第20話 学院戦争3

 ガク、ガクガクガクガク…………



 ラビィは果てしなく上下に震えた。ここで前提を思い出していただきたい。すでに解かれてしまったわけだが、ネルラはラビィを操っている、と思い込んでいるはずだ。どれだけ心の底では抵抗をしたところで、結局は彼女の言う通りにしてしまう。そのはずなのに。



『ねえ、この学院でも、私のことを、いじめてくれない?』

『そんなの無理よ』



 思いっきり抵抗してしまった。否定された本人と言えば、ぱちぱちと瞬きを繰り返して言葉の意味を咀嚼している。じわじわと眉をひそめていくネルラが口を開く前に、「だって!」 ラビィは叫んだ。ラビィだって、ただただ階段の上り下りを繰り返していたわけではない。



 僅かな突破口を探るために、あるかどうかもわからない解決策を考えて、考えて、考えていたのだ。ネルラのこの発言も、“想定内”だった。ただ予想通りにもほどがありすぎて、間髪入れず返答をしてしまったのだ。乾いた喉を誤魔化すようにツバを飲み込み、ネルラを睨んだ。怖がり、虚勢をはって言葉を荒げる。それがネルラにとっての“ラビィ”のはずだ。震える体は好都合だ。



「あなた、クラスも違うじゃない!」

「……は?」

「いじめるって、あなたはもう私のメイドでもなんでもないのよ? 紅茶がまずいだとか、部屋の掃除が下手くそだとか、そんな嫌味を言うわけにもいかないし、関わりすらないのよ。そんな私に、一体何をしろっていうの?」

「そんなのいくらでも考えつくでしょ? ああそうだ、教室に配布された教科書を持っているの。魔紙だから破ることは無理だろうから……そうね、ぐちゃぐちゃに汚してくれる? あとはそうね、私を階段から突き落とすとか」

「だから無理だって言っているでしょう? 私、言っておくけど目立つのよ? そんな私が、あなたのクラスに忍び込んでわざわざ教科書を持っていくことなんて不可能よ。まず周囲から見咎められるに決まっているわ」



 テンプレート通りの悪役令嬢であるなら、取り巻き達が頑張ってくれるはずだが、ラビィにはそんな人間はいやしないので、ラビィ個人が行動しなければいけない。もはや考えると涙が出てくる。



「それに考えてもみて頂戴」



 ラビィはそっと右手を掲げた。以前よりも腕に肉はついているものの、分厚い下着越しだ。ちょっとやそっとでは変化はわかりはしない。しかしながら、ネルラの頭の中では、彼女がメイドであった記憶が脳裏に浮かんだに違いない。なので説得力のある言葉を叫ぶことにした。



「あなたを突き落とそうものなら、まずその先に私の両手が砕け散るわ!!!」




 冗談でもなかった。「ついでに今立っていることも辛いのよ。あなたのクラスにまで行けですって? そんなの途中で力尽きるに決まっているでしょう、志半ばで倒れてしまうわ、こんな私にどうしろっていうの!?」




 いや、今はもうそこまでひどくはないんですけどね。






 なんて言い訳をするわけにもいかず、ネルラの心が、そっと離れていく音が聞こえた。勝った。初の勝利だ。と心の中で掲げたガッツポーズを悟られぬようにと唇を噛み締めたとき、少しずつ周囲に生徒の姿が戻ってきた。もともと人通りもそこまで少なくはない場所だ。今までがおかしかったのだ。まるでネルラとラビィの原作での再会イベントに合わせていたようで、規定の時間が終わったために、もとの空間に戻ったような、そんな錯覚さえ感じる。



 いくらか言葉を続けようとしていたネルラだったが、集まる周囲の視線に、静かに舌を打った。にこりと誤魔化しの笑みを落として、そっと消えていく彼女の背中を見つめた。「やったあ!」 と、飛び跳ねるわけにはいかないけれど、静かに幾度も足を踏んで、両手を握った。原作は、回避できる!





