第11話 『生首坂』namakubizaka
1
その日は茹だる様な暑い日だった。
一週間ばかり続いた曇りと雨の日がやっと開けて透き通る様な青空が大阪の空一面を覆ったが、しかしながら路面から湧き上がる様な湿り気が街の路上の至る所に立ち昇り、そのおかげで露店の鮮魚や果物はまるで首を折る様に熟れて腐ったのか、腐臭混じりの鼻を突く臭いが街路を吹く風に乗って街全体を漂い、路歩く人々はその臭いの為に鼻を手やハンカチで覆わなければならない程、酷かった。
時は昭和の初め、戦時中の事である。
人形町の松屋町筋から大坂城へ向かう坂道の途中に小さな細い石階段があった。
この付近の住民は知っているのだが、この辺りだけ人形町と天満界隈と土地の大きな高低差がある。その為、もしこの石階段が無ければこの界隈を往き来する為に大きく迂回する必要があるのだが、その差を埋めるようにこの苔むした石階段があり、その為土地の往来は楽にできた。
この階段は二人三人が通れる程度で、人の往来のみの機能を単に果たし、特に謂れも所以もない。
勿論、この階段をいつだれが作ったのかもわからない。
少しばかり、この階段に装いをするものがあるとすれば途中に目立たない程度の小さな祠が有った。これは明治の中頃、日露戦争の戦勝祈願の為に造られたものだと言うのがはっきりしている。当時の住民で寄付を募り建立したものだ。こればかりは所以がはっきりしている。
その祠を覆うように大きな楠が側にあった。それがこの祠だけでなく付近一帯に大きな蔭を落とし、少なからずともこの祠がどこか古めかしく、怪しげな雰囲気を周囲に醸し出させていた。
だが楠は何も祠の在り様を悪くさせるものではない。
この楠、当時は今様に大きなものではなかった。それが今では大きく成長して大きな木陰を作り、今日のような茹だる様な暑い日には格好の避難場所にもなった。
しかしながら今日だけは一様にこの辺りにも腐臭の匂いが漂い、その為か誰もこの日はこの近くに居らず、木々の上で休むカラスがガァガァと鳴いているだけだった。
夕陽が大阪湾に沈むのが街中でも見える頃、この石階段に一人の女学生が足を踏み入れた。
この時分には日中の暑さも少し落ち着き、代わりに肌を湿らすような湿気を含んだ冷たい風が吹いて、急な雷雨を予感させるような天気模様になっていた。
吹く風の中に激しい雷雨と思わせる湿り気があり、誰もが軒下に干した洗濯物を一斉に取り込み始めた。
それでも付近を漂う酢のような強い腐臭は階段を上る彼女の鼻腔を強く突き、急がねば腐臭の中で雨に濡れることになると言うのが分かった。
だからかもしれないが階段を駆け足で昇る。
案の定、昇り始めて直ぐ空がゴロゴロと鳴り、肌の上に水滴が落ちた。見上げれば楠の葉の隙間から鈍よりとした空が見え、次第に大粒の雨粒が見上げる瞼をポツリポツリと濡らし始めた。
彼女は瞼を拭うと急いで駆け足で階段を昇った。頭上でカラスがガァガァと鳴いている。鳴き声がいつもより強いのは天候が変わり、やがて雨が降るのを感じているからだろうと彼女は思った。辺りには強い鼻をつく酸味を帯びた腐臭が漂っている。残飯などの塵を野犬でも食い荒らしたのだろうか、最近は人が住む様になり、それに伴い野犬も増えた。その増えて腹をすかせた野犬が偶に残飯を撒き散らす。
そうだろうと女学生は思った。それ以外に考えることなく早く帰宅せねば、雨に濡れて踏んだり蹴ったりになるに違いない。戦争の為の生活品は少なくなっている。余計なことを増やしたくは無かった。
その時、彼女は何かを踏んだ。踏んで大きく足を踏み外すと、苔むした石階段で強く片膝を打った。
声にもならない激しい痛みが膝に走る。
何か大きな石を踏んでしまったのか、踏んだものが階段の隅へと転がってゆく。
苦悶の表情で彼女は膝を触った。触ると苔交じりの泥土と共に傷口から血が出ている。
慌てて彼女はハンカチを取り出すと泥土を丁寧に分けて傷口に強く押し当てた。
当てて、顔を歪める。
骨が折れているかもしれない。
階段の上を顧みる。まだ半分ほど階段があった。
昇れるだろうか、そう思った。昇れなければ誰か助けを呼ばなければならない。
思いつつ再び傷口を見た。見ればハンカチに中で血が朱に染まっている。
――しまった…
彼女はそう思った。舌打ちを思わずした。
しかし、である。
そう思いながらふと気が付いた。傷口の割には出血が多い。
おかしいと思った。再び傷口を見る。見れば傷口は小さい。その割に血が多量に膝や脛についているのだ。
ぽとり…
聞こえないような音がした。
それが消えると自分の膝の上に何かが落ちて付着した。
――何だ…
また、
ぽとり…
聞こえないような音がした。
――えっ…
彼女は見た。
そしてそれを指で掬う。
それは血だった。
彼女は思わず、唾を飲みこんだ。飲み込みながら滴り落ちて来た雨降る空へと目を遣った。
何やら何かが楠の枝に絡みついている。
軍服を着た、何か…、
彼女がそれを網膜で認識するまで時間はそれ程かからなかった。
それは何かが無かった。
彼女は声にもならない叫びで、苔むした階段を這いずる様に動く。
腰が抜けていた。
それは自分でも分かった。
何かが既に爆発の限界を超えているが、まだ爆発をさせない。
何か理性が抑え込んでいる。
――無い、
ない、
ナイ、
ナイ
有り得ない…!!
そう、それは恐怖。
彼女の指先に何かが当たった。手探りでそれを握りしめる。
まるで恐怖から逃れるために。
しかし彼女は激しく降り始めた雨の中で濡れたそれを見た時、もんどりうってそれを階段の上へと力任せに勢いよく投げた。
投げつけられたそれはゴム毬の様に階段で大きく跳ねると音を立って雨の中を転がりながら、やがて静かに彼女と対面するように向き直って、音も無く停止した。
――そう、それは紛れもない若い男の生首だった。
それを認識した瞬間、彼女を抑えていた理性は爆発し、恐怖が声となって辺りに響き渡った。
折しもその瞬間、空から激しい雷が鳴り響いた。
雷鳴の中で彼女は恐怖を絶叫と共に吐き出しながら生首の見開いた眼が雷鳴で輝くの見た瞬間気絶すると意識を失い、その場で階段に向かって突っ伏す様に倒れた。
2
この暑い夏の最中、警らしている田中巡査にとって何が一番嫌かというと、この先に有るあの鬱蒼と茂る楠の石階段の付近を通るのが嫌だった。
あの苔むした石階段は日中陽が当たらず、その為都会の大阪らしからず何処か陰惨としていて心が落ちつかない生苦しさ感じないではいられない。
柔道で鍛えた体格を生かす為、警察官になったが、しかしながら実は心の方は意外と細心で臆病である。
だから、そうした場所は正直、避けたいと思っているのが本音だ。殺害事件の現場に出向くことは仕事柄仕方ないとはいえ、それでもできれば避けたい。
しかし、そうした心の弱音を他の諸先輩に見せるわけにもいかないから、そうした気分を悟られないように気がかりな時は鼻歌を誰にも分からないように小さく歌うか、もしくは必要以上に声を出す。
やがてその階段に差し掛かる。
その階段だが、何もなければ素通りで済むが、時には通るだけでなく階段を上がり途中の小さなみすぼらしい祠迄、階段を昇る必要がある。
何故かというとの階段一帯に何かしらが落ちているからだ。それは意外にも高級時計だったり、携帯電話だったり、それは様々なもので職務上、遺失物のような落し物があれば見過ごすわけにはいかない。
(何も落ちていませんように…)
田中巡査は心で願いながら自転車のペダルを漕いだ。
漕ぎながら自分がこの場所を嫌う本当の理由を思い出した。
自分が嫌う理由、
それはこの石階段の警察官仲間での謂れだった。
3
石階段の途中に有る祠は明治の頃、日露戦争の戦勝祈願で建てられた。故に、日露戦争勝利後は御利益があると言うことで地域の軍人達には人気があった。
時代が下るにつれ戦争が続いたが、出陣する近在の軍人達はこぞって自分の戦場での加護を願うため、祠に詣でるものが多くなった。
そして第二次世界戦争の時である。
学徒出陣が大阪でもあり一人の若い学生が軍の入隊試験を受けたが身体に疾患があることで戦争に行けなかった。
その学生は友人全てが皆戦場に行き、若い命を散らしたことを聞くに及び深く懊悩し、遂にせめてもの懺悔の為か、この場所の楠の枝に紐を掛けて首をくくり、縊死した。
その日は茹だる様な夏の暑い日で、街の至る所で魚や果物などが腐るほどの強い湿気が漂った日だった。
この楠にカラスが無数集まり、酢を嗅いだような独特の腐臭があったが、折から街全体が湿気の為に起きた腐臭交じりの臭いの為、この楠に吊るされた腐体には誰一人気付かなかった。
第一発見者はこの坂の途中、その日の夕暮れに激しい雷雨の中で倒れていた女学生だったが、現実にはその女学生を抱き起した若い医学生だった。
再び目を覚ました彼女は病院の中だったが、そこで彼女は腐体の発見時の転が状況と転がっていた生首の事を話し、しかしそれは警察の死亡解剖が分かるにつれて、死亡原因を裏付けるための証明にしかならず、何も事件性を表すような内容ではなかった。
警察はその若い学生軍人の縊死した日時については長雨が降り始めた最初の夜、恐らく深夜と推定した。
折からの翌日の強い湿気や臭気、楠の鬱蒼と茂る草が死体の発見を遅らせたために腐乱が進んだことが死体の首の根元を腐らせ、それがやがて重さに耐えきれず落ち、それがために身体は枝に偶然に引っかかり、一方の首はそのまま石段に落ちて転がったとして、事件性の無い自殺として処理した。
それを夕方、通りかかった女学生が偶然発見し、声を上げて悶絶したということだった。
――だから、田中。ここは通称、生首坂というのさ
(生首坂…)
気持ちが悪い通称だろうが!!
田中は初めて自分の警ら地区にそのような謂れの場所があって、ぞっとした。
勿論、同僚にはそんな様子は微塵にも見せない。
へぇと言って口笛を吹いて、部屋を出た。部屋を出たが背中に虫唾が走るのを感じないではいられない。足早に自分の部屋に戻り、布団を被る様に眠った。
(本当にそんなのは嫌だぜ…)
そう心の中で呟いて自転車を階段下で止めた。
止めると階段を見上げる。
階段上に空が見える。
その先から見える空はとても晴れ晴れとしている。
だが…
(おや?何だ…?あれは?)
田中巡査は何かに気が付いた。
自転車から降りる。
それから近づいて顔を上げる。
(何だ…あれ…)
腰をかがめて楠を見た。楠の枝が揺れてる。
(何してるんだ…あいつ…?)
厄介なことに誰かが楠をよじ登っている。
浴衣姿に下駄を履いた何やら場違いのような姿で首から上の髪の毛がゴワゴワ揺れている。
(不審者かよ!!)
田中巡査は見なくていいものを見てしまったことに気づいた。
舌打ちをすると田中巡査は、苔むす石階段に足を踏み入れた。
4
「おい!!君。そこで何をしている!!」
田中巡査の怒号に揺れていた枝がぴたりと止まった。
「おい!!君!!」
再び怒号が響く。
すると楠の枝から声がした。
「いやぁ、特に何もしちゃいませんぜぇ」
どこか間延びするような声がした。若い男の声だった。
二十代だろうか、田中巡査は思った。
「いいから、降りなさい。ここは私有地だぞ。君がそんな危険なことして、下の祠に何かったらどうするんだ?」
諭す様に田中巡査が言う。
その言葉に対する反省でもしているのか、枝につかまっている男は何も言わない。
(やれやれ…、この暑さで少し頭でもおかしくなったか)
本当にそう思いたくなった。木につかまるにはあまりにもその姿は不憫に思えた。
なんせ、着流しのような浴衣なのである。まるで時代劇にでも出て来る素浪人のような、腿から下着が丸見えなのである。
「おい、早く降りなさい!!」
注意を促す様に鋭く言うと男は降りて来るものかと思いきや、逆に木をよじ登ろうとする。
それを見て、田中巡査は気を荒げ、思わず関西弁で言い放った。
「おい!!何してるんや!!はよ、降りんかい!!」
しかし男は聞かず、木を登りやがて枝に手を伸ばした。その時、木の隙間から僅かに顔が覗いた。やはり見立ての通り若い男だった。髪の毛はゴワゴワと言ったが、アフロヘアであるのが分かる。それも縮れ毛である。
まるでマッチ棒みたいだった。
そのマッチ棒が楠を芋虫みたいに這っている。
(この芋野郎!!)
思わず怒声を放とうとした時、男が大きく楠の枝を揺らした。
「警官さん!!それ…拾ってください!!」
(何っ!?)
田中巡査は揺れる楠の枝を見た。すると揺れる枝から何かが落ちて来た。それも自分に向かって一直線に。
慌ててそれを両手で受け取ると田中巡査は手にのしかかる重さを感じた。見ればそれは桐箱に入った四角い箱だった。箱は丁寧に白と紫の組み紐で箱がばれない様に結んである。
(な、何じゃこれは??)
