第6話 四天王寺ロダンの足音がする(中編)

(10)



 その日僕は思い切ったことをしたものである。

 仕事上がり同僚に誘われて市内の阿波座というところで飲んだ。

 そこで同僚と別れるとそこから地下鉄に乗らず、まだ五月の夜風心地よさにそこから南に歩き、鰹座橋という古風古めかしい場所から大阪市内を真横に横切るようにK町まで歩いて帰ったのである。

 途中、大阪らしい幾つもの「――橋」とついた地名を歩き、御堂筋を横に横切って、やがてやや坂上がりの谷町の地形に差し掛かると振り返る様に自分が歩いてきた道筋を思い出す。

 ここまで結構な距離だった。

 シャツが汗でびっちりと背に張り付いている。おかげですっかり酒が抜けてしまった。

 しかしながら気分が良い。

 やはり五月という新緑の風薫る季節が心を浮つかせ、自分に対してそういう気分にさせるのかもしれない。

 この気分をもっと今夜は味わいたいのものだ。

 あっと声を出した。

(そうだ…)

 僕は急いで門を潜った。 

 平石の並ぶ土香りのする苔道を歩き、僕は彼の邸宅を覗いた。薄く奥から明かりがしている。

 僕は玄関を叩いた。

 しかし、なかから返事はしていなかった。寝ているだろうか?

 腕時計を見る。

 時刻は午後九時丁度だ。

 寝るには少し早いかもしれない。

 僕は再び玄関を叩いた。

 すると突然、予期せぬ方向から声がした。

「田中さんですか??」

 僕は振り返る。

 声がする方向はL字型の奥まったところからした。僕はそちらを凝視する。その奥まったところは薄暗い闇である。

 しかしそこから確かに僕を呼ぶロダンの声がしたのだ。

「おい…、ロダン君…かぃ…?」

 恐る恐る僕は薄暗い闇に声をかける。 僕の声に薄暗い闇の中でひときわ濃い影が揺れる。

「ええ…、僕ですよ。田中さん、ちょうどいいところへ来てくれました。少し助けて下さい」

 薄暗い闇の中で分からない薄暗い闇の中で分からないが、困惑しているようだった。

 僕は声の方に歩き出す。

 灯りが消えている薄暗いL字型の角を手探る様に曲がる。角を曲がれば祠のなかで苔むした顔無き地蔵が立っている。

 僕は眼を凝らす。

 数本の蝋燭が地蔵の側に立っているが、その地蔵の背後の薄暗い闇の中で動く僅かな明かりが見えた。

 それも蝋燭の炎だった。それが僅かに揺れている。

「おーぃ…」

 僕はその薄暗い中に向かって声をかける。

 濃い影が水かけ地蔵の蝋燭の下で揺れている。

 それを見つけて僕は言う。

「ロダン君かい?…君ぃ…、こんなところで何をしてるの?」

 僕の声に蝋燭が揺れる。薄暗いとこでどこか気持ちがおどろおどろしく感じて来る。何か出てきそうな感じと言えば、そんな感じだ。

 汗で背に張り付くシャツが肌冷たく感じる。

「おーぃ…、ロダン君」

 その刹那、突然ロダンが地蔵の背後の暗闇から顔を上げてこちらを見た。

 蝋燭の炎ではっきりと見えた輪郭の照らし出された彼の顔はどこか妖怪のようだった。

「うわぁぁ!!」

 思わず悲鳴を上げる。

 それを抑えるようにロダンが僕の口を覆う。

「田中さん!田中さん!近所迷惑ですてっば!!そんな声を出しちゃ」

 僕は驚きで心臓がバクバクである。幸い僕の悲鳴で誰も出てこなかった。僕はやや落ち着きを取り戻し、辺りが静かになるのを待って声を出した。

「いや…驚いたよ。君が突然薄暗闇から出てきて、なんせ妖怪みたいに見えたからさ」

 息を整えながら僕が言うのを見て、彼が笑う。

「いやぁ…、そうでしたか。すいません。驚かすつもりなんか無かったんですが…」

 僕は手を上げる。

「いや君のせいじゃないさ。こっちが勝手に驚いたんだからさ。別にいいよ」

 彼は地蔵の側に置いてある蝋燭をおもむろに取ると、それで地蔵の下の台座を照らした。すると彼は台座の下を覗き込んだ。じっと覗き込んでいる。

「どうしたのさ」

 僕も彼の横で屈みこむ。

 見れば僅かに手が入る程の隙間がそこにあった。

「ん…?どうしたのさ、この隙間…」

 彼の手が動いて首をぴしゃりと叩いた。

「いえね、田中さん。僕ずっとさっきからこの隙間をこの蝋燭の乏しい炎で覗いていたんです。だから目尻がおかしくてそれで顔つきが狐みたいに妖怪じみて見えたんでしょう」

「覗いていた。どうして?」

 僕は彼に言った。

 彼は僕の方を向き直り、言った。

「ええ、実はここが例の『三四郎』にとってとても大事な場所だったんです。僕もこの一週間、とても迷いました。そうまるで主人公の三四郎が最後に呟いた迷羊(ストレイシープ)のようにね」




(11)



 僕は今、彼の部屋にいる。

 五月が終わろうとする夜。

 彼の部屋の二階から見える格子窓越しに満月が見え、時折、熱を冷ます心地よい夜風が吹いている。

 僕はジャケットを畳の上に投げ出し、ネクタイを外して襟元を緩め、彼が下で酒を用意している間、彼がネットから流してくれたクラシックギターを胡坐をかきながら聴いている。

 熱くも寒くもない、五月の新緑の季節の心地よい夜。

 僕の心を浮つかせる気分にさせる。

 月が輝いているのを静かに待つ。

 ふと気が付けば『禁じられた遊び』が月の寄る辺に聴こえてきた。

 心が規則正しく、いやでもどこかふわふわと浮き沈んで行く。

(いい気分だ…)

