第20話 下着泥棒

 下着泥棒



(1)



 出戸巡査はこれで此処に来て事件の聞き込みをするのは何度目だと思った。何が何度目かと言うと、下着が盗まれた女性への聞き込み、――つまり分かり易く言うと、下着泥棒にあった被害者女性への聞き込みである。

 猥褻事件として管轄するのは自分である。

 しかしながら自分はこの手の事件が嫌であった。

 それはどうしてか?

 どうか考えて欲しい。何が嫌かと言うと事件の度に女性に聞き込みをしないといけないのである。


 ――そう、自分より年若い女子大生にだ。


 自分自身も警察学校を出て配属されたばかりだから、女子大生達とはそれ程年が変わらない。

 だからこそ、たまらなく嫌なのである。嫌だというのは相手もそうかもしれない。盗まれた下着の特徴をあれこれ自分に盗難届として言わないといけないのである。


 それも歳も変わらぬ若者に。

 

 これは仕事だから仕方がないと巡査は苦い思いを噛みしめながら女子大生達に聞き込みをしていたが、事件の最初の頃はどちらとも何となく気恥ずかしさを配慮したようなやり取りだったのが、やがて何度か調書を取る内に次第に女子大生達の口調が変わって来たのが巡査には分かった。何となくだが被害者である女子大生達の自分を見る目が猜疑心を含んだ様に変わって来たのである。

 それが何か?巡査は考えた。

 こちらは警察である。彼女達に疑われるなんて筋合いは無い。しかしながら疑いの眼差しをしているのである。

(どういうことだ…)

 巡査はもっと気持ちを深くさせて考えないといけないと思った。そして深く考えて思ったことに閃くと、強く歯噛みするような思いになった。

 つまり彼女達は自分を警察と言う司法の正義として見なくなり、生物学上の『男』として巡査を見始めたのではないか。

 そしてそのように見始めればそれは予想もつかない方へと感情と気持ちがエスカレートしてゆけば彼女達が自分を猜疑の眼差しで見るのは止められない。

 それはつまり…


 ――ひょっとして…盗まれた下着を履いている私達を想像して一人で何かはぁはぁしてない?

 このエロ警官。


 …なのだ。


 凄く馬鹿げて極まりない感情。

 冗談じゃない、と巡査は思う。

 確かに自分は何度も盗まれた下着の特徴を聞いている。だがそれは仕事なのだ。

 本来ならば婦人警官にお願いするところだが、今出産の為休暇になっている。だから自分がこうして嫌々ながら何度も出向いているのだ。

 最初は一度で終わりの事件だと心の中でたかをくくっていたが、いかんせん、事件は立て続けに起きた。

 起きる度、自分が出向いて調書を書く。そして辛辣な猜疑の視線にさらされる。今ではまるで自分が世間一般の男性が持つ卑猥さの代表のような扱い。

(これではどちらが犯罪者扱いか分からない)

 くそっ!と言ってペンを握る手に力が入る。入りながら思うのである。

(なんでそれもよりによっていつも此処なんだ)

 そう、常に盗まれるのは長崎S女子大学の学生寮内なのだ。




(2)



 学生寮は大学がある長崎市内からN川を奥に入った所にある。

 建物は普通の二棟立てのマンションで五階造りになっている。そして盗まれた下着はというと被害者が住んでいる階数に関係なく、ランダムに盗られている。

 学生寮は四方に塀があり、また管理人も常駐してるので日中も夜半も怪しい人物が出入りすることはほぼ出来ない。

 それなのに下着がこの学生寮内で盗まれるのである。

 だから出戸巡査は何回目かの調書の時に、ひとりの女子大生に自分の考えを言った。

「誰か…内部の人じゃないんですか?」

「それって憶測ですか?」

 言ってからその女子大生は怪訝そうに自分を見ると一言「確信の無いことを警察が言うべきじゃないんでは?」と鋭く切り返して来た。

 それ以来、その筋としての事件の見立ては心中の深い岩蓋の下に押し込んでしまった。もう浮かぶことは無いだろう。

 確かに憶測で何かを疑うべきではない。

(だが憶測でもいいだろうが!意見を聞いても!?)

