第七章 決着、そして決戦へ
1
すれ違い様に、わたしは
無意識にそうしてしまったわけではない。
あえてだ。舐められてたまるか、と意識して睨み付けてやったのだ。
これでほんの少しでも佐治ケ江が畏縮してくれるのなら儲けものだ、と。
自己嫌悪のスパイラルに陥りそうだが、そんなものは試合が終ってからいくらでも悔やめばいい。
いまは試合中。勝利することが正義。睨むくらい可愛いもんだ。どうせならすれ違い様に、思い切り肩でもぶつけて文句の一つもいってやればよかった。
「なにため息ついてんの?」
どどおん、とわたしの視界を完全に塞ぐ
「驚かせんな!」
鼻っ柱に頭突きを食らわせてやった。
「いて! なんだよもう、心配してやってんのに!」
「あたし、ため息なんかついてた?」
「ついてたよ! 借金苦に自殺すんじゃないかってくらい、ながーーーいの」
「そう?」
やっぱり、自分は騙せないな。
ま、内藤のアホのおかげでちょっとだけすっきりした。それだけでいいや、いまは。
「おい、主将様、早く来いや」
ベンチで本物の主将が、わたしを手招きしている。
これから後半に向けてのミーティングだ。
「はい!」
わたしは足早にピッチを後にしベンチへと向かった。
「それじゃ集合! して、下さい……」
次第にトーンダウンしていくわたしの声。
前半戦を終え、ちょっとだけ気持ちが落ち着いたことで、わたしが主将の代わりをつとめていることへなんだか少なからぬ違和感を覚えてしまって、それで。
そもそも普通いるか? 大事な大会の真っ最中だというのに、二年も下の若輩に、ぽいっと主将を放り任せてしまう主将なんて。
そんなわたしの気持ちなど知るよしもなく、
前半途中にわたしが指揮することが決まった直後は、みんなの顔に多分な反感情がうかがえるところがあったけど、いまはだいぶ落ち着いているようだ。わたしを認めているわけではないにせよ。
わたしが以前から
この1-2という最小点差で折り返せたのは、運も多分にあったわけで、もしもっと差が開いていたならば、わたしはいまみんなからどんな視線を浴びていたことか。
ボロ雑巾になって淀川だかなんだかを流されていたかも知れない。何故か内藤と一緒に。
軽くうつむいて咳ばらいをすると、わたしはまず三年生たちに視線を向けた。
「あの、先輩がた、あたしいま代行とはいえ主将、らしいんで、えっと、威厳がなくなるのも色々と差し支えが出ますので、この会議中、ずっと上から口調でいいですか?」
少し頭を垂れ上目遣いになって、おずおずと尋ねた。
「好きにしろよ、くだらねえこと気にしてないで」
「だって、それで後になってぶっ飛ばされるのも嫌だし」
「大丈夫。どのみちぶっ飛ばすから」
「えーーーっ、大丈夫じゃないじゃん! ……ああくそ、もうどうでもいいや! こっちこそ好きにしてくれだ。では後半に向けてのミーティングを始めま……始める! っと、一年生、二年生、失点最小限に抑えて、よく頑張った。あとミッキー先輩もみんなを落ち着かせてくれて助かりました。さすが年の功」
わたしはそういうと、ぐるりと一年生二年生の顔を見て一呼吸。
「現在一点リードされているけど、他の大学が瀬野川にはボコボコにされ大敗しているという事実を考えると、あたしはこれ、悪くないスコアだと思う。そりゃ失点しないことが理想だけど、でも二失点までなら計算の範囲。一失点目は三年生がアホで油断してただけで、一年生二年生の責任による失点は一点だけなんだから。本当によくサジ……
「そうそれ、何者なんだよ、あの佐治ケ江ってのはさ。ぽっきり折れそうな身体してて、ほんっといまいましいわ」
オジャ先輩は、苦虫をかみつぶしたような、楽しそうな、なんとも複雑そうな表情をその顔に浮かべている。
自分自身にそこそこの自信を持っていた者が、ああまで次元の違うプレーを見せられたら、誰でもそうなるのかも知れない。
相手を警戒しないわけにもいかないけど、試合中だというのに過度に怖れて自信を失うわけにもいかないし、気持ちの持っていきどころが難しいよな。
「前もいったけど、彼女はあたしの高校時代の後輩です。ボールを扱う技術が信じられないほど高くて、それはもう魔法使いみたいで、視野も広くて状況判断も的確」
「そうそう」
と腕を組んで頷くのは内藤幸子。
「実は内藤も高校時代に対戦したことあって、まるで歯が立たなくて、翻弄され続けることにバカだからついカッとなっちゃって、一本背負いで投げ飛ばして退場してます。っと、内藤のことなんか、どうでもいいや。とにかく佐治ケ江は、いつフル代表に選ばれてもおかしくない人材だと、あたしは思っている。何万人に一人いるかいないかの天才。誇張でなく、事実」