 思うと、背を伸ばした。めい一杯空気を吸い込む。

「田中さん、すいません。お待たせしました」

 そう言って彼が階段下から声をかけて盆にビールとグラス、それと袋に入った量の多いイカのあたりめを載せて現れた。

 畳にそれを置くと胡坐をかき、僕を見てはにかみながら、いやぁと言った。

「実は近くの業務スーパーでこのお得用サイズが安く売ってましてね、買っちゃいました。田中さん、粗末なもんですが、今夜はこれをつまみに」

 さぁどうぞ、

 彼の言葉に僕はグラスを手にする。

 彼がグラスを手にしたビールの僕に注ぐ。 グラスに泡がこぼれそうになるまで注ぐと、今度は僕が彼のグラスにビールを注ぐ。

 注ぐグラスでの中でビールがコポコポと鳴る。

 やがてグラスの縁まで泡が出てくると、後は互いに顔を合わせて、軽く会釈して何も言わず一気に喉に流し込んだ。

 そして数秒、

「あぁ良いですね。やっぱ生き返ります!!」

 彼が満面の笑みでアフロヘアを揺らす。

「なんせ、あの水かけ地蔵の下の隙間を薄暗闇の中でにらめっこしてたんですからね。喉が渇きますよ」

 笑いながら頭を掻く。

「どれくらいにらめっこしてたのさ?」

 僕は尋ねながら釣られて笑う。

「ざっと二時間かな」

「えっ、二時間???」

 そいつは大変だぁ、

 僕が言うと彼は手を伸ばしてあたりめを口に入れる。

 それからくちゃくちゃと咀嚼しながら、僕に向かって言った。

「いやねぇ…、だって一番大事なところなんですよ。あの『三四郎』の謎の一番の肝だったんですから…」

 彼の言葉に僕は驚く。

「えっ??あの『三四郎』の?」

「そうです」

 彼がくちゃくちゃと音を立てながら味を楽しむ様にあたりめを噛む。僕は彼を覗き込む様に言った。

「どういうことさ…、あれがこことどんな関係があるの」

 言うと、彼が顔を寄せて来た。

「田中さん、あるってもんじゃないですよ…。ありありも有りすぎる。ここがまさかのあれに書かれていた渦中の場所だったんですよ!!」

 言うや彼は縮れ毛を手で掴むと思いっきりアフロヘアを掻きむしる。

「あー、しかし、すごい話だ!!」

 僕は驚いたまま、何も言葉が無い。ただ彼が髪を掻きむしるのが終わるのを待つしかなかった。

 彼はくしゃくしゃに手を回して十分に髪を掻きなぐると、やがて手を止めたまま僕を見た。それから首をぴしゃりと音を鳴らして叩いた。

 それからじっと目を微動だにさせず、僕を見た。その眼差しがどこか暗い。しかし、病んでいるとかいうのではない。

 何か悲し気だった。 

「田中さん…、こいつはね。本当に奇妙で精緻にできた『事件』でした。かのシェイクスピアでも書けない奇妙な話ですよ」

 言ってから彼は手を伸ばして再びあたりめを手に取ると、それを舌で舐めてから僕に言った。

「こいつの話が終わったら、田中さん銭湯にひとっ風呂ぷろでも浴びに行きましょうや」



(12)



「さて…」

 言ってから彼は背後から『三四郎』を取り出すと二人の間に置いた。イカのあたりめを口の中にぽいと放り込むと僕を見る。

「翌日、僕は仕事が休みだったので、早速こいつとにらめっこすることになりました」

「そうだったの?」

 相槌を打って彼が僕を見る。

「ええ、僕は今すこし先にあるA図書館に任期付き職員として働いてるんですが、月曜が休みなんです。だから…まぁその時間の暇つぶしみたいな感じですね」

 僕は初めて彼がそんな仕事をしているのを知った。てっきり劇団員だけで生計を立てているものだと思っていた。

 彼がそんな僕の心の声を聞いたかのように笑う。

「はっはっ、流石に売れない役者じゃ、とてもとても食べていけないですよ。今は色んな仕事を掛け持ちしながら劇団員として頑張っているんでさぁ」

 どこの訛りか分からぬ国言葉ではっはっはっと再び笑う。

「そうだったのか。うん、まぁそうだよね、金が無けりゃねぇ」

「そう、銭でさぁ、田中さん。銭が無けりゃ、この四天王寺ロダン、毎晩、このイカのあたりめだけで空腹を満たさなけりゃなりませんぜぇ」

 言ってから彼は縮れ毛のアフロヘアを揺らしながら口に含んだあたりめを呑み込んで笑った。

 僕も彼の後に続いて笑ったが、話が脱線しそうになりそうだったので話題を戻そうと笑いを抑えるように彼に言った。

「それでさ、ロダン君。話をさ…、その『三四郎』に戻すと…」

 彼も僕の言葉で話題が脱線しそうになるのが分かったらしく、小さく咳払いをして僕に向かってまじまじと見つめ返してきた。

「そうです…、『三四郎』ですね。そうそう、僕は月曜の朝起きてからずっとこいつを見ながら考えていたんです」

「どんなことを?」

 ええ、と彼は言う。

「こいつの存在する意味をね」

 彼は髪を掻く。

「存在する意味だって?」

「そうです」

 アフロヘアから手を放して言った。

「実は前の晩、田中さんと酒屋で話した時にも思ったんですが…、この中に告白を書いていた誰か分からぬ人物、まぁこの人物を仮にX氏としましょう。このⅩ氏ですが、彼は非常にどこか『愉快』を楽しむ趣向がある人物ではないかと思いましてね…」

「愉快…?」

「そうです」

 そこで彼は首を軽く揺らすと顎に手を遣って、少し考えるようにしてから話し出した。

「僕がこれを読み終えた直後の感想というのは、X氏は妻に不倫され、それも自分自身は癌に蝕まれ、もう余命も無いと言うのに、それでも自分の死も妻の事も、不倫相手の男の事も何もかも、彼はどこか悲観しているのではなく客観的に遠い空の上からまるで劇が行われている舞台を見て愉しんでいるように思いました。そう考えるとこの人物の性質は先天的にとても明るい人物じゃない、どこか暗くて、そしてイビル…まぁ邪悪を感じる、それもずるがしこさというか、卑屈さの極みというか…狡猾さというかね…」

 彼の話すことに魅入られるように僕は耳を傾けている。

 まるで平家物語の琵琶法師の語る口調のようにどこか怪しくも心の中に染み込んでくる。

「だからですよ…、X氏は自分が知り得る邪悪全てをこの『三四郎』に準備して自分は死後、それが露見すると困る人々のスリルを本当は愉しもうとしたのではないかと思ったのです」

 僕はグラスを置いて、彼の話に聞き入る。

「そこまで考えるとこの『三四郎』の存在する意味と言うのはX氏が仕掛けた自分の死と共に爆発する時限爆弾何でしょう、きっとね」

「時限爆弾…」

「ですよ」

 ロダンが首を縦に振る。

「これからを生きる者にとっては迷惑極まりない、全てを破壊させようとする爆弾です。どうです、田中さん?そう考えるとこかそれは意地の悪さを感じませんか?…でしょう?この愉しみ方は死後の世界でほくそ笑む地獄の亡者のように自分の恨み言葉で生者を操るかのような…そんな暗さですよね。まるで挑戦みたいですよ、X氏が書いていたように、「賭け」ですよね。時限爆弾を爆発させれるかどうかの…」