 歯噛みする思いに巡査は地団駄したくなる。


 ――こっちだってなぁ、犯人捜してんだぞ


「ねぇ、もう帰って良い?」

「えっ?」

 不意に聞こえた女性の声に出戸巡査は声を出すとはっとして顔を上げた。

 目先に相手の顔が見える。

 髪を額で分けた女。

 そう、今回の被害者――田中ひより、だ。

 巡査は慌ててペンを胸に仕舞うと、彼女に言った。

「ええ、良いですよ。どうぞ、お帰りになってください。調書は取れましたし、被害届もこうしてできましたから」

 巡査は言うや、背を向けて立ち去ろうとした。すると彼女が巡査に言った。

「それでいつ犯人捕まえるんですか?これじゃ私達下着がいくつあっても足りないんですけどねぇ」

(知るかっ!!)

 という感情はおくびにも出さずくるりと振り返ると巡査は彼女に言った。

「ええ、直ぐにでも捕まえますよ」

「なら良いですけどねぇ」

 彼女がどこか甘たるい声で猜疑の眼差しで巡査に言う。

(このネコめぇ)

 何故か、自分が下着泥棒より彼女達にとっては罪が重そうな感じになった。


 ――犯人を捕まえれない警官


 ――何度も調書を取り下着姿を想像して、はぁはぁしているエロ警官 


 二十苦に中で巡査は思った。

(覚えてろ。絶対捕まえてやるからな。下着泥を)

 言うや今度こそ背を向けて足を一歩踏み出そうとした時である。

 彼女が再びっ巡査を呼んだ。

「そうそう、ねぇ。そう言えば最近ここら辺を昼間自転車押しながら歩いている奴がいるんだけどぉ。私も声かけられてね。睨みつけて押し返したけど」

 それを聞くや巡査が振り返る。振り返ると彼女に言った。

「そいつはどんな奴ですか?」 

 彼女は軽く首を曲げると肩に落ちて来た髪を掻き上げながら巡査に言った。

「そうねぇ、背は高くて髪は縮れ毛の丸々、あれってアフロかなぁ。そうねぇ遠目に見ると…あれ、あれよ」

「あれって何です?」

 巡査が急く様に言う。言うと彼女が掻き上げた手を止めて何か閃いたのか、ニヤリと笑うと言った。

「うん、マッチ棒。マッチ棒。まぁ後はそちらで探してよ。それがそちらの仕事でしょう?」

 彼女は言うとさも余程自分の表現が的を射ていたのか、腹を押さえるようにして笑いながら学生寮へと帰って行った。



(3)



 戸田巡査は田中ひよりが言った事を思い出しながら学生寮の門から自転車を押しながら少し離れた通りに出た。川沿いの通りは人が見当たらない。

(マッチ棒…ねぇ)

 そんな人物、特に警ら中には見ていない。それ程の特徴ある人物ならば見かければ忘れない。それが記憶にないという事は生活時間が異なり自分とすれ違いが多いのか、そうでなければ最近この付近に来たという事だろうか。いやもしかすると行動は夜行性で普段から日中は出てこない社会性をもった人物かもしれない。

 あらゆる可能性があるが、確かなのはその人物は自転車を押しながら昼間この付近を歩いているという事だ。

 不審人物である。

 それが…


 ――自転車を押していた。

 そして数度となくこの付近で見られた。


 それが意味することは何か?

 

 巡査がそう思いながらペダルに足を踏み込んだ時である。思わず、もう少しで危うく踏み込んだペダルから自分がずり落ちそうになったのだ。

 何故なら突如曲がり角から目前にその不審人物が自転車を押しながら現れたからである。

 それも僅かに首を上げて空を見上げながら。



(4)



(こいつは十分怪しい。何故、空を見ている)

 巡査の胸の鼓動が早くなる。

 ドクンドクン、波打つ音が鼓膜奥に聞こえる。巡査はごく普通に迫りくる人物を呼び止めた。自転車を押しながら空を見上げているマッチ棒の若者を。

「…あぁ、君ぃ」

 焦りを見せない様に努めて言葉を低くして声を掛けたが僅かに声が喉奥に引っかかる。そして引っかかるものを一気に吐き出すように巡査は声を張って言った。

「ちょっとといいかな?」

 意外に大声になった。それは明らかに相手にお前は不審者だという懸念を見破られても仕方がないくらいに。

 巡査は少し焦った。

(…逃げられるかも)

 だが近寄る若者は警官に呼び止められているのがまるで自分ではないという素振りで、空を見上げたまま過ぎようとしたその態度を見て巡査の心に火が点く。

(おのれっ!!)