そう思っていると、突然ドスンという音がした。
見ればその場所に飛び降りたのか、浴衣姿に下駄の男が立っている。
しかし足を痛めたのか、少しだけ足を引きずる様に自分に歩み寄った。
「ナイスキャッチです。警官さん」
「君は一体、あそこで何をしてたんだ!!」
田中巡査の感情の籠った質問にアフロヘアの若者は桐箱を指差す。
「いえね。こいつです。こいつが枝に引っかかっていたのが分かったので、取ろうとしていたのですよ」
「こいつを…だって?」
桐箱を叩く。
「聞くが、これは君のものか?」
「違います」
男が髪の毛を掻く。
「じゃぁ、君はこれを盗むつもりだったのか?」
この質問に慌てふためいて男が言った。
「いやいや、とんでもない。落ちて拾って中身を確認したら、この先の交番に届けるつもりでした」
「本当か?」
「本当です」
男が即答する。
「その交番勤務しているのは私だ」
言うや田中巡査は組み紐をほどき始めた。
「いいか、今から君の前でこの落とし物を開ける。開けたら君が警察に届けなさい。いいね?」
「えー!!」と軽い奇声を上げて男が巡査を見た。
田中巡査は男を無視して、紐をするすると音を立てながら解いた。
「ほら、君。持ちなさい」
言ってから男に桐箱を持たせると、それをゆっくり慎重に上に引いた。
「いいな。こいつは君の持ち物だ…。もし見つからなければ君の物になるからな。それに思うが…もしかしたらこんな桐箱に入ってるんだ、美術の名品かもしれんぞ…」
最後はどこか底が意地悪そうな声が響き、するりと上箱が抜けた。
抜けて、二人が中身を見た。
しかしその中に有ったのは名品何て物ではなかった。
思わず、田名巡査は声無く尻もちをついてしまった。
男はというと唯呆然と驚愕の表情でそれを見つめていた。
そう、
そこに有ったのは
男の生首だったからである。
5
生首を発見した日から二週間が過ぎていた。田中巡査は非番の日を利用して、天王寺界隈の劇場にやって来た。ある小さな劇団の演劇を見に来たのである。
「…よかったですね。こいつは…良くできた精巧なレプリカですよ」
アフロヘアを揺らしながら男が田中巡査に言った。
言われて恐る恐る手を触れた。確かに髪の毛がどこか違う、いやそれだけではない肌も違っていた。閉じた瞼に手を遣ると瞼は開かなかった。
そう、こいつは人形の生首だったのだ。
そこで、深く胸を押さえて巡査は息を吐いた。
――良かった、マジで
しかしながらである。そう思えば思うと急に無性に腹が立ってきた。自分の臆病さを見られたこの男に何故かその怒りをぶつけて、体面を保ちたくなった。
「君、実は私を驚かす為にこんな悪戯をしただろう?」
思わぬ言葉にアフロの若者が驚いた。
「と…、とんでもないでさぁ!!」
「いや、君。公務を妨害してる。うん、してるよ」
「ちょっ、ちょっと警官さん!!」
慌てふためく若者の表情にどこか満足を感じないではいられない。再び相手の心を責める。
「駄目、駄目。それ以外に考えられない。君はここで僕が来るのを待ち構えて、驚く僕のこの一部始終をどこか…、あ、そうか、どこかで動画として撮影しているだろう?そっかぁ…君、ユーチューバーとかいうやつだろう。だからそんな浴衣姿に下駄なんて古風めかした恰好をしているんだな!!」
どうだ!!と言わんばかりに責める。
「違いますよ!!僕はですね、天王寺界隈にある劇団の劇団員です。今丁度、劇の練習の為に劇中に出て来る役者の姿形をして台詞の練習をしていたら、何か枝に引っかかっているのがみえたんで、それを取ろうとしたんですよ!!」
ほう、と田中巡査は小さく呟く。呟くとメモ取り出した。
「君、名前は?」
「えっ?」
「名前だ。参考に聞くんだよ」
「あ、それは…」
田中巡査が睨む。
「何だ、言えないのか?」
髪の毛をぐしゃぐしゃに掻くと言った。
「えっと…じゃぁ四天王寺ロダン」
「四天王寺?なんじゃ。その名は?」
「まぁ人はみんなそう言ってくれます」
田中巡査がメモ帳にペンを走らす。
「それで、その劇団と言うのは?」
「劇団ですね…」
言うやそこで何やら皺くちゃの紙を取り出した。
「こいつ、こいつを警官さんに指しあげます。良かったら見に来て下さい。小さな劇団ですが、ここでのご縁だと思って是非!!」
若者が無理矢理、田中巡査の手にその皺くちゃの紙を握らせる。
それを見開くと、確かに劇団の公演についてのパンフレットだと見とれた。その劇団の演劇風景写真に目の前の若者の姿が映っている。
それを指差す。
「見て下さい。こいつが僕です。これで僕が言ったことが正しいって分かったでしょう。いや、良かった、良かった!!」
つまりそれを田中巡査は非番に確かめに来たのである。あの日、。実は生首の事もさることながら田中巡査にとってとても関心ができてしまったのは、四天王寺ロダンである。
どこか素っ頓狂でしかも人懐っこくて愛嬌がある。そんな人物をどこか深く知りたいと感じたのだ。だから非番の日利用して、ここにやって来たのである。
演劇は二時間程度だった。小さな劇団だと聞いてはいたが脚本もしっかりしており、何よりも内容が良かった。劇は推理ミステリーだろうか、少年が両親を殺害するものだった。
観た演劇も終わり、田中巡査は劇の関係者に言って四天王寺ロダンの楽屋を見舞いたいと言った。断られるかなと思ったが案外すんなりと中に通してくれた。
楽屋に入ると衣装を着たままの彼を見つけた。あの時の着流しに下駄という衣装だった。
「やぁ、田中さん、来ていただいたんですね」
彼が喜色満面の笑みを浮かべて招き寄せる。その笑みに釣られるように田中巡査も笑った。
「ああ、君が是非来てくれというものだから来てみたよ。しかしながら劇は中々のものだった。すごく楽しめたよ」
その言葉に照れるように髪を掻く。
「いやーお恥ずかしい。あっ、どうぞ。この椅子に腰かけて下さい。今、お茶持ってきますから」
言うと、彼は奥に消えた。しかし暫くすると紙コップを抱えて戻って来た。
それを田中巡査の前に静かに置いた。
「今日は忙しい所、本当にありがとうございます」
「いやなに。あの時の君が中々忘れられなくてね。なんというか…君の人柄につい釣り込まれてしまったというかなんというか」
「そいつはとてもありがとうございます」
はは、と田中巡査が笑う。笑う巡査の顔を見ながらロダンが申し訳なさそうに髪の毛を掻いたので、思わずおや?という表情になった。それに気づいたのか再び彼が、小さく言った。
「…実はですね…田中さん…」
あまりに小さな声だったので思わず耳を寄せた。
当然、返す言葉も小さくなる。
「何だい?一体」
「実は…、あの生首ですが…」
「あの模造品(レプリカ)がどうかしたのかい?」
そこで辺りをロダンが見回す。周囲に人がいないことを確認すると小さく寄せた田中巡査の耳に言った。
「…あれですね、実はある事件が隠れていたんです…」
思わず巡査が顔を上げた。
「…ええ、そうなんです。実はあの日の前日、僕は全く同じ瓜二つの形の桐箱をあそこで拾っていたんですよ…」
「何だって??」
少し声が荒げたが、直ぐに声のトーンを落とした。
「どういうことさ??」
疑問の眼差しを向けられたロダンが静かに席を外すとリュックを持ってきて、その中から何かを取り出して田中巡査に手渡した。
「これは…」
手渡されたものはあの日と同じ桐箱だった。ロダンに目配せすると頷いたので、静かに桐箱の上箱をずらした開けた。
するとそこに丁寧に布で囲まれた茶碗が出て来た。
「こいつは一体…」
目の前にあの時期待した美術品が出て来た。あの時は期待外れの生首だったが…。
「実はこいつは正真正銘の美術品、それも九谷焼の名品中の名品、一級品なんです」
田中巡査が目線をロダンに向けた。
「君…、聞かせてくれないか。こいつの事を…いや、事件と言ったね。その事件とやらを知っているのなら」
6
田中巡査と四天王寺ロダンは演劇場を後にすると近くの小さな喫茶店に入った。室内は昭和の感じがする調度品が並びそれだけでなく物言わぬ老婆が何とも過ぎ去った時代を感じさせる。二人は老婆にアイスコーヒーを頼むと革の椅子に腰掛けて、先程の話の続きを始めようと互いの顔を見る。
まず沈黙を破り切り出したのは田中巡査だった。彼の手にはペンが握られていた。
「…それで、事件と言うのは…?」
手を揉む様にしながらロダンを見つめる。
「ええ、でもその前に田中さんと出会った前日の事をお話ししましょう」
そのタイミングで老婆が二つのグラスを持ってきた。置かれたグラスにストローを差し込むとロダンはゆっくりとアイスコーヒーを吸い込んだ。
「…前日ですね。僕はあの石段の上の方で同じように稽古をしていました。するとカラスがガァガァ鳴いて騒いでるもんですからろくに練習ができない。集中も切れちゃいますしね。しかしですよ…、異常なくらい何か騒々しい。だから何だろうと思って階段を下ったんです…」
田中巡査がポケットから小さなメモを取り出す。取り出すといつもしているようにペンを走らせる。
「下ると、ほらあの楠に枝が伸びて木々の葉が鬱蒼としているでしょう。ちょうど大きな木陰ですが…なんかよく目を凝らすと何かが引っかかっている。それでですね、僕は楠の幹に上り…、まぁその後は田中さんが見られたとおりの動作を瓜二つですね、枝をゆさゆさと揺らして、そいつを段々と自分の方に近づけて…最後は飛び上がって取ったんですよ」
そう言って桐箱を叩く。
「飛び上がって取れてよかったね。出なけりゃ、落ちて割れてただろうから…」
感心するように田中巡査が頷く。
「そうなんですよ。たまたまでしたけど…」
ロダンがストローに唇を持って行き、アイスコーヒーを啜る。
「それで続きだけど…、事件と言うのは?」
「ええ…それですね」
ストローから唇を離し、グラスの中をくるくると回す。
「僕が田中さんに会ったのはその翌日なんです。それも時間はほぼ僕がこの九谷焼を見つけたのと同じ時間でした」
「同じ時間だった…?」
「ええ、全く同じ時間に僕はまさに同じく似た桐箱に対して同じことをしていたんです」
ロダンが腕を揺れ動かす。それは木の枝を揺れ動かしているときの動作だった。
「そうか…私はその日の前日、府警本部に行っていたからね。あの付近の警らには出ていたんかったんだ」
「そうでしたか。それでですね、僕は始めこの桐箱を見つけた時、不思議に思ったんですよ…だって全く同じ時間に同じような桐箱が楠に引っかかっている。これってあまりにも偶然にしちゃどこかおかしくないかってね」
うん、と頷いて田中巡査はペンを止める。
「確かに…確かに同じことが二日も続けばそう考えるだろうね」
「ですよね。田中さんは初めてだからそう思われなくて当然ですが、当の僕に取っちゃ奇妙極まりないことなんですよ」
7
柱時計だろうか。
鐘が小さく鳴った。それに気づいた田中巡査が腕時計を見る。
時間は丁度午後四時。日曜の時間を過ごす時、明日からの忙しさが見え始めるそんな時間の臍を噛みしめる頃ではないだろうか。しかし…でもまだどこかこの休日を愉しみたい、そう思いたくなる時刻でもある。
田名巡査は未だ愉しみたい、この時をそういう思いを込めてロダンに言った。
「それで君、それがどうして事件に?」
質問を受けたロダンは生真面目そうな顔をして巡査を見る。
「田中さん、ほらあの時の生首ですがね…結局僕が持ち帰ることになりましたでしょう?」
ああ、そうだった。
田中巡査は思い出した。結局、人を驚かせるだけ驚かせたあの生首をロダンに引き取らせた。確か、それは彼が言い出したのだ。
「そう、劇で生首を使うので引き取りますと言って僕が引き取ったのでしたよね。実はあの生首、あの劇の小道具として壇上に在ったのですが、分かりました?」
「在ったかい?」
「在りましたよ。ほら、劇の途中で出て来たでしょう?」
「覚えてないよ」
正しく覚えていない。勿論、劇中寝ていたわけでもないが、暗い場面が多かったので覚えていないのが事実だ。
「いや、すまない。覚えていないよ。決して劇中寝ていたわけじゃないんだ。暗くて分からなかったのかもしれない」
ロダンが手を左右に振る。
「いや、何も気にしないで下さい、生首は別に劇中としては役に立ちませんでした。しかしながら事件の始まりとしては十分、あいつは役に立ちましたから」
言ってから、ロダンはズボンのポケットから何かを探り出すとそれを二人の目の前に置いた。それは小さな機械だった。それをまじまじと田中巡査はみると、顔を上げてロダンに聞いた。
「こいつは…?何だい」
ロダンが襟首に手を遣ると数度摩りながら、老婆を見た。老婆は起きているのか眠っているのか分からない。ただじっと目をつぶりながら身体をうつらうつら揺らしている。
「どうしたの?あのお婆さんが何かあるのかい?」
小声で巡査が言う。
「いやいや違うんです。これですね…実は老人の認知症用徘徊追跡GPSなんです」
「認知症用徘徊追跡GPS?」
「ええ」
「こいつが、それで何か関係あるの?」
「あるんですよ。実は…」
「実は?」
「埋め込まれていたんです?」
「埋め込まれていた?」
「ええ、そうです。あの生首のレプリカに」
声にもならない驚きを田中巡査が発送とした時、うつらうつらしていた老婆が突然目を覚ました。それから柱時計を見る。時計は四時を過ぎている。それを確認すると老婆はゆっくりと立ち上がり、二人に向かって言った。
「すいませんが、今日は早くに店終いしますけぇ、勘定させてください」
それを聞くや、慌てて田中巡査はアイスコーヒーに口をつけると一気に飲み干した。それから立ち上がるとロダンを振り返り言った。
「君、まだ時間あるだろう。私はその話の続きを聞きたいよ」
8
二人は何かを探している。夕暮れに染まり始めた街路を歩きながら、何かを探している。
探し物は何か?
何とも言えない思いのまま二人はあべのハルカス下の交差点に跨る歩道橋の上に居た。
少し先を見れば新しい公園の天芝が見え、その先に夕陽に染まり始めた夕陽丘付近が見える。
遥か昔大阪は海に突き出していた砂州型の台地だった。その名残でこの付近は土地の高低差がある。
その高低差を伝うように現在は谷町通りと言うのがある。仏舎四天王寺から北へ天満橋迄それは伸びている。ちょうどこの歩道橋はその北へ上る初めともいえる。
歩道橋はショッピングモールを行き交う若い男女が多い。
夕暮れに染まり始めたこの歩道橋を行く人の心にも休日の終わりが忍び込んできている。その影を踏む様に二人は歩いている。今は歩きながら探し物を見つけるときかもしれない、と田中巡査は思った。
「埋め込まれていたんだ…、GPSがね」
ロダンが頷く。
「どうしてだろう?」
その答えを探したい、田中巡査は思った。
ロダンが言う。
「あの生首ですが、軽い粘土で出来ていて彫刻やモデル品を造る時の習作に使われる奴なんです。内の劇団の美術でも良く使います」
「そうなんだ」
「あの日、部屋に持ち帰った僕は生首を置いた時、音がカラカラするのが分かったんです。それで何度も振ると振る度に音がする。おかしいなと思い首の下の方をひっくり返すと、付け根があってそこに違う粘土が蓋のようになっていたんですよ」
「それで気になりこじり開けた、ということだったね」
「そうです。それはさっき歩きながら話した通りです。開けるとそいつが埋め込まれていた。とっさに奇妙だと思ったんです。前日の事といい、このGPSといい…」
巡査が頷く。
勿論だと言わんばかりに。
「おそらく僕の推察です…、これを埋め込むと言うのは分かりやすく言えば追跡が目的でしょう。となると…、この生首がどこに行くのか?それを誰かが明確な意思を持って知りたかったということが仮説立てられるのではないかと思います」
「生首がどこに行くのか知りたい?だって…一体何故?何の為に?」
ロダンが歩きながらアフロヘアを揺らし、髪を掻いた。それから「そうなんです…、そうなんです」と何度も呟いた。そして最後に呟いた後、田中巡査の方を振り返りリュックに向かって親指を立てて指差す。
「こいつですよ。こいつを探していたんでは無いかと僕は思ったんです」
――こいつを探していたんではないかと思ったんです。
ロダンは自分に今断定的にそれも過去形で言った。
それは、彼がこの件について何か調べているということに違いない。
田中巡査は歩道橋を共に下ると、空に広がる夕陽を見ながら彼に言った。
「飲みに行こう。どこでもいい、近くにないかい?君はどうやら何かを既に知っているようだからね。だから君は事件が隠されていたと私に言ったのだろう?」
9
ふらりと暖簾を潜って入った立ち飲みの店は扇風機の音が煩く、まるで蠅でも払っているのかと田中巡査は思いたくなった。出された瓶ビールを互いにグラスに分けて一気にぐぃと飲み込む。それだけで歩いて流した汗の分の水分を補給したような気分になった。
再び互いにグラスにビールを注ぐ。溢れんばかりに泡を口元に吸い寄せ、また飲み干す。
「君の推察、いや仮説によるとそれはこの九谷焼を探す為に誰かが…あのレプリカにGPSを仕込んだ、ということだったね。しかも君はどうもそれは正しいかったと言わんばかりの口癖だ」
ロダンは縮れ毛を指で摘まんで、「えぇ」と小さく呟く。
「何をしたんだい?」
ロダンが巡査の問いに頭を掻く。その仕草が何か秘めたような感じだったので、巡査はその心をほぐす様に言った。
「ロダン君、別にこいつは刑事捜査なんかじゃない。だから警察とは切り離してほしいな。それに何も事件の届けがある訳じゃない。だから何か日常の悪ふざけの謎を解いたって話で良いじゃないか?さぁ教えてくれよ」
巡査の投げ出した言葉の何かがロダンの心の鍵を外したのだろう。彼は掻いていた手を止めるとビールをぐいと飲んだ。
「ええ、分かりました。田中さん、そいつを肝に銘じて話します」
それから彼はスマホを取り出した。それからアプリを起動させる。そのアプリが起動するのを田中巡査は見ている。やがてそのアプリが地図だと言うのが分かった。地図上に太い赤線が引かれている。何の目的のアプリだろうか?