わたしは、ここで一度言葉を切った。
みんなの表情から、充分に佐治ケ江を脅威と感じてくれたことを確認すると、話を続けた。
「でも代表に選出する人が迷いに迷うだろうなというような大きな欠点があって、それはまず一つにフィジカルの弱さ。サッカーでは絶対に通用しない。接触に厳しいフットサルだから、なんとかなるというレベル。それとスタミナの無さ。これは小学生なみ。最後に、とにかく気が弱いこと。でも、いま戦った限りでは、気弱なところは改善されているようだけど。二番目にあげたスタミナの無さというのがとにかく致命的で、どんなにトレーニングしてもまったく改善されなかった。仮に大学に入ってからより効果的なトレーニング方法を見つけたとしても、体質が急激に改善されるはずもないし、見ていたところでは相変わらずみたい。だからこそ瀬野川の監督は、とにかく頻繁に交代させて要所要所で得点を狙わせ、後はとにかく全員で守備、という作戦で佐治ケ江を使っていたんだ。……ええと、これ瀬野川の参加している中国フットサルリーグでの戦績が書かれている資料なんだけど」
と、わたしは茶封筒からファクスのコピーを取り出すと、ここから読み取れる重要事項の説明を始めた。
ほとんどの試合で無得点かつ大量失点という結果であった瀬野川女子が、ある試合を境に一転して大量得点かつ無失点で連戦連勝。
単なる協会の公式記録であるため戦術の変化などは分からないが、メンバー構成には明らかな違い。それは佐治ケ江優が、いるか、いないか、という一点。
「どれどれ、ちょっと見せて」
オジャ先輩が、わたしの手から資料を引ったくった。
読んで驚くなよ。って、無理か。五秒後には、なんじゃこりゃあって叫ぶぞ。
「なんじゃこりゃあ! なにこのスコア? 負けてる時は0-7、1-16、勝ってる時は14-0、9-0、13-0、野球かよ!」
「いや、これは野球より凄いんですよ。たった四十分で、こんなに得点しちゃうんだから。得点はすべて、佐治ケ江がいる時に生まれています。佐治ケ江はフル出場しているわけではないので、出場時間当たりのチームの得点率は、もう異常です」
「ほんまやなあ」
「オジャ先輩って関西出身でしたっけ? でもとにかく、これはあくまでリーグ戦の記録。この大会は一日ですべてをこなすわけで、それを考慮するなら佐治ケ江をそれほど使い続けることはしないはず。それでも鎌倉教育を8-0で破っているのはびっくりだけど、まあ初戦だったからでしょうね。ハイになったか、計算間違ったか、勢い付かせるためにあえてか。とどのつまり、この資料から分かるのは、とにかく佐治ケ江をどう攻略するか、そこが試合を左右する鍵であるということ。体力がないのは大昔から分かっていたことから、だから二人マークでなるべく失点しないようにして、なるべく佐治ケ江を出し続けさせて、疲れさせてやろうと思った」
「そういうことは先にいえよバカ!」
バン先輩に、胸をどんと押された。
「試合中にみんな集めて、こんなたらたらと説明出来るわけないじゃないですか! 試合前には誰も聞く耳持ってくれなかったしさあ」
なにがスクワット五百回だよ。
「そりゃごもっとも。ぷぷーん」
バン先輩は、ぶすくれたように唇を尖らせた。なんだそれ、なんでこっちが悪いかのような雰囲気になってんだよ。こっちこそ、ぷぷーんだ。
まあいいや。
「とにかく、佐治ケ江は立ってるのも辛いくらいに疲労しているはず。疲労、させたんだから。でもまた、佐治ケ江は出てくる。こっちはこれ以上点をやるつもりはさらさらないから、一点差が怖い向こうは、必ずまたサジ……佐治ケ江優を出してくる。あいつは、どんなに疲れていようとも、一発で試合を決めてしまうような能力を持っている。それに、佐治ケ江がベンチにいるというだけで、他の選手たちの頑張りが凄くなるのが厄介。だから、後半は佐治ケ江を完全に潰す。そのための対策なんだけど……」
わたしは床に腰を下ろすと、携帯ホワイトボード上の赤と青の磁石を動かして、今後行うべき戦い方を、みんなにじっくりと説明していった。
おもに一年生、二年生に向けて。
三年生はのけ者にされていると思ったのか、面白くなさそうな顔を浮かべていたが、それでも邪魔をしてこなかったのは、佐治ケ江の脅威を嫌という程に味わったからだろうか。
そのまま我慢しててくれ。
なんといってもこの試合の勝敗は、一年生二年生にかかっているんだから。
2
後半戦開始の笛が鳴り、はや三分が経過した。
スコアに変化は無い。1-2で瀬野川女子が一点のリードを守っている状態だ。
習明院は現在、主力である三年生がゴレイロの