 そこで彼はビールをぐいと喉に押し込んだ。

(成程な)

 僕は彼と同じように顎に手を遣る。そう考えれば、そうなくもない。自分の死と共に残るものの醜聞をさらす、それも「犯罪」を予見させながら。もしそれが本当ならば全て「答え」を知っていて、生徒の回答を待っている先生みたいなものだ。

 確かに彼が言うように「愉快」なやつ、と言えるだろう。

 僕は顎に遣った手をグラスへと持って、それを手に取った。喉が渇く、そう思ってビールを一口飲んだ。

「そう思うと、じゃぁ僕もいっちょそんなⅩ氏の挑戦に乗ろうじゃないかと勢い込んで、まず今僕が話したことをプロットと仮定して謎を解決してみようと思ったのです」



(13)


 

 彼がビールを飲み干すのを待って僕は問いかけた。

「で…、まずは何を始めたの?」

 グラスを畳の上に置くと、彼は胡坐を崩してやや中腰になりズボンのポケットから何かを出した。

「こいつです」

 手にしたものを僕の前に置く。

 それは都市銀行のM社のカードだった。

「これかい?」

「ええ、そうです。まずはこいつの暗唱番号を探せないかなと考えたんです」

 彼はそこでふふふと笑みを浮かべた。それを見て僕がおかしそうだなと思って彼に言う。

「どうしたのさ、ふふふなんて笑ってさ」

 彼が首を撫でまわす。

「いやぁ、存外僕も中々頭が切れる類(たぐい)何だなぁと思いましてね」

 彼がニヤニヤして僕を見た。

「この番号、意外と早く分かったんですよ」

「何だって!!??」

 僕は驚いて身体を乗り出す。

「本当かい…?」

「ええ、そうです。だから田中さん言ったでしょう。僕も中々頭が切れる類(たぐい)何だなぁって」

「そ、それはじゃあ、どんな番号だったんだい??」

 急くように彼に言葉をかける。そんな僕を少し落ち着かせるようにまぁまぁと言って、彼が僕のグラスにビールを注いだ。

 時を同じく、曲が変わる。

 どこの国の音楽だろう。

 そんな思いが急く心に挟む。

「こいつはいい曲ですねぇ。確かスペインの曲だと思いますが、月夜に僕らが話す内容にはおあつらえ向きですね」

 言って彼が再び『三四郎』に手を伸ばしてページを開く。それから開いたまま、僕の方に手渡した。

 それを受け取ると僕は彼に言った。

「これが…、どうかしたのかい?」

 うん、と彼が頷く。

「田中さん、そこ…、見て下さい。ページ番号の所…」

 僕は開いたページの番号を見る。

 そこを見て、おや?と言う。

「ページ番号が…、丸囲みされているね」

 僕が開いているのは20ページだった。

「田中さん、他にも囲まれているところがあるんです」

 言われて数ページ捲る。確かに丸囲みがされている。最初の方に戻してみるとそれは幾つかのページだった。それを言葉に出す。

「えっと…、ちょっと待てよ。最初は…、19ページ…、えっと次が20ページ…、それから少し飛んで46ページ…、あとは…、そうだね。特に無いようだ…ね」

 僕はそこまで言うと顔を上げる。上げるとロダンがにこにこしている。

「どうしたのさ?これ。別に不思議じゃない、読んだ人が何か気に入る場面とか…ひょっとしたらそんな言葉があって丸をしたんじゃないの?」

「成程ですねぇ…、それで田中さん、その該当ページは何か印象深いことが書いてありますか?」

(印象深い…?)

 言われてから該当のページに目を通す。

 19と20は続きのページだ。


 ――ここは主人公の三四郎が汽車に乗り豊橋でむくりと起きた男と話す場面、それも腿の事を話している場面だ。

 ページを捲るとダ・ヴィンチについて二人は話している。では46ページはというと、昌之助という若者と三四郎が話している内容だ。娘(むすめ)義太夫(ぎだゆう)とか、何とか…。


「どうです?」

 ロダンの声が僕の思索の世界に届く。

 僕は本から目を離して彼を見る。

「…まぁ…人によりけりだね。別にこの本で特に文学的にも感想的にも…、重要な場面ではないように思うよ」

 彼が目をぱちくりさせる。

「ご名答です。その通りですよ。僕も最初田中さんと同じ意見です。何度も読み込んでも何も湧かない。一応X氏以外の人が書き込んだかどうかも考えましたが、普通、本を売ろうとすればそんな落書きをすれば売れないでしょうからね。おそらくそれはX氏の手のものだろうと仮定できます、それで僕の出した結論は…つまり丸囲みはX氏が記入したが、本文ページその個所と恐らくX氏とは何も脈略も関係が無いと言うことになりました」

「…、うん」

 静かに答える。それは同意している意味もあるが混迷しているという僕の理解でもある。

 それに彼が答えてくれるのか?

 彼がアフロヘアを掻いた。

「それでではと思い。こいつはだからひょっとすると…誰かに向けた『誘導』つまり、或る考えに至った人ならわかると言うような暗号なんではないかなと…」

「暗号??」

 思わず、言ってから驚きの声を上げそうになったが、直ぐに彼が手で制す。

「それが銀行カードの暗証番号だと思った?違いますか、田中さん?」

 制した手が人差し指を指して僕を向く。

 僕は頷く。

 しかし、その指はゆっくりと左右に振られる。

「そいつは早合点でさぁ。答えはノンノンですよ」

 彼は苦笑いを浮かべる。

「違ったのかい?」

「ええ、見事に違いました。僕もそう思ったので急ぎ銀行まで走り番号を画面に打ちこみましたが、結果は駄目でした」

「なぁんだ…、期待したのに」

 がっくりと肩を落とす。

 それを見て彼が笑う。

「つまり19、46、20これらを組み合わせて暗唱番号になるかやってみたんですが、全然だめでね。おまけに銀行のATMの警備員に怪しまれる始末でした」

 はっはっはっと笑って彼が僕に言う。

「でもね、実は田中さん。暗唱番号、実は僕分かったんですよ」

 そこで先程黙った驚きが今度こそ声になった。

「どうやって?」

 僕の驚きに彼が大きく笑う。

「いえいえ、やはり世の中の成功というのは多くの失敗の上にできているということが良く自分にも身に染みて分かりました。それは凄く簡単だったんです」

「どう簡単だったのさ??」

 ええ、彼は言ってから本の表紙を叩く。

「つまり番号は『三四郎』数字で四桁『3460(さんしろう)』ちなみに『0346』も試してみたんですがこいつは違ってました」

 僕は驚きに目を丸くする。

「えっとですね。つまりさっき本のページ番号が丸囲みされていたでしょう?あれは『答え』を導くための何でしょう…思索へのアナグラムというのか、まぁ答えを探らせるために、感じさせるためのヒントなんですね。つまり『鍵』なんですよ。つまり…19、46、20これらを組み合わせて暗唱番号になるのではないかと考えに至った人に対する、まぁ言い換えればこの謎を解こうとするものに対しての『誘導』という役割を持っていたんですね」