「これですね。こいつと同じメーカーが作った追跡用アプリなんです」
「追跡用アプリ?」
「ええ、こいつを使って追跡をしたんです」
ここまで話を聞いて巡査は首を傾げた。
どういうことだ?
なのである。
「君、一体何を追跡したんだい?」
ロダンは言った。
「生首です」
「あの生首かい?あれはどこから来たか分からないだろう?」
「そうです。あの生首を僕達が拾った場所は…つまり着地点ですから、これら二つの持ち主はきっと生首と九谷焼がここまで来たのだというのは分かっているでしょう。しかし僕等はこの二つがどこから来たのか分からない。そいつは不公平です。だから逆追跡をしようと思ったんです」
益々疑問が浮かぶ不承不承の表情で田中巡査がロダンを見る。困惑の度合いが強いのがありありと分かった。
逆追跡?
全く、意味が分からん!!
そう言いたくなった時、ロダンが言った。
「ここまでこいつらを運んできたあのカラスにGPSをつけて飛んでもらったんです。それと相手への御手紙をつけてね」
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「カラス…」
意外な言葉に田中巡査は思わず口が開いた。
「ええ、カラスです」
ロダンが断定的に言う。
「どういうこと?」
素直にアフロヘアの若者に聞いた。今までの謎に悩んでいた自分の頬桁を張り倒されて感じだった。
「あのカラスですがね。彼等の習性として貯食性や何か光ものとかを持ち帰り巣に運んだり…もうそれは人間の塵というものをなんでもさらっていく習性があります。それで、あの楠の上はカラスの巣になっているんですよ。だからカラスが何かを運んだりすると偶に階段とかに色んなものが落ちたりするんです。僕も何やら落ちてるのを見たことがありますからね」
そういえば…、
巡査も心の内に思い当たる。
あの付近に偶に腕時計やらスマホやら何やら色んなものが落ちているのだ…
それを自分は偶に落とし物として処理している。
「それで僕はここで仮説を立てて、もしかしてカラスがこいつを運んできたのじゃないか?それもカラスは恐らくある特定の所に必ず行くんだ。そしてそこで何かを偶にカラスは持ち去る。そのこともこの持ち主たちは知っているのではないかと?」
言ってからロダンはアプリを開いて見せた。それは成程道伝いではない。住居を横切る様に太い線が引かれている。
「それで僕はカラスたちにこの追跡用GPSを何とか餌だと思わせて苦労させて嘴に摘まませれば…このふたつを運んできた場所に行くだろうと。だから、よし!!空を飛んでもらってと言う訳です。それで、その結果が見事このアプリなんです」
田中巡査はビールを一口飲んだ。まるでこのロダンが話すことは自分が昔読んだ推理小説のような話だ。現実にはない、推理という仮説を立て実証していく、それが今目の前で実証されている。
疑いはまたそれが最新の科学技術GPSによって正確に裏付けされている。犯人捜査の為の遺伝子確認のような高度な事をしているわけでもない。
ごく日常にある認知症追跡システムを単に使っているだけだ。誰でもそんなことは考えれば工夫立てられることなのだ。
「結果はですがね…、どうもこのカラス達、縄張りが広いのか…東大阪迄飛んでいるのですよ」
「東大阪?」
「ええ、小坂ってところがあるんですがね。その先にかの有名な司馬遼太郎先生の記念館があるんですが、このカラス共その先の付近のNというところまで行っているのが分かりました。あのあたりは意外と神社は藪や竹林も多く、カラスにとっては日中過ごすにはいい所なのかもしれません」
巡査は地図を頭に思い描いた。それはあの石階段を起点に南東に向かって線が引かれてゆく。中々の距離であることは分かった。
「それは…距離があるな」
巡査が唾を飲みこむ。
「それでそこにあの二つと結びつく何か関連するものがあったのかい?」
ロダンは軽く頷く。
「あった?本当かい?」
巡査が目を見開く。
「ええ、その場所付近で検索エンジンでね、ワードを探ってみたんですよ、…『九谷焼』『彫刻』『美術』とか、そしたら出て来たんです。その付近に住む芸術家が…」
「芸術家??」
「二科展などにも出展している年老いた彫刻家が居たんです」
「それは誰??」
その問いかけにロダンは首を振った。
「今は言えません。だって僕はカラスに持たせた手紙に『あなたの名前を伏せておきます』と書いておいたんです」
田中巡査は思い出した。このロダンがカラスに手紙を追跡GPSと共につけていたのを。
「そういえば、君は手紙を書いてカラスに運ばせるようにしたんだよね」
「はい、相手が読むことを期待して」
「それは、どういった内容だったんだい?」
一瞬、ロダンは返事を言い淀んだがじっと田中巡査を見ると、頷いて言った。
「確かこれは警察捜査じゃない、悪戯解明でしたもんね」
それからビールを飲む。空いたグラスをテーブルに置いた。
「僕はこう書いたんです。『例のものは僕が所持しています。もし返してほしければいつでも例の場所に来てください。あなた方の棲み処は既に僕とカラスが承知です。名前は伏せておきますよ。それが互いにこれからの取引の信用上、大事でしょうから。ではまた』…シンプルです。場所は特定しませんでした。そう今は相手をX氏としておきましょう」
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不思議とはこのことを言うのだろうか。
グラスに注いだ瓶ビールの数は忘れてしまった。それほどまでにロダンが話すことが自分を夢中にさせて行く。
自分は警官として常に現実と向き合う。、推理とかなどは無縁だ。あんなものは実際にはテレビのサスペンスにしかない話で警察事件にはそうした余人の推理などが入り込む余地などはない。だからそれらはあくまで推理小説というフィクションの中でしか存在し得ず、それは娯楽的演劇なのだ…
…そう自分は今まで思っていた。
このロダンが話すのを聞くまでは。
と、言う事は遂に自分はそうした想像の演劇の世界という舞台の演者になったということなのだろうか?
そう言えば、ロダンという人物は『四天王寺ロダン』という名で、いかにも劇団にいそうな演者の名だ。名は体を表すと言うが、彼ほどそうした演者にはふさわしいものはないのではないだろうか。
そう、推理探偵という演者としては。
ロダンがアフロヘアの髪を掻いた。それから首を撫でる。撫でるとその手でグラスを手にしてビールを喉奥に流し込んだ。
小さなゲップをして、すこし酒に酔ったような目でグラスを振る。そこに何を思い揺らしてるのか?
「しかし不思議です。この世は不思議としか言えませんね。人と人は場所や時間、普段は見えないそういった奇妙なもので繋がってるんです。でしょう?だってカラスだって何のゆかりも所以も無く、勿論、僕達とこのX氏とは何もない。何もないにもかかわらず、それとなく関係していて、それは場所と場所を繋ぐと言う役割を担っている」
少しぶつぶつ呟きながら話し出すロダンの背に手を巡査は置いた。
「まぁまぁ、それはそれとして続きを話してくれよ。僕だって今は目から鱗が落ちるような気分何だ。さぁ、話の続きを是非!!」
促されるようにロダンはぽつぽつと話し出した。
「それでですねぇ…、その後です。そうカラスが僕の疑似餌を持ち去った後、ちょうど一週間が経った頃です。僕がいつものように芝居の練習を階段の上でしていると…階下の方に二人連れ添うように立つ影が見えたんです」
「二人の影?」
「ええ、それは二人の年老いた老夫婦でした。男性は杖をつき、もう一人のご婦人は車椅子だったのです」
老夫婦…
田中巡査はその情景を想像する。
楠の木陰の縁取りに並ぶ二人の老夫婦。大阪の市内を警らすればそんな老夫婦はよく見かける。ごく当然の光景ともいえる。
「僕は直ぐにピンときました。きっと…この桐箱を仕掛けたのはこのご夫婦に違いないとね、だって認知症用の追跡GPSなんて、若い人が持つもんですか、そいつは必要な人しか持たないものです」
成程…、
ロダンの横顔が紅潮しているのが分かる。
「つまり、一週間後にご本人が現れた…という訳だね」
「そうです」
ロダンはそこから階下へと駆け降りた自分を思い出した様に、再びビールを一気に喉に流し込んだ。
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――男性は杖をつき、もう一人のご婦人は車椅子だったのです
「いやぁその姿を見た僕はですよ…」
喉をビールで濡らす。濡らすとぺろりと舌を出して唇を濡らす。
「そりゃ一目散にですね、そのお二方目指して右手に生首、左に桐箱を抱えていざぁ鎌倉って感じで石段を駆け降りたんです。野武士ですよ、野武士!!それで今思えば下から見ていたお二人は怖かったでしょうね…。なんせこのもじゃもじゃアフロを振り乱し、格子島の浴衣の胸元ははだけ、下着は丸見え…、おまけ高下駄を履いて天狗のように飛んでくるように降りて来る。その時の僕は空襲で阿鼻叫喚の世界を逃げ回る狂いもんでさぁ」
腕で唇を拭く。拭くとビールを手酌でグラスに注いだ。
「想像するに有り余るね。正しくあの鬱蒼とした楠の祠の有る苔むす石階段をそんな恰好で狂態具合で降りてきたら、驚きもんだからね。僕だって思わず拳銃に手が行くかもしれないよ」
どこか笑いを隠し切れないような表情で田中巡査もグラスにビールを注ぐ。注いでから一気に喉に流し込んだ。
それから釣り合いの取れない状況を想像して二人目を合わすと、思わず笑った。笑いながら巡査が聞く。
「それでまぁ二人の前に現れた君はどうだったの?そのお二人は君のお目当ての人物だったわけ?」
ロダンは軽く頷く。頷くと人差し指を立てて軽く二、三度振って巡査を見た。
「ええ大当たり。ビンゴでさぁ、田中さん」
うん、と巡査が頷く。
恐らくそうだろうと思っていた。
推理とは『謎』を剥ぎ取る作業なのだ。まるでバナナの皮を剥ぎ取るかのようなそんな作業なのだ。
はぎ取られるのは事実に照らされ解を得た『謎』という皮、推理とはその皮に覆われた真実という果実を食するための皮剥ぎ作業に他ならない。
田中巡査はビールの表面に映る自分を見ると、それを一気に飲み込んだ。
しかし不思議な気分にさせる。推理とはこんなに甘美な知的作業なのだろうか。それとも横にいる人物が醸し出す香気が鼻腔を突いて自分をそうさせるのだろうか。
「それから僕は二人の前に立つと聞きました。僕は四天王寺ロダンといいます。あなたは…X氏ですね。本名は、今は未だ伏せておきますが、その時…相手側には『自分はあなたの名前を知っている』と言いました」
じっと巡査は聞いている。
「すると相手は深く頷きました。それから後ろの方に目を遣るのです。それで僕はそちらの方を見ると…少し離れた所に白塗りの派手な高級車が見えました。その運転席にはサングラスをした男がいます、僕がそちらを見ているもんですから老人の男性が僕に言いました。『あれは、連れです。妻は認知症があって、僕等歳ですからここまで連れてきてもらったんです』と…」
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にじる様な汗が掌に溢れているのが田中巡査には分かった。まるでその時の天天晴れの空の下にいるような錯覚がしないではいられない。
額の汗を拭う。
「連れの男は…、実に、実に僕の方を怪しむような感じでフロントガラス越しに見ていました。まぁ…仕方ないっちゃ仕方ないが…、しかし僕は全く気にしない、気にしない。でもですよ、ここではお天道様が降り注いでかなり暑いもんですから、振り返ると丁度楠の影が石段の上で翳っていて、僕はそちらへ案内して男性と石段に腰掛け、また奥様は木陰の中で涼む様にしました」
ロダンはスマホをポケットに仕舞うと次にリュックから桐箱を出した。それを目の前に置く。「九谷焼って言うのは現在の石川県で焼かれた磁器なんですが、色彩が豊かでねぇ…」
そう言って桐箱の蓋を開ける。開けると中に布にくるまれた磁器が現れた。磁器は青、緑、黄などの濃が多用され、華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が描かれている。
「その中である作品が隠れた名品だと言われているのです。それはある時を境に一目にはつかなくなった幻の名品。それはですね、明治、大正、昭和とそれぞれの時代に時の宮家に閲覧されたという磁器なんです」
「宮家?」
「ええ、まぁ天皇ですね」
「へぇ…そんな作品があるのかい?」
ええ、と低い声で言う。
「僕は実は劇団員の傍ら、非常勤で図書館の任期付き職員として働いているのですが、まぁ、演劇などしている手前、どうしてもそうした芸術美術方面にも興味があって意外に少しだけ詳しいのです。それでその九谷焼の隠れた名品と言うのも存在は知っているんです」
「それがこれ?」
ロダンが笑う。
「答えを急ぎますねぇ」
「違うのかい?」
「いえ、そうです」
あっさりとロダンが言った。巡査も笑う。
「君も急ぐねぇ」
はっはっはっと互いに笑いながら目の前の九谷焼の磁器を見る。
「何という作品なの?」
巡査が問う。
「三つ鏡(みかがみ)」
「三つ鏡(みかがみ)?」
反芻する巡査にロダンが言う。
「ええ、何でも三つの時代を映したものという意味だそうです。それでこの名を付けたのは三室魔(みむろま)鵬(ほう)という明治後期生まれの陶工です」
「じゃ、こいつが?」
「ですね」
ふーんと深々と頷きながら巡査は磁器を見た。
正直、自分はあまり工芸品には詳しくない。見れば白地に濃い色合いで何色が塗られ、何か中国の伝説上の生き物だろうか、それが描かれている。確かにそうした知識があれば何とも香華のある見事な一品に思えてくる。
「しかし…そんな貴重な品がなんであんな楠に…、もし割れたりでもしたらとんでもないことになっていただろうに…」
そこで巡査ははっとする。
「そうか…、それでこいつを探していたんだ。もしかしたら盗まれたんではないかと。割れていたら大変だからねぇ。きっとそうだ、それで分からないけどその老夫婦の庭にカラスがいつもやって来ていて、この九谷焼を陰干しか、それとも何かしているときに不注意でやつらに持っていかれたことに気がついた!!それで鳥の習性からきっと似たものを持たせればまた同じ場所に運ぶはずだから、GPS付きの生首を運ばせて場所を特定させた」
巡査の目が見開く。
「どうだい?君??」
見事、名推理ともいわんばかりに満面の表情でロダンを見る。
しかし
「…うーん、半分は正解だけど半分は違いますね…」
冷静に答えてビールをロダンが飲む。
「えっ?半分は正解だけど半分は違う?」
「はい」
「どこが??」
食い入るように巡査がロダンの表情を覗き込む。
間違いないだろう?
