第5話 四天王寺ロダンの足音がする(前編)
(1)
大阪湾に向かって下るなだらかな坂が四天王寺夕陽丘界隈から天満橋付近まで南北に続いている。
この地形は遥か昔、大阪が海に浮かぶ台地だった名残であり、それが現在においては世間一般に「上町台地」と言われていることは良く知られている。また発見されているものや無い物を含め、寺社や路地奥等には戦国の頃、大坂城から逃げる武者の抜け道もあり、歴史の風靡を感じることができる。
その台地沿いに歩くと大阪のちょっとした建築の変遷や集まりを見ることができる。ちなみにこの台地上を天王寺から天満橋まで縦に走る幹線を寺院が並ぶ谷町通りと言い、斯く言う僕はこの沿線が大変好きである。それは寺院が立ち並び、古めかしさを感じさせるのもあるが通りから少しK町へ向かうと、昭和の初期の頃に建てられたと思われるような趣のある長屋が疎らに点在するからだ。
長屋の入り口にある小さな門から中を覗けば二階建ての格子窓の長屋がまるでうなぎの寝床みたいに長く奥まで伸びて、先がL字型に折れて行き止る。
長屋という、人間が集合して壁一つで生活している、この生活様式。
息一つさえ漏れ聞こえそうな、何ともいえないプライベートがあるようで無い様なそんな建物。
僕はそうした人間情景と少し懐古趣味を思わせる建物が好きで、だから少し貯金と金銭に余裕ができた令和の今日この頃、思い切って今では古風めかしい二階建ての長屋へと五月薫る頃、このK町界隈の引っ越しをした。
この自慢の棲み処(僕は住処」をこの妖怪のような「棲み処」と言う漢字を当てるのが非常に気に入っている、住人には気の毒だが洒落である)についてもう少し述べたい。
此処は元々、明治から大正にかけてちょうど真上の坂上にある大宗派の寺門に住み込みで働いていた手伝い用人たちの為に作られた長屋だったが昭和の初めに建て替えられた。
当時は古木の門を潜れば土道を挟んで向かい合わせに軒を並べて長屋が建っていたのだが、昭和六十年ごろに住人の不始末による火災があって片方の長屋が全焼した。
その為、被災した長屋を取り壊して庭にして、現在は片方のだけが残るL字型の長屋である。
その長屋の奥にはちょっとした祠がありる。その祠には苔むした顔無き水かけ地蔵がひっそりと立っている。
なんでもこの地蔵はここで再び大きな火災が起きない様、火災の後どこからか運び込まれたものだと言う。
だからかもしれないが今もこの地蔵に誰かが願をかける為に水掛けに来ているようで、日曜のまだ夜も明けきらぬ頃に訪れる人の足音が僕の寝床にも聞こえてくる。
ちなみに僕も最近はそんな人に倣って週末の休みの日にだけは履き鳴らした下駄音を立てて、いくばくかの清廉な気持ちで地蔵を拝んでいる。
そんな自分にとっては非常に良い長屋だが、唯この住居で不便と感じるのは、風呂が無いということだった。
埃にまみれる都会の片隅に棲まう日々ではあるが風呂が無いのは不便だ。
特にこれから梅雨時、夏は考えるまでもない。
しかしながらである。
こうした独身のどこか気楽で趣味に没頭できるこの享楽的な生活が今の自分には非常に合うと思っていたから、どこか日の終わりは銭湯の湯船で一人佇むのも乙な気暮らしだと思って近所を歩いていると、偶然、都会の空に聳え立つ銭湯の煙突を見つけたのである。
都会とはなんとこのような人間にって便利な棲み処であろうと、その時、僕は大変心躍った。
さて、大分自分の事を申し遅れた感があるのだが、改めて自身の事を簡単に言いたい。
僕の名は田中良二。
年は四十六、独身。
こうした住居を好むことから自然と建築が好きな性分もあって今は棲み処から少し離れた松屋町にある小さなリフォーム会社で働いている。
