第10話 『田中リサの場合』

 田中リサはいつも不思議に思っていた。何に対して不思議に思っていたかというと、いつも自分が朝起きると右手に傷があるのである。それは拳の時もあれば、小指や親指、時には掌であった。まるで夢のような出来事なのである。幸い、それは決まって夏休みになると起きるのであって、その為、大学の友人たちには全く気付かれないのだが、つい最近始めたコンビニのアルバイト先では流石に気付かれた。

「田中さん…、そいつは何です?」

 アフロにもならない縮れ毛を指先に近づけながら、じっとその青年は見つめる。リサはあまりにもまじまじと見るその青年に照れるように少し恥じらいながら言った。

「いやね。なんかこれ、いつも夏休みになると起きるんよ」

「夏休みになると?」

 アフロの青年が顔を上げる。自分を見つめる瞳は興味津々としている。

「そりゃ、すごいですね。どれどれ」

 それからまた覗き込む。

「ちょっと小林さん、あんまり見ないでよ」

 まるで自分の裸でも見られるような気分になった。どうなんだろう、女って指先とかそういうところを深々と見られたりすると、裸を見られている以上に恥ずかしくなる」

 ふーん、とアフロの青年は言うとそれから何も言わず考えに没頭する。だから目の前のレジに並ぶ客に気づかない。慌ててリサは彼に言う。

「ちょっとお客さん!!」

 それに慌てるように気付くと彼は急ぎレジを打つ。客の不機嫌な顔などお構いなく。

 客が去ると彼がリサの方を振り返る。

「成程…、成程、田中さん、そいつはあれですね無意識のうちに蚊を叩きおとしてるんですな」

「蚊を?」

「ええ」

 きょとんとしてリサは青年の方を見る。

「なんで?どうして」

「ああ、簡単なんです。『夏』『手』それだけですがね…」

「何よ??」

 リサが問い詰める。

「えっと簡単ですよ。夜寝ていると蚊が飛んでくる。それを無意識に叩くんですね。それで偶に壁とか叩いてるんだと思うんです」

 リサは不思議そうに彼を見ている。

「それってなんでそんなこと言えるの」

「ああ、そうそう」

 言ってからアフロ頭を掻く。

「ほらね…一週間前、他のアルバイトのT君と話していましてよね。新しいベッドを買ったって。ベッドを買ったのなら普通は壁際に置くでしょう?」

「そうとは限らないんじゃない?」

「八畳ほどのワンルームだと壁に置きません?」

 うん、とリサは納得した。

「良く部屋の間取り分かるわね」

「それもT君と話してましたよ」

「そうだった?」

 そうです、アフロの青年が言う。

「じゃどうして、この傷が蚊だって

 分かるのよ」

「夏だからですよ」

 アフロが言う。

「夏だから??」

「そうです。寝ているとき寄って来る蚊をはたく、それだけです。それがその傷の証拠何です」

「簡単ね」

「何でも簡単ですよ」

「捻らないの?例えば…、私が実は夢遊病者で、知らないうちに夜徘徊して人を殺傷して回っているとか」

 彼は首を振った。

「可能性は無いですね。何か推理小説とかの読みすぎですよ。現実は想像に溢れていますが、それほど複雑でも奇妙でもありません。何もない現実の中で空想が歩き回るなんてありえませんよ」

 彼はそういうとにやりとした笑いをして、リサの前から去っていった。彼のアルバイトの時間が終了したのだった。



 さて、翌日田中リサは警察署に居た。容疑は殺人だった。

 田中リサ、彼女の本名は本田真奈。

『田名リサ』とは自分が過去に殺害した女の名前である。

 彼女は精神に異常があった。幼い頃、自分が夏に殺した友人の事を思い出すたびに夢にうなされ、夢遊病者の様にふらりと殺害を繰り返していた。

 腕の傷はその時格闘した傷である。一体誰がそのように彼女を変えたのかはこれから警察の調査によるのだが、何故に彼女が昨晩の殺人に措いて、これほど明確な記憶と意識をもったままコンビニの店長を殺そうとしたのかは不明である。

 しかしながらである。彼女はアフロヘアの青年の名前をしきりに警察に言うだけいうと、突然舌を噛み切って自殺した。

 まるで夢遊病のような事件だった。


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