そんな心の声が漏れ聞こえそうだった。
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「勿論、半分は正解ですよ。お二人には聞きましたから…『ご自宅にはカラスが良く来られていますね?』とそれには『はい』と答えれました。それに田中さんがおっしゃったとおり、アトリエの美術品の整理をしているとき不注意で庭先に置いたところを桐箱ごとカラスに持って行かれたようです。その後の行動も田中さんの指摘通り。たまたま奥様に認知症があり徘徊追跡用のGPSを使用していたという事と鳥の習性を考えると…、ひょっとすればこの九谷焼の有る場所が特定できるのではないかということで行動したそうです。場所がここだという事は直ぐに分かったようですが、意外だったのはまさか手紙の返信が来るとは思わなかったようです」
「大事なものだろうに、直ぐに探しに来なかったんだ」
「ええ、やはり足腰の悪さもあって、ほら車に乗った目つきの悪い連れって言うのが不在だったらしく日数が伸びたようなんです」
「しかし割れていたら元もこうもないだろうに…」
ロダンが頭を掻く。掻きながらすまなそうに言った。
「そこがね…不正解なんですよ、田中さん」
眉間に巡査が皺を寄せた。
「そこ?」
「ええ」
「何が?」
「いえ、割れていたらというところです」
巡査の唾を飲みこむ音がした。ひんやりとした冷たさが背筋を這うのを巡査は感じると、自分の間違いを恐る恐る聞いた。
「…それが…、間違い…?」
聞くや否やロダンが九谷焼を地面に落とした。
巡査の目にそれはゆっくりと残影を残しながら、しかしどこか速く気持ちを押しのけて、やがて地面に激しく転がり落ちた。
声にならない叫びの後に、目を覆う手の向こうで九谷焼は落ちてそれはバラバラに
…砕けなかった。
沈黙とは、
予想される期待を打ち破られた時に鼓膜の奥に響くものなのだと、巡査は初めて知った気がした。
何故なら九谷焼は粉々にならずまるでゴム毬のように床に転がっているのだった。
それをロダンが無造作に手に取り、ぽんとテーブルに置いた。
はて…、自分はどこで間違えたのだろう。
「そう思いたくなりますよね」
ロダンがポンポンと九谷焼を叩く。
「僕もね、最初はこいつが本物だと思ったんです。でもですよ、翌日あの生首のレプリカを手にした時の感触というか質感が、この九谷焼と似てるもんですから…、もしかしたらと思って…恐る恐る触ってみたんです」
まだ驚きから覚めない巡査の視線を跳ねるように、今度は掌で九谷焼を叩いた。
「そして結論がやがてこうして導かれたのです」
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九谷焼の磁器。
落ちれば割れる。
割れるのは当然だろ?
違うかい??
しかし、
ロダンは言った。
――そこがね…不正解なんですよ
「どういう事さ?物理的に不正解だと言うのかい?割れないってことが?」
田中巡査は食い入るようにロダンを見つめる。ロダンはというとテーブルに置いた九谷焼を撫でながら言う。
「こいつは最新の軽量化できる粘土で出来た『三つ鏡(みかがみ)』の精緻な模造品(レプリカ)なんです」
「だから?」
困惑が収まらない。
巡査は食い下がる。
「つまり、これがレプリカという事実があの老夫婦にとっては、まぁおまけとしてあのサングラスの運転手にとっても過去の事件の大きなミソ…、つまりある傷害事件を成立させなかった関係者全員が知り得ていて、かつ世間に隠した事件のラストピースなんです」
老夫婦にとって…
サングラスの運転手にとって…
傷害事件を成立させなかった…
関係者全員が知り得ていて…
隠した…
…事件のラストピース…???
困惑の度合いが頂点にまできて沸騰しそうになった巡査はまるでロダンがいつもするように頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「分かんねぇ!!わかんねぇよ!!ロダン君!!」
髪を掻きむしりながら叫ぶように言う。巡査の声高な叫びに辺りの客がこちらを振り向く。
「ちょっ、ちょっと田中さん落ち着いて!!」
「落ち着いていられるかよ!!分かんねぇんだよ!!さっぱり」
「さぁさぁ、早くビールでも飲んで」
言いながらグラスにロダンがビールを注ぐ。それから耳元へ小声で囁く。
「皆に聞かれちゃいますから店を出ましょう。夏の夜です。少し涼みながら谷町筋でも天満の方に歩きながら下りましょう。夕陽も綺麗だし、こいつを借景して夏の暮れ行く空の下、散歩と洒落こみましょう」
16
外に出れば夕陽が遥か大阪湾の向こうに沈むのが見えた。田中巡査は天王寺界隈から少し離れて、四天王寺ロダンと谷町筋という幹線を歩いている。仏舎四天王寺の側から天満橋まで伸びるこの幹線はどこか静かだ。新世界や難波と言ったいわゆるミナミを含んだ繁華街とはまるで無縁のどこか閑散としたこの通りに来れば本当に大阪だろうかと思うかもしれない。
それはこの背に受ける夕陽がよりそうした思いを人の心に植え付けるかもしれない。
地名は『夕陽丘』、成程な…と巡査は思った。
先程歩きながらロダンはこの辺りの事を簡単に自分に教えてくれた。
昔大阪湾はこの辺りが砂州にも似た突起状の台地だった。それを今では上町台地と言うのだが、古代船に乗り海原に浮かんだ人々はここら一帯を仰ぎ見れば、海から突き出た台地に見えただろう。その台地上に仏舎四天王寺をはじめ多くの伽藍が見える様はさながら海上都市アクアポリスだったに違いない。
その名残ともいえる所以を今、自分は歩いている。先程の店で飲んだビールは少しだけ心地よさを与えてくれるスパイスとしてちょっとした辛味の在る寂寥感を今与えてくれている。
寂寥感…
それが絡んだ舌先で言葉になり、過去をなぞる。
「成程、それが君の言う昔の傷害事件というやつか。本当に大分昔だなぁ、今じゃ…」
アフロヘアに風が吹いたのか、それが森のように揺れる。
「ですねぇ」
ロダンがポケットに手を突っ込みながらリュックを背負った背を丸めている。矢や猫背になりながら、ロダンは時代という風を背負って進んでいるように見えた。
「三室魔(みむろま)鵬(ほう)という人物、中々癖があるねぇ。芸術家と言うのはどこか清廉潔白な人ばかりかと思ったけれど」
ロダンが渇いた笑いを上げる。
「いやいや、とんでもない。そう外見を作り出している人の方が多いかもしれません。なんせ内面における個性が強い人ばかりですから。出なけりゃ、灰汁の強い芸術何てできやしませんよ」
「しかし、手を出すかい?内弟子の奥さんに?」
矢継ぎ早に巡査がロダンに問う。
「そいつが人間の何ともと言うところかも知れません。なんせ美というのはエロスと繋がり、まぁプラトン曰くそれは「恋(エロス)」なわけで、それを欲する為には国宝級の美術品何て何の意味もないガラクタ。どうしても欲しかったんでしょうね、老人の狂った年老いた恋…、いやこの場合、肉体を欲するだけの唯の下卑た恋と言ってもいいのでしょうけど」
「君はその辺の事は知っていたの?」
「三室魔(みむろま)鵬(ほう)の晩年、腕が麻痺で効かなくなって作品ができなくなり、やがて苦悶の上死んだのは知っていましたが、その事実がまさか…それも時代が下って僕の所でこのように事実が明らかになるなんてね…本当にひょんなことが『場所』と『場所』、『時間』と『時間』を繋ぐとは…」
そこでロダンは首を撫でると、パチンと音を響かせて首を叩いて呟いた。
――頭と胴を繋いでるのも首なんでよねぇ。首って繋いでいる大事なパーツなんですよ…
17
言葉はあの日、ロダンが出会った老夫婦に向かって話される。
「日差しを避けるように僕達は木陰に入りました」
ロダンは言った。
「それから僕が言ったことに老夫婦、いえ、どちらかというと男性は驚いたんです」
「何と言ったの?」
風が吹いた。
坂下から捲り上げるような夏の熱気を含んだ風。それがロダンの髪を揺らしてどこかに消えて行く。
「はい。こういいました。『成程…、『三つ鏡(みかがみ)』の精緻な模造品(レプリカ)が必要だったのは、壊れてしまったという事実が世間に広がってはいけないからですね?それは三室魔(みむろま)鵬(ほう)にとっても、あなた方にとってもだからある様に見せて事実を隠す必要があった』と…」
これだ…
田中巡査は再び思考を巡らせようと逡巡する。
――老夫婦にとって…
サングラスの運転手にとって…
傷害事件を成立させなかった…
関係者全員が知り得ていて…
隠した…
…ラストピース…
ロダンの言葉が千切れちぎれに自分の思考を繋ぎ合わせようとするが、だが、繋がらない。そのもどかしさが自分だけに纏わりついているようだ。少なくとも横を歩くロダンは既にその先を知っている。
いや全てを知っているに違いない。
「もどかしいよ」
素直に言葉に出た。
「教えてくれ。答えを」
巡査は消えゆこうとする夕陽を見た。あの夕陽が沈めば夜が来る。ロダンは問いかけられた言葉をその場に残すように数歩、歩き出してポツリと言った。
「三室魔(みむろま)鵬(ほう)というのは九谷焼でも新久谷という明治以降の輸出品の分野で活躍した陶芸家でした。出身は同じ石川県の小松ともいわれていますが、本当は分かりません」
「そうなんだ」
巡査が振り向く。
「ええ…彼の作品は大胆な色彩を引き立てながらもととても清廉な作品が多く、磁器表面の艶めかしい肌触りは藤田嗣治の乳白色の肌に様だと言われ、作品はとても女性的な肌質を持たせるようなものが多かったのです。だから特に女性には受けが良かった」
「女性に受けがいいか…」
「何ですよ。またそれに中々の男児ときている、当人の若い頃はどことなく雰囲気が竹久夢二の若い頃に似ているんです」
「へぇ」
ロダンが巡査の感嘆に対して咳払いをする。
「まぁ人それぞれかもですかね、人に対する見方と言うのは。それで話を戻すと、しかしながらその人物としての人間の内実的性格は全く作品とは逆で、手当り次第、相手が人妻であろうが、愛人であろうが関係なく女には手を出すと言う、とてもその作品とは相反する芸術家でした」
「酷い奴じゃない」
巡査が思わず苦笑する。
「まぁこれは美術史関連の雑誌には記載されて、一般的に知られている話だから特に隠されるようなことではありません。そんな三室魔(みむろま)鵬(ほう)ですが、やがて歳を経るにあたり性的体力が落ちてきたのか、そうした人間的欠落はそげ落とされるようになり、それがますます作品に磨きがかかる様になります。その頃に造られたのが、あの『三つ鏡(みかがみ)』です」
「こいつか」
巡査がリュックを覗き込む様に見る。
「彼自身はそれを決して手元から離すことなくまた誰にも見せることなく大事にしていたのですが、晩年、それが彼の手元からある人物に渡ることになりました。実はここの理由が世間にはあまり知られていないことなのです。あれほど執着していた『三つ鏡(みかがみ)』を何故、手放したのか?それとそれは本当に彼の意志だったのか、分からない。なぜならば彼はその時、頭に大きな脳出血があって半身不自由になって、言葉もままならなかったからです」
巡査は黙って暮れ往く街を歩いている。夕陽はもう最後の輝きを放とうとしている。
「僕は三室魔(みむろま)鵬(ほう)について美術雑誌で知っている範囲ですが…まぁ老齢による認知か、脳出血による記憶錯誤でそのことがどうにかなったんだろうとしか思っていなかったです。でもですね、GPSで逆探知して、このX氏の名前を知った時、すこし彼の事を調べておいたのです。その時、不思議な仮説が閃いたんです。勿論、当人達もまさか昭和、平成、令和と続いた人生の半世紀も経た今、再び自分達の名前が三室魔(みむろま)鵬(ほう)に隠された事件と共に僕のこのもじゃもじゃ頭の中で浮かび上がるとは思っていなかったでしょうから」
18
「僕はX氏については、会うまで日数があったので、少しだけネットで下調べをしておきました。彼は若い頃から将来を有望視されていたようで、東京の芸術学校を出た後は、実家のある芦屋に戻って近在の芸術家…例えば小磯良平とかと交流があったようです。現在は二科展などを中心に活躍している古参の美術家で彼自身の作品はフランスの彫刻家オーギュストロダンのように写実的表現に優れていること、また彼の作品の数点をネットでも見ましたが、いや、やはり中々素晴らしい作品ばかり…でした。しかしながらここ二十年ほど妻の認知症が進んだことがあり、現在は表舞台には出ていないということでした」
田中巡査は頭の中でロダンの話を整理する。
X氏は
将来を有望視されていた彫刻家…
現在は古参の美術家で作品は写実的表現で素晴らしい…
あとは妻が認知症を患い、現在は表舞台から姿を消している…か。
「それでネットで調べていると一つ面白い情報が有ったのです」
「うん」
巡査が相槌を打つ。
「昭和の戦後、若い頃一時期石川県に住み、九谷焼の勉強をしていた、というところです」
「九谷焼の勉強を?」
「ええ、何でも終戦後は彫刻の需要も少なく、その為、知古の美術商のつてを頼り、三室魔(みむろま)鵬(ほう)の窯に居たという事です」
ロダンが髪を掻いて、巡査を見る。
「それも単身じゃない。自分の恋人と共に三室魔(みむろま)鵬(ほう)の窯にいたようなんです」
夜の始まりを告げる空向こうに輝くのが見えた。
星だろうか、と巡査は思ったが良く見れば環状線の高速道路を走る車のヘッドライトだった。
巡査は先程整理した内容の最後に今の言葉を足す。
終戦後、美術商の伝で三室魔(みむろま)鵬(ほう)の窯に居た…
自分の恋人と共に…
巡査はここで顔を上げた。
その時、輝きが見えた。
それは先程の高速道路を走る車のヘッドライトだろうか?