「でも何故、それが『3460(さんしろう)』なんだろう。回答を聞けば意外と幼稚で、何も…暗証番号としては高度性もない。ぎゃくにああそうかと分かりやすくて失望だよ」

 僕は呟く。

 そこで彼は言った。

「おそらく、数字を分かりやすいものに「慕ったんじゃないですかね…」

「分かりやすいものに?」

 ロダンが銀行カードを手に取ると、まじまじと見ながら話しだす。

「だってこの銀行カードに振り込まれた回数と金額が確か『不倫相手の名前』だった筈ですよねぇ。つまりX氏は心の中でその人物を世間に公開したいと願っているのですから、そんなにハードルを高く設定をしては誰にも分からずじまいになる…それは本望ではない。しかしながらその反面、謎が解けて欲しくもない、そんな『賭け』もしている」

 僕等の背にスペインの音楽が流れて行く。それが汗と混じり、僕等の背中を濡らしている。

「全く持ってここでこのX氏という存在がますますもって『愉快』な気分で悦に浸る性格を顕著に表している人物なのだと言えますよね」


 


(14)



「ロダン君…、それで口座の残高を確認できたのかい?」 

 言うと彼はまた中腰になってポケットから四つ折りにした紙を出した。

 それを丁寧に畳の上で広げると僕に向かって言った。

「ええ…残金確認できたんですよ。金額は1,381円」

「1,381円?」

「ですね」

「何だいそれは…」

 僕はうーんと呟く。呟きに応えるように彼が言う。

「いやぁ本当に全くわかりませんよね。しかしながら、残金があると言うことはおそらく内縁の妻である『女』は、守銭奴らしからぬところがあっても、結局、通帳を再発行することもなく、そのまま残金を手につけなかったということだけははっきりしたわけです」

「と、いうことだよね…」

 ロダンが頷く。

「まぁ通帳を再発行して記帳でもすれば、X氏が言うように不倫相手の名前が分かると言うことなんですよねぇ」

「でもどういう風に振り込めば名前が分かるかなんて、そんなこと君さぁ、いくらなんでも直ぐに思いつくかい?」

 僕は彼を見ながら言う。

 彼は僕の視線を避けるようにして手元にビールを引き寄せグラスになみなみと注ぐ。それからそれをぐいっと喉に流す。

 喉が動いて、やがてそれが止ると彼はイカのあたりめを手に取り「そこです」と言った。

「そこなんです…田中さん。そこまで来ると僕はあの銀行のカード番号が『3460(さんしろう)』の宛て数字だった事と、この数字も何か関連して意味があるのではないかと思いましてね…」

 黙って彼の話を聞いている。月が窓辺に見える。

 それは輝いている。

 僕等の頭上で。

「つまり…この残高も何かそうした意味ありげということかい?」

 僕の質問に彼がイカのあたりめを口に加えてクチャと音を鳴らした。 

「そう仮定したとします。それで言いますが、じゃぁこの残高の数字は何の名前を仮定したということになりますよね」

「その通りだけど…」

 僕も手元にビールを引き寄せて缶を開ける。音がして泡がこぼれ出てくるのをグラスでこぼさないように注いでいく。

 彼は『三四郎』開く。

「ここでその謎を解くヒントがこの『三四郎』にありましたね。確か195ページです。あっ…あった、有った。こうですよ。

 ――預金通帳は焼き捨てました。

 銀行のカード番号はこの本のどこかに分かるようにしてあります。

 やはり妻に感づかれるのが恐ろしい。

 あの女は預金通帳を再発行するかもしれないが、数回に分けられた入金額の意味を内縁の妻であるお前がわかるか、今の私では分からない。これは賭けでもある」

 そこまで言うと彼は辺りを見回して何か床に転がっているものを見つけると手早くそれに手を伸ばして、先程の四つ折りの紙を丁寧に伸ばした。

「つまりですよ。通帳は足し算とか引き算できますよね。足し算は「振り込み」引き算は「引き出し」ですね、でもX氏は引き出しをなんかしちゃいない。それは書いてます。つまり振り込みを数回しただけですよね。そこでですが…もし田中さんが『三四郎』と言う名前をゲームのように分かりやすく相手に銀行の通帳機能を使って暗号のように伝えようとすればどうしますか?」

 話題の中で唐突に僕への質問がされて、口元に引き寄せたビールをそのままにして動くことができず、彼を見た。

「あ、これはすません。そいつを飲んでから答えてもらいましょう」

 彼が笑う。

 僕は一気にビールを飲み干すとグラスを畳の上に置き、腕を組んだ。

 それから数秒、何も言わず無言でいたが、やがて「そうだねぇ…」と呟くと彼に言った。

「まぁ、こうなのはどうだろう。僕なら一回で振り込むよ。3,460円。そうすれば通帳にその数字が印刷されるだろう。それで…よ…」

 言いながら最後の方になると彼が真面目な表情で僕を見ているので、思わず言葉が途切れそうになった。

 そう彼は凄く深い眼差しで僕を見ているのである。

 それから彼はゆっくりと深い眼差しをゆっくりと笑顔にして拍手をしながら言った。

「いやぁ、田中さん、ご名答。まるで事実を知っている犯人みたいな素晴らしい明快な回答です。まさしく、そうなんです。田中さん、それがこの数字の答えなんです」

 僕は眼を丸くして、彼に言う。

「えっ!じゃぁ君はこれも解いたって言いうのかい?」

 彼は鼻下を拭いて、「です」と短く言った。

 驚きで僕はのけぞった。

「何ちゅうこった…」

 感嘆する。

「それでどういう風に解いたの?」

 彼は僕の言葉を聞くなりアフロヘアを揺らし、畳の上で紙に鉛筆を走らせた。

 それは三桁の数字で上下二段に並べて、こう書かれていた。


 ――461


 ――920


 それを見て僕は言う。

「何だい…これは」

 彼が顔を上げる。

「田中さん、ほら、『三四郎』に丸囲みされていた数字覚えていますか?」

「ああ、あの数字だね。あれは確か…19、46、20…」

 言いながら僕はぎょっとする。目だけをぎょろりと動かす。

 紙の上に書かれた三桁の数字を見る。

「じゃぁ…あの数字がここでも?」

 彼が頷く。

「そうなんですよ。でもこの謎が解けるまでま二日かかりました。何となくそこまでわかって1,381円を逆算しながらどんな数字を当てはめればその振り込みが何かの当て数字になるのかを、頭がキンキンに破裂しそうになるのを抑えながら幾通りも考えたのですからねぇ」