趣味はというと先に述べた様に建築を見たりするのも好きなのだが、実は古書を探し集めるのがそれ以上に好きで、休日には大阪の様々な古書街や古本市を回り、本の中身というより本独自の装丁や独特の雰囲気があるものを手にとってはそれらを美術品のような感覚で買い漁っている。
そうして買い漁った古本をこの新しい棲み処に持ち込んでひとり酒を飲みながら、本を開いては色んな時代を想像して、ひとり悦に入りが一番の楽しみなのである。
以上が自分としてはこれ以上のないほどの自己紹介である。
さて…、それで、である。
そんな趣向の強い自由気ままな何も不満が無い様な生活ではあるが実は僕は今、少し困ったことになっている。
その困ったこととは自分の古書集めが高じて起きたことなのであるが、それではここにその話を述べていきたい。
(2)
かっぱ横丁というのが梅田にあって、そこに古書街がある。
僕は週末になると古書を漁るためにここを手始めに天神橋へと下り、やがて日本橋へと足を運び、それから自分の棲み処へ帰るのが休みのルーティンになっている。
たまに汗をかきすぎれば先に銭湯に行くか、また喉が渇きすぎれば酒屋が営んでいる立ち飲み屋で酒を軽く飲む以外はほぼ大きく変わることは無い。そう、それは梅雨の明けた七月のはじめ、僕はいつものようにかっぱ横丁の古書A店に入り、そのルーティンで棲み処へと帰って来た。
背にリュックを背負い、その中には買い漁った古書がある。
その中にかっぱ横丁のA店で買った夏目漱石の「三四郎」があった。僕は学生の頃、国語の授業で漱石の本作には触れたことが有ったが、一度もちゃんと読んだことが無かったので、最初に訪れたかっぱ横丁の古書A店で見つけた『三四郎』をそのまま中身を開くことなく手に取った。
何となくだが入店したA店の壁に『三四郎』入荷したという張り紙があったからかもしれないのだが、潜在的意識の何かが僕に本を手に取らせたのかもしれないと思った。
そんなことは特それが何なのか詮索するほどの事でもない、まぁ気にすることでもない。
そんな「三四郎」を夕暮れ時に横になりながら開いた時である。
(おや…?)
「三四郎」背表紙は印字された出版社名が消えているほど古い物であり、現在流通している出版社の文庫本ではない。本はカバー付きで本表紙は固い紙でできている。今でいう当時のハード本といっていいだろう。
僕の本選びの選り好みはどちらかというとこうした古い時代の諸本選びが好きで、正直、本の内容の文学的な趣などの良し悪しは全く別だった。
それは何というか、
本の装丁というのか、
その時代の空気を十分に含んだ本の有りようというか、そう言った佇まいが実は本の中身よりも、僕にとっては大事な「好き」なのである。
だから僕は張り紙の事は置いといたとしても、この「「三四郎」を見た時、直感的に「好き」で手に取って中身を確認することなく小銭を払って持ち帰ったのである。
だからブックカバーから本を取り出して中を開いた時、本が意外と重いことにはじめて気が付いた。
大体、本の重さで手首に重さを感じることなど殆どないのだが、この本はそれを感じるのである。なんだろう、おまけ付きの本と言うのだろうか…。
僕は不思議な思いを感じたまま、本を数ページ捲った。すると中ほどのページが切り取られ、そこに丁度本とは別に寸分の狂いもなく同じように紙が差し込まれ、文字タイプで書かれているのを見つけた。
(何だこれは…)
思わずそれを目に止めた僕は速読する。読めばそれは誰かが小説とは全く別の意思で書き留めた言葉なのが分かった。それが数ページ続いている。
――しかし、その内容は
(果たしてこれは一体何ぞ?)
驚きを覚えながら、僕は眼を細めてページを捲って行く。
すると裏表紙に触れた手が何かに当たる。
(何だ…これは?)