「待て…‼」

 戸田巡査はそこで極めて冷静になった。彼は若者に近寄ると肩を力づくに押さえて唸る様に言った。

「おう、君。待てと言ったろうが」

 そこで若者は初めて我に返る様な表情になって、眉を寄せると警官に言った。

「えっ、ちょっと何です?」

 縮れ毛の髪が揺れている。

 巡査は思った。

 成程、アフロというものはこうも人によって特徴が違うのか。自分もアフロヘアの有名人は知っている。ジミヘンドリックス、ロッキーのアポロ、デビューの頃の井上陽水。だがこの若者は生来の縮れ毛の所為なのか、確かに田中ひよりが言ったようにマッチ棒の様に丸くなっている。 

 そのマッチ棒へ巡査はにじり寄る。

「君、ここら辺の者じゃないな。どこから来た?」

 まず巡査は自分の日々の警ら任務の中で培われた記憶から不審者を探り出そうとマッチ棒へと問いかけた。

 勿論、


 ――こんなやつ、知らない。


 という確かな証明(アリバイ)を得るために。



(5)



「ええ、そうですよ。自転車…、あ、いえ、このランドナーで旅をしてるんです。そうですね、直近では佐賀の唐津方面に居ましたから、唐津から来たという事になりますかね」

「何、唐津だと?」

「ええ、今自転車で九州を旅してるんです」

 巡査は見事証明(アリバイ)を得た。得てから、冷静にマッチ棒の全身を眺める。

 頭の先から順に視線を落とすとTシャツに半パン、そしてスニーカーが見えた。確かに服装は自転車旅をしていると言えばそう見えるが、どうも巡査には怪しくて仕方がない。

 何故ならこのマッチ棒は自分の目の前に現れた時に空を見上げていたじゃないか。何故、空を見上げてるんだという先入観がぬぐえない。

 それに田中ひよりの話では此処数日この付近でこのマッチ棒は見られているのだ。


 ――それは何ゆえに?

 

 巡査は睨むような目つきで至極簡単に思った。

 

 ――こいつ怪しくないか。

 一人身の若い旅の男。

 何をしようが、旅の上ではし放題。

 そう、明日には罪の痕跡を消して、土井丘にとんずらできる身軽さ。


(まさに軽犯罪者、つまり下着泥棒にはうってつけじゃないか)

 巡査の気持ちが強くなる側で若者は頭を掻いた。もじゃもじゃ頭がその度に揺れる。

(良し、ならば…)


 ――なら、行動はどうだ?

 夜行性か?


「…そうか」

 言って巡査が咳を一つする。

「ならば移動はいつしている?夜か?」

 若者は警官の言葉を聞いて目を見開くと驚いた。

 そして驚いたまま言う。

「とんでもない、夜なんて移動なんかできませんよ。だって夜じゃ観光も何もできないじゃないですか」

 マッチ棒が身振りを交えてそう当然の世様に言う。それが妙に縁起臭く見た。

 巡査はふんと鼻を鳴らす。

「…ほう?観光何ぞ出来なくても、色んな目的は果たせるんじゃないか?君?」

 巡査は一気に切り込む。

「それはどういう事です?」

「どうもこうもじゃないだろう。お前、若い男だろうが‼。男身一つで旅の空を行けば、いずれ男の情念と言うのか、そのぉ…男子の生理的欲情と言うか、そんなものがふつふつと湧き上がったりしてだなぁ、それが昂じて欲望のまま女性の部屋とかにだなぁ…」

 そこまで言われてマッチ棒が心底驚いて巡査の話を遮った。

「ちょっと何言ってるんですか‼」

 マッチ棒が思わず声を大きくする。大きくしてその勢いで巡査の側を抜けようとした。

「こら、待たんか‼変態野郎」

 怒声混じりで巡査が言う。

 するとマッチ棒が振り返る。

「変態野郎ってどういうことです」

「そのままの意味だよ‼」

「ちょっと、こちとら何か分からないことばかり聞いていると頭に来やしたぜぇ」

 言うなりマッチ棒が背を伸ばして身構えた。

「頭に来ただと?何を言いやがる、この変態野郎‼いや、この下着泥棒が‼」

 巡査が怒声を放ったその瞬間、突然マッチ棒が雷にでも打たれたようにその場に立ち竦んだ。その様子を見た巡査が言う。

「どうだ!図星だろうが‼思わず立ち竦んだな!さぁ交番まで来い‼この変態野郎‼」

 ここぞと言わんばかりに巡査がマッチ棒の手首を握ると手錠をしようとした。しかし巡査の手は次の瞬間、手首をくるりと返したマッチ棒の掌の中で握られていた。

 それから不思議だが、数度となくマッチ棒は手を握りしめて巡査に言った。

「成程、そうか!そうだったのか‼それであんなに沢山下着があったのか…ええ、良いでしょう、巡査さん。一緒に交番まで行きましょう。そこで洗いざらい僕からお話をしたいことがあります」