そのため、佐治ケ江優がベンチに控えているが故に強固なものになっている瀬野川女子の守りを崩すのは、容易なことではなかった。
追わねばならない立場であるというのに、前半戦と、なにも変わらぬ状況だった。
でも、構わない。このままの流れでいい。
まだ向こうに、これといった動きが見られないからだ。
だからこちらも、まだ戦い方は変えず、前半戦のやり方をそのまま継続させていた。
これは根比べ。焦ってミスをした方が負けだ。選手個人と戦術、どちらにおいても。
ただ、どちらかといえばうちの方にこそ焦りによるミスが生まれそうな、見ていてそんな危うさがあった。
既に試合も後半戦であり、こちらはリードを許している側であるため、どうしても無意識のうちに焦りが生じてしまうのだろう。
実際に、迂闊な攻め上がりからボールロストをした時の、攻守の乱れを逃さずに、瀬野川女子の速攻が炸裂することがこの数分で何度も見られた。
それにより二度の決定機を作られてしまったのだが、幹枝先輩のファインセーブと、相手の決定力の無さとに助けられた。運次第では失点していた。
こちらが焦れては負けだし、現在とっているこの戦術がなんの意味もないものになってしまう。だから、攻め急ぐことなくじっくり行けと先ほどから声を荒らげて指示しているのだけど、やっぱりフットサルはチームスポーツ、意識のすり合わせは難しい。
攻撃的に行けと命じても絶対に守備は必要だし、守備的にといっても上がるべき時まで引いていたらそれこそ大きなピンチを招くだけだし、だから結局は個人の感覚に頼るところも大きいからだ。
それを練習やミーティングですり合わせていくものであるが、現在主力が誰も出ていないのだから、これは諦めなければならないところか。
でも、幹枝先輩にも思い切り怒鳴られて肝を冷やしたか、とりあえずこの一分ほどは、じっくりとボールを回し、戦ってくれている。
攻め急ぐなという指示を出しているわけだから当然かも知れないが、いわゆる決定機という点において、こちらは後半になってから皆無。シュートすらない。
だけどゲーム内容としては、こちらが若干ながら押している状態だ。
これは、いい雰囲気だ。
雰囲気、というと語弊あるかな、わたしにとって狙い通りの展開といった方が正しいだろうか。
こちらが点を取る意識を高めて攻め込もうにも、そもそも相手の守備は硬過ぎるし、隙を突かれてこちらが失点したら元も子もないし、だから攻守のバランスとしては、いまはこれでいい。
相手の守備に要所要所を守り切られ、
と、このようなこと全体を評して、先ほどわたしは「いい雰囲気」になってきたという言葉で表現したのだ。
つまり、このような微妙な空気の中で、どっしり構えて焦らずに落ち着いてさえいれば、むしろ先に焦り乱れるのは、一点差を怖れる向こうの方だからだ。
だからこそわたしは、リードされていることに気がはやるみんなを、なんとか落ち着かせようと指示を飛ばしていたのだ。
そして、後半五分、そうして粘り続けたことによる一つの結果、一つの効果が出た。
向こうのベンチに動きあり。
佐治ケ江が、腰を上げたのだ。リード一点という、その危うさに。
よし。
わたしは心の中でほくそ笑んだ。
もう試合も後半だし、もしも一点差でなかったならば出てくることはなかっただろう。こうして佐治ケ江を引っ張り出せたのは、みんなの頑張りのおかげだ。
佐治ケ江優は交代ゾーンに立ち、右足をトントンと軽く蹴ると、交代する9番とタッチ。
やっぱりテーピングしている右膝の具合を気にしているようだ。もしかしたら、中国リーグで前半はまったくメンバー登録されてなかったのって、そのせいかも知れないな。
佐治ケ江投入後の瀬野川女子の戦術であるが、特に前半と比べて変化なし。前線の佐治ケ江になんとかボールを繋いで、個人技による打開により点を狙うという戦い方だ。
だからこちらも、まだ動かない。
とにかく佐治ケ江を執拗にマークして自由を封じるという、前半戦と同様の佐治ケ江対策を続けるだけだった。
「
わたしは、交代ゾーンに立ち、
時間を考えてここは絶対に失点したくないところだけど、でも佐治ケ江には出来るならばマンマークで当たるようにしたかった。それには栄子では心許なく、だからわたしが代わってピッチに入ったのだ。
などと偉そうにいえるほど、そこまで守備に自信があるわけではないけど、佐治ケ江の癖を一番分かっているのはわたしだから。
現在の習明院の選手は、
わたしはピッチへ入るや否、佐治ケ江へと身体を全力で突っ込ませた。
瀬野川女子8番フィクソの
やはり佐治ケ江へ出したか。それ、もらった!