 ――――ラビィの作戦とは、馬鹿のふりをすること。それに尽きる。



 ネルラをいじめることができない、ということは間違いないが、それでも工夫をこらせば方法ならいくらでもあるはずだ。けれども、その方法をこちらから提示はしない。思いつかないと言い切る。ネルラは、もうヒースフェン家のメイドではないのだ。ラビィと密に連絡を取り合う関係など作れないし、作らせない。まさかネルラが、いじめてくださいとラビィの前にやってくることもないだろう。





 できない、できません。無理です、と無能のふりをし続ければ、必然と断罪までの時間が伸びるはず。その間に、逃亡の準備も捗るというものだ。



 しかしながら、原作のラビィがしていたいじめと言えば、ネルラが言うように、教科書を汚す、荷物を池に投げ入れる、バケツの水をかぶせる、突き落とすと言ったような、テンプレートのオンパレードだった。今のラビィならば、なんとかできるかもしれないが、原作のラビィはそれこそ骨と皮の鶏ガラ令嬢だ。血反吐を吐きながら命令を遂行する彼女を思うと、涙が出る。がんばり屋か。



 らんらかスキップ、をするには周囲に恐怖を覚えさせてしまうので、抜き足差し足と日々のトレーニングを繰り返していた中、ある日のこと。


 移動授業の合間に、中等部と高等部をつなぐ回廊を歩いていた最中、ネルラが肩をぶつからせたのは必然だったのだろう。小さなヒロインを相手にしても、驚くほど簡単にラビィは体を弾き飛ばされた。



 国中の貴族が集まる学舎ではあるものの、時代を感じさせる無骨な装飾が並ぶ回廊を、へたりとうずくまりながらラビィは見上げた。あちらとしてもラビィの軽さは予想外だったのだろう。僅かに驚きの表情を浮かべたネルラ、そしてその隣にはバルドがいる。おそらく彼は、情けなく転がるラビィを見て、片手を伸ばそうとした。それと同時に、ネルラは口元を押さえ、まるで不意打ちのようなふりをして、ぽろぽろと涙をこぼしたのだ。いやいや。



 耐えきれずこぼれてしまった。

 といったような仕草で、慌ててネルラは涙を拭った。「ネルラ?」 バルドは幾度かラビィと彼女に視線を移動した。ネルラを選んだのは、想像に容易いことだった。



「ネルラ、どうしたんだい、大丈夫かい?」 



 すぐさま平静を取り戻した。そんな顔をしたものの、愛しい男の優しげな声をきいて緩んでしまった。そんな見事なまでのストーリーが見えてくる。ほろほろとこらえきれない涙をこぼして、ネルラは可愛らしい顔を歪めていく。「も、もうしわけ、ありま……せん……」 いけないことなのだと、こんなことは言うべきではない。そう幾度も声を震わせながらも、ネルラはラビィの悪事を、つらつらと語った。だいたいテンプレートな色々なそれを。



 いやいやいや。



(し、してません、し……?)



 ラビィとしては平穏な学園生活を送っていたはずだ。だんだんと人通りが増えていく。バルドの背後を守るように、相変わらずきつい瞳で、サイがこちらを睨んでいる。中等部の近くだったということも災いして、騒ぎをききつけたらしいフェルまで、人混みをかき分けながらこちらに来る。近くには、担任であるマシューの姿も見える。



(いやこれ、まさか)



 断罪イベント、という言葉が思い浮かんだ。物語の中盤で、攻略対象達を前にして、悪役令嬢であるラビィの罪やらなにやらを赤裸々にあかされるシーンなのだけれども、メイド時代はともかく、今は何もしていない。それに時期ももっと後であるはずだから、攻略対象も一人足りない。でも、つまり、これは。



「ね、ネルラ……」



 声が出なかった。言うことをきかない、役に立たない操り人形は、力技で消してしまう、そういうことか。


 ネルラの行動は、ラビィの想像を越えていた。ゲーム通りであるのならば、ラビィはすぐさま屋敷に軟禁され、首切りシーンまで登場することはない。彼女はすでにハリィ家の長女であり、貴族という身分を得ている。その上国にとって、重要な人物とも言える、聖女に手を出したのだ。皇子の婚約者という立場も合わさり、ヒースフェン家の汚点を消すべく、刑は速やかに執行された。もともと、頭のおかしい、悪魔憑きの女だと言われていたのだ。ラビィの言葉は、盲言として誰にも届くことはない。




