはまだ苦手だ。けれども、足をもつれさせて、ドレスをくちゃくちゃにさせて、ラビィはネルラから逃げ出した。限界だった。怖くて、怖くて、戦うことなんて、もうできなかった。





 馬鹿な行動をしているとわかっている。

 この行為は、自分の首を締めているだけなのだと。逃げるにしても、もっといいタイミングがあったはずだ。荷物だって、お金だって部屋の中に隠している。今のラビィが持っているものは不格好なドレスぐらいで、それ以外はなにもない。わかっているのに、震える体を止めることができなかった。屋敷の回廊を通り窓の枠に足をかけて飛び降りて、庭を走り抜けた。ドレスの裾が重たくて、息も苦しい。こけてしまった。もう、何度目かもわからなかった。泥だらけで、生け垣の中につっこんで、情けない体を笑った。



 それでも、もう少しで屋敷から抜け出すことができる。そうすれば、きっとラビィは、自由に息をすることができるはずだと、わけもわからない感情で、頭を葉っぱだらけにしながら顔を上げた。



「ラビィ、様……?」



 なぜ、彼がここにいるのか。

 理由なんて知りたくもなかった。



 サイが、灰色の瞳を驚くばかりに見開いて、ラビィを見下ろしていた。彼の大きな体が影をつくって、ラビィにかぶさっていた。サイは、バルドの護衛だ。以前に面会に来たときにも、一緒についてきたことがある。それならば、今回もそうなのだろう。いても不思議ではない、という考えと、誰にも会わないように、必死に抜け出してきたのに、それでも彼に出会ってしまった自身の不運を嘆いた。



「一体、なにがあったのですか!?」



 慌ててサイは腰をかがめた。そうして、泥だらけのラビィを持ち上げようとして、相変わらず細い彼女の腕にハッとして、思わず出した自身の腕をひっこめた。そんなサイの考えは、ラビィにとってはどうだっていいことだ。涙が溢れた。「ら、ラビィ様!?」 サイから、困惑の声がきこえる。そんなことどうでもいい。



「言わないで」



 ラビィはただ表情を殺して、ぽろりと涙をこぼしながら、サイを見上げた。そうするうちに、だんだん苦しくなってきた。



「言わないで、お願い、誰にも言わないで。会いたくない。バルド様に、ネルラに、会いたくない、お願い、言わないで……!!」



 気づけば、顔もぐしゃぐしゃになっていた。そんなことをバルドの騎士に叫んだところで、なんの意味もない。せめて、ネルラのように、可愛らしくすがりつくことができればいいのに。そんなこともできない自身の不器用さに嫌気がさして、子供のような駄々が、馬鹿馬鹿しかった。哀れでもあった。



 サイはただ、無言でラビィを見つめた。


 ふと、足音がきこえた。サイはすぐさまラビィを生け垣の中に隠した。そうして彼女を背にして立ち上がった。



「サイ、ラビィは見つかったかい?」



 バルドの声だ。ラビィは、兎のように震え上がった。「本当に、どこに行ってしまわれたのでしょうね?」 ネルラが花のように甘い声で、バルドに問いかけている。



 ラビィとしてみれば、必死に走って逃げ出したつもりなのに、人よりも遅すぎる足だ。屋敷から抜け出す前に、随分時間が経っていたようだ。マリには皇子には待っていてもらうようにと伝えたが、意地の悪いネルラのことだ。適当にいいくるめてラビィを探しに行こうとなったに違いない。今となってはどうすることもできない。こんなおかしな姿で、彼らの前に出るわけにもいかない。ただ、サイに祈った。誰にも言わないでと願ったこの言葉を、この真面目な騎士ならば受け止めてくれるのではないかと。



「ラビィ様でしたら、こちらでお会いいたしました」



 すぐさま、その希望は打ち砕かれたが。


 当たり前だ、彼はバルドの騎士なのだ。自身の主を欺くことなどあるはずがない。ゆっくりと息を吐いて、自分を嗤った。わかっていたことじゃないか。



「お会い致しましたが、随分顔色が悪い様子でしたので、自室に戻られました」



 ぱちりと、ラビィは瞬いた。



「ラビィが戻ると? そう言ったのかい」

「いいえ。ラビィ様はバルド様にお会いになるとおっしゃっていらっしゃいましたが、私が部屋に戻るように伝えたのです」

「まあ! そんなに具合がよくないのね。それじゃあ、せっかくですしお見舞いに伺いましょうよ。ねぇ、バルド様」



 そうだね、と考えるようなそぶりをするバルドに、ラビィは両手を合わせて祈った。けれども、すぐさまサイが声をかぶせた。「ひどく、顔色が悪い様子でしたので、戻るようにお伝えしたのです」 先程と同じ意味を、より深く、ゆっくりと伝えた。そうすれば、さすがのネルラも、「まあ」と言葉を落とすくらいで、それ以上は何も言えない。



「それなら仕方ないね。またの機会にすることにしようか」

「……そうですわね」



 残念ですが、と最後に告げたネルラの気持ちに、嘘はないだろう。彼女としては、絶好の機会だったはずだ。消えていく彼らの背中を生け垣の隙間から確認すると、ふと、サイが振り返った。ぺこりと頭を下げて、すぐさま皇子の背後につく。嘘のような時間だった。



 ラビィはただ、自身の胸元に手をあてた。過去では、痛々しい刻印と共に、ラビィを苦しめていた場所だ。それなのに、今となっては別の意味で苦しくて、困惑した。なぜ、サイがラビィをかばってくれたのかわからない。そもそも、本当にかばわれたのかさえも。



 ぐしゃぐしゃの体で、へたり込んだまま、ラビィは一人、体を震わせた。

 本当にわずかでも命が延びたことに安堵して、必死に、片手で涙をぬぐった。


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