「すごいよ、君は。謎が分かったというのだから」

 彼は頷きながら、紙を引き寄せる。

 それからその三桁の数字を愛おしそうに指でなぞる。

「やっと水曜日の晩、悩み悩んだ末に『そうか!』と突然閃いたんです。あの『三四郎』のページの丸囲みはひょっとして銀行のカード番号だけへの誘導だけではなく、この銀行の振込の数字の謎、つまりX氏の妻の不倫相手の名前にも関係しているアナグラムなんではないかとね。それからは簡単でした。分かっているいくつかの数字を並べるだけですから」

「それがこの数字…『461』『920』…」

「そうです」

 言ってから彼は二つの数字の下に横線を引いて、1,381と書いた。

 僕は何も言わず彼を見た。そう彼が答えるべきなのである。何故ならこれは彼が解いたの答えなのだから…

「ですね。二回に分けて振り込まれたんですよ。一回目は『461円』、そして二回目は『920円』…その合計が…」

 彼はあたりめに手を伸ばし、珍しく歯で噛み切ると言った。


「1, 381円です」




(15)



 噛み切られたイカのあたりめ。

 それはまるでちぎられた過去のように見える。

 ロダンはそれをぽいと口の中に含むと、苦みのある表情をしながら、愛おしそうにその紙に書かれている数字を見つめる。

 まるで長年愛してやまない愛しい人を手に入れた恋人のように。

「…『461』『920』…、この数字と考え方のロジックさえわかれば、これで人物の名前を考えることができます」

 言ってから紙を放り投げる。それはひらひらと木の葉のように弧を描きながら、音も立てず畳の上に落ちた。

「最初の『461』…、これから類推する苗字…田中さん、如何考えますか?」

「君は勿論正しい答えを知ってるわけだね?」

 彼は首を縦に振った。

 僕は思いつくことを述べた。

「…そうだね、例えば『461(よろい)』は?」

 彼が首を振る。

 どうやら違うようだ。

「じゃぁ…『(「)461(いしろ)』、ちょっと文字位置を変えて…反転させて」

 彼が笑う。

「捻りすぎ?」

 彼が頷く。

「じゃぁ、シンプルに『461(しろい)』これでどう?」

「ピンポーン!ご名答。では下の名は?」

 ははと僕は笑い、それもシンプルに思いつくまま答える。

「おそらく…『920(くにお)』だろうね。銀行カードで『3460(さんしろう)』で、『0』が『オ』だった。その法則でどうかな?」

 彼は眼を細めて笑う。

「正解です」

 言いながら彼は手にスマホを取ると何か文字を打ち込んだ。

「田中さん、そうです。この数字が示す人物の名は『461920(しろいくにお)』で間違いがありません」

 うん、と僕は頷く。

「それでここからスマホの検索エンジンの登場です。水曜日の夜にそこまで推量できた僕は、その人物の名前を検索エンジンで調べてみることにしたんです」

「どういう、キーワードで?」

 僕の問いかけに彼が答える。

「えっとですね。実はこの銀行カード。昭和63年から使用されているんです。ですので「昭和」「しろいくにお」「事件」と検索しました。すると…」

「すると?」

 彼の言葉に同音して呟く。

「出て来たんです」

「何が?」

 ロダンは手にしたスマホを僕に見せる。

「見てください」

 僕は外面を覗き込む。

 そこにはN新聞社の記事が出て来た。それを僕は彼のスマホを手に取って読む。読みながら僕は目を見開いた。

 そう、それは彼とここで飲み始めた時に彼が呟いた言葉の通りだったからである。

 そう、彼は言ったのだ。

 ――「いやねぇ…、だって一番大事なところなんですよ。あの『三四郎』の謎の一番の肝だったんですから…」


 ――「田中さん、あるってもんじゃないですよ…。ありありも有りすぎる。ここがまさかのあれに書かれていた渦中の場所だったんですよ!!」


「渦中の場所…」

 僕は彼を見る。

「そうなんです。僕も驚きました。この長屋のあの大火災。それで亡くなった人物がいたんですよ。それがそこに書かれている『461920(しろいくにお)』、そう、本名「白井(しろい)邦夫(くにお)」だったんですから」



(16)



 僕は話を聞きながら五月だと言うのに背に総毛立つ寒さを感じた。

 これは偶然の遊びだった筈だ。それも目の前に胡坐をかく青年、四天王寺ロダンのちょっとした僕に対する遊びだったのだ。

 それが今では現実として僕達に迫って来て、遊びではなく過去からの長い年月を経た影のような手が伸びてきているのだ。それも謎を引き寄せて、答えを探らせようとしてる。

 僕は得も言われぬ恐ろしさを感じた。

 その謎はこのままにしておいてほしい。

 そんな感情なのだ。

 それがこの平穏な暮らしを続けていけるのではないかという、そんな思いだった。

 人生の誰知らぬ秘密に他人は入りこんじゃいけない、違うかい?ロダン君。

「ここまで来ちゃ引き返せない」

 はっと僕は彼を見上げる。彼の眼差しが僕を見ている。

「そうでしょう?田中さん、ほんの偶然とはいえ僕が田中さんに仕組んだ悪戯…それがこうした事実を運んでくれた。僕は身震いしましたよ、人生にこんな奇妙な一致があるなんて。まさに事実は小説より奇なりです。なんてこったいです!!ここまできてこの『三四郎』がくれた謎をほっておいたりなんかしたら、きっと観客を魅了できる劇なんて僕にはできやしない。だから…」

「だから?」

「もっと調べてやらなくちゃって思ったんです」

「調べる?何を?」

 僕は身を乗り出して聞く。

「この長屋で起きた「火災事件」です。それとこの「白井邦夫」の事をです」

 僕は身を乗り出したまま、手探りでグラスを探す。

 喉が渇いてしょうがなかった。

 この人物が持ち込んでくれたなんというか辛味の効いたスパイスともいうべきこの事実が喉に絡むのだ。

 指がグラスに触れる。

 僕は無意識にグラスを手にした。

「いやぁ…、確かに、確かに。ロダン君…君の言う通り、僕も聞きたくなった、そこから先に何があるのか…君はもうある程度まで調べているんだろう??すごいよ、すごいよ、君は…。僕は今さぁ、喉が渇いてしょうがない。なんだろう、本当に笑っちゃうよ、身体が寒くなったり、喉が渇いたり…」