僕は裏表紙を捲る。すると裏表紙に別の紙が貼ってあり四角い跡が見えた。
僕はそれを爪で丁寧に捲ると、そこが切り抜かれてカードが差し込まれていた。
驚いた。
そのカードは銀行カードである。しかしも今現在も営業している都市銀行のM社のカードであった。
僕は時代も異なる古書からこうした工夫がされて現代の銀行のカードが差し込まれていたことに非常に驚き、また小説の先程の中ほどの所に書かれたものを読み終えるや、非常に泥土の中で落とした指輪を探すような頭をひねらなければならないような困惑にぶつかったことに気づかされたのである。
(3)
四(し)天王寺(てんのうじ)ロダン。
何とも奇妙な名である。
僕は銭湯の湯船に浸かりながらもじゃもじゃの縮れ毛でアフロヘアの若者を見ている。
実はこれが面前で風呂に浸かっている彼の名である。
何でも父親の芸術好きが高じて息子の名前をあの「地獄の門」で有名なフランスの彫刻家と同じオーギュスト・ロダンと同じ名前にしたそうだ。
だからカタカナで「ロダン」となった。
初めて彼の名を聞いた時、
「奇なる苗字に、妙なる名でしょう」
と、彼は湯気に当たりながら顔を赤くして僕に言った。
しかしその後、
「子供の頃は嫌だったんですが、今は意外とこの名を気に入ってるんですよ」
と、縮れ毛を指で巻きながら僕に言った。
あまりにも奇抜な名だったので、「役者か何かがちょうどいい」言うと名は何とやらで、実は彼はこの先の天王寺の阿倍野界隈にある小さな劇団の研究員だった。
「役者冥利の名ですけぇ」
と、どこの訛り化も分からぬような口調で僕に尻を向けると颯爽と湯船を出て行った。
しかし縁とは不思議である。
湯船だけの縁だと思ったのだが、彼とはそれだけの縁でなく、僕の棲み処の長屋の住人でもあった。
僕が越して来た時には既に住んでおり、僕の姿を仕事がない日は二階の格子窓から良く見ていたそうだった。
それで僕が銭湯に行く姿を見るにつけ、こうして僕と揺馴染みの友となった。
その彼と一緒に湯船に浸かっている。
彼は後から湯船に入って来た。それからずっと黙りながらじっと湯船に浸かっている。
僕は身体を洗い終えて、今湯船に足をいれてちょうど湯加減が身体に伝わり始めた頃である。
そのまま、彼にも言葉をかけることなく先程の「三四郎」の事を考え始めた。
いや正確には「三四郎」に書かれていた誰とも分からぬ「人物」とその余白に書かれた「言葉」の事である。
僕はゆっくりと目の前で湯船に浸かるもじゃもじゃ縮れ毛のアフロヘアの若者を見ながらそれらを思い出し始めた。
(4)
(188ページ)
――拝啓、この本を手に取られた方へ。
おそらく、この本をあなたが手に取られたということはきっと私は黄泉の国へと旅立っていることでしょう。
私の妻は私の遺物ですら金銭に変えれるものは金銭に変える女です。
ええ、彼女は世にも恐ろしいほどの守銭奴なのです。私の持ち物一切はきっと金銭に変えられ、この古本すら何処かの古書店で僅かばかりに小銭に変えられるでしょう。
だからこそ、あなたの手元にこの本があるのです。
(189ページ)
――そう私は病気、おそらく癌で死ぬことになるでしょうが、そんな私の肉体すら彼女にとっては保険金に変わる「金銭」です。まぁそれは長年しがない地味な結婚生活を送らせることになったあの派手好きでどんな男からも好かれる蠱惑的な妻への人生への贖罪であるとすれば、幾分かは私の罪滅ぼしとにもなるので溜飲は下がるのですが、ただ、私にも許せないことがあるのです。
(190ページ)
――許せないこと、それは妻が不倫関係を持っていたことが分かったということです。私にはその男の名も分かりますが、甲斐性の無い男である私が妻を責めることなどできません。
ただ後世の誰かが「犯罪者」を責めることは出来るのではないでしょうか?