わたしはパスの軌道上に足を伸ばし、ボールをカットした。
と思ったのは単なる幻覚だったか、自らボールへと寄った佐治ケ江が、わたしの目の前を風のように通り過ぎ、難無くパスを受けていた。
すべてが読み通りだったというのに、それでもこんな簡単にパスを繋げられてしまうなんて……
相変わらず、相手の読みを読む能力が、常人より桁違いに高い。相変わらずどころか、一段とと進化してる。
気持ちを素早く切り換え、わたしは佐治ケ江の背後に密着した。
最低限、突破は阻止しなければ。
絶対に佐治ケ江に前を向かれないようにし、胸で背中を押してバランスを崩させ、股の間から足を突き入れて、ガシガシとボールを蹴り出そうとしていると、ピッと笛が鳴った。
ちょっと激しく当たり過ぎて、わたしのファールを取られた。
まあ当然か。
瀬野川女子の間接FK。
キッカーは佐治ケ江だ。
ボールをセットした瞬間に蹴り上げ、ふわりと浮かせて反対サイドにいる4番
腰崎富美がいい読みを見せて、落下地点へと全力で突っ込んで行った。
4番が胸トラップする寸前に、横から掻っ攫ったのだが、しかし、コントロールに失敗してタッチラインを割ってしまい、また瀬野川女子ボールになってしまう。
8番のキックインを、4番に繋がる前にわたしが走り込み、カット。だが一瞬のうちに4番6番に囲まれ、奪い取られてしまった。
瀬野川女子の選手たちから、近寄られただけで吹き飛ばされそうなもの凄い気迫を感じる。佐治ケ江がピッチに立ったことによるドーピング効果だろうか。
7番フィクソから、佐治ケ江へのパス。
わたしの頑張りを嘲笑うように、ボールはぴたりと佐治ケ江の足元へ。
そこからは行かせない、と、わたしは必死に食らい付き、佐治ケ江にボールを戻させることになんとか成功する。
でもこれは、余裕で突破出来るのに手を抜いているだけではないか。そんな猜疑心に、劣等感や屈辱感が混じり込み、わたしの心から余裕を奪っていく。
また7番が、佐治ケ江へのパスを出した。
わたしは予期せぬことに驚き、肩を震わせた。
足元狙いではなく、佐治ケ江を走らせるパスだったのだ。
迂闊だった。
当然想定すべきことだったのに。
高校時代には、誰も佐治ケ江を走らせるパスを出す者などいなかった。そんなことをしようものならすぐにへたばってしまうため、それはもう暗黙の了解的に。
いまの彼女に佐原南でのプレーやチームの常識など適用させるな! と、その油断を戒めながら、わたしはまだ余裕のある体力にものをいわせ、全力で佐治ケ江の背中を追った。
転がるボールに追い付いた佐治ケ江は、その瞬間に物理法則を無視したように反転し、逆に走り出す。
わたしは突進の速度を殺せずに、すれ違った。急ブレーキ、上半身下半身ありとあらゆる筋肉がぎちぎちと悲鳴を上げた。
佐治ケ江へと、習明院フィクソの
こちらとしては、なんとか突破を許すことは防いだ。
しかし、相変わらず常人離れした動きを見せてくれるな佐治ケ江は。
キレがあるとかないとか、そういう次元の話ではない。もう、人と構造の根源が違うような。自分がいかに凡人であるかを思い知らされ、どんどん自信がなくなっていくよ。
せっかく奪いに奪った体力も、あの動きを見る限りハーフタイムで回復したようだし。
でもそれはほんの一時的なもので、そんな短時間じゃあ根に溜まった疲労はなにも回復していないはずだ。このままこちらが我慢を続ければ、すぐにへたばるはずだ。
体力だけでなく、どうやら右膝を庇いながらプレーしているようだから、限界はそう遠くないはず。
足が壊れるのが先か、心臓が止まって床に這いつくばるのが先か。
だからこちらは決して焦ることなく、まだまだ試合時間はあるのだと思って、このまま続けていくことだ。