 言うや彼がビールをグラスに注ぐ。

 それから笑顔になって僕に言う。

「さぁさぁ、田中さん、まぁ喉を潤しましょう」

 言われるままグラスを口に運び、注がれたビールを喉に流し込んだ。

 麦汁の何とも言えない苦さが染み渡る。

「さて、では続きを話しましょう」

 僕はグラスを置いてあたりめを手にとると一口噛んで、思いっきり噛み千切った。


 

(17)



「まずここで発生した火災事件ですがね。正確には昭和64年1月3日、正月の松も明けきらぬ時でした。まぁ平成と昭和が重なったときですね。その時、田名さんはいくつでした?」

「確か…中学生だった筈だから、十五、六ぐらいだろうか…」

「本当にもう近い時代なのに遠い過去の時代のように感じますね。僕はまだ生まれちゃいない。まだ言葉は悪いですが親父の金玉のなかでさぁ」

 はっはっはっと笑い、アフロヘアをもじゃもじゃと掻きなぐる。

「さて、ちょっと下品ないいかたでしたが、本題の続きです。その火災ですが実はですねぇ田中さん、ここって元々長屋が二棟並んでいて、こちら側はL字の長屋でも通りでもなかったみたいですよ」

「本当かい?」

「ええ、僕はね翌木曜日に図書館で働きながらこっそり過去の新聞図書を見ていたんです。勿論、その火事についてですよ。すると、その火災の記事がちゃんと残っていましてね…」

 言ってから彼がほらといってスマホを見せる。

「こいつがその当時の記事です」

 僕が覗き込むと新聞を映した写真があった。

「内容を読むとですねぇ…えっと、――昭和64年1月3日(火)早朝の火災は、並列した私道土間道を挟んだ二棟並びの建ての長屋の内、片側一棟を全焼させ、その火災による飛び火で片側の一棟の端にある長屋一軒を被災させる、とあります。おっとそこでですね…、こう書かれています。警察と消防が火事現場の検証を行ったところ、白井邦夫(無職、47歳)の焼死体を発見とあるんです。つまり白井邦夫はこの長屋、今では庭になっているところにあった長屋に住んでいたということですね…。それで長屋にはこの白井邦夫以外は住んでいなくて、えっとこう書いてあります。――元々、全焼した長屋は坂上の大宗派の寺門の所有であるが古く改装予定だった為、住人は故人だけだった、と」

 僕は彼の話を静かに傾聴している。この長屋で火災があったことはここに入居する時不動産会社から聞いていた。しかし、そこまで詳しい内容は知らなかった。

「そうか…、じゃぁこの長屋は元々L字型の通りじゃなくて、二棟の長屋が並列していたんだ」 

「ですね、それはね…、僕ねぇ、木曜日の仕事が終わってこの坂上の寺に急いで行って、確認したきたんです」

「えっ?そこまでしたの。君??」

「はい」

 彼が鼻下を指で撫でる。

「それで寺の人に聞くとですよ…、この火事でかなり迷惑をかけたみたいでね、その頃はまだお寺の信者さんやお手伝いさんが長屋には住んでいたそうです。だからそこで発生した火事でしょう、もう寺の方総出でめいめい方々に頭を下げて回ったそうです。でも一番幸いだったのは周辺に飛び火して迷惑を掛けなかったことだって言ってました」

 そこで彼がちびりとビールを飲む。

「それから以後ですが…、全焼した長屋は庭と花壇にして、それから被災して半焼した一軒はつぶして隣に新築を立て、あっそうそう…、そう当時の長屋に住んでいた誰かの提案で水かけ地蔵をそこに運び、以後火災が発生しないように願をかけて簡易の祠を立てたそうなんです。それでL字型になってそれが現代に至って僕らが今その場所に居座り、こうしてイカのあたりめをつまみに酒を飲んでるって始末です」

 僕は彼が話し終えるのを待って、息を吐いた。集中して聞いていたため、緊張をしていた。吐き終えて僕は「そうか…」と言って、格子窓から外を見た。月が幾分か雲に隠れている。

「成程、ロダン君。人の棲むところ歴史ありだねぇ」

 僕は雲隠れする月を見ながら呟いた。

「ですね。それでこれを頂きました」

 その声に振り返ると彼がどこから出したのかA4サイズの紙を持っている。それがひらひらと揺れ動いていた。

 眉間を寄せるようにそれをじっと見る。

「なんだい、そりゃ…??」

 揺れる紙の動きが止る。

「こいつですね。じつは当時の長屋の借入人名簿なんですよ」

「名簿?」

 僕は驚いて彼の方へ寄る。

 彼はそれを先程の小さな四つ折りの紙片の横に並べると、指を指す。

 それは長屋の見取り図になっていてそこに人物の名前が書かれている。恐らくそれが賃借人だと思った。

「さぁ田名さん、こいつを見てみましょうや。さて初めに全焼した方の長屋ですが…」

 ごくりと唾を飲む。

「はっはっ、そう、緊張されなくても。さて…、うん、ありますね。ここに『白井邦夫』、えっと確かに他の部屋には誰も居ないですねぇ。さて反対ですが…」

 彼の指が反対の長屋に向かって動いて行く。

「どうやら、五軒のようですね、白井邦夫の長屋の向かいからですが『佐伯百合』…、『田畑健司』『蓮池純也』『木下純一』『藤堂光男』…、と書かれています」

 名前を呼びながら指が順に人名を指してゆく。

「この人たちが当時の住人なんだ」

 彼が頷く。

「この人たちは今も生きているのだろうか?」

 僕は呟く。恐らく生きては居まい。そう思った。

「実はですね。生きているですよ」

「えっ!!」

 僕は顔を上げて彼を見る。見上げると彼の指が指している。

「ほら、ここに『蓮池純也』ってあるでしょう?実はですね彼、この坂上の寺の現住職、法主さんらしくてね」

「本当かい?」

「本当も本当、あの火災の事をよく覚えていましたよ。まぁ元々寺の見習いで来ていたのに、あの火災以後、日々精進して寺の本部、本山に認められて今は大出世ってやつです」

 彼が言いながらアフロヘアを撫でる。

「それで、まぁその当時の事を知っているもんだから長々と話されるんですよ。僕は仕事帰りで疲れているのに…困りました…本当に」

 アフロヘアが揺れている。しかしそれが

 不意に止まった。

「ですが、おかげで考えなければならない次の『答え』に簡単にたどり着きました」

「考えなければならない次の『答え』…?」

「ええそうです」

「そいつは…、何だい」

 アフロヘアから手を放して、彼は『三四郎』を手に取る。

「ええ、X氏の指し示す『女』つまり、それは『不倫相手』で『内縁の妻』であり、『蠱惑的な妻』で『守銭奴』である『女』の事です」

「あっ…そうか、そうだね。白井邦夫がX氏の妻の不倫相手であれば『女』が居るわけだよね…」

「そうです。それを探さなければならない」

 ロダンが呟いて、指を指す。

「それがここにいる『佐伯(さえき)百合(ゆり)』なんです」

 彼の指先がその人物の名前に触れた。その時、雲に隠れていた月が顔を出したのか部屋に月明かりが格子窓から差し込んできた。



(18)