 様々な視線が、ラビィを突き刺した。生徒たち、皇子、騎士、弟、そしてネルラ。誰も彼女をかばうことはなかった。吐き出す息が、ひどく熱いように感じた。この場に、自身が一人きりであることに気がついた。休み時間の度に、いそいそとラビィが消えていく姿を誰しもが目にしていた。実際はただの体力づくりであったが、そんなことは関係ない。



 疑いという冷たい瞳だった。



(こんな簡単に、終わってしまった)



 違う、いけない。諦めるべきではない。ネルラは、ラビィが未だに操られているものとばかりに思っている。ならばその隙をついて、いくらなりとて逃げ出すことはできるはず。無謀にも立ち上がろうとしたそのとき、意外なことにもラビィを救ったのは、教師であるマシューだった。



「一体、これはなんの騒ぎですか!」



 色男である青年は、誰しもに冷たく、興味はない。ただし、聖女であるネルラを除いて。聖女という存在そのものに心酔している男だった。ただし今のネルラは、聖女でもなんでもなく、ただの一人の生徒にすぎない。



「授業の鐘は、とっくの昔に鳴っています。学院は、魔力を学ぶ場のみではありません。礼節を持って行動すべき場所です」



 理解できたのなら、行くべき場所に戻りなさい、と白い手袋越しに彼は手のひらを叩いた。ついでに相変わらず座り込んだままのラビィを見下ろし、ふんと鼻で一つ、呆れたように笑いはしていたのだが。



 なんにせよ、周囲の空気が変わっていく。ネルラが主役であった場は、瞬く間に崩れ落ちた。「ネルラ、気持ちはわかるが、今この場ではいけないよ」 せめてきちんとした場所を設けるべきだ、と困惑したバルドの声がきこえる。その言葉に、ネルラは頷くしかなかった。




 波がひくように消えていく生徒達の中には、フェルの姿もあった。情けない姉の姿を、弟としては恥じているのだろうか。声をかけられることもなく去っていった。そんな中、バルドの護衛であるサイが残った。



「いつまで座り込んでいるのですか」



 高い背がラビィに影を作った。嫌悪しているのか、それとも呆れているだけなのか。低い声を投げかけられて、僅かばかりに体が震えた。ラビィは危うい、細い紐のようなものの上を、命綱もなしに歩いているのだ。幾ばくか、思考が遅れたところで仕方がないことだった。「……あら、お恥ずかしい」 取り繕うように出た言葉に、サイは深く息をついた。そうして、長い腕をひどく簡単に、ひょいとこちらに伸ばした。



 大きな手のひらが、ラビィの体を持ち上げた。ぎくりとした。



「……細いな」



 思わず、と言った口調で、眉をひそめながら静かに呟かれたとき、彼の腕はラビィの腕を掴んでいた。



 細くて、ぎすぎすしていて、およそ年頃の娘とは思えない腕だ。

 必死に服で隠してはいるものの、掴んでしまえばそれはわかる。



 以前のラビィは、自身の体を恥じていた。けれども、“ラビィ”となってからは、そんな考えは、どこかに行ってしまったものと思っていた。彼女が戦い続けた証だからこそ、恥じる必要などどこにもないと、そう考えていた。だからこそ、ぐしゃぐしゃの、おばけのような髪をばっさりと切って、顔を隠すこともやめたのだ。



 なのに、サイという少年が、ただなんの気なしに呟いたその言葉に、ラビィはひどく傷ついた自分自身に驚いた。




 耳の後ろがひどく痛かった。もしかすると、情けない顔をしていたのかもしれない。唇を噛み締めて、あまりにも恥ずかしくて、礼の言葉さえも忘れて、逃げるように彼から去った。泣いてしまいそうだった。



 その後ろでは、呆然として立ち尽くした男が一人残されていた。

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