佐治ケ江潰しに成功するか否か、それまでこちらの守備が破綻せずに持ちこたえられるか否か、それが勝敗を分ける鍵だ。
これは真剣勝負。
お互いルールに則ってやっていることだし、相手の弱点を徹底的に攻めることにやましい気持ちなどは微塵もない。
か、どうかは正直なところ分からなかったが、とにかくそう自分にいい聞かせ、わたしはこの佐治ケ江潰しの作戦を続行した。
「
また、わたしの足先をかすめるように、佐治ケ江へとパスが繋がってしまった。
何度、同じパターン、同じ光景を、目の前で見せられたことか。
それは屈辱以外のなにものでもなかった。
堪えるしかない。
物理的にも、自分の心に対してもだ。
能力が、違うのだから。
でも、そう何度も何度も同じ手は食わない。今度こそは、絶対に奪い取ってやる。
と、気持ち切り換え半ばファールも覚悟で、佐治ケ江へと身体を突っ込ませた。
ボールの奪い合いなどまぐれ要素も多分にあるはずなのに、ただの一度も奪えないのではあまりに恥ずかしかったから。
背後から腕を入れ、身体を入れ、強引ではあったがついに佐治ケ江からボールを奪った。
笛はない。
行ける。このまま、抜き去れ!
しかし、ぐっと踏み込んだわたしの足元にあるのは、消失感だけだった。
いや、そもそもボールの感触など足にあっただろうか。
素早く足元を見るが、やはりボールなどない。
確かに奪ったと思ったのに、それはわたしの錯覚だった?
でも……でも、佐治ケ江もボールを持っていないぞ!
どこ?
どこに、ボールが……
消えるはずが……
突然、わあっという喚声が耳に飛び込んで来た。顔を上げると、習明院ゴール前へと瀬野川女子の10番
どうして、ボールがあんなところに?
そうか……きっと佐治ケ江は、ボールをトラップしたふりをして、ワンタッチで捌いて、ゴール前へと浮き球のパスを出したんだ。
演技に騙されて、わたしの脳にはボールが消えたように受け取ってしまったのだ。絶対にボールを奪ってやる、と、集中するあまりの、その裏をかかれた格好になってしまった。
こうして瀬野川女子は決定的なチャンスを迎え、習明院は絶対的なピンチに陥った。
今村奈穂は、上から落ちてくるボールにタイミングを合わせて、右足を振り抜いていた。
失点、か。
わたしの守備のミスから。
ここで離されたら、もうおしまいだ。
しかし、神はいるのかいないのか、ここで「持ってる女、
ばちいん、と物凄く痛そうな音が、会場に響き渡っていた。
至近距離からの全力豪快なシュートが、顔面直撃したのだ。
幹枝先輩は、とと、とよろけて、後ろにひっくり返った。
落ち、バウンドするボールを目掛けて、10番今村奈穂が自ら決めてやろうと突っ込んだ。
ねじ込まれる直前、間一髪のタイミングで幹枝先輩は、ぱっしとカエルのような足でボールを挟み込んでいた。
「おおおおお、危なかったああああ! つうか鼻いってえええええ! ねぇ彼女、あたし鼻血出てなあい?」
目の前の10番、今村奈穂を見上げ、尋ねた。
「はい、出てます。どくどくと。……どうもすみません」
そういうと彼女はぺこりと頭を下げた。
確かに幹枝先輩の右の鼻の穴から、つうっとウドンのように太いのが一本、真っ赤に流れ出ていた。それは顎からしたたりおちて、ユニフォームを汚していた。
「うええ、ほんとかよ。あ、いや、別に謝んなくていいよ。それより梨乃! お前、あんなパス出させんなよ! 後で殴って、お前も鼻血出させてやっからな。ったくもう、チョコ食い過ぎで出るんなら幸せだけどさあ」
名場幹枝は、そんな文句だか軽口だかをいいながら片手を上げて審判に合図をすると、止血のためにベンチへと歩き始めた。
「すみません。でも、ナイスブロックでした!」
まあ点は入らなかったんだし、それでいいじゃないか。
相手は佐治ケ江なんだ。ミスなどをいちいち引きずっていたらキリがない。