 時が滑るように動いてる。

 見れば時計は夜の十時を少し過ぎただけだ。

 都会の時間はそれほど早くは進まないのかもしれない。

 この時刻で人は眠らない。外はネオンやら街灯がまだ明るい世界だ。

 ひょっとすればそれは昼間より輝いてるかもしれない。

 その輝きは人が持つ普段は見せることができない習性が解放されてしまう為に起きる幻覚だとしても、それが時間を言う感覚を狂わし、都会に住む人を時間という感覚から解放してるのかもしれない。

 幻覚なら、この名前はどうだろう。

 

 ――佐伯(さえき)百合(ゆり)


 今の今まで僕はこの人物を知らない。

 自分の人生には全く関わりの無い名前。それが今、爛爛と輝きを持って面前に広がって行く。

「彼女ですね。佐伯百合というのですが、当時は三十後半ごろで、寡婦だったようです」

「寡婦?ということは旦那が死別していた?ということ??」

 ロダンが首を縦に振る。

「ええ」

 それから首を撫でる。

「さっきも言いましたが、坂上の法主さんが言うには当時は中々の美貌らしくてね。だからよく覚えているそうです。なんでも九州は大分の竹田市の生まれで、あの『荒城の月』で有名な滝廉太郎と同じ郷里です。それで彼女はそこで成人してから佐伯市にある旅館『小松』ってところへ就職。そこで亡くなった旅館の跡取り佐伯一郎と結婚されたそうです。その佐伯一郎さんと言いうのが、この上の寺の檀家というか信者さんらしくて、亡くなった後、その縁をたどり、ここの大阪に住みこむことになったそうです」

「縁をたどって?…、どういうこと。つまりその佐伯百合さんてさ…いわば旅館の女将だろう?」

 彼がそこで小さく呟く。

「何でも旅館『小松」というのは旅館と看板掲げていますが民宿に毛が生えた感じの所らしくて、まぁ街自体も小さくて釣り人相手の所でしたから…亭主が亡くなったのと合わせて廃業したらしいんです。それで家財道具一切持って、大阪へ夜逃げ同然で…」

 僕は黙って彼の言葉を聞いている。

「まぁ…、大阪に出てからはお寺の手伝いをしながら、たまに郷里から身寄りが来るのがあったらしいそうですが、細々と暮らしていたそうです。彼女、檀家さんの中では中々の人気だったらしくて、やはり綺麗な方でしたから…それはつまり…」

「蠱惑的だったということだね?」

 彼が頷く。

「だから…、色んな男との噂もあって、その中にある人物がいた」

 畳の上に広がる紙の上に指を滑らす。

「それが、向かいに住む白井邦夫」

 彼が言って僕はうーんと唸る。

 それは何故か?

「待ってよ、ロダン君。この白井邦夫ってやつと彼女がどこでいつ頃知り合ったんだい。大阪だとしたら、その時点で彼女は寡婦だったわけだろう?」

「そうです」

 彼が断定して言う。

「ちょっと、それじゃ、いつ??」

「彼女が居た大分ですよ。そう、彼女は佐伯一郎と結婚していながら、この白井邦夫と通じていたんです」


 


(19)



「断定的に言うね、ロダン君…」

 彼がその言葉に首を縦に振る。

「そりゃそうですぜぇ、田名さん。なんせ僕は翌日の金曜、そう昨日早朝に新幹線へ飛び乗り、小倉で日豊本線に乗り換えて、遥々大分県の佐伯まで行って来たんで調べて色々裏をとってきたんでさぁ」

 僕は飛び上がる様に驚いた。

「君ぃ!!そこまでしたっていうの??」

 ロダンが鼻下をふんと鳴らす。それから少し得意げに満面の笑顔になった。

「ですよ!!実は旅館『小松』の住所を法主から聞いたので、ここまで来たらとことこんまで足で調べてやろうって言うのが男の意地ってやつですかね。急遽職場には新幹線から大分の叔父が亡くなったと嘘をついて連絡して、昼過ぎには現地入りですよ」

 驚いて開いた口が塞がらない。まるで旅空の下を身軽にあるく、股旅者みたいだ。

「君は、本当に過ごいね。空の下を行く股旅みたいだよ」

 はっはっはっと調子を上げて彼がアフロヘアを撫でつけながら笑う。笑い終わるのを僕は待って聞いた。

「それで、現地はどうだったんだい?」

 うん、と言って顎に手を遣る。

「海も山もあってとても風光明媚なところでした。駅から降りて少し歩くと海に浮かぶように大きな大入島が見えて海側はとても風もよく気持ち良かったです。僕はレンタルサイクルを借りて街に出たんですが、いいところでした」

 彼が瞼を閉じて訪れた景色を思い浮かべるようにしているのを見て、僕は言った。

「そうかい、それは良かったけどさ、別に君さぁ…観光に行ったわけじゃないからさ…、その調べに言ったんだろう」

「そう、そうでした!!」

 目が覚めるように慌てて言う。

「そこで僕は自転車で在る場所を目指したんです。それは少し行ったDというところなんで海岸が開いでいるところです。そこに僕は行ったんです。実はそこが旅館『小松』があったところで…、実は驚いたことに今でもそこで民宿をしているんです」

「そうなの?廃業したんじゃないの?」

「僕もそう思ってたんです。そしたらそこに堂々と『小松』ってあるじゃないですか?こっちこそ肝がよじれんばかりの驚きでしたよ!」

 ロダンが両手を広げる。まるでその驚きの大きさを僕に伝える為に。

「それで…、君、勿論そこで聞いたんだろう?」

「ええ、聞きましたよ。外から店を眺めていたら白髪の夫人が出てこられたのです。おそらくここの方だろうと思って声をかけたんです、勿論、開口一番ここって廃業されたんじゃ?ってね」