 先程からのあまりの変貌ぶりに出戸巡査はその場できょとんとしていた。本当に全く訳が分からなかったのである。




(6)



「成程、それが君の言う下着泥棒の真相と言う訳か…」

 出戸巡査は調書に書きこんでいるペンと止めると、マッチ棒に向かって言った。いや、今は彼の名は既に自転車の防犯登録の問い合わせで分かっている。

 彼の名は小林古聞(こばやしふるぶみ)。

 だが彼はその名を伏せて自分には別の名を言った。


 ――四天王寺ロダンと言います。役者をして言います。


「…だがね、君。それは想像の域を出ないばかりか、少し非現実じゃないか?いくらなんでも訓練された猛禽類がそればかり狙えるとはね…」

 ペンを揺らして巡査は四天王寺ロダンと名乗った若者に言う。言われた彼は髪を激しく掻くと巡査に言った。

「確かに…そう言われるかも知れませんが、僕も経験があるんです。実は以前カラスの習性でそうした事件と言うか、そのぉ…ミステリーと言うものに遭遇したことがあるんですよ」

 彼は身体を乗り出して巡査に言う。巡査は「―しかし」と間を置くと極めて現実的な目つきで彼に言った。

「じゃぁ、何故温泉センターで飼われている鷹が下着を盗むと?それも女性の下着だぞ?小動物でもない下着だぞ?」

 言われてロダンはより一層激しく頭を掻いた。

「そこなんですよ!犯罪と言うのはもっと想像力を働かすべきなんです。現実的な考えを棄て、そんなこと出来なよなぁ?を如何にそげ落とすして、見つめることが不可解な犯罪というものを解明できるのです」

 しかしながら巡査は極めて冷静に言う。

「でもだからと言っていくら何でも鷹匠に訓練された鷹が、どうやって女性の下着だけを正確に狙える?」

 ロダンは口ごもり、どもるように言った。

「だから、だからですよ…今申し上げた通り、彼女が特別に訓練したんですよ。彼女――小野寺麻衣子、彼女が飼育している鷹、茜丸に原色のハンカチを使い、色彩の訓練をさせる。それで黄色、赤色、青色、緑色。そうした色を鷹に覚えさせれば、何も難しいことじゃない。この場合、考えないといけないのことは――動物は色彩を理解できないという先入観を如何に取っ払って真実を見極めるという事なんです」

 あまりの熱心な言葉に巡査は押されるが、しかし言った。 

「それでも幾分か推測の域を逸脱している」

 その意見にロダンが喰いかかる。

「いえ、決してそうではありませんぜぇ警官さん。僕はねぇ、ここ数日この付近を歩きながら空を見ていたんです。鷹の飛んだ方向を見ていると、この付近で空から見失ったんです」

(それか、その理由と行動でこの付近を歩いていた、それを女子寮から田中ひよりに見られていた…)

 出戸巡査はやや納得気味に頷いた。

 しかしそれは彼、ロダンと名乗ったマッチ棒にはどのように理解されたか、分からない。分からないが彼は小さな満足を得た表情になり話を続ける。

「それは何故か?簡単です。宿泊先の民宿から温泉センターは目と鼻の先の山の高台にある。そこは巡査も御存じの通りここの行政の第三セクターだ。そこでは温泉だけではなく、温泉客への目玉として鷹の餌付けをしているでしょう?それは御存じですよね?

 僕はねぇ、見てるんですぜぇ、この両目でしっかりと。彼女が裏山の中に入って人知れず鷹の訓練の様にこちらの方へにごく自然に声を放って空へ放り投げているのをね。だから僕は鷹が飛び去る空を見て、そして突如消えるこの箇所付近に何かがあって、それがきっと僕が見たあの高台の森の奥で大量に捨ててあった下着類と符合するのかもしれないと思ったんですよ。

 本当にねぇ奇妙なんでさぁ‼

 何故あんな色とりどりの下着類があんなに山奥に無残に捨てられてあるのか、何もない山奥にですよ。まるで人間の『性』を否定する、いや破壊するような狂気、いやほんまに人間の死体を見る以上に奇妙な現代の病の様な、そんな異常な病室を覗き見たようなですなぁ…」

 長口上を述べる彼の言葉はもはや何処の方言か分からない。しかしながら彼は熱心に自分に訴えているのだ。

 それは…


 ――自分の見立ては絶対間違っていないと。


(それは憶測じゃないか?)