(191ページ)
――文学に興味のない妻がこれを手に取することは皆無でしょうが、念には念を入れます。
もし私が普段の生活で変なことをすればたちどころにあの女は感じるでしょうし、ですから私はその名をある場所に永久的に隠すことにしました。
それは銀行です。
(192ページ)
――銀行の通帳を作りました。妻が預金額を聞きましたが何分少ない金額で在りましたので、関心が無かったようです。しかし、この預金額こそ、私にとっては大事なのです!!
その銀行カードも工夫して隠しました。きっといまあなたの手元にあるでしょう。もしわからなければそれは裏表紙のところを工夫して隠してありますので見つけて下さい。
(193ページ)
――この「三四郎」を手に取られるのが私の死後何年後か、いや、何日後かわかりませんが、もしあなたが私の事を気に成されたらどうか私達に降りかかったこの「事件」を解決してくだしさい。
ええ、私は確かに癌で死ぬでしょうが、きっとあの憎き不倫相手の男もきっと同じように黄泉へと旅立っていることでしょう。
妻はいや、あの女は恐ろしき「守銭奴」なのです。
あの男もきっと生きてはいまいと思うのです。
(194ページ)
――あなたが不倫相手の名を見つけた時、その名をどこかの「事件」で必ず探して下さい。
もしその名がどこかの事件に出てくれば、それは妻が殺害したのです。
おそらく、あの女は実行していることでしょう。
本当に恐ろしき女です。
(195ページ)
――預金通帳は焼き捨てました。
銀行のカード番号はこの本のどこかに分かるようにしてあります。
やはり妻に感づかれるのが恐ろしい。
あの女は預金通帳を再発行するかもしれないが、数回に分けられた入金額の意味を内縁の妻であるお前がわかるか、今の私では分からない。
これは賭けでもある。
(196ページ)
妻といっても内縁の妻だったお前。
お前の事はきっと未来に分かる事だろう。
土葬ならしゃれこうべになってお前を祟りたいが、甲斐性も勇気もない俺にはそれも出来そうにないのが本音だ。
しかし、それでも俺はお前の不貞が許せない。
それだけは、しっかりと決着をつけさせてもらうよ。
俺の保険金はお前が受取ればいいだろう。しかしながら他人のものまでお前が受け取れるはずがない。
それだけは良く知るがいい。
(5)
板張りの天井で扇風機がうねるように首を回して僕等の肉体から熱を奪うために懸命に風を送っている。その扇風機の風にアフロヘアの髪が打たれて四天王寺の縮れ毛が揺れている。
「田中さん、実に長く湯に浸かっていましたね」
四天王寺ロダンが赤く火照る顔を向けて僕に言った。
濡れた縮れ毛を気にする風もなくバスタオルで髪をバサバサ拭いて、火照る顔のまま僕を見て言ったのだが、彼の表情は湯上りの為かどこか呆として何か僕に関心がある様な無い様なそんな表情をしているようにも見えた。
だから僕は彼に答えずにいたのだが不意に言った。
「あの『三四郎』どうされました?」
僕は思わず顔を上げた。
「えっ?『三四郎』?」
彼が声を上げて笑う。
「いやぁ何も知らないと思いましたか?実はですね。あの『三四郎』僕のものなんです」
きょとんとして僕は彼に目を向けた。
(どういうことだ?)