「そしたらどうだったの?」

「はい、こう言われました。僕が尋ねた旅館『小松』はその後、白井邦夫って内地にある竹田のさる料亭の主人が屋号をついで、それで現在もこの様に続いているそうです。なんでもその当人は大の釣り好きで、当時はその方だけでなく県の方や企業の方をお連れになって週末になると良くここに泊まられたそうです。今僕が言った廃業の事は確かにこの宿の主人である佐伯一郎さんが亡くなられた頃あった話で、既に御両人は亡くなられたのでそんな話は誰も知らないことだけど、それが今でも細々と営業をしている繋がりだと言うことでした」

「へーーー!!」

 僕は手を叩く。

「だから僕もそうですか?と言って目を丸くしたもんだから、店のご婦人が聞くんですよ、あなた佐伯さんのお知り合い?って」

「何て言ったの?」

「何も当て何てないから、あてずっぽうで大阪にある坂上の大宗派の寺門の蓮池法主の知り合いですと言いました。するとですね…、突然その後婦人顔色を変えられて…」

 彼がアフロヘアを掻きまくる。

 何かあったのか、

 それを思い出す様に何度も何度も頭を掻いている。

「どうしたの?」

「ええ…」

 彼が髪を掻くのやめた。

「あなたじゃぁ、佐伯さんと亡くなられた亭主の間にできた子供の事調べに来られたの?って言うんですよ」

「どういうこと?」

 ロダンが静かに押し黙る。その沈黙のうちに何かが居るのだと僕は感じた。

 それが何者なのか。

「実はですね。当時二人の結婚生活はあまりうまくいかなかったらしく、亭主の佐伯一郎氏は大の道楽と女好きが高じて色んな所に借金とか女をこさえていたらしのです。それだけじゃない、彼等には一人息子が居たが、よくよく佐伯一郎の酒が入ると時折暴力を振るわれて顔を腫らせていた」

 ロダンが淡々と語る。

「彼女は子供や夫のそうした暴力や日常の諍いに相当頭を悩ましていたみたいで…。」

 僕は眉間に皺を寄せる。

 何か符牒が合わないのだ。

 話の内容と僕の心の中の疑問が。

「ロダン君…それで、その話が何故、この坂上の法主さんとどんな関係があるの?」

「実はですね…、佐伯一郎と百合さんとの子供は白井邦夫氏との子供だった。つまり二人だけの間の公然の隠し子だったと蓮池法主はある時、考えられたらしいのです」

「ある時…?隠し子?」

「ええ、そうです。毎週末のように同じ郷里の竹田から来る白井邦夫氏と佐伯百合さんは同じ郷里人ということもあってか仲が良かったらしいのです。それに佐伯百合さんは旦那が羨むほどの蠱惑的な美貌です。それは法主がまだ長屋に住んでいた時に二人から直に聞いたそうです。きっと夫婦生活の相談なんかもしていたんでしょう。それでいつごろか懇ろになって…実は佐伯さんとの間の子はいつの間にか二人の間にできた子じゃないかということなんです…だから佐伯一郎氏があれほど子供の暴力をふるったのではないかと…まぁ今となっては氏が酒や女の為の自堕落な生活が原因で身体を壊し遂に死んでしまったので、そのことは謎のままですが…あくまで噂ですし…」

 僕は分からない。まだ符牒が合わない。その話とこの坂上の法主とのつながりが見えないのだ。

 それに彼の話し方もどこか順序だてられていない。

 ロダンが言った。

「しかし、法主が最近あるものを見つけたんです」

 

 有るもの…?


「それが気になって何でもつい最近も坂上の蓮池法主さんが佐賀にある本山に行かれた時、こちらに立ち寄られてその子供についてのその後の噂とか話とかやらを知らないかと言われたそうです。でも時代も古いし、記憶も定かでないからその子供が今もどこにいるのか良く分からないと答えたそうです。まぁ無理もありませんね、そんな昔の話ですので。その民宿のご婦人は法主にその秘密の子とやらに聞くしか事実が分からないんじゃないですかと言ったそうですが…」

 僕は彼を見る。

 彼の眼差しが水平に見えた。それは打ち寄せる波を見つめる旅人のようだ。どこか儚くて、悲しさに彩られている。

 その水平の向こうに子供を見つけたのか、彼はぽつりと僕に言った。

「ねぇ田名さん、そのイカのあたりめ懐かしい味がしませんか?」

 僕はその瞬間ぎょっとした。

 彼の突然の一言に一瞬で心臓が手で絞めつけられるような苦しさがしたのだ。

 彼は続ける。

「そのイカのあたりめ…、実は佐伯で買ってきたやつなんです。業務スーパーで買ってきたやつじゃありません」

 僕はガタガタと震え出す。

 心で声がする。

 そうだ、そうだなんだ。

 だからやめておけって言ったんだ!!

 あのかっぱ横丁の本屋で『三四郎』を見た時、僕は入り口に貼ってある張り紙を見て『三四郎』を手に取ったんじゃない、そこに僕が仕掛けたあの『三四郎』が置いてあって真っ青になり驚いて手にしたんだ。一体誰がこんなことをしたんだ。叫びたくなるのを抑えて僕は今のようにガタガタと震えた。

 一体誰が僕の作ったこの殺人の為の小道具をどうやって僕の目の届くところに置いていたんだ。

 そう、燃えたと思ったんだ。この長屋が火事になった時に‼!灰となって塵となって消えたと思っていたのに!!

 ああ、謎はこのままにしておいてほしい。

 これは『賭け』だったんだ。この『賭け』を乗り越えてこそ、僕はそれがこの平穏な暮らしを続けていけるのではないかという、そんな思いだったんだ。

 人生の誰知らぬ秘密に他人は入りこんじゃいけない!!

 違うかい?

 ロダン君!!


「田中さん…」

 影が揺れる。

「あなたは四国の山里の生まれなんかじゃない。あなたは大分の竹田のNで生まれた佐伯百合、いや旧姓田名百合と白井邦夫との間に生まれたお子さんなんですよ。そう、あなたはあの日、さも当然のようにここにやってきた。それだけじゃない、あなたは亡くなった佐伯一郎氏から毎晩毎晩酒で白井邦夫の事を愚痴られては殴られていたかもしれないが、しかし心中恐るべき犯罪を成そうと心に秘めていた」

 誰かが足音を立てて近づくと肩を叩いた。僕の瞳孔は見開いている。

「そう、『親殺し』を成す為に」

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