いや、違う。
巡査は首を振る。
見上げた先にはロダンの貌が見える。
そう、
それはロダン、
彼の目の輝きだった。
「では僕の立てた三室魔(みむろま)鵬(ほう)に起きた事件について仮説を話します」
19
ロダンが老人に自分の考えを話し終えた時、どこにいたのか楠に隠れていた蝉が一斉に鳴きだした。この時、ロダンは今季節が夏なのだと思った。不思議とよくよく考えれば、今年は蝉が鳴くのを聞いていない気がした。いや、鳴いては居た筈だが、自分が余程劇の稽古に夢中だったのか、耳に入ることが無かったのかもしれない。セミの鳴き声が段々と大きくなると、今度は一斉に止まって鳴き止んだ。泣き止むと、木陰の中を風が吹いて、それが老人の白い髪を巻き上げて、ロダンの髪を撫でた。
「そうなんです。あの日も蝉が沢山鳴いていた暑い日でした」
老人は杖に寄りかかち、僅かに首を下げた。
「三室魔(みむろま)鵬(ほう)の窯のあたりも森が深く、木々が生い茂り、そりゃもう…蝉なんてうるさくてしょうがない。いや蝉だけじゃない、夜になればあちらこちらでウシガエルが無く次第」
そこで老人は顔を上げて夫人を見た。夫人は車椅子の中で転寝をしている。
「彼女(あれ)も、それはずいぶん嫌がっていました。都会の娘ですからねぇ、それが私の都合で急遽石川の山奥へと行くことになったのですから」
「それは気の毒でしたね。奥様は;どちらのかたですか?」
ロダンが首筋を流れる汗を手の甲で拭く。
「アレとは私が東京の美術学校から帰ってきて、当時ここから先に有った中之島洋画研究所に通っていた頃知り合いましてね。元々は道修町にあった有名薬屋のひとり娘なんです」
「お嬢様ですか。そりゃ、石川の山奥で蛙やら蝉やらは嫌だったでしょうね」
「ええ、勿論。それらも嫌でしたが、特に三室魔(みむろま)鵬(ほう)の事は毛嫌いしていましたよ。三室魔(みむろま)鵬(ほう)…いや、先生の事を醜悪で疣が沢山あるウシガエルの親分みたいだと言っていました」
ロダンが苦笑する。
「奥様のお言葉、言い当てて妙ですね。僕も図書館で三室魔(みむろま)鵬(ほう)の写真を見たことがありますが、晩年は若い頃の美青年がどこに行ったのやらの、まさに醜悪なウシガエルの親分みたいです」
老人も苦笑する。
「妻もそりゃ、大事な先生ですから表面は静かによそよそしく振る舞っていましたが、その内面はそりゃもう見るのも嫌だという感じでした」
ロダンが汗を拭った手で、今度は首を撫でる。吸い付くような汗が肌の上に滲み出ていた。
「それが…、思わぬところとはいえ、三室魔鵬(みむろまほう)から好かれてしまった、それも好かれると言うもんじゃなく、年老いた男の執念ともいうような情熱的な恋」
深く老人が息を吐く。困惑と焦燥と、しかしその中に侮蔑のようなものがまじりあった深い溜息だった。
「先生は常々僕に言っていましたがね…『創作に措いて一番大事なのは恋(エロス)、それこそがプラトンも言っている真善美の内の美とつながる恋(エロス)なんだ』と…」
そこで老人はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。拭いてから離れて止まる白い車を見る。
車の中にいるサングラスの男は先程迄こちらを凝視していたが、あちらも座席を少し倒して、陽を避けるようにしている。もしかしたら夫人と同様に転寝をしているのかもしれない。
「…まぁ、ほとんどの事は今あなたがおっしゃった通りです。先生が急性くも膜下出血で手が動かなくなったのは妻が押し倒して来た先生を『三つ鏡(みかがみ)』で激しく殴打したことが原因です。その原因も含め、いまあなたが想像の内に話した通りでほぼ間違いないですよ」
ロダンは頷く。
「僕も雑誌とか色んなもので三室魔(みむろま)鵬(ほう)の事は知っていたのですが、しかしながら彼は余程『女』というものが大事で終生、そのかかわりが大きく色んな所で出て来るんですね」
老人も頷く。
「『三つ鏡(みかがみ)』は先生の傑作で私も好きでした。それに当時は彫刻の仕事も無く、あいつの誘いで先生の所に言ったのです。その頃の先生は若い頃のような血気盛んさ…も消え失せ、作品に打ち込んでおられ、これ以外にも沢山の名品を世に出されていました。だから女性を同伴させても特に差しさわりは無いだろうと」
老人はあいつというところで僅かに白い車を振り返った。ロダンはそれを僅かに目で追いながら話を聞いていた。
あいつ…?
ロダンの心に疑問の炎が灯る。
「あいつは私の専属美術商です。いや、そうではあるが、実際のあいつは蛭のような男です。若い頃から私に蛭のように吸い付き、そして彫刻を売りさばいて財を成した。まるで血を吸ってブクブクと太る蛭と変わりない」
蛭のような男、
ロダンが頭を掻きむしる。
一段と疑問の炎が燃え上がる。
「しかしながら、あいつがあの時、あの現場に私と駆け込んだことで、『三つ鏡(みかがみ)』を細工することを持ちかけ、先生を脅したことで以後、犯罪者として私達夫婦も生きなくても良かったことを思えば、…役に立ったと言えるかもしれません」
あっ、そうか!!
ロダンの頭を掻く手が止まり、思わず首を叩いた。
「成程、あの事件の時、壊れた『三つ鏡(みかがみ)』をあなたに模造品として作らせ、三室魔(みむろま)鵬(ほう)に脅しをかけたのは、彼でしたか!!」
20
ロダンは囁くように、しかしゆっくりと確認するように目の前の老人に話し出す。
「時は終戦直後。その頃、老齢の境に居た三室魔鵬(みむろまほう)の元に一人の若い芸術家がやって来た。彼は女性を連れ立っていました。女は若く美しかった。何故、彼が三室魔鵬(みむろまほう)の所に来たのかというと、戦後、彫刻の仕事はありません。美術家にとっては大きな失望の時代だった。その時彼についていた美術商が言ったのでしょう。そこで仕事を学びましょう、きっと高名な先生の所で学べば後学に役立つこともあるはずだと…、しかし、間違いは一つ、若い芸術家の三室魔鵬(みむろまほう)に対する見通しの甘さでした。若い頃、精力に溢れ、手あたり次第『女』に手をだした男も既に肉体的に老いており、老境の間際で美術だけに精力を掛けて生きている、なんら、若い女が居ても、昔のように手を出すことは無いだろうと」
「だが人間の肉体は老いても精神は老いないことをこの若い芸術家は知らなかった。ピカソが年老いて尚、より自由に芸術が花開き続けたことを思えば、内なる精神においては肉体の老いなど何らその精神においては影響をせず、むしろ忍び寄る死への歩みがその制限を抑えている理性を失わせてゆくという事を知らなかったし、それが三室魔鵬(みむろまほう)の内面で連れて来た女を見るにつれて、やがてプラトン哲学の『恋(エロス)』として爆発していくのを見通せなかった」
「あってはならぬことですが、それが遂に爆発した。そう、いまあなたがおっしゃいましたね。蝉が沢山鳴く暑い日の窯で。奥様は突然押し倒して来た三室魔鵬(みむろまほう)ともみ合っているうちに、必死で掴んだ『三つ鏡(みかがみ)』で三室魔鵬(みむろまほう)の頭を激しく殴打。悶絶している現場にあなたとあいつが現れた。それでその状況を見たあなたがたは、事情を察し、割れた『三つ鏡(みかがみ)』を回収すると、あいつが息も絶え絶えの三室魔鵬(みむろまほう)の耳元で囁いた…、そうあなたが僕に言ったことをもう一度忠実に言うと…
『先生、この事が分かるとさすがに人間国宝は御見送りになりますよ。いかがです、先生の晩節を汚さないように私が取り計らいます。どうですか?まずは『三つ鏡(みかがみ)』は彼に与えなさい。何、将来有望の才能ある若い芸術家に惚れこんだということと、それと彼等のこれからの結婚祝いもかねてと言うこと、彼等に引き渡せば先生の所から割れたこいつが見つかることもない。もし見つかってごらんなさい。宮家も御高覧されたこいつが先生の愛憎劇の為に使われた何て言われたら、人間国宝どころか、以後、美術史上何を言われるかわかりませんよ。何、後はこちらでうまくやりますよ、先生の死後、ずっと先生の名誉を守るためにね』」
「それから先生を病院に連れて行ったあなた達は先生が手当てを受けている時、脳出血を起こしている事を聞いた。これこそ幸いですよ、ここは美術雑誌にも書かれているのですが、『三室魔鵬(みむろまほう)は創作中に突然の脳出血、まぁくも膜下出血のため、転倒時に頭を強打して病院に連れられ、そこで創作も出来ず、言葉を発することもできず、最後の時間を過ごすことになった』と言われています。その後のあなた達の事は、こうでしたね。
『引き渡された『三つ鏡(みかがみ)』は模造品を造り、さも自分が所有していることで、この傷害事件とは無縁の扱いをさせてゆく。仕方ないのは有名な作品であるので時折、誰かが見たいと思う時があるだろう。だからその際は公開させるが、人々に肉眼で知覚できるような距離で見せるようなことはせず、距離を置くこと』まぁ模造品ならあなたほどの彫刻家であれば可能な技だったのでしょう…」
「そしてそれは完璧で数年も誰にも分かられること無く、昭和、平成、令和と来たのですが、ここで一つ落とし穴ができた。それは自分達の老いです。その老いが、自分達に軽率なことをさせてしまった。庭で陰干しをしたということです。若い頃の自分達なら警戒心も強く決してそんなことはしなかったでしょう?しかし、老いでしょうか、それとも油断でしょうか?軽率な事をしてしまった。有り得ないことに庭先にたむろしているカラス達に持ち去られてしまった。慌てたあなたはそこで咄嗟の事だったが妙案を作った、それが生首を詰めた桐箱をカラスに運ばせると言う案です、それでそれは結局のところどうなったかというと、巡り巡って今こうして僕の前に現れたということです。いかがです?Xさん」
21
田中巡査は交差点で足を止めた。谷町通りは既に夜の帳が落ち始めている。信号は赤のまま、まるで自分とロダンを見つめているように見えた。次に動き出すまでの僅かの時間がどこかもどかしく感じられた。
このもどかしさはどこから来るのだろう。自問しても答えはない。勿論、彼も。
巡査はロダンに語りかける。
「君の導きだした過去の事件に対する答えは完璧すぎるほどの推理で私としては感嘆するしかない。それでやっと『(「)三つ鏡(こいつ)』(」)が模造品で割れていちゃいけなかったという意味も良く分かる。そう確かに、君が言う通りだよ、こいつは割れていちゃいけない…、三室魔鵬(みむろまほう)にとっても彼等にとっても都合が悪いから…、本物は既に無いのに荒れていないものが存在するなんて、一発でそれが模造品である事が分かる。しかし世間には存在していると認識はさせておく、それはしかし本物としてではなく精緻な模造品として…」
そこまで話をすると信号が青になった。二人は連れ立つように歩き出す。
「でも…君は、いつ、どのように、これらを組み立てたの?どうも彼には詳しいようだけど」
ロダンが髪を掻き分けると「そっすねぇ…」と呟く。
「…うーん、正直言うと三室魔鵬(みむろまほう)について僕は任期の図書館勤めもあるんですが芸術好きもあって…、個人的に彼の色んな情報が実は彼らに会う前からインプットされていましてね。だから彼の晩年も良く知っているんです」
「そうなの?」
「ええ、まぁ…それはおいおい話しますが」
ロダンが突然言い淀む。
「彼らが僕の側を去ったあとからどうも何かこう、おかしくてしょうがないんです。胸がざわつくと言うか…」
髪を掻きむしる。そんな彼を見て巡査が言う。
「何がだい?」
「確かに僕はそれらの情報を組み立てて答えを導いたんですが、初めてこいつに出会った時の違和感というものが、どうしてもねぇ、自分の中で拭いきれなくて」
「違和感?」
「ええ、田中さん、分かりました?生首とこいつの重さがほぼ同じなんですよ。だから思ったのはひょっとして『(「)三つ鏡(こいつ)』(」)を造り馴れているのじゃないかと、だから重さもほぼ正確に造れるんだと」