そんな言葉が僕の顔に浮かんでいた筈だ、だから彼は僕の表情を読み取るように言った。
「どういうことですか?ですよねぇ。あれですがね、実は僕の持ち物なんです。僕が天王寺で開かれる古本市の露店で買ったものです。実は田中さんがいつも古書巡りを梅田のかっぱ横丁から始めるのを知っていたので、今日、一寸悪戯をしたんですよ」
「悪戯だって?」
「ええ、田中さんは必ずかっぱ横丁のA店の入って一番左の棚から古書を探される習慣があるでしょう?だからそこにあの本を差し込んでおいたんですよ。勿論、あのA書店の書店員には僕の方から裏で手名付けておいて、悪戯を仕掛けたわけですがね」
僕は思わず声が出そうなくらいの驚きを抑えて目を見開いた。
「ちょっと、どういうことさ。いくらなんでもできすぎだろう。これって」
彼がハハハと笑う。
「いえいえ、すいません。実はね、新しい劇をしようと思ってましてね。それがちょっとした探偵ミステリーというか推理物なんですが、実際その場面というのを現実にしてみたらどうなるものかと思いまして、それで田中さんにその劇中に出て来る場面をリアルに演じて貰おうと考えて、悪戯をしたんです」
なんてこったい。
僕は開いた口が塞がらなかった。
まぁあまりにもそう考えれば出きすぎた話ではあると思った。人為的な事であればそれはすとんと心で納得ができた。
しかしながらではあるが、中々自分が哀れである。僕は彼の劇の見切りに使われた役者だったと言える。
湯上りの身体が冷えるような思いだった。そんな表情をしていたのか、四天王寺が気遣うように僕に言った。
「いや、すいません。あまりに唐突でしたね。謝ります。それでその謝罪の為にちょっとお酒でも奢らせてください」
そう切り出してもじゃもじゃの縮れ毛をくしゃくしゃにしながら頭下げた。
「まぁ…、いいよ。そんなことなら。別に何も思わないからさ」
「そうですか」
下着を履きながら彼が頭を再び下げる。
「しかしながら…」
僕も下着を身につけながら彼に言った。
「…あの小説本の工夫、良く出来ていたよ。あれ良く考えたね?」
シャツに首を通しながら言った。
「え?工夫…、そりゃ、田中さん一体何ですか?
慌てて僕は首をシャツから出す。それが驚いて突然首を出した亀の様だと僕は思った。
「えっ?四天王寺君、あの小説本…あれは君の劇で使うための工夫仕掛けではないの?」
僕の驚きに彼がそれ以上の驚きで目を丸くして言った。
「いや…田中さん、何の事か全くわかりません。何かあの本にあったのですか?本に仕掛け何てとんでもない。実はA店の入り口に『三四郎』入荷しましたと張り紙があった筈ですよね、それが実は『「三四郎」と対になる悪戯なんです。つまり…それを目にした人間が心中印象に残れば、きっとそれを手に取るだろうか?そんな実験の結果を見てから劇中でのリアルさを出す為にちょっとと田中さんに仕掛けただけなんですから…」
(6)
「そいつはすごいですね…、そんな仕掛けがあったとは」
僕と四天王寺ロダンは、僕が手にしている『三四郎』を挟んで二人並んで歩いている。
二人とも桶を脇に抱え、丸首のTシャツに僕は半ズボン、彼は少し裾広のベルボトムを履いている。並んで歩く二人の姿は売れない作家か芸人のように見えているかもしれない。特に彼はその態がぴったりのように見えただろう。濡れた縮れ毛のアフロヘアにベルトム、首にタオルをかけた役者らしさの動きも合わさり、本当にそんな雰囲気を醸し出している。
「しかし、驚きだ。田中さん、こいつはすごい。劇の脚本アイデアになりますよ」
彼が履き鳴らしている下駄の音が路上に響くと通りに出て来た野良猫が音を避けるように路地の奥に消えて行く。
風呂上りちょっと近くの酒屋の立ち飲みに行こうじゃないかということになり、今、二人並んで長く伸びた寺の壁沿いを歩いている。
勿論、目下僕達二人の話題はこの『三四郎』である。彼は歩きながらも興味深そうにまじまじと『三四郎』を見ている。