ゴレイロの出血により、止血作業が終了するまで試合は中断になった。
わたしのすぐそばに、佐治ケ江が立っていたが、お互い一言も口を聞かなかった。果たしてこの状況で、なんと話していいものかなど分からなかったから。
向こうはどう思っているか知らないけど、こちらとしてはその沈黙がどうにも気まずくて、一秒が五分にも十分にも感じられた。
血、早く止めろよ。
といっても無理か。
血の気が無駄に多いからな、幹枝先輩は。三年生のほとんどにいえることだけど。
しかし、さっきのは本当に危なかった。幹枝先輩の、あの女を捨てた顔面ブロックがなかったら間違いなく失点していた。
佐治ケ江、自分で仕掛けるばかりではなく、簡単にボールをはたいて味方を使うようにしたのか。
いや佐原南時代はそうしていたけど、ここでは一人だけ技術が桁違いということで、得点機会の演出はすべて佐治ケ江の仕事のようだったからな。
疲労対策ということかな。
でも、それが上手くいくかは、味方がパスを感じて受け取ることが出来るかにかかってくる。
つまり、佐治ケ江ではなく、他の選手をしっかりマークしてパスを受けさせなければいいだけだ。
ただし、佐治ケ江のことだ、どんな魔法のパスを出すか分からない。
だから出来るだけ佐治ケ江にパスを出させないようにすることも、引き続いて重要なポイントだ。
さっきはこちらも油断して、7番と佐治ケ江との連係にしてやられてしまったし、瀬能真代もするりとマークをかわされゴールに飛び込まれ、大ピンチを招いてしまったけど、もうあんなプレーはさせない。
「みんな、これまで以上に集中して、それぞれのマークをしっかり! 5番から、どんなパスが出るか分からないから!」
「はい!」
さて、ゴレイロの止血作業も終わって、試合が再開された。
佐治ケ江が、軽くはたくプレーを多用するようになったものの、瀬野川女子のチャンスは全て彼女のボールタッチから始まっているということには、なんの変わりもなかった。
だからとにかく、マッチアップするわたしがパスを出させない、可能であれば佐治ケ江にボールを触れさせないこと。そこが大切だ。
と、分かってはいるのだけど、どう警戒しようとも、佐治ケ江はその裏をかき、結局はボールに触れ、受けてしまう。まだ十代のくせに、異様なほど老獪に動きで。
結果、後手後手ではあるものの、みんなでワンプレーごと集中を切らさず、佐治ケ江以外の選手たちをしっかりマークすることで、危険の芽を摘み取っていくしかなかった。
ただ、いくしかなかったといっても、その後手を踏む戦い方、やってみるとそれなりに有効だった。
佐治ケ江は別格としても、それ以外の選手を比べた場合、習明院の方が個人技の質としては高く、佐治ケ江から味方へと出されるパスを、かなりの頻度で奪うことが出来ていたからである。
やはり時折、佐治ケ江から魔法のようなパスが出てしまうのだけど、そこを差し引いても習明院にとって状況としては悪くなかった。
佐治ケ江からのパスがなかなか思うように通らない瀬野川女子として、必然的に多くなってくるのは、つい先ほどまでのように佐治ケ江が突破を計ろうと仕掛けてくることだった。せっかく体力を考えて攻撃のパターンを変えたのに、それをまたもとに戻したのだ。
これでやりやすくなる。
佐治ケ江だけを押さえればいいからだ。
彼女を襲う疲労も、より激しいものになるだろうし。
しかし、どんなに疲労していようとも、彼女のボール扱いは本当に素晴らしく、読みも正確で、わたしは何度も何度も抜かれそうになった。
ビルをも吹っ飛ばす暴風雨に、着の身着のままずぶ濡れで柱にしがみついて必死に耐えているような、なんともいえない屈辱感や孤独感があったが、そういった自分の心とも、わたしは戦い続けていた。