「つまり…それは何度も作っていること?」
「そうです」
ロダンはそこで激しく頭を掻きむしる。アフロヘアがぐにゃりと音も無くへこんだ様に見えた。
「傷害事件そのものは簡単に仮説を立てれました。三室魔鵬(みむろまほう)自身の晩年がああいう事でしたので、もしかしたら『(「)三つ鏡(こいつ)』(」)が早い時期にこの世界から消えたのはきっとそれが凶器だったのだろうなというのはね。唯、長年それが存在していることは今では勿論嘘だと分かったのですが、世間に対しては既定の事実でしたし、そこだけがはっきりさせれれば、後はドミノ倒しで全ては明るみになる。仮説は事実だったわけで、だから完璧にまるで果実の皮を剥ぎ取るように真実が分かったのですが…」
ロダンが夜の暗闇の中で沈痛の表情をしてるのが感じとられた。彼は頭を掻いた手で背負うリュックをポンポンと叩く。
「どうも完璧すぎるんですよ…、なんでだろう。寸分の隙も無いくらいの答えなんです。あの老人が僕の仮説に対して答えてくれた事実全ては…」
巡査は軽い溜息を吐いた。少し悩みすぎるこのどうも人懐っこい不思議な若者を慰めるように言った。
「謎を解くと言うのはそういう事だろう。全てがぱちりと音を立ててパズルのように解が解けれ、それは寸分の狂いもない答えになるには当たり前だよ」
「で、しょうかねぇ…」
「そうさ。これでそいつに隠された昔の事件も大体分かったよ。まぁ芸術家の痴情ともいうか人の女に手を出すと言う恥ずかしい傷を、当時の人たちで隠したというものだったと言うことでいいじゃないか。わざわざ警察の出る幕でもないさ。そいつは君の胸の中で仕舞っておいてくれればいい」
巡査は標識を見上げた。
ロダンも見上げる。
見上げる先に標識が見えた。
「なんだ、谷町まで来たか、随分歩いたね」
そこで軽く手をロダンに差し出す。
「とても愉快な週末になったよ、ありがとう」
差し出された手をロダンが握る。しかしその表情には拭いきれない何かが見え隠れしている。
それを見て巡査が微笑する。
「まぁそんなに考え込まないように」
「ですね…」
「それじゃ。ここで別れよう」
ええ、とロダンが言った。
それで巡査は背を向けた。
ロダンはリュックを背負ったまま巡査に手を振っている。
巡査はこれで彼に会うこともないだろうと思いつつも、しかしながら別れ際に見せた彼の困惑の表情がどこか忘れられなかった。
事実、
田中巡査はこの時思いもしなかったが、再び彼と会うことになる。
そう、事件が起きたのである。
22
田中巡査はその事を聞いた時、血相変えて現場へと飛び出した。
突然、交番に飛び込んできた通行人からその知らせを受けて手に取るものも持たず、駆け出したのである。
それ程、彼は焦っていた。
彼が駆け出した現場と言うのは、あの楠の繁る石段、その途中にある祠だった。
巡査が現場に到着した時、既に人だかりができていた。
巡査はその人だかりを掻き分けるように石段へと駆け上ろうとする。
その時、激しい腐臭が巡査の鼻腔を突いた。あまりの腐臭に腕でそれを抑えながら、階段へと踏み込んだ足が思わず硬直した。
視線の先にある二つの塊が何だったのかはっきりと見て取れた。それが自分の全身に止まれと命じたのだ。
――そこに映ったもの
そう、それは老人の夫婦と思わしき二つの腐臭した生首だった。
そして
その横で数羽のカラスが嘴を開いてぎゃぎゃと鳴いていた。
23
陽に焼けた肌に焦燥ともいうべき皺が刻まれている。それが汗の珠となって頬を伝いながら首筋へと伝い落ちて、地面にシャツの襟首に染みた。田中巡査は夕暮れ間際の天王寺の歩道橋を歩いていた。
再び彼に会うために。
自分の警らの管轄区で起きた老夫婦の生首事件。その後の捜査でその夫婦が東大阪のN地区に住む夫婦だと分かった。
夫婦は死亡後、既に二週間以上が過ぎておりその遺体はもはや腐体と言っていいほど損傷が激しく進み、その首筋には無数のカラスが啄んだ跡があった。
その後の夫婦宅の鑑識や死体解剖等で分かったことは、夫の死因は胴から下は浴槽に浸かっており、浴槽内に水が張ったままであったことから、死因は入浴中に発生した心筋梗塞による水死であった。また婦人の胴から下は寝室に横たわっていた。恐らく彼女自身が重度の認知を患っており、身体等動かすことができない状況であった為、介護人である夫人の急死が招いた脱水症状、および栄養状態の欠乏による衰弱と餓死であった。夫人の首にも同様にカラスの嘴の後があったことから、部屋の開いていてた窓から侵入したカラスが死体を啄んだものと考えられる。
新聞にはどちらも高齢老人の死という事で大きく取り上げられた。とりわけ昨今の日本の現状を現す、非常に社会的な事件としてメディアに取り上げらた。
田中巡査は歩きながら手の甲で拭き出る汗を拭った。
拭いながら見覚えのある角を曲がると、細くなった路地を曲がる。曲がると、そこにドアが見えた。そのドアを開けると地下へ降りる階段がみえた。階段を駆け足で降りると壁に色んな演劇の張り紙がある小さな待合室に入った。丁度、そこに若い女性が居たので巡査は声を掛けた。
「ちょっと、ロダン、ロダン君はいますか?」
女性は額まで切りそろえた前髪の下から警部をまじまじと見ると「はい、いますが…」と小さく言った。
「ねぇ、すまないが呼んでくれないか。私は田中と言うんだけど、少し急いでいてね」
巡査の息の切れた慌てて声を訝し気に見ながら女性が奥に入る。巡査は椅子を引き寄せると腰を落とした。珠玉のような汗が額から零れ落ちて来る。それを今度は掌で拭いた。
「やぁ、田中さん」
その声に振り返る。そこにアフロヘアのTシャツにジーンズ姿のロダンが居た。直ぐに立ちあがると巡査は急くように言った。
「ロダン君、実は…」
ロダンは軽く手を上げると頷いた。
「ええ、あの件は知っています。だから遅かれ早かれ、田中さんがお見えになるだろうと思っていました」
ロダンが促す様に巡査の背に手を遣る。
「もう僕は今日、ここでの用事は無いので良ければ音楽でも聞きに行きませんか、静かでいい所があるんです、ピアノの曲を奏でてくれるところがありましてね。そこで互いの話を聞ければと」
巡査は首を縦に振る。
「いいさ、君に付き合うよ。それにあの話をするなら落ち着ける場所が良い」
ロダンは小さく頷くと再び奥に入り、リュックを背負って出て来た。
「では、行きましょう。ちょっと先の所にありますから」
そう言って巡査が降りて来た階段を昇り出したが、階段の途中で不意に振り返ると巡査に言った。
「田中さん…、それで警察は有馬春次を手配されたんでしょうね?彼は目下、あの老夫婦に関連した詐欺罪で逃亡中でしょうから」
それに一瞬、ぎくりとした巡査はしかし、そこで深く息を吐くと、首を縦に振りながらロダンに言った。
「…どうやら君は既に全てを知っているようだね」
巡査はその言葉を吐いて、ロダンの後を追った。
そう、
自分は今日、恐らく既に彼が知っていることを聞きたくてここに訪れたのだから。
24
木枠のガラス窓が微かに震える。それはピアノの旋律に触れて、揺れているのだった。巡査は普段は飲まないワインをグラスに入れて音楽を聴いている。しかし聴き入ろうとはしていない。聴き入ろうとするのはロダンが今から自分に話すこと、そう、彼が知り得ていることだ。
ピアノが奏でる単音が旋律へと変わり、それがロダンの心を揺らす時まで、自分は待ちたい。待つという事が今の自分に与えられた仕事なのだ。
ロダンは静かに目を閉じている。それは音楽を聴いているのか、それとも今から自分に向かって話すべきことを整理しているのか。
おそらくその両方だろう、巡査がそう思った時、ロダンの瞼が開いた。
淀むような瞳が、ゆっくりと何かを捉えていく。その何をしっかりと掴んだのだろう、ロダンははっきりと、しかしゆっくりと話し始めた。
「あの時、田中さんと別れた僕はやはり心に釈然としないしこりを抱えていました。それはあまりにも三室魔鵬(みむろまほう)のことといい、生首と『三つ鏡(みかがみ)』のレプリカの重さの事といい、やはり何か釈然としなかったのです」
ロダンが首を撫でる。
「それに僕は大学の卒業論文で彼の事を研究課題として扱っていたのですよ」
「三室魔鵬(みむろまほう)を?」
「ええ、僕はしがない三流美大の出身なんですが、卒業論文は彼がテーマでした。論文のテーマは彼の作品についてですが、その…一般的に謂われている彼の女性への趣向ですが、あれは本当に事実なのかどうかですね」
「つまり女好きという事が本当かどうかだね?」
ロダンが頷く。
「ええ、その通りです。僕が以前田中さんに話した時に言ったおいおいというのはこのことです。実際、僕が研究して調べてみると彼の女好きというのは、どうも彼が幼くして母親を亡くしたコンプレックスから来ているという事からの女性への敬慕からきているようで、世間一般に割れている、分かりやすく言えばスケベ根性なんてもんじゃないという事なんですよ」
ピアノの音が高く響く。それがロダンの言葉に反射して、巡査の心に響いた。ロダンが続ける。
「だから意外なんですけど、まぁこれは僕の持論ですが、彼は真に純粋で美に対する謙虚さが溢れている人物だが、しかしながら内面のシャイな部分を隠すために世間に対しては女性に手を出す人間と言う泥臭さを良い意味で自分の宣伝や尊大さを作り出すための虚構にすり替えていた、というのが僕の結論です。芸術家にはそうした人格創作は得てして多いことです。だから彼の作品は作品も美しく、だからこそ万人が認め得るものだったという事なんです」
巡査はそこで腕を組んだ。
「じゃぁ…君のそこからの視点に立てば、成程、X氏が君に言った過去のあのことについては、しっくりと来ないよね。彼があの老婦人に手を出したなんていうのは」
「そうなんです。しかし、あまりにもX氏の話は論が立ち、完璧だったもんですから信じてしまいました」
――信じてしまいました。
巡査は顔を上げた。
「そうなんです。信じてしまったんです、あまりにもX氏の嘘が見事だったものですからしっくりと心の中に落ちてしまって、思わず嗚呼と唸ってしまったのです」
ロダンは頭を激しく掻いた。
「やはり、いけませんぜぇ、田中さん。これでも四天王寺ロダン、役者で売っている男っす。それが見事にX氏の作り出したフィクション劇に見惚れてしまい、堂々と劇場を去ってしまったというのだから、役者失敗ですよ。相手の見事な演劇、いいや脚本にやられてしまったのですから」
ロダンはどこの方言ともつかぬ言葉で一人まくしたてる。
――見事にX氏の作り出したフィクション劇
――相手の見事な演劇、いいや脚本にやられてしまった
ロダンの言葉に巡査は小躍りした。
「つまり、全てが有馬春次と、結び付くんだね」
ロダンは首を縦に振る。
「彼は詐欺をしている、と君は言った。警察は正直に言うとX氏夫婦の殺人罪で手配したんだよ。しかし、どうも見立てが違うようだ、君は詐欺罪と言っている。それはどういうことなのか、教えてくれ」
ロダンは何度も何度も頭を掻く。その各指に合わせてピアノのリズムが早くなっていく。まるで二つは一つの瞬間までつながって行くようだった。それはどこに向かうのか?
ピアノの音が止まった。
突如、沈黙が訪れた。
沈黙は広がり、やがてその沈黙を破るべくロダンの唇が開いた。
「『三つ鏡(みかがみ)』を使った密売、いや…模造品を使って本物と偽って売買していたんです。X氏もその後婦人も、そして有馬春次も。彼ら三人はそうした詐欺犯罪グループだったのですよ」
25
「詐欺犯罪グループ…」
田中巡査は呟いた。その呟きの先にピアノの細い音が灯る。灯るとそれが明かりのように巡査の謎の先を照らしてゆく。
「それは…一体…」
自分は今精いっぱい言える言葉を呟いた。
――詐欺…
思いもよらないサイコロの出目と言っていい。しかしロダンは、それを確実に自分に出した。
その意味は?
その謎は?
果たしてそれは何故?