僕は少しくすりと笑った。
「そうか、これが君の仕掛けでないとすると、まったく本当に誰の仕掛けかということになるんだけど」
僕が少し汗ばむ首を撫でながら言う。
「ですよね…、ですがはっきりと分かるのは僕が買う前の以前の持ち主ということになるのは間違いないだろうと思います」
「だね」
そう言って僕は顎で前方を指す。道を曲がる角に酒屋のビールを入れたケースが出ている。
酒屋が見えた。
早速二人で店に入ると簡易に置かれた粗末な木造りの立台を引き寄せるように立つと、ちょうど奥から酒屋の親父が出てきて僕等に目配せをした。
目配せに応じるように彼が声をかける。
「ビール、瓶で呉れる?グラス二つで」
彼の声高い声が響き、親父が頷く。それから僕に振り返ると言った。
「田中さん、ここは僕に奢らせて下さい」
「おや…、良いのかい?」
僕は四天王寺を見る。たいして実入りの少ない現実だろうと僕は思っているから、それが少し同情的な視線になったかもしれない。
それに感ずるように、彼が軽く頭を掻きながら言った。
「まぁ今日は田中さんを騙したわけですし…、しかしながらですよ、思った以上の収穫もあったわけです。ひょっとしたらそいつのおかげで良い脚本ができれば、うちの劇団の公演で客が増え、普段少ない懐も少しは温かくなるっていうもんですよ」
そう言って彼は運ばれて来た瓶ビールの栓を勢いよく分けると、そのまま溢れ出すビールの泡をこぼさぬように丁寧にグラスに注ぎこんだ。
(7)
注ぎ込まれた二つのグラスの間に置かれた『三四郎』
その上を注視する僕と四天王寺のふたつの視線。本から漂う何も物語りせぬ沈黙が仕組まれた謎を深くさせている。
ビールを一口飲むと早速僕はこの本に書かれたいたことを簡略に説明した。
話がてら所々、要点が分からず聞き逃した箇所があれば彼から僕に細かく指摘があり、だから大方僕がこの本について彼に話し終える頃には、二人とも本に書かれていた手記については、ほぼ理解した。
しかしながら、謎めいている。
彼は本を手に取り、ページを捲る。
「えっと…188ページでは、自分が死んでいるだろうと書いてますね。『おそらく、この本をあなたが手に取られたということはきっと私は黄泉の国へと旅立っていることでしょう』ですから。
後はその亡くなり方が病死か、自殺なのか、他殺になるのか…、まぁ癌をお持ちの様ですね。となるとやはり病死と言うことでしょうか…」それから指で文字をなぞって行く。
「ここからが印象的ですね。『私の妻は私の遺物ですら金銭に変えれるものは金銭に変える女です』――ここはすごい表現だ。守銭奴ですか!まるで女が凄く金に強欲だと言っている。それについては表現としてこう続きますねぇ…『ええ、彼女は世にも恐ろしいほどの守銭奴なのです。私の持ち物一切はきっと金銭に変えられ、この古本すら何処かの古書店で僅かばかりに小銭に変えられるでしょう』なんてすごい言葉だ」
四天王寺が頬を摩りながら、僕の方を見て笑う。
「これほど何度もくり返し書くとは、余程この方は物事に対する気持ちが深いというか、この『女』に対して思いが深いと言うか…、それとも来るべき病気との最後に心理的に追い込まれていたのか…」
縮れ毛を指で掻き揚げる。
「いやぁそれだけでなく…あとはそれだけでなくこの手紙を読む人にこの女、内縁の妻でしょうかね…その印象を強く与えたいのでしょうね」
(成程…)
四天王寺の言葉に頷き、ビールを一口運ぶ。
(そういう理解もあるのだな)
僕は喉にビールを流し込み、音を鳴らす。
「190ページなんて、すごいですよ、田中さん。不倫関係を知りながらも何でしょう、何もできない感情に揺り動かされているが地団駄を踏む気持ちがありありと書かれている、!!見て下さい!!」
彼が身体を乗り出す様に僕にそのページを見せる。僕は首を伸ばして覗き込む。彼がそこに書かれた言葉を指でなぞる。
