第15話 ネルラ・ハリィという女

 手元にあるものは魔導ランプだ。火の魔術が得意な人間が、長い時間、小さな明かりが燃えるようにと一つ一つ手作業で作られていて、明かりが暗くなれば、再度魔力を装填することで、長く使用することができる。




 ネルラはメイドとして屋敷にいるときは、こんな高級なものを持ったこともなく、持つ必要すらもなかった。彼女は長い髪をゆっくりと指先で解きほぐしながら、ため息をついた。ランプの炎がゆらりと揺れて、ネルラの影を歪めている。机の上には数枚の便箋だ。マリは女にしては几帳面な文字を書く。そもそも、文字を書けるメイドが少なかったものだから、こうして屋敷を離れたときのために、彼女に近づいたのだ。



 お嬢様のことが心配だと、悲しげに瞳を伏せてやったら、手紙を書くわとあちらから言い出した。それは嬉しいわ、ありがとう。どうかよろしくね。異性に対しても、同性に対しても魅力的に見えるように、ネルラは計算しつくされた微笑みを浮かべた。真面目なマリは約束通りに、定期的にネルラのもとに手紙を送る。とは言っても、ネルラに心配をかけないようにとなるべく優しく偽って文字を書いてくるものだから、そこから更に読み解く必要があるのだが。



「お嬢様は、ネルラが贈ったお茶を、きちんと飲んでくださっているわ、ねぇ……」



 本当だろうか。あれは念の為、と手に入れていた毒だ。屋敷にいたときも、ラビィは面倒にも中々口にせず困ったものだったが、あの貧相なラビィの魔力で、ネルラの魔法が解けるわけもなく、それほど気にしているわけでもなかったのだが。マリからの手紙を見たところ、ラビィは変わらず狂った女を演じているらしい。いや、もしかすると、ネルラの想像以上なのかもしれない。なぜなら、ネルラを気遣ったマリが、その通り事実を告げるわけがないのだから。



「お嬢様、とってもお上手よ」



 くすり、とネルラは口元を柔らかく笑わせた。いつかは呪いが解けるはずとただそればかりの小さな期待を持って、老婆のような艶のない白髪に、大きすぎる瞳ばかりが目立つ顔つきで、長いまつ毛を恐怖に震わせる少女を思い出した。哀れにも、彼女の声が届く人間など、どこにもいやしないのだ。



 ゆらゆらと、ランプの炎が揺れている。ゆっくりと、彼女は笑った。


 ハリィ家に来てからというもの、ネルラはとても大忙しだ。足りないことも、詰め込むことも山程ある。入学式は、わざと遅らせることにした。少しばかり姿を目立たせた方が、今後のことがやりやすい。



 ネルラ・ハリィには目的がある。


 幼い頃から求めていた、とても大事な、大切な目的だ。細い針の穴に幾度も糸を通すほどの奇跡を繰り返し、ここまで来た。けれどもまだ足りない。この奇跡を、あと何度起こす必要があるのだろう。それほどまでに、自身の目的は遠い。だから――――ラビィには犠牲になってもらう必要がある。



「どうかお嬢様。このまま上手に、お利口さんにしていてね」



 頭のおかしい、狂った女を演じて頂戴。

 けらけらと、楽しげな声が響いていた。その影をゆらゆらとランプの明かりが揺らしている。







 と、まあネルラの期待とは異なり、恐らくラビィは別の方向の怪しさへと進みつつあったのだが。





「正直いつまでもトッピングが卵だけなのはやっていられないと思うの」



 体力もついてきた。ラビィなりにも、体が出来上がってきた。というわけで、そろそろ本格的に始動すべしと準備した。「鶏ガラスープとか、味の変化をつけることができたらいいのだけれど……」 さすがにそこからとなると、こちらの手間も大変だ。そして毎度の如く、背後では雀のような尻尾髪を震わせながら、ヒエッと短く悲鳴を上げる男がいた。



「鶏ガラ……!? まさか、ご、ご自身を……!?」

「あなた正直ちょっとヤバイと思うわ」



 令嬢でヤバイと言う自身もヤバイが。過去の記憶が蘇ってからというもの、口調が荒れて荒れて仕方がない。いやいや、冗談ですよ! ……冗談ですよね? と不安げに背後をうろちょろしている使用人はともかく、ラビィはにまりと口元を緩めながらも、ゆっくりと鍋の底をひっくり返す。



 ――――具材である



 今回は、卵とご飯をからめた、いつものおざなりな、ぶっちゃけただの卵雑炊とはレベルが違う。調理場の端にて転がる材料をかっぱらい、そろそろ自身の胃を信じてみようと思ったのである。はあはあとラビィは息を荒くさせた。具材である。具材である。味がついているのである……!!



