第18話 泣かせてみたい

ジャックは、呆然としたまま、自宅へ帰った。

泣いているフィオナの姿が心に焼き付いていた。


彼の心の中に、訳の分からない欲望が湧いてきた。泣かせてみたい。自分のために。

他の男ではなく、自分のせいで泣かせたい。


彼のために、心を揺らし、静かに涙を流す令嬢……。





「いろいろと間違ってるわよね、ジャック」


翌朝には姉の襲撃を受けた。朝と言っても、もう昼近くである。


「聞いたわよ。パーティで女の子を泣かせるだなんて。そのフィオナとか言う娘にあんた、何をしたの?」


何をと言われても、彼は何もしていない。まあ、少々悪意的だったかもしれないが、話そのものは、間違っていない。社交界でふつうに言われている話だ。確かに、わざわざそんな話を、侯爵家の関係者に話して聞かせたりしないが。

だが、ジャックは、モンゴメリ卿の言い分ではないが、ぜひとも彼女に聞かせたかったのだ。


「なにも」


「何もしてなくて、あんな冷静そうな娘が泣き出すなんて、あり得ないでしょう」


「冷静?」


泣き出す娘のどこが冷静だ。


「見たわよ、あの娘。大人しそうだけど、なんか、こう、芯があるっていうか……そうね、泣き方も感情的じゃないし」


ほめてるのか。


「きっと、身分と金狙いで、あの侯爵を篭絡したのね。やるわね、彼女」


ほめる気はないらしい。

そんな人ではない。フィオナを姉は知らないのだ。


「でも、大間違い。侯爵家は先代がぜいたく好みだったから、遺産なんかあらかた使っちゃったと思うわ。見ててご覧なさい。フィオナだって、カネ目当てでジャックのところへ戻ってくるわ」


姉は楽しそうにジャックの方を見た。


「あんた、あの娘が気に入ったのでしょう? カザリンが泣いてたわ、かわいそうに。あんたにつれなくされて」


なんで、初めて会った知らない女に優しくしなきゃいけないんだ。大迷惑だ。泣きたいのはこっちだ。


「冗談もほどほどにしてよ、クリスチン」


だが、姉の方は、ジャックと違ってご機嫌だった


「あんたにしちゃ、よくやったじゃない。ほめてあげるわ。それに、私、全面的に協力を惜しまないわよ?」


突然なんで? ジャックは訳が分からなくて、姉の顔を見た。


姉のクリスチンときたら、生まれてこの方ジャックをからかうことに全力を尽くしてきた。

姉から迷惑を受けなかったのは、寄宿生時代くらいなものだ。


「ほほほ、期待しててちょうだい。あの子にしたところで、あなたと結婚する方が、ずっと幸せよ。私にはわかるの」


姉は、弟の自分が言うのもなんだが、すごい美人だった。頭も悪くない。こんな性格でさえなければ、きっと今頃は両親の期待通り、何処かの名家の奥方さまになっていただろう。

その性格の腐った姉が、ジャックに全面協力すると言うのだ。驚かざるを得ない。何が目的だ。


「安心しなさい。悪いようにはしないわよ。少なくともカザリンには、あんたのそばに行かないように言ってあるわ」


姉は、珍しいくらいの上機嫌で、行ってしまった。


後になって、ジャックはようやく思い出した。

そうか、あの侯爵か。


若き侯爵家の当主は、堂々たる体格と傲慢な印象さえ受ける冷たい美貌の持ち主だった。そして、いかにも古い侯爵家らしく仄暗いお家騒動の噂まである。有能で頭が切れると言われていた。

姉の好みを詰め込んだような男だった。


ジャックが、頑張ってフィオナを彼から引き剥がすことに成功すれば、姉のチャンスも増えると思っているのだろう。


「いやー、そう、上手くいくかな?」


クリスチンだけじゃない。大勢の女が食いつくだろう。

他の女に取られるのが、オチのような気がした。

だが、それはどうでもいい。

姉は、本気だろう。侯爵とフィオナの間の妨害に全力を上げるだろう。


とんだ味方がいるものだ。想定外だった。



ジャックは考えた。あの侯爵は、家庭という面ではどうだろう。


侯爵がゆっくり自宅でお茶を飲んでいるところが想像できない。

あの男は大テーブルの前に座って、厳しい決定を下しているか、あるいは自ら戦場に出て、兵に苛烈な命令を出していそうだ。

妻は不安だろう。


それよりも、十分に裕福で、守られた生活の方がずっとよくはないか?