「しかしですね、最後に錐のような鋭い言葉がある。感情を叩きつけるような、ですが…それは一方では何か甚だしく予言めいた謎の言葉『ただ後世の誰かが「犯罪者」を責めることは出来るのではないでしょうか?』なんてすごいですよ」
ふんふんと鼻を鳴らして指を止め、四天王寺が僕を見る。
「田中さん、この方は女が犯罪者になると予見してこう書いているんですよね…」
「そう読み取れるね」
僕は空になったグラスを机の上で滑らすように横に置く。
「ちょっと考えたいのですが、この書かれたご本人が癌を患っていたとしたら、病死ですよねぇ。だから189ページで保険金を罪滅ぼしのように与えたい趣旨で書かいてます」
「うん。でもさ、後で書いているよね。『女』が自分ではなく不倫相手を殺すだろうと」
「あっ、そうか…そうでした。この犯罪者になるという意味は不倫相手を殺すだろうと言う意味ですね」
僕の指摘に気づいて、アフロヘアの頭を掻く。
「えっと、確か193ページ…、『――もしあなたが私の事を気に成されたらどうか私達に降りかかったこの「事件」を解決してください』ふむふむ、ありますねぇ。続いて…『――あの憎き不倫相手の男もきっと同じように黄泉へと旅立っていることでしょう』ですかぁ。すごいなぁ」
四天王寺が首を撫でる。
「本当にすごい言葉面ですよ。まるでこの方脚本家みたいですね。自分の人生の最後を劇的に飾りたいのかもしれないですが…」
そこで彼が顔を上げて、くるりと首を回す。
「すいません、ビールを瓶で追加お願いします」
それに応じるように店の親父が動いて奥に消えた。
「ちょいとばかり、喉が渇きました」
少し照れるように笑いながらもどこかその視線が微睡む感じなのは、湯上りのビールのせいもある思うが、きっとこの手紙の謎に触れて何かを感づいて考えているのかもしれないと僕は思った。
(8)
「ちょいと…すんません」
言ってから四天王寺が腰を下ろす。見ると手を伸ばしてベルボトムの裾を捲りあげている。
巻き上げると下駄の底打つ音が鳴り、曲げた裾がピタリと止まった。
「いや、やはり暑くて堪りませんねぇ。ベルボトム何て今どき誰も履いちゃいない。しかし劇で七十年代とか表現しようとすると、こうした衣装が無いと困りますからねぇ」
彼は言ってアフロヘアを撫でる。
しかしながら妙なミスマッチ感が何ともこの人物の毛並みというか、臭いを感じさせる。
縮れ毛アフロにTシャツと捲り上げたベルボトムの先から覗く下駄。
どこか本当に売れない芸人か作家のような風貌である。
それが先程から悩み深く僕と一緒に『三四郎』とにらめっこしている 。
ふと僕は暖簾から外を覗き見る。見れば遠く大阪湾に沈む夕陽が見える。
ここは古代、台地として海から突き出ていた。
僕は思う。
ここから眺める夕陽も現代に生きる僕等が眺める夕陽も幾分か違いはあるだろうか?
ちょっとばかり大きな建築物ができて空が見えにくくなった以外、この人間の棲まう世界に沈む夕陽に過去と現在とどれほどの違いがあるのか?
「何も違いはないですねぇ…」
思いの外から消えた四天王寺の声に振り返る。
「別段、今のやつと違いませんね」
四天王寺は自分の財布から取り出した銀行カードと『三四郎』に挟まれていた銀行カードを立ち飲み台の上で見比べている。
うーん、と頭を掻いて僕を見る。
「田中さん、何も違いませんね」
目をしょぼしょぼとさせている。
僕は彼のしょぼくれた目に合わせて言う。
「違わないだろう?これ今現在も営業している都市銀行のM社のカードでからね。ちょっと古い奴だけど、僕の田舎の母もこれを使っているからね」
四天王寺が顔を向ける。
「ちなみに田中さん、どちらの出身で?」
「僕…?僕かい?」
僕は押し黙る様に小声で言う。
「四国さ、沢山県境が跨るような山深いところだよ。就職で大阪に出てきたんだ」
へーと四天王寺が頷く。
「そいつは凄い。ちょっと昔、僕もね、原付で四国を旅してましてね。そのあたりを通ったことがありますよ。山深いところで、もう日本の原風景みたいなところでしたね」