 まるでどこかで聞いた言葉の記憶が交差して出戸巡査はパンと音を立てて調書を閉じた。

 不思議だ。

 巡査は思わず苦笑する。


 ――自分は何故か不思議な決断をしようとしている、この若者に対して。


 調書を閉じると巡査はもじゃもじゃ頭の若者に向かって言った。

「よし、そこまで言うのなら。その鷹匠とやらに会って話を聞いてみようじゃないか。しかしこれはあくまで僕の一存だよ。そして非番の扱いとしてだ。

 僕自身もこの事件には正直大変うんざりしているから早く解決したい。しかしながらいいかい?

 もしこれがあくまで君の推測で的外れだった場合は、僕は君を業務妨害として県警に連れてゆくからね」

 するとロダンの目の奥にきらりと火が灯った。

「それでいつ?」

 ロダンが言う。

「何ならこの勤務の後でいい。僕は定時に終わる。それからだ。でも言っておくがあくまで警察組織とは関係なく、自分自身の行動だからね。分かったかい、あくまでプライベート。非公式だよ」

「ええ、結構でやんす」

 言うや彼は鼻下を親指で弾いた。その仕草はまるで時代劇に出て来る十手持ちの子分のような威勢のいい動きだ。

(…役者ならではの動きと言う訳か)

 苦笑交じりになる自分の心を押さえて、出戸巡査は不意に何かを思ったのか彼に訊きたくなった。

 それはごく親身な内容なのだ。

 何故そうさせてしまう人柄が彼にあるのだろうか。

 出戸巡査は自分が思わず漏らした苦笑の意味を知りたくなる。

 彼――、四天王寺ロダンはどこか人懐っこく時折見せる仕草は非常にユーモラスだが何か物事を深く追求しなくては気が済まない様な熱気がある。それが渦巻き人を巻き込むような魅力となって彼の全身を香気立てている気がする。

 それは彼が自然と自得している不思議な魅力といえるのだ。

 その香気に当たると誰でも彼の虜になるかもしれない。

 だからその魅力が一度は容疑者扱いと睨んだ人物を今では自分自身の心の中で好意に変えた。そして彼が持ち込んだ不思議な事柄に思わず興味を含ませて覗いて見聞きしたくなる自分を認めて、思わず苦笑したのだろう。

 彼に対して非公式な行動もしようと申し出ている自分は紛れもない自分自身。

 だから不意に思ったことを訊きたくなったのだ。

 遠慮なしに、

 不思議な世界への問いかけとして、

 親身に。

「…しかしながら、君。何ゆえ君はまるで探偵の様にそのような事をしている。いくら暇な旅だと言っても、こんなことに首を突っ込まなくても良いだろうに、何故だい?」

 訊かれた彼はその瞬間不意に黙った。黙って彼は何かを隠す様に頭をじゃりじゃりと掻き始めた。

 出戸巡査に映る彼の仕草はまるで何かを見つけられて恥ずかしがる子供の様に映った。出戸巡査が問いかけた言葉はもしかするとロダンの心の隠されている何かを捉えたんかもしれない。

 じょりじょり音を立てた指が止まると彼は、酷く真面目になって出戸巡査の方を見て言った。

「…美しいのです」

 あまりの小声に出戸巡査には彼が何を言ったのか分からなかった。だから首を伸ばして出戸巡査は言った。

「は?えっ何だい?」

 ロダンは黙ると、やがてやや顔を赤らめて言った。

「美しいんですよ。彼女、――小野寺麻衣子さん、本当に…」

 今度ははっきりと巡査の耳にも彼の声が聞こえた。彼は言葉を続ける。

「五島列島の木造建築物の教会ご存じでしょう?彼女…まるでそこで出うような…そんな清らかさを持った美しい女性。いや、マリア像のような精神的な美しさを僕は感じたんです。だから彼女に止めさせないと思ったんです。だから僕は一人の人間として彼女の魔性に合い対峙しないといけないと思ったんです。この四天王寺ロダンの知性を懸けて」

 意外ともいえる彼の話を聞いて出戸巡査が真っ先に思ったのは、その小野寺麻衣子なる人物に直ぐにでも会いたくなったというのは言うまでも無かった。

 


(7)



