第19話 学院戦争2

 休暇も明けて、すっかり自分の髪の短さにも馴染んだ頃、ラビィはたゆまぬ努力で階段をのぼって、おりて、速歩きを繰り返した。一分一秒たりとて無駄にできぬと人気のない学舎の片隅で休み時間をトレーニングに費やした。友人はいないので、その分、心置きなくできるというものである。



 授業が終わり、すっとラビィが立ち上がれば、毎度周囲からは固唾を飲む音が聞こえた。そうしていそいそドアをくぐり抜けてしばらく経つと、平穏な令嬢達の話し声が背後からやっとこさ届いてくる。



 ラビィとなる前、つまりは前世の記憶を漁ってみると、悪役令嬢と呼ばれる高位の貴族の周囲には、取り巻きと呼ばれる低位の貴族の令嬢たちがわらわらといるのがセオリーだったような気がするのだけれど、ラビィがいない教室は、楽しげに盛り上がっている様子だ。



 ヒースフェン家の長女に関われば、頭からぱくりと食べられてしまう。とまではいかないまでも、奇声を発しながら追いかけ回されるので、決して、関わってはいけない。という噂を屋敷で培ったストーキング技術を駆使して耳にしたが、そこまでした覚えはない、とさすがに静かに一人で片手で突っ込んだ。ちょっと盛りすぎではないだろうか。




 とは言え、これらは過去の類まれなる“努力”の結果なので、ラビィとしてみれば傷つくつもりもない。だからこそ、こうして誰にも邪魔をされることなく、足踏み運動ができるというわけである。と一人言い訳を繰り返しながらトレーニングに明け暮れていたとき、時期外れの転入生の噂をきいた。ぞくりと背筋をはしるものがあった。



 ネルラは鮮烈すぎる印象を学院中に轟かせた。ありふれたカラーリングであるはずの彼女の茶の瞳がぱちりと瞬いただけで、妙に周囲をざわつかせた。これぞヒロイン補正、という懐かしくも俗な言葉を思い浮かんだ。


 ゲームでのラビィは、ボロボロの見てくれで、悲しいまでにネルラを貶め、惨めな姿をプレイヤーに見せつけていたが、わざわざそんなことをする必要はない。なぜならネルラは、すでにヒースフェン家のメイドではないのだ。こちらが関わろうとしない限り、クラスも違う彼女と顔を合わせることもない。



 そうラビィは自分自身に言い聞かせていたものの、学舎までの道を通り過ぎる際に、こちらにやってくるネルラの姿を目にしたとき、理屈もなく、嫌な汗が吹き出した。記憶をたどれば、ネルラとラビィの学院での再会は、同じく学舎を背に、不思議と周囲には誰もいない並木道の中だった。逃げ出したいのに、足を縛り付けられているような、そんな感覚だ。まさか原作がこちらを絡め取ろうとしているのか。



 ゲームとまったく同じ周囲の光景を頭の中で見比べて、狂いだしてしまいそうだ。彼女と出会ってはいけない。10年の楔は、契約の印は消えてしまったはずなのに、ラビィの心の奥底に恐怖が刻み込まれている。ネルラを前にしただけで、歯の根が合わなくなってくる。今のラビィは、過去のラビィよりもずっと図太くなったはずだった。なのにゲームの本編に、ついに足を踏み入れてしまったのだと認識して体が小刻みに震えた。



 ネルラがラビィに気がついたとわかったとき、ぎくりと喉がひくついた。「あ……」 逃げなければ。ストーリーを始めてはいけない。ならばどうやって。ネルラの彼女の細い足が、ラビィに近づいてくる。



(強い心をもたねば)



 息を吸い込んで、吐き出した。ラビィはただの震えていた少女ではない。根性という言葉を噛み締めておかゆと共に生きている。



「ひさしぶりね、ラビィ」



 にっこりと微笑んだ彼女の口元は歪んでいた。けれどもそう見えるのは、ラビィだけだ。これから聖女と呼ばれることになるこの少女は、ほとほとと可愛らしく小さな足を動かして、こちらに近づく。ぞっとした。



「……ええ、ネルラ」



 ラビィは細い指先を力の限り握りしめた。負けてはいけない。なぜだかゲームのモノローグの声が聞こえたような気がするが、きっとこれはラビィの内なる声だ。



「そう硬くならないで? 丁度いいところで出会ったわ。私、あなたにお願いをしようと思っていたの」

「……一体、なんのこと?」



 お願い、という言葉を使ったところで、ネルラのそれは強制だ。吐き捨てるように言葉を落とした。楽しげに、ネルラは笑っている。



「とっても簡単なお願いよ。ねえ――――この学院でも、私のことを、いじめてくれない?」





 負けては、いけない。





 聞こえた声に、押されてしまったのかもしれない。「そんなの無理よ」 ふとした拍子にこぼれた自分の言葉に驚いた。ネルラはラビィの言葉を一拍置いて理解して、大きな瞳をぱちりと幾度も瞬かせた。けれどもそれ以上に、ラビィは小刻みにふるえていた。激しく上下に。



(こ、心を強く持ちすぎたわ……!!?)



 これは滝汗どころではない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る