第12話 ダンシングマン 



 よくある苗字だと思った。

 差し出された名刺には「田中弘」と書かれている。それだけではない、顔だちも雰囲気も何処かに良くいる感じの男だった。だが、何か一つだけ違う点が有った。それは名刺に書かれている男の職業だろうか。――探偵。それだけが他とは違う男の際立つ箇所だと言えた。

「…探偵ですか、それが私に何か御用ですか?」

 日曜日のカフェで私は男を前にして言う。男は小さく息を吐くと封筒を出してそこから私にあるものを出した。

 それは鍵だった。

「鍵…ですか?」

 私は鍵から目線を男に向ける。

「ええ、鍵です。何の変哲もない鍵です」

「それが何か?」

 私は男に問う。男は私の問いかけにやや顔を傾けながら私に話を切り出した。

「片桐さん、確かにこれは鍵です。しかしながらあなたはどうやらこのことをご存じないようですね。あなたはご自宅の鍵を無くされていませんか?それも一か月も前、自宅への帰宅途中、夜の公園の途中で散歩中の男とぶつかり、そこでこの鍵を落とされましたね?覚えていませんか…?」

 私には全く覚えがないことだった。そもそも鍵など私が持つ必要はない。何故なら自宅はカードキーなのだ。それで番号を押せばそれで家の玄関は開く。だからこの――田中と言う探偵がそんなことを言っても皆目見当がつかないのだ。

「…田中さん、いや申し訳ないですが、全くの見当違いかと思います。私、自宅の玄関はカードキーになっていますし、それにこの鍵は全くと言っていいほど、私が使用するあらゆるものとかけ離れているのです」

「あらゆるものからかけ離れている?」

 男は怪訝そうに私を覗き込む様にすると、「…それじゃ、この鍵はあくまであなたのものではないとおっしゃるんですね」と言った。

 私は首を縦に振る。

「ええ、勿論です」

「強情ですね、片桐さん…あなたも」

「強情…?」

 私は思わず腰を上げた。

「いやいや、強情とかそんなことを突然訪れて私に訳の分からないことをおっしゃるあなたに何か言われる筋合いはないでしょう」

「筋合いはない?ですか?」

「ないでしょう」

「あの晩、あなたはぶつかった男にこの鍵を渡したんだ、違いますか?」

 合点がいかなくなる自分の頭が混乱していくのが分かる。

「あなたはこの鍵を落とした。それは男に拾わせようとして、違いますか?」


 ――まったく…


 ――全く…


 私の頭脳は混乱していく。頭脳が混迷していく度合いが強くなるたびに向かいに座る男の表情が紅潮していく。それも何というか、まるで私に襲いかかるように。

「見…、見てください、いや、見ろ。あなたはこの鍵で私をこの鍵の在る部屋で待ち合わせようとしたんだ。あなたはいつも、いつも私の側で立っていた。満員電車でいつもいつもあなたは私の側に立っていた…そうあなたもちらちらと時折、私を見ていた。そうきっとあなたも私を好いて言るのだと、そう私達は共に同じ愛し合う性癖を持ち合うものだと。私はどれほど、…どれほどあなたに声を掛けたかったか、私の心の葛藤がわかりますか。そしてついに私は意を決してあなたが駅から降りるのを待ち伏せして、やがて先回りしてあなたにぶつかったんだ。その時あなたはこの鍵を落としたんだ。それを拾った私の興奮はいかなるものか…あなたが不動産の賃貸物件を管理してることは知っていました。だから私はどの物件か検討をして、遂にある物件を見つけたんだ、ああ、ほら驚かれましたね。そうです、あの、あの縊死体があったあの賃貸物件ですよ。私は…意気揚々と鍵を開けて、あなたを待ったんだ。心ときめかせながら。すると部屋の奥で影が動いた、あなただと思った私は飛ぶ着くように影に抱き着いたんだ…しかし、それは、それはおぞましく腐り落ち始めていた死体だった。なんという事だろう。私は…、私はその死体の発見者となり、それだけではない、容疑者になってしまったんだ…片桐さん、あなたは酷い人だ。それからの私は逃亡生活だ、しかし私は無実だ。全てはあなたに仕組まれた、罠だったんだ。私は知っているぞ、あの死体の正体を…あの死体こそ…」

 そこまで男が唾を飛ばす様に話をしたところで、複数人の男たちがカフェに走りこんできた。見れば制服の警官もいた。押さえつけられて暴れる男は何度も「罠だ、仕組まれた罠だ」と喚き散らしながらやがてカフェの外に連れ出された。やがて静かになったカフェに残された名刺と鍵を見つめながら私はポケットから煙草を出して火を点けた。

 ――男、田中弘は『死体の正体』を知っていると言った。いずれ、警察でも分かる事だろうが、あの死体は私が担当していた下請け業者の社長だった。行方不明になって捜索願が出ていた。実は彼は失踪する前に私の所にやって来て言ったんだ。

「片桐さん、少し目をくらませたいんです。良い隠れ家無いでしょうか?」

 それで私はこの「鍵」を渡した。やがて会社が管理している鍵は無数にある。そのうちの一つがなくなっても誰も言わない。なんせ、スペアキーだらけなのだ。


 ――田中と言う男には気の毒な事をしたな。

 

 今思い出せば確かにいつもの通勤電車で会う男だった。目を合わせたこともあるだろうが、ごく普通のどこにでもいる男だ。こちらは全く記憶がない。男が告白したように男色ともいうのかそんな性癖があれば、そうした女もうらやむような恋の青い炎がめらめらと上り立つのも分からなくもない。

 つまり、全ては偶然だった。

 下請け社長の首くくりと田中という男の性癖。全てがたまたま結びついたと言う訳だ。

 そう思った時、煙草の灰が太腿にぽとりと落ちた。

 私は思わず踊りあがるように立ち上がった。急いで煙草の灰を落とす。灰を落とすが何やら急に笑い出しそうになった。


 ――田中と言う男、まるで踊らされていたんだな、自分の妄想に。

 

 そう思うと、私はどこかあんな男でも憐れんでしまいたい心情になって新しい煙草に火を点けた。

 そしてそれから灰皿に男の名刺を入れると煙草の火を強く押し付けて焼き、鍵をポケットに入れてカフェを後にした。


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