ロダンはリュックからファイルを取り出した。それを巡査の前に置く。置くと微かにワイングラスに注ぎ込まれた巡査の赤ワインが揺れた。
「こいつは…」
巡査が呟きながらファイルを開く。開くと新聞の記事の切り抜きが見えた。どうも一般紙ではなく、業界新聞のようだった。
新聞の日付は昭和XX年とあるから非常に古い物だった。
するとロダンの指が伸びてきて、ある新聞記事の所を指差す。それは小さな記事だった。
巡査がその記事に目を通す。
――道修町にある老舗薬屋Dは資金繰りが厳しく、江戸の頃より続いた当店もいよいよ廃業の見込みである。
「次はこちらを見てください」
ロダンが指差す。
記事の日付が過ぎている。
――道修町にある老舗薬屋Dは有志による資金援助を受けることに成功し、当代で江戸時代より続いた店の廃業をする必要がなくなった。尚、事後は漢方へ事業を専年させ、特許等を習得するなど少しでも事業の継続をする方向である。
巡査が読み終えて顔を上げる。
「こいつがどうしたんだい、どうも古い…業会新聞の用だけど」
「これ…図書館資料で検索して見つけたんです」
そう言いながらページを捲る。そこにも新聞記事が切り抜かれている。巡査は何も言わず、それに目を通す。しかしながら直ぐに顔を上げた。
「君、これは…」
「はい、これは昭和の初めに起きたあの石段での学生の縊死の記事です」
巡査は静かに頷いた。
「それで、これらがどういう意味に?」
ロダンが答える。
「田中さん、実は道修町にある老舗薬屋Dにはお子さんがいましてね、一人がX氏のご婦人、そしてその弟が有馬春次なんです」
「えっ!!」
思わず、巡査は声を出した。
「二人は兄妹だったのか?」
「驚かれましたか、まぁ弟の方は早くに別に養子に出されていましたから、警察でも分からなかったのかもしれませんが…それから…」
「それから?」
「その縊死事件、第一発見者の医学生とありますが、その時の女学生がなんと…亡くなられたご婦人なんです」
「何…だっ…て!!」
巡査はピアノの音を消さないように押し殺すように驚きを声に出す。
「ほら、ここに名前がある」
指差す様に目を向ける。そこに小さく
名前が書かれていた。
――ああ、これは確かに、
警察で調べたあの老婦人の名だ…
巡査は顔を上げた。
ロダンが呟く。
「しかし、時が巡りまさか自分があの場所で生首として、人々の前にさらされるなんて思わなかったでしょうね。まさに因果応報でしょうね、『三つ鏡(みかがみ)』を三室魔鵬(みむろまほう)から盗んだことに対するね…」
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「『三つ鏡(みかがみ)』を三室魔鵬(みむろまほう)から盗んだ…だって?」
田中巡査は意外な話にやや呆然となってロダンの顔を見る。彼の顔はいたって冷静でどこにも驚きは見えなかった。むしろ冷静さとは違ったどこか過去を標ぼうとするような眼差しをしていた。
「それは…どういうことなのかな。僕にはどうも、君が見つめている先が分からない。君だけが見つめている…それがね」
巡査は指差して彼の視線を追った。視線の先に映るものは何だろう、そう思った時ロダンが口を開いた。
「僕はね、田中さん。新しく出てきた資料とまだ調べつくされていなかった情報を基にもう一度全てを洗いなおしたのです。それを今から田中さんとお話していきたいです」
そう言って彼はリュックから桐箱を取り出した。
それも二つ。
それだけではなかった。あとに自分が調べたことが書いてあるのか、四つ折りに居折られた紙片の紙。
それらをピアノの音が流れる中で、その隙間を縫うように彼が何かを創り上げるかのように、語り出した。
「まず、昭和の学生の首吊り事件…死んだ学生の名は繁村竜一。彼はですね、道修町の近くの学校に通っていた青年です。そしてこのX氏の婦人、もう、名前を隠すことはいいでしょう、牧村佐代子と同級生だったのですよ。彼の死はどうでしょう。不思議じゃないですか?どうして彼女の家への通り道に吊り下がる様に死んでいたのか?どう思いますか?田中さん、あなたなら自分が自殺する時、あえてそうして死にたいと願う時、どんな動機づけがあると考えられますか?」
巡査は喉を鳴らして唾を飲みこんだ。今話したことは知らないことだ、彼がどのようにそのことを調べたのか?何か古い資料へ検索できる立場にいるから出来ることなのだろう。立場?立場といえば…任期付き図書館員とかどうのこうのと言っていたな…
「動機…」
「ええ、そうです」
もし自分が万一殉職するとなれば、それは自分の自己が主張できるようであればいいとは考える。それは国民の為、法の為、正義の為、何らかの主義を示した死に方をしたいと考える。
「僕はですね、彼の自殺はまずこの牧村佐代子への当てつけだったと考えるのです。その動機とは何か?青春の苦悩する時代を生きようと知る若者達の永遠の悩みは、もう『恋』としか言えないのではないのでしょうか」
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ロダンが続けて言った。
「そこで出会った二人の内、X氏。もうこちらも名を明かすべきでしょ、公然の話ですから。里見雄二と牧村佐代子、まるで学生の死は自分の彼女への恋と言う意地を見せた結果、別の愛を育んでしまった結果になったのです」
心を慰めてゆくピアノの音に巡査は一抹の寂しさを感じた。寂しさが次の展開を運んでくる。
「小さな名も無き悲劇は、一方で愛を育み、それが遂に大きな次を生んだのです。それから数年が過ぎたころ、その間に里見さん、牧村、有馬兄弟は仲良くつるんでいたのでしょう。それも有馬春次は小さな古美術商の所に養子に出ていて店を切り盛り始めた。ここに「芸術」を通じた一つの形ができたのですよ」
巡査は頷く。まるで時間を超えてそれを見てきたかのようなロダンの口ぶりに、唯、静かに。
「それから、ここに不幸が落ちて来た。この頃には里見と牧村は婚約をしていたと思うのです。だからこそ里見は牧村の実家の事に首を突っ込むことが必要になった」
「つまり、新聞の記事にあった例の老舗薬屋D倒産騒ぎだね」
「そうです。そこで急な資金が必要になったのでしょうね、まさしくこれが巡り巡って三室魔鵬(みむろまほう)の命を狙うピストルの弾になってしまった」
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「弟の有馬春次は古美術商の仕事柄、北陸の九谷焼の窯主達と繋がりがあったのようです。そこで目を付けたのが三室魔鵬(みむろまほう)です。『若い頃、女遊びの派手だったあいつなら、今でも若い女には脇が甘い筈だ、それならば若くて美貌の姉をあいつに近づけて何かしらを盗んで、いや当初は分け前でも貰おうという魂胆だったのかもしれません。貰えば金銭に替えれば、実家の破産も免れる。それに里見も神戸の在住の画家とも親交があったのでその辺の連中の添え状でもあれば、尚さら良い』なんて策を三人で顔をそろえて考えて、早速そうしたものを取り揃えると、三人で北陸行きの特急にでも乗り込んだのでしょうね」
田中巡査は微睡みの霧の中にいるようだった。視界は見えない、自分が進むべき先は見えない、しかしロダンだけが見えている。今は彼の差し出す手に引かれながら歩かなければならない。
何故なら彼だけが知ってるのだ。この霧の中の抜け方を。
「それから彼等は三室魔鵬(みむろまほう)の窯にやって、生活して過ごすことになった。表向きは古美術商と若手彫刻家の表敬訪問とそれにつれだった若くて美しい女、しかしその正体は紛れもない悪辣な窃盗団」
巡査は霧の中で何か声を聞いた。それは空を飛ぶ、鳥のようだ。
「だかれこそ、本当の犠牲者は三室魔鵬(みむろまほう)だったのですよ」
29
「北陸より遥か離れた地で練られた策は手でこねられた醜悪な陶器の形をしていたに違いありません。それは見事に醜悪で悪辣で、それが不幸にも三室魔鵬(みむろまほう)自身が作り上げた虚栄の炎に投じられることになった。虚栄の炎は世間が見ている彼に対する鏡であり、三人はその鏡に映る虚栄を足場に砂上の計画を練ったのです」
ロダンは鼻下をこすると、慈しむ様に桐箱を見る。そこに何を見つけようと言うのか。
巡査はそう、ロダンに問いただしたくなった。
「三室魔鵬(みむろまほう)の窯に到着した三人は、年老いた巨大なヒキガエルのような老人の顔を見て、こりゃきっと噂通りだと思ったに違いありません。この容貌の下には隠されている女への欲望の炎がまだめらめらとあって、ひとたびその炎に薪でも加えようなら、ガソリンなどいらない、きっと一気に燃え上がるはずだ、そう!!その役こそ牧村佐代子が成し得るしかない」
ロダンが髪を掻きむしる。その掻きむしる指がピアノの鍵盤を弾いているとでもいうのか旋律が激しくなる。それは階段を掛け昇るとする駆け足のように。
「しかし、以外なことがあった。それは三室魔鵬(みむろまほう)がそうした世間の鏡からは程遠く、芸術に足して彼等に取っては真摯で誠実だったという事です。まさにそこに誤算があった…」
巡査が目を細める。
「つまり君がその…大学の卒業論文で研究して書いたような…人物だったという事だね」
ロダンは掻きむしる指を止めて、やがて巡査の方を向き直ると「そうです」と言った。
「それこそが次の事を起こす引き金になったのです」
「次の事」
「そうです。『三つ鏡(みかがみ)』の強奪です」
30
「強奪…」
田中巡査は逡巡する思いを胸に秘めて、ロダンに呟くように言った。
「それは?」
巡査の問いかけに答えるようにロダンの指が伸びて二つの桐箱に触れた。それはどこか慈しむ様に、そして懐かしむ様に。
「視点を変えれば物事の隠れた部分が見える。相対的に対象は在ってその二次元の後ろを見ていく、まるでピカソが巻き起こした芸術運動キュビズムのように」
そこで桐箱を二つ回転させた。今まで見た表は裏に変わる。
「そう三室魔鵬(みむろまほう)の表裏、事件の表裏それらは全て互い違いに重なり合うように絡んでいて、しかし全く別のものだった。そう、牧村佐代子は『三つ鏡(みかがみ)』に手を出した、それも白昼堂々、しかしそれを三室魔鵬(みむろまほう)が制止するが、その時もつれ合って頭を強打したとしたら…」
ロダンが言いそびれるような先を巡査の心が追う。
――そうさ、それで頭を強打すれば脳出血何て起こるだろう、じゃあ、その先は?
「倒れた三室魔鵬(みむろまほう)に側に後から現れた悪魔が囁くんですよ。『先生、姉に手を出しましたね…この事が分かるとさすがに人間国宝は御見送りになりますよ。いかがです、先生の晩節を汚さないように私が取り計らいます。どうですか?まずは『三つ鏡(みかがみ)』は彼に与えなさい。何、将来有望の才能ある若い芸術家に惚れこんだということと、それと彼等のこれからの結婚祝いもかねてと言うこと、彼等に引き渡せば先生の所から割れたこいつが見つかることもない。もし見つかってごらんなさい。宮家も御高覧されたこいつが先生の愛憎劇の為に使われた何て言われたら、人間国宝どころか、以後、美術史上何を言われるかわかりませんよ。何、後はこちらでうまくやりますよ、先生の死後、ずっと先生の名誉を守るためにね』」
悪魔とは…
そう、それは有馬春次に他ならなかった。
31
「僕は思うんです。三室魔鵬は、きっと悔しかったに違いない、泣きたかったに違いない。真に芸術に生きた人間であれば、いわれなきこの窃盗団のような輩に自分の晩節が汚されるのを、それも自分が世間に撒いたフィクションともいえる独り歩きしている虚像が憎らしく思えたに違いない。叫びたかったに違いない、私は女なんぞに目がくらんで、押し倒してなんぞいない、これらのことはこいつらの仕組んだ罠なのだ、と。きっと…。しかし不幸は重なるんです。彼自身が突如脳出血を起こしたのですから…」
ロダンはそこで深いため息をついた。
「いえ、三室魔鵬だけだは無いでしょう。首を吊り死んだ繁村竜一すらも…」
「繁村竜一も?」
田中巡査は疑問を口にする。それに反応してピアノの音が高く響いた。
「そうです。里見雄二は何を隠そう彼と同級生なんですよ。それも二人は学校ではなく、中之島洋画研究所に通う同級生だったんです」
ロダンが開けだした新しい事実に巡査は驚いて目を丸くした。
「ど、どういうこと?それは」
ロダンが静かに言う。
「里見雄二を追いかけていくと、その洋画研究所にぶち当たりました。そこで僕は調べたんです。当時その学校に通っていた人々の名簿を…図書館の資料で。それは簡単でした。有名な美術研究所ですからね。そこに確かにあったのですよ、二人の名前がね…」
巡査は息を飲み、それからややあって唾を飲みこんだ。
「まぁ青春の恋なんて簡単でしょうね、おそらく里見氏が繁村竜一にけしかけ、恋が実らないことなんかを囁いたんではないでしょうか。青年の純情はいつの時代も変わらない、熱く青く暗い炎が青春に付きまとう。ピカソの青の時代はそんな青年の苦しみを味わせてくれる見本です。だから絵を見れば何とも言えない誰もが自分のセンチメンタルをくすぐられる…」
ロダンが頬を撫でた。それだけで何かが剥がれ落ちて行く感覚が巡査はした。
「悪魔の囁きに屈した三室魔鵬はやがて失意の中、最後は病院で死にました。勿論、人間国宝にもなり、晩節は汚されることなく。しかし彼が愛した当代きっての名品『三つ鏡』は消えた。いえ、あの三人に渡り、やがてある資金を生んでゆく」
「ある資金?それは」
巡査がそこで言い淀んでから、呟く。
「つまり牧村佐代子の実家の資金…」
ロダンが頷く。
頷いて桐箱を撫でた。
「しかし、またそこが狡いのです」
「狡い?」
「ええ、そうなんです。本物をみすみす渡すのが惜しくなったのでしょう、つまりそこでもこの三人は知恵を出し合ったのですよ」
「知恵を?」
巡査の問いにロダンが頷く。
「そうなんですよ。三室魔鵬から譲り受けた本物と称して『三つ鏡』のレプリカを売りつけて金を盗って行ったのです。それぞれの方々から」
「方々からだって?」
「ええ」
ロダンが答えて頭を掻いた。
「そう、だから僕は田中さんに言いましたよね。有馬春次を『詐欺』で手配していませんか?と」
――詐欺…
確かにロダンは自分に言った。しかしそれは出合い頭、出し抜けに言った一言ではないかと自分は咄嗟に思ったのだ。
しかしながら彼は、
どうもその事の確信にも触れているようなのだ。
どういう確信なのか?
巡査は頭を掻き続ける若者を見た。
まるで書きながら自分が掴んだ答えを捻り出すのに、どのようにすべきか悩んでいる若者の姿を。
32
「恐喝と詐欺…」
田中巡査が思いつくまま呟く。その言葉の先に何を思えばいいのか。
巡査もロダンと同様に頭を掻いた。それは一人の年老いた芸術家の無念か、それとも強奪すべき犯罪者の作為的犯意か。
放たれたピストルの弾丸は老人の年老いた肉体と高潔な精神を打ち抜いた。もしロダンが言う事が正しいのであれば、それは唾棄すべき犯罪者の性根こそ、正義の炎で燃やし尽くされなければならい。
「持ち去られた芸術品は悪魔の手によって持ち去られ、それどころかあろうことかまた悪魔たちの技巧によって、悪魔の欺瞞として模造品が作られたのです」
ロダンの言葉に巡査が目を向ける。
「それを君はどうやって知り得た?」
頭を掻く手を止めて、彼はスマホを取り出した。それからスマホ内の録画ファイルを取り出す。それを指で触り、何かを選択するとやがて巡査の前に差しだした。
「こいつは、有馬春次の画廊前で撮影したものです。彼の画廊は天満の裁判所近くにあるんですがね。僕はそこに行ってみたんです。そしたらそこに見て下さい。張り紙があるでしょう」
巡査の目が動き出した録画を見る。綺麗な画廊の扉の目で張り紙が見えた。
――暫く、不在にします
巡査が呟く。
「…不在と書いてあるね」
頷くロダンが言う。
「見ていて下さい」
撮影者はロダンなのだろう。それが扉からやがてズームを引いてゆく。するとそこに怒声にも似た声が突如響く。
――あんた、この画廊の関係者か?それとも儂と同類か?
同類?
スマホがその声の方を向く。するとそこに一人の長身痩躯の老人が映った。その老人が近づいて、ロダンに向かって言った。
――こいつはなぁ、詐欺師や。
詐欺師?
――儂は岡山の在るところから来たものやが、こいつにえらい偽物を掴まされて腹いせにここにやって来たんや
偽物?
――まぁええ、それは言われないが、しかし、あの時、確かに買ったのものは本物やった…
本物やった?
――だがこの前こっそり地元の古美術商に鑑定してもらい、金に換えよう思ったら、精巧な偽物やった
精緻な偽物?
そこでスマホの動画は老人が激しく叩く扉を映し出す。
――有馬ぁ!!二十年前の事や、忘れてないで!!はよ、出てこい。金を返せ!!分かったな!
はよ、金を返せ!!