 事実と言うのはこれ程奇妙なのだろうか。

 出戸巡査は夕闇せまる高台で小野寺麻衣子から聞いた話を自分の寮へと戻る車の中で思い出している。

 ロダンとは先程別れた。

 別れ際に彼が寂しさと満足した表情を自分に向けた時、本当に心の奥底で事実と言うのはこれ程奇妙なのだろうかと思った。

 署を出るとロダンの導きでまず下着が散乱して捨てられている場所を見て、それから彼女が鷹の訓練が終わり、丁度夕暮れ染まる木立の小道を降りて来るところで自然に遭遇するように仕向けた。勿論、仕向けたのは彼、ロダンなのだが。


 ――しかしながら



 ――事実は奇妙だった、しかしながら…思えば事件そのものの根本は至って簡単(シンプル)なのだ… 


 何故、女性である彼女が下着を盗み、そしてこともあろうに森奥の静寂の中にまき散らして捨てたのだろう。

 色とりどりに下着類が棄てられた森の静寂。それはどこかそれはロダンが言ったように『性』の遺棄に近く、その光景は無残で困惑的で、正に魔界のような世界だった。だが、もし見る人が見たらそれを現代アートと言うかもしれない。まさに芸術的精神的バランスを持ったスパイラルの芸術的な病室。

 そしてその病室を統べるのは彼女――小野寺麻衣子。

 彼女は患者なのか、それとも魔界に舞い込んだ患者を治癒すべき医師なのか。

 魔界に迷い込んだ患者を治癒すべきは、悪魔でしか成し得ないのでないだろうか、しかしならば夕暮れ染まる木立に立つこの若い女性は酷く――天使の様に美しいのか。

 出戸巡査は全く持ってロダンの言葉に頷き、気持ちを汲み取みとった。


 彼女が犯罪者だとは

 誰も願いたくない気持ちと言うのを。


 ――ええ、私がこの茜丸を使ってやったことです。


 出戸巡査は彼女を見た。彼女は腕の革巻きの上に乗せた鷹の喉元を指先で撫でると、こちらを見た。

 それに合わせた様に木立の葉が揺れ、夕闇を誘う。

 黒い前髪を綺麗に切りそろえた額の下から覗く二重の黒瞳。睫毛は夕闇を払いのけ、彼の唇はまるで夜を誘う何かのような存在を舐めるように、やがて開いてゆく。

 ロダンも自分もそんな彼女を見ている。細身のシルエットに鷹を携えた酷く美しい人を。

「…それ程、悪いことをしたようには思いませんけど」

 彼女は言う。まるでこの世界を断罪する存在の様に。だが出戸巡査は断罪された世界の中の現実に居る極めて法を遵守する存在だ。

 ひとりの警官として訊かないといけない。例え、非番の時とは言え。

 彼は一歩踏み出す。

「しかしながら、犯罪は犯罪でしょう?」

 彼女の眼差しがその時、巡査を真正面に捉える。出戸巡査は酷く愚かな事を聞いた気がした。何か、とてつもなく愚かな、神に対するような愚問のような、それほど彼女の中で何かがふつふつと鬼気を増して迫って来る。

「…犯罪?」

 彼女が言葉で出戸巡査の意識を断罪する。

「私の行いが?いえいえ、とんでもない。もし、そう言われるのならば、盗まれた彼女達こそ――犯罪者と言えるでしょう。『美』というものを犯した者こそ、犯罪者なのですよ」

 彼女は指で鷹の羽毛を撫でる。

 まるで何者かを愛しく愛撫するその指先。夕陽は闇の中に沈もうとしているが、それでも彼女の頬を照らし、その美貌を一層美しく、妖しく染める。

 美貌の人は『性』を超越する美しさ。


 ――美というものを犯した者こそ、犯罪者なのですよ


 ロダンは彼女の言葉の背後に立った。立ちながら視界に見える彼女を見る。


 ――天草四郎時貞もこのような美しさをもった少年だったのかもしれない。


 それはロダンの心の奥底で渦まく精神の中で起きた化学反応だった。だが、そこに何か閂のような深いつながりを覚えてならない。覚えてならないからこそ、唐突に言葉が閂を開けてそのつながりから出た。

「まるで少年みたいですね。小野寺さん。まるで性別が定まらない、そのぉ、なんというか…」

 彼女が僅かな驚きを含んでロダンを見て短く言った。

「そう、私はFtM(FemaletoMale)なので」

 それは巡査の鼓膜に響き、ロダンの脳を激しく刺激した。そこに於いてロダンは解明したのである。

 彼女の持ち得る美を。

 思うべきである。

 

