第29話 変化の兆し


 何もかも、順調だった。すべてを信用することはできないが、サイという監視役は、誰を相手にするよりも楽で、授業も毎度プリントが足りないと主張する必要もなくなった。



 自身の体も、少しずつであるけれども、変化がわかればやる気も溢れてくるというものだ。日課の中庭通いは毎日欠かさず続けている。人並みの半分程度には、胃も丈夫になってきた。



 日々、様々な食事を考えてみて、次なるは洋風リゾットに進んでやるか、と考えていたとき、赤いトマトがあんまりに美味しそうだったから、恐る恐る、生のトマトをかじってみた。甘くて、おいしくて、涙が出てきた。冷たいお野菜だって、もう美味しくいただける。食べ物の摂取をできるということはとても幸せなことなんだ。うわーっと、嬉しさやら興奮やらでぼろぼろ涙をこぼしてしまうと、使用人は、「俺は何もしてませんけど!?」と食堂の隅で一人で勝手にチビリ上がっていたが。






 ラビィはネルラの目を盗み、彼女がイベントを堅実にこなしていく最中、レオンの店を訪ねた。少しずつ金品を売払いお金を手にすると、次にできることと言えば必要物の買い出しである。まずはリュックから手に入れねばならないと、マリに見つからないようにベッドの下やらクローゼットの中やらの隠し場所を漁った。とてもやりがいのある日々だ。



 ネルラの動向と言えば、最近は、ときおりバルドと揉めている姿を目撃されているらしい。まさかあの女が手に入れた白鳥、もとい鴨を逃すヘマなどするはずがないので、過度な期待はできないが、悪いニュースではないだろう。



 彼らが揉めて、ラビィに対して意識がおろそかになってくれるのなら、万々歳だ。誰のルートに入っているかはわからないが、今のうちに、できることをするだけだ。だから、ラビィは順調だった。順調だったはずなのに、どうしてだか、気持ちが沈んだ。歩いている道がふとしたことですべてが崩れ落ちて消えてしまうような、そんな不可思議な危なさすら感じていた。怖かったのだ。









『年頃の子供は、ああして誰しも癇癪を持つものです』



 しわがれた声が聞こえた。開いた扉の隙間から、明かりが漏れ出している。体がぴくりとも思い通りに動かないのは、これは過去のことで、ラビィが今よりも、ずっと幼い頃だからだ。あれは医者の声だ。体を見せろと言うから、叫んで、逃げて、暴れまわってやった。部屋中をぐちゃぐちゃにした。



『癇癪? あんなものが、癇癪と言っていいんですの?』

『お嬢様は、特に人よりも激しくいらっしゃいますが』



 幼い頃のラビィとよく似た姿である母が、悲しみのあまり、ほろほろと涙をこぼした。兎のような赤い瞳が、さらに赤くなって、父はそんな母の肩を、そっと抱きしめた。



『娘には、悪魔がついてしまったのだな』



 この国では、なんでも悪魔のせいにする。ご飯に卵をかけて食べることが、悪魔の組み合わせだと叫んでいたのは使用人だ。そう考えているのは“これから先のラビィ”だ。過去のラビィは、ただ何も考えることができなくて、先程やぶってやったカーテンの、大きな切れ端をずるずる引きずりながら、出ることもない声を、幾度も喉の奥から絞り出そうとした。



 たすけて。



 そう叫べたら、どんなにいいだろう。逃げ出そうとする度に、胸元がひどく傷んだ。この痛みは、いつかラビィの心臓を握りつぶしてしまうかもしれないと、そう恐怖した。気の毒なお嬢様、と嗤うネルラに許しを乞いて幾度も期待を繰り返して、捻り潰された。それでもやっぱり、元通りになることを期待していた。



 ――――私は、悪魔になんて、取り憑かれていない。



 なぜ誰も気づいてくれないのだろう。ただネルラに操られているだけなのに。どうして、賢い大人ばかりなのに、そんなこともわからないのだろう。たすけて、たすけて。叫んで、この扉の向こうに飛び込んで、父と母に泣きつきたかった。それなのに、ラビィがおかしくなろうと、ヒースフェン家には、まだフェルという弟がいるじゃないかと母を慰める父の声に絶望した。今考えてみれば、父の声も、気丈に振る舞っていながらも、僅かな震えがあった。でも、そんなこと、幼いラビィには関係なかった。見捨てられたと、そう感じた。



『とにかく今は、お嬢様の様子を見るしかありますまい。成長するにつれ、もとに戻るものもおりますから』



 ただの一枚の扉向こうがとてつもなく遠かった。気づいて欲しかった。でも、気づかないでも欲しかった。きゅうきゅうと傷む、奴隷のような刻印があまりにも苦しくて、逆らうこともできなかった。だから声の代わりとばかりに、ほたほたと涙をこぼして、そんな顔を布切れで必死に隠した。そして彼らから逃げた。



 もし本当に、悪魔というものがいるのなら。

 それはネルラのような顔をしているに違いない。








 ベッドの中で、ぐっしょりと嫌な汗をかいていた。目の下が妙にかさついている。ため息をつきながら片手で顔を拭った。きっと、こんな夢を見たのは、何もかもが順調すぎるからだ。それが、ラビィを不安にさせる。



 起き上がり、身だしなみを整えたところで、マリを呼んだ。職務に忠実であろうとしすぎる彼女である。初めの頃は適当に放っておいてくれたから扱いやすかったものの、最近では常に懐に櫛を常備しているようで、どこからか現われて、ラビィの髪をとかそうとする。やられる前に、さっさと呼ぼうという心情である。



 ベルを鳴らして合図を送れば、すぐさまやって来たマリは、素早く朝の準備を始めた。とは言っても、使用人以外から渡される朝食は信用していないし、ラビィは着替えも自分で行っている。あとは軽い身だしなみと学院への手荷物をまとめる程度なのだが、その一連の流れの中で渡された手紙の一つに、ちりりと嫌な予感がした。



「バルド・スワーグ・ホワイティ様からのお手紙が届いております」

「……ええ。そのようね」



 見慣れた封蝋はバルドからのものに間違いなく、以前ならその印を見た瞬間に小躍りしたものだが、今となってはげっそりする。そろそろ、形式のみの婚約者に対して、定期的な面会日が近づいてきたのだろうか。律儀なことだ。開いて、刻まれた文字の言葉をすぐさま見つめた。そうして、ぞっとした。




 今度の茶会には、ぜひ、ネルラの同伴を――――



 指先が震えた。皇子はネルラを、またこのヒースフェン家につれてくることを望んでいる。恐ろしくて、うまく文字を読み取ることができない。互いに様々な行き違いがあったが、謝罪の場として、と記載されていることをやっとのことで読み込んで、瞳をつむった。あんなに日々は順調であったはずなのに、ひどく不安ばかりが溢れていたその理由に、やっとこさラビィは気づいたのだ。





 彼女はラビィとして生まれてから、うまくいった試しなんて、今まで一度だってないのだから。

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