そこで動画は切れた。
ロダンは頭を掻いた。
「これは、リアルに偶然撮影できたものです。そう、あの老人夫婦と会った日の数日後でした。それからですよ、あの石段に里見雄二と牧村佐代子の生首が発見され、それから有馬春次がこのように逃走してるのを知ったのは。ここに至り僕は全てを洗いなおして、今ここで田中さんに話をしているのです」
33
洗い直す…
ロダンの言葉が自分の心の内を震わせる。洗い流すのは彼の推理だけでではないだろう。きっとそれは自分にとっても…、に違いない。
「僕が録画したこの動画ですが、これに出て来る老人の言葉を考えてみたのです。詐欺とは一体何なのか?」
そこでロダンは二つある桐箱から一つの上蓋を外した。すると『三つ鏡(みかがみ)』、いや、正確にはそのレプリカが出て来た。それを撫でる。
「田中さん、恐らく本物は確かに三室魔鵬(みむろまほう)の元から持ち去られたんです。それはその後の色んな事や彼自身が病院で美術関係者に語った通りで間違いな、。それが脅迫された虚言であったとしてもです。それでは本物は勿論、あの三人の手元にあり、大事に秘匿され二十年前までレプリカを造り、有馬春次自身の裏ルートでレプリカを本物として密売されていた」
ロダンが眉間に皺を寄せて険しくなる。
「…おそらく、最初は本物を見せて取引をする。それから暫く本物を相手方に置き、その後何らかの方法でその本物に接して、レプリカとすり替える」
戸惑いを見せる巡査をちらりと見る。
「勿論です、勿論、それはあまりにも子供騙しの方法だと、田中さん…あなたは思っちゃうかもしれないが、そんなシンプルな方法こそ、意外と分からなく、長く続けることができるでしょ。もしここに犯罪者が居れば長く犯罪を続けるコツと言うものがあるとすれば、それはきっと分かり易く、シンプルだと言うに違いない」
それから一斉に髪を掻く。
「そうです。きっとそうでしょう。いやいや…ここは僕のあくまで推論です。事実はどんな手段なのかわかりません…しかしどにょうな形であっても彼等はそれらを二十年前まで続けていたと想定思案す」
「二十年前?」
「ええ、正確には1995年まで」
ロダンが突如言い出した暦に思わず復唱する。
「1995年?」
「ええ、そうです。そこまで本物は在った筈です」
田中巡査はややもんどり打つような心持ちで彼に問いかける。
「何故?その時なんだ??ロダン君??」
彼は頭を掻いた手を止めるとゆっくりと田名巡査の方を見た。
「…遂に起きたんです。彼等に不幸が…」
「不幸?」
巡査が身を乗り出す様にロダンに向き直る。
「それは??一体」
乗り出した巡査の喉が鳴った。乾いた喉に唾を流し込んだ音。その音の後にロダンの声が響いた。
「阪神大震災ですよ。阪神大震災で、彼等の手にしていた一切合切が壊れてしまったんです。そう『三つ鏡(みかがみ)』も…」
34
阪神大震災。
それはもうどこか記憶の遠くへ行ってしまいそうで、しかしながらそれはそう思う一方で静かに体験した全ての人々の記憶と言う体内でまだ生きていて、荒れ狂う感情と絶望と静寂の中で忘れることができない戦後に発生した自然災害としては最大級最悪のもの。
自分は生まれて間もなかった。
田中巡査はその言葉を聞く度、そう思う。
人類に歴史という中に置き得るべき災厄。それが阪神大震災。
ことりと音を立てて心の中で何かが揺れた。その何かを追うように見つめる。
巡査にその何かが見えた…、それはロダンが手にした『三つ鏡(みかがみ)』。
「そうなんです。関西全域を襲ったこの大地震は、里見雄二、牧村佐代子、有馬春次と『三つ鏡(みかがみ)』を芦屋に居るときに同時に襲ったのですよ」
田中巡査はロダンの話を聞いている。まるで自身に揺られているように。
ゆらり、
ゆらりと…
「僕はねぇ、田中さん。どうも凝り性というものと自分でも不思議と思うくらいのしつこいほどの行動力があるようで。東大阪の彼等の邸宅付近で聞き込んだんです。全く人というものは本当に閉鎖的ですよね、隣に誰が居ても誰も関心がないとはこのことですが、全く最初は分からなかったんですが、その内やっぱりいるもんですね、その土地に詳しい人と言うのがね」
ロダンが手にした『三つ鏡(みかがみ)』をくるくると回転させる。
回転されるのは何か。それは時間という輪舞(ろんど)、それからそれを軸にして巻き戻される時間だろうか。
「その方がおっしゃるにはこの東大阪辺りの古い家も震災で被害を受けた。それでその古い家を壊して新しい家が建ち、その内新しい土地から来た人たちがやって来た。その一人が里見夫婦のようで、震災以前は里見さんの実家付近に住んでいたそうです」
「実家…」
「ええ、そうですよ。里見さんの実家、芦屋ですよ」
時計の針が巻き戻る。それは誰かが引いているのだろうか。
きぃきぃと音が聞こえる。
現実の音ではない。心の中の音なのだ。現実の世界ではピアノの音が響いている。確かに響いている。
まぎれもなく。
「阪神大震災はそこで彼等の悪事を全て粉々にしたのです。ええ、悪事だけでもなく『三つ鏡(みかがみ)』も」
ロダンが回転させる指を止めた。それから『三つ鏡(みかがみ)』を放した。それは机の上で音を立てず転がって横になると止まった。
「ではなぜ、こいつとあの生首が同じ重さだったのでしょう」
田中巡査はきぃきぃと音が鳴る時間の中で漂っている。時間の漂流者である自分に答えられようか。この時間という重さが、自分の手で分かるのならばどれほど簡単に答えられようか。
そう、時間の重さが手に取って分かるのであれば。
手に取って…
手に取る。
そこで田中巡査ははっとするように顔を上げた。きぃきぃと言う音は聞こえない。代わりにピアノの音がはっきりと聞こえた。
「…そうか、そうか、ロダン君、君の言いたいことが分かったよ」
言うや巡査はグラスにワインを注ぐ。それから周囲を見渡して、開いたワイングラスを見つけると立ち上がり、手に取って戻って来た。その顔が僅かに紅潮している。
「こういう事だろう。つまり、今私が注いだワインと同じ量のワインをこの空のグラスに注ぐには、重さとなる目盛りが必要だ」
ロダンが軽く顎を引く。
そうさ…
巡査も顎を引く。
「模造品を本物とするならどうすべきか?勿論、外装もそうすべきだろう。しかしだよ、一番大事なのは重さだよ。手に取った時の重さ。こいつが一緒じゃなきゃ、本物とはいえまい。つまりだ。生首はこの注がれたワイン。つまり本物の『三つ鏡(みかがみ)』としての目盛り、つまり重さの測りだったんだ」
ぱちんと音がした。
それはロダンが手に平を合わせて叩いた音だった。それはやがて拍手へとなってゆく。
それは誰の為への拍手なのか。
巡査は思った。
それは演奏者への拍手か、
それとも田中巡査への拍手か、
いや…
巡査は首を振る様に思った。
もしかしたら悪魔のような三人に対する芸術までに磨き上げた犯罪への拍手だったのかもしれない、と。
それからロダンは小さく呟くように言った。
「ここから先は警察の出番です。有馬春次は詐欺で逃亡していることでしょう。何、彼の画廊の帳簿を探れば、依然いかがわしいことをしでかしたことが分かるものがごまんと出てきますよ。税務署は上手く騙せても警察は騙せないでしょうからね。おそらく震災頃を境に彼等の帳簿に異変が起きてることでしょう。出張費などそうしたものが消えているかも?でしょうね」
あとがき
M社新聞記者:佐竹亮
この事件は人形町の裏手にあるF坂で発生した。事件が起きたその場所は坂途中に楠が鬱蒼と茂る祠の苔むした石階段で、そこに東大阪N在住の里見夫婦の生首が転がっていた。
原因は現代を象徴するような高齢夫婦の介護共倒れで起きた事件で、その住居で腐乱した死体の肉をどこからか入り込んだカラスが喰い唾み、やがて生首と胴が離れてカラスが巣に運んだところ、それが下の坂に落ちて、結果として生首が転がって落ちていたことから、僕等記者の間では『生首坂事件』と呼ばれた。
唯、この坂の事を古くから知る古参達は、この事件を『新』と呼び(まぁそれははどうでもよい)、昭和の初めに起きた事件の事と比較して言った。ちなみに古参の記者曰く、その時生首を発見した時の医学生の事を知っており、なんでも性は小林といい、明治から昭和の初めに活躍した名探偵の助手をしていた人物だったという事だったので事件の事はよく覚えているという。その名探偵はその事件は警察に任せて、何も手をださなかったそうだ。
さてこの事件の背景と顛末を述べたい。簡単に述べたいが、紙面が足りるか甚だ不安である。
この事件は最初、冒頭にも述べた高齢者夫婦の介護共倒れで起きたと思ったが、実はその背後に三室魔鵬(みむろまほう)という昭和初めの名工とその『三つ鏡(みかがみ)』が関連した詐欺事件へと姿を変えた。
この『生首坂事件』には里見雄二、牧村佐代子(旧姓)、有馬春次という三人が出て来る。そう最後の人物は皆さんも知っての通り、あの有馬春次である(つい先日頃南港に掛かる赤い大橋で首を括って縊死してメディア等、世間を騒がせたあの人物である)
私がこの事件を現代の介護問題事件として取り上げて調べてゆくうちに、ある人物と出会うことになった。その人物はこの生首坂を警ら地区として担当していたT巡査である。取材したときは既に彼は警察を辞職した後で在り、国家公務員の秘密保持の範囲であればお答えするという事で、当時の様相を出来るだけ端的にかつ、詳細に教えていただいた。
警察では当初、勿論、介護に拠る不幸な事件として事件を処理しようとしていたが、有馬春次宛てに次々と被害届が出ていた。それはある美術品に対する詐欺にあったという被害届だった。それは東北地方に住む去る資産家の肩からでそちら方面の調査が進んで行くうちに、この三人とぶつかることになった。ぶつかることになった時はほぼ、この生首事件の発生後、やや時を同じくする頃で、何でも岡山をはじめ東北の資産家の方達で頻発する豪雨や東日本大震災でやっと蔵の整理ができたところ収取美術品の全てが被害を受け、破壊されていたのに、ある美術品だけが全然壊れていないと言う異常に接して驚き、困惑したことが有馬春次の『詐欺』に触れた瞬間だった。もう少し言うと、当初、取引の在ったのは二十年前で阪神大震災が起きる前だった。それは地震と前後していて良く覚えているという事だった。それで邸宅に訪れた有馬春次は当人達に、
「これは三室魔鵬(みむろまほう)がある内弟子に渡した『三つ鏡(みかがみ)』です。内弟子とは実は私の義理の兄、つまり姉の夫でしてね、そのことは良く美術関連の雑誌にも出ていることだからご存じでしょうから、余計なことは言いません。実は私は義理の兄にいくらか資金の融通をしていましてね、ええ、そうですよ。兄と言うのは里見です、二科展でも活躍している彫刻家の…ああそうですか、ご存じですか?いや、収集品として「Y処女像」もある、嗚呼それは結構です、それならば話は早いですね。芸術家はいつでも貧乏です。私たちのようなパトロンが居なけりゃ飲まず食わずの内に餓死です、だからその資金融資の代わりにこいつの処理する権利を頂いております。こいつがその証書で、こちらが三室魔鵬(みむろまほう)自筆の譲状です」
それはまるで当人の心を蕩かす様なとても心地よい音調で、いささか自分自身もそうした知識があり本物を見て興奮して聞いていたという事だった。それから有馬春次は秤を持ち出し、『三つ鏡(みかがみ)』を載せて重さを量り、それが資料通りであることを目視させて確認すると当人に言ったそうです。
「いかがでしょうか?お手持ちの金額でお買いになりませんか?勿論、美術館などから貸し出しがあれば、それはこちらで何とかします。何とかする?ええ、そうですね、実はこちらで上手くやりますよ…例えば精緻な模造品を貸し出しますとかね?バレませんかですか?心配ないですよ。それがこちら側の商売です。商売には光もあれば闇もある。今は光か闇の取引かわかりませんが、当代随一の名品、それも宮家が明治、大正、昭和と三時代に跨り褒められた名品ですよ、これは。その名品の価値、それは価値と『美』が分かる人に護られるのが本当の所でしょう。さぁ如何です?あなた様がうんといえば、これを今からここにおいて私はすぐにでも帰りますよ」
警察はこうした被害届を受けて事件の処理を進める一方で、有馬春次がこの『生首坂事件』の被害者である牧村佐代子と兄妹(戸籍上は別だが、幼いころに春次は生家の経済的な事情とかで早くに他家に養子に出されていた)という事が分かり、関連が無いか再度死亡解剖をして調べたところ、老夫婦の死体に微量ではあるが縊死した際にできる生理的反応が認められた。また住居の一部、特にカラスが来る庭方の居室に残る土足の乱雑する足跡が残っており、それらを自殺した有馬春次の橋上に残された遺品の靴底と合わせるとピタリであったことから、ここで何事か個人間で争いが起きたことが想像される。(あくまで想像である。なにせ既に事件をするべき当人たちは言葉の届かぬ黄泉に旅立っているからである)
Tさんは、実は警察内部でこうした事情を素早く調べることができたのは自分の秘密調査があったからだと言っている。勿論、それは自慢げとか得意げではない、それはある友人の推理と行動力のおかげだと言っている。そのおかげはついには自分の内面に潜む子供のような怖さと向き合わせ、細心と臆病である自分がいつまでもこうした警察の仕事をしていればメンタルを壊すことだったに違いないと思わせる未来に対するおかげである。(Tさんの為に言っておくが私が取材したところ当人は本当に気さくで心の広い青年である。彼の今後の将来を期待している)
それで私は彼に聞いた。その友人の彼とはどのようなかたですか?と。
すると彼は頭を掻くように言った。
――そう、
そうですね、丁度こんな感じにもじゃもじゃの縮れ毛のアフロヘアを掻くとぴしゃりと首を叩くんです。それだけじゃない、彼は劇団員でね、どうも発言やらとかに演技臭さや幾分か誇大さもありますが、どうも彼自身の人間の内面から湧き上がる優しさがあるのか…それらが醸し出されて悪い気がしないんです。それに加えて行動力がある、自分がこれだと思う事には執拗なくらい掘り下げるいい意味で物事に対する執着さがある。
そこまで言うと、Tさんは大きく息を吐いた。
――現実はひょっとすると動き続ける劇場で、そこに生きる人は劇場の演者なのかもしれませんね。人々は時にサラリーマン、主婦、子供、正義面した悪人、芸術家そんな様々な人々を演じる。そういう意味では彼は見事な演者でしたよ。そう、探偵という演者です。そういえば彼は最後に僕に言ってました。確か…僕の本当の名前は小林古聞(こばやしふるぶみ)と言って、なんでも遠い昔、活躍したある名探偵の助手をしていた方の遠縁だと。
Tさんはそこで再び大きな息を吐いていった。
――記者さん、あとの詳細は彼を訪ねてください。僕はこれからロードバイクで旅に出ようかと思います。その準備をこれからします。もし彼に会ったら伝えてください。私は君に出会えて自分の人生に嘘はつけなくなった、『嘘』と『真』の二つのうち僕は一つを選択して生きますと。
そう言ってTさんは私の前から姿を消した。それから私はTさんが言った『彼』に会って取材して彼なる人物がいかように推理して事件を明るみにさせたのか取材することになるのだが、その『彼』についてその名をTさんの去り際に聞いた時、私は強く驚いた。
その人物こそ…、
私が別の事件で探し求めていた人物だったからである。
私が関連した別の事件で彼がどのように推理したかをここに書こうと思ったが、やはり紙面が足りなくなった。
しかし読者の方には簡略に伝えたい。その彼こそ、私が探し求める変な髪形をした人物、まるで浮雲を掴むように飄々と生きる『四天王寺ロダン』君。この大阪という難波の夢のようなどこかで泡抱く粒のように生きている聡明な人物である。やはり紙面が足りない。
それでは私が愛して求めてやまない君よ、もしこの小さな記事を見たら是非連絡を寄越してくれ。
いづれの時にお会いしたい。
尚、最後に『生首坂事件』についてだが、有馬春次は方々で同じような事をしていたことが画廊の帳簿で分かった。九州に行く、東北に行くなどの頻繁に出向いた費用が阪神大震災後の二十年前から、突如消えていた。
彼の死後、彼自身に対する同様の申し立てがいくつか行われたが、既に有馬春次は故人であり、全ては被疑者死亡のまま書類送検された。その被害者への支払いは彼等の生家であり今は大阪本町の道修町の製薬会社Gがそれらの弁済をすることになった。彼等は創業家として製薬会社の役員であったからである。
この『生首坂事件』について記者が知ることは以上である。
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