僕はそれ以上何も言わず、頷く。
「まぁ…、山深い田舎ってことにしてくれ」
ビールをグイっと一気に飲む。
「ところで君は?」
「僕?僕はここですよ。大阪です。生まれも育ちもね」
「そうかい。都会生まれか」
「まぁ、そうですね」
四天王寺が頭を掻く。
「ほら苗字の通り、四天王寺生まれって奴です」
少し笑いながら僕は答える。
「へぇ、妙な苗字だけどそれが地名だったとはね」
それから四天王寺は頭を掻き、僕に言った。
「そうそう、田中さん。僕はこちらよりちょこっと南の方には親戚なんかも多いものですから・・そのぉ」
「何だい?」
「苗字で呼ばれると直ぐに分かっちまうんです。だから下の名で呼んでくれると嬉しいんですんが…」
「下の名?」
「ええ、ロダンって。これから」
「そう?」
「そっす」
再び頭を掻く。
(なんで苗字じゃダメなのさ)
と、問いかけようとしたが、そこには彼の事情があるような気がして押し黙った。もしかしたら何かその苗字では彼には差し障りがある様に察した。
だからかもしれない。
「まぁ…、親父がねぇ、ちょっとばかり道楽が激しくて…まぁそこらへんが賑やかだったんすよ」
黙る僕に気を使ったのか話し出そうとしたので、僕はそれを目で押さえた。
「まぁいいよ。それ以上聞かないさ、四天王…いや、ロダン君」
彼がぺこりと頭を下げる。
思わず、笑いが出た。
「まぁいいさ。都会に棲まう者同士。互いに何とやらだ」
言い終わるうちに彼が僕のグラスにビールを注ぐ。
「すいやぁせん」
股旅者のような、どこの国ともつかぬ訛りで僕をくすりと笑わせる。
今度は僕が彼のグラスにビールを注ぐ。
そのビールの表面に大阪湾に沈む夕陽が映った。
それを彼が夕陽も一緒にぐいと喉奥に流し込む。
それから一気に息を吐いた。
彼がビールの表面に映った夕陽に気づいたどうかどうかわからないが、呑み込んだ夕陽の味を味わうようなどこか懐かしい眼差しをして、飲み干したグラスをそっと置いた。
「本当にこの銀行カード、何も違いませんよねぇ。それに…」
ロダンが首を傾げて俯く。
「195ページに「――数回に分けられた入金額の意味を内縁の妻であるお前がわかるか、今の私では分からない。これは賭けでもある」とあります。例えこのカードの暗証番号が分かって確認しても残金の合計だけしか分かりませんから、これって本当に通帳が無けりゃさっぱり分かりませんよね」
僕もそうだと言うように頷く。
「賭けって…『女』に対してもそうだけど、これを見つけてですよ、田中さん。謎を解いてやろうという者にとっても解けるかどうかの『賭け』を両方に暗示させてますよねぇ」
(9)
その日、僕達は酒屋を後にしてそれぞれの邸宅に戻った。
しかし、戻ったとはいえ、僕達は互いに軒を並べる隣同士である。
互いの玄関を潜る時、彼は僕に言った。
「田中さん、こいつ『三四郎』預からせてもらいますね」
勿論、それが元々彼のものであると言ってる以上、僕としては何も言いようが無いわけで、軽く頷いた。
ただ、
「ロダン君…ねぇ、もしだね。週末までに君が何かわかったことがあったら教えてくれよ。明日は月曜だし、僕は週末まで仕事だからさ。君とは会えないけれどさ」
それに頷いて、玄関から彼の声が聞こえた。
「分かりました。じゃぁ、田中さん。もし何か分かれば週末にでも」
彼の返事に僕は言葉を返す間もなく、玄関の流し戸が閉まる音がする。
僕は彼が残した静まり返る答えなき沈黙の中に、何故か大きな期待をした。
それは何かというと、そう…彼が次の週末までにこの僕の胸につかえたしこりというか、喉に詰まった魚の骨というか、この魔訶不思議な重しを取り覗いてくれて、朗々と気分爽快にさせてくれそうな、そんな期待だった。
そして驚くことに実に彼はそれをやってのけてくれたのである。
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