「お嬢様、息が激しすぎて正直恐ろしいです」

「私はそろそろあなたを矯正しようと思っているの」



 ラビィが噂通りの危ない女であったのなら、こいつの頭と胴体はすでにくっついてはいない。将来的にもその口の悪さから、いつか何かしでかすのではと不安で仕方がない。できることなら何とかしてやりたいものだと、この年上の使用人に思うところもあるのだが、如何せん、楽しい頭をしているのか、「えっ、去勢ッ!?」と叫んで、ヒンッと短い悲鳴とともに太ももを素早く閉じて逃げていた。なのでどうでもよくなってきた。



 それよりも、今重要なことはこのかゆだ。生姜を入れて鼻孔をくすぐらせたあとに一口大にした鶏肉をゆっくり煮込む。蓋を開けてみると、ぷかぷかと浮かぶあくをそっとすくって、はやる気持ちを抑えながらもゆっくりとご飯を入れる。そうしてトッピングにはネギを備えて。



「みんな大好き、サムゲタン風おかゆのできあがりよ……!!」



 と、まあ料理名を使うには色々と足りなすぎるものもあるのだけれど。決めポーズをつけつつも、まあいいや、とゆっくりとお玉でわけていく。いつもならただの白い湯であるはずが、肉のうまみがとろけだして、まるでてろてろに光り輝いているようにも見える。「おお……うまそうですね……?」 珍しくも使用人がひょこりとラビィの手元を覗いていた。そんな物欲しげな顔をして、あらまあ、いやだとラビィは彼を鼻で笑った。



 この頭のおかしいヒースフェン家の令嬢が、まさかそんな。


「二口までなら許すわ……」

「意外と許してくれますね」



 分かち合いたい喜びを止めることができなかった。



「いやまあ、それならちょっと一口……でも米が水浸しに……やっぱ怖い……いやでも、うん。よし、はむ、ふむ、うむぅ!?」



 こ、これは!? と瞳を輝かせる使用人に、そうでしょう、そうでしょう、とラビィはゆっくりと頷く。「溢れ出る鳥のだし汁がすべて米の中に濃縮されていて、米なのに鳥を食べているような、圧倒的な満足感……! さらには生姜の風味が口いっぱいに広がって、付け合せのネギがなんともありがたい!!」「料理番組なの?」 端的に言うとうまいです! とぱあっと目を輝かせる年上の青年に、なんとまあ、と彼女は口元を緩めた。ネルラのことを一瞬でも忘れることはないが、ひどく愉快な気分になったのだ。



 結局、肉についてはやはり苦しく、全て使用人にと任せる形となったのだが、米に染み込む鳥の味はたまらなかった。まさか自分を煮込むなど冗談でもないが、今度鶏ガラスープを作ってみるのもありかもしれない。





 こうしてラビィは自身にできる限りを尽くしているうちに、時間ばかりが過ぎていった。魔法学園が始まる日が近づく。その日が来ないことを祈っていたが、時を止めることなどできやしない。ラビィは自身の体を確認した。手を動かす。足を動かす。飛び跳ねて、背伸びして、歩いてみて。「……よし」 以前よりも、ずっと体が動いている。あれから僅かではあるが、口にできるものも増えてきた。相変わらずかゆが優先であることには違いないが。



「なんとも、不健康に健康ができているわ」



 マイナスからのスタートで、未だプラスには浮上しないが、これでいい。鏡に映る自分は、相変わらずばさばさの白髪で、夜にそっと現れれば、悲鳴の一つでも上げたくなるに違いないけれど。なのでラビィは考えた。



「マリ、いるかしら。マリ!」



 珍しくも、お付きのメイドを呼んだのだった。

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