夫と一緒にあたたかな家庭を築き、子を育む。名誉や人に誇るほどのことはないかも知れないが、そんなもの、幸せに暮らすために必要ではないだろう。


『あんたと結婚した方が幸せよ』

ジャックも姉と同意見だった。





ジャックは、ダーリントン家のアンドルーの通うクラブに顔を出すことにした。


父の伯爵と話をすれば済むのだが、どうもあまり評判が良くない。母の伯爵夫人はもってのほかだ。アンドルーは同じ学校の先輩で顔見知りだ(顔しか知らないが)。


「え? フィオナを?」


さすがに、こんなことはやったことがなかったので、ジャックはいささか赤面した。


「そう。真剣に考慮していただけるといいのだが……縁談をだね」


昼下がり、カードをしに来たらしいアンドルーをつかまえて、座り込んで話をしたのだ。


「いや、あの、それは、父の伯爵の意向があるので、私の一存では……」


「もちろんそれはそうだが、それほどまずい話でもないと思うが」


まずい話どころではない。

真剣なお申込みなら、本来大歓迎だった。


ジャックの家は男爵家だが、事実を言えば、職位は金で買ったようなものだ。

三代前は町で服地屋の見習いをしていた。誰も知っている事実だ。だが、その三代前がうまく立ち回って、インド綿の織物工場を始めたおかげで、パーシヴァル家は誰もが一目置く一家に成り上がった。


その財力は、ダーリントン伯爵家などとはくらべものにならない。その差は、彼らの服にも表れていた。

アンドルーは着古した黒の服だったが、ジャックは真新しい、上等で流行のしゃれた服を着ていた。靴も最新流行で、ジャックが取り出した銀時計をアンドルーは真剣にうらやましそうに見つめた。彼のは、あまりに旧式でついに壊れてしまったのだが、修理が利かなかったのだ。


正直、妹がジャックに嫁いでくれれば、彼としては、願ったりかなったりだった。


「だがなあ……」


本来、大歓迎なのだが、妹には今やグレンフェル侯爵からの申し込みがあると聞いていた。


「グレンフェル侯爵と踊ったって話は聞いているよ」


軽い調子でジャックは言った。


「だがね、侯爵が本気だとしても、彼はモテるよ。ライバルが多いんじゃないかな。実際、僕の姉だって侯爵狙いだし」


「クリスチンが?」


アンドルーは目を丸くしたが、ジャックは肩をすくめた。

姉のターゲットがばれると、姉は仕事がやりにくくなるかもしれなかったが、今までの姉の仕打ちをを考えると、それくらいどうってことないだろう。


「あの社交界の花形が!」


確かに5年くらい前ならその通りかもしれない。姉は美人でそうしようと思えば、しおらしくもなれる。相手が侯爵家なら、父は喜んで莫大な持参金を付けるだろう。


「ま、僕が言うのもなんだが、姉の持参金は莫大だろう。ところで、侯爵家は金に困ってるんじゃなかったっけ?」


クリスチンネタなので正確かどうか知らないが、ジャックは利用できるものは使うことにした。


「そこんところは、実はよく知らないが……」


アンドルーはちょっと不安そうな表情を浮かべた。大体、旧貴族はみんな貧乏が定番である。


「まあ、聞いてみたらどうかね? 正式の申し込みがあるならだが」


アンドルーは考え込んだ。


地位も名誉もあるが、まだ、正式な申し込みはない。確実性を考えたら、こっちの方が有利だ。


「伯爵はなかなか難しい方だと聞いた」


うまい言い回しである。実は、かなり無能だなだけだが。


「それで、アンドルー、あなたにとりなしをお願いしたいわけだ」


アンドルーは自尊心を刺激された。実際、伯爵家を取り仕切っているのは彼だった。


「フィオナのどこがそんなに気に入ったのかね?」


好奇心を起こしてアンドルーが聞いてきた。


「兄の言うセリフじゃないな」


ジャックは笑った。


「特に問題のないお嬢さんじゃないか? 違うかね? それに落ち着いて淑やかだ。社交界で失敗したりしなさそうだ」


嫌味かと思ったが、ジャックは続けた。


「由緒正しい伯爵家の令嬢で、年齢も申し分ない。いろいろ恋愛遍歴を経た令嬢も面白いかもしれないが、あいにくそんな趣味ではなくてね」


アンドルーはうなずいた。納得できたのだ。つまり、家柄がいいということと、手付かずの何も知らない若い娘だということだった。

確かにあれこれ知りすぎている女は手に余るとアンドルーは思った。


人間、誰しも自分になぞらえて理解する。


ジャックは、本当は、そんなことどうでもよかった。


フィオナの控えめな癖に、突然オールを握って、彼を助けて頑張る姿に惚れたのだ。

どこの家の令嬢だったとしても、彼女は無気力ではなかった。それなら、ジャックと一緒にやっていける。でも、この兄にはわからないだろう。

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