 ――天使は

 悪魔は 

 彼等は人間の様に『性』を持ち得ているのか。

 ならば『性』なきものこそ、

 至上の『美』を持ち得る存在なのか


「初めて長崎S女子大学の女子学生を見たのはセクターの温泉の湯船の中。そこで私が見た彼女達の裸体を見た時の失望と言うのは、恐ろしい。何故彼女達はこれ程醜いのだろう――ミケランジェロの掘ったダビデのなんと均衡のとれた美しさに比べれば天と地の差だと、…いえ、まぁそんなことは未だ大したこと無かった。肉体の優劣はそれ程でのない」

 彼女は含み笑いをする。

「それよりも彼女達が着替え始めた時の衝撃。自分の裸婦を隠すべき下着といったら何という事‼原色に彩られた赤、青、黄色、緑、黒もある。本来美しい若い肢体を包むべきものが、どこか醜い何者かに縛られている。それは自分の自己主張と言うか、そうまるで此処に『性』が存在しているというセックスアピールの信号機としての下着、そうまるで自己内面の証人欲求というか、もう厭らしい程の見得として。

 そうそれはまるでそうなると人間は豚ね。ブヒブヒ鳴いて若い『性』を飽くことなく貪る豚達」

 巡査は困惑しながらも彼女に言う。

「それは個人の好みでしょうし、意識すべきことでも無いでしょう?」

「私はね、隆慶一郎の描いた前田慶次が好きなのよ」

 唐突も無く話の方向を変えられて巡査もロダンも頬を張られたように彼女の話の先に飛ばされた。

「その慶次が――ある湯屋で見栄を張る傾奇者と一緒に入る話が出てくるのよ、そこで傾奇者は色とりどりの褌をつけている。慶次はというと白い褌一つに刀を腰につけてる。それを見て驚いた傾奇者たちは急いでもどっつえ刀を差して風呂に戻り、そこで汗をたらたら流し、やがてのぼせるまでになったらその瞬間慶次が刀を抜くんだけど、それは竹光。おかげで傾奇者たちの刀は台無し。そこで慶次が言うのよ――俺は奴等の褌の色が嫌いなんだ、褌は真っ白じゃなきぁいけない、とね」

「つまりそれは?」

 ロダンが問う。

「――褌はいつでも綺麗にしておけ、つまり、いつ死ぬか分からぬ戦国時代。死ねば死体を弄られる。その時侍の最後は汚れてる褌じゃ、醜い」

「つまり死に装束ということか」

 巡査の言葉に彼女が頷く。

「そうよ。下着ってそうあるべきじゃない?人間は常に『死』と隣り合わせ。今の日本は災害大国、いつ自分が死んでもおかしくない。死は身近にある招かざる友人。だからこそ、あんな下着で見つけられた死体は醜い。死に相応しくない。そう、死を彩る自分の肉体に美しくない。

 だからそれらに私は吐き気がして、思ったのよ。つまり彼女達の前からそれらを消そうとした。そうすれば、彼女達には何が残るか?自制と反省。そうこの茜丸に色彩の訓練を施し、あの学生寮を覚え込ませて。そしてこの森奥に下着を唾棄した」

 あくまで自分の気持ちを正直に伝える彼女が最後に言った。

「…で、どうするつもり?あなた達?捕まえるの?」

 それを聞いた巡査が前かがみになった時、背後からロダンが背を押さえるように言った。

「…小野寺さん、あなたその風呂の中に田中ひよりが居たのを知っていたでしょう?そしてその彼女があなたのもしや想い人――違いますか?」

 その名を聞いた時、彼女は激しく全身を震わせた。確実に闇が揺れたのを巡査は感じた。

 正に驚きの瞬間だったかもしれない。

 しかしながら、彼女の驚きを浮かび上がらせた筈の表情は森の木立に落ち始めた宵闇の所為でロダンには見えなかった。

 見えない代わりにロダンの瞳には自分を振り返り驚く出戸巡査の顔が見えた。


 ――ロダンは何かを知っている。


 そんな正に驚きだった。



(8)



 ロダンは静寂の宵闇に包まれながらじょりじょりともじゃもじゃ頭を掻くと、それから首をぴしゃりと叩いた。

 それから酷くすまなさそうに、しかし真実をごまかさないぞという強い響きで話し出し始める。

「…小野寺さん、すいませんねぇ。僕はストーカーをしていたわけじゃないんです。あなたの行動と森奥に捨てられた色とりどりの下着類――を見て、それらが僕をこう…奇妙なパズルを解かないと何とも言えない衝動に駆りたて、それ故にあなたが茜丸を飛ばすのを繁みに隠れて見ていたんです。

 そうですねぇ、あなた、茜丸を空へ飛ばす時いいますね――「今日も良いよ、日和」と。僕はねぇ、それを聞いた時、鷹を飛ばす空の事だと思ったんですが、でもあの学生寮の付近を通って様子を伺っていると数人の女子大生がある女性に向かって言うんですよ…「ひより、今日どこに遊びに行く?」なんて。その時、僕、不意にその人に声かけたんです。――あなたはひよりさん?と、まぁ思いっきり睨まれましたけどね。しかしながら今全てを思えば、あなたは良い日よりじゃなく。つまり「今日も好いよ、ひより」と言ってたんですよね。それはあなたがFtM(FemaletoMale)だと言われて良く分かったんです。

 つまりですよ、あなたはあの田中ひよりを好いている。あなたと彼女の関係はあなたが黙すなら僕等は彼女に聞くだけです。…ええ、あなたはさも同然の様に筋書きをお膳だてしました。それは最もらしく聞こえますが、しかしながら全てはあなたの中に共存、いやあなたが自己認識している『性』が求めた、極めて単純なこれは猥褻事件だった訳です。あなたは田中ひよりも好いたでしょう、しかし他の女子の事はどうでしたか?ええ、そうですね、眼差しを伏せましたね。そこにあなたの答えがあるようです。

 小野寺麻衣子さん、僕はねぇ、あなたを隠れて追い回していた時から、あなたのその何というか美しさに雷の様に撃たれてしまった。それはあなたの内面に潜む『美』と『性』に対する反発がそうさせたのですね。

 では僕からの提案です。

 今からでもいいじゃないですか、もうこんなことは止めて罪を改め、彼女に直接告白されたら。そうすればこうした精神的な分裂ともいうような苦しもなく、恋が成就したらあなたらしい素晴らしい人生を歩める一歩になるでしょうから」

 ロダンはそこで大きく息を吐くと巡査を促して森の小道を振り返ることなく下って行く。

 促された巡査もまた下ってゆくのだが、その時背後で小野寺麻衣子のすすり泣く声が聞こえた。

 巡査は思った。

 それが果たして男なのか?女なのか?いやそんな『性』は全てが分かった今はどうでもよく、それは闇に紛れて聞こえる恋する者が恋に破れたすすり泣く声なのだと理解すればそれで十分だった。

 何故、十分だったのか?


 それは…


(9)おわり



 その後、長崎S女子大学学生寮における下着泥棒事件はぱたりと途絶えた。

 出戸巡査は警らとして事件の起きた場所に出向くが、しかしながらもうそこは過去の事件の場所で、今の自分にはもう居場所が無いように感じている。

(警察と言うのは用が済めば泡濁の様に事件現場から消えてゆくのかもしれない)

 警らの途中で学生寮の前出止めた自転車にペダルに足を掛けると巡査は自転車を漕ぎ始める。

 四天王寺ロダン。

 彼は別れ際に――明日にでもここを出ます。それでは後はお任せします、と言って去って行った。

 では出戸巡査はその後、あの事件をどうしたか。

 彼はここでも不思議な決断をした。つまりあの事件における最後は調書に四天王寺ロダンを尋問して聞いた事を最後に、事件が終えた様に買い込んだのである。

 最後に何を書いたか。

 それはロダンが交番で話したことを要約して、簡易明瞭に。

 つまり


 ――鳥が盗んだという証言アリ。

 

 と書いた。

 

 それで以後は盗難が無い。つまり最早これ以上の解決は出来ないのである。

 巡査はペダルを漕いでゆく。その速度はぐんぐん早くなる。

 

 だが、本当の事件の解決はこうである。

 

 巡査は小野寺麻衣子に恋をしてしまった。彼はロダンに遂にその事を語る事は無かったが、初めて夕闇の中で彼女を見た瞬間から、既に彼女に対して恋に落ちていたのである。

 だからこそ調書はどう理解されてもいい体裁で終らせたのだ。

 そう、恋する彼女を敵から守るために。

 故に、もしかしたらこの事件の解決方法はひとつかもしれない。

 それは全てを誰かの心の中に仕舞い込み、決して外に漏らさない。それにはそれを背負うべき人物の強い思い込みが必要だろう。

 つまり巡査がそれを引き受けた。それもごく自然に。

 それは恋、

 プラトン曰く『恋(エロス)』の為にとも言うべきであろうか。


 兎にも角にも下着泥棒は出戸巡査の警ら管轄から消えた。


 四天王寺ロダンが去ったのと同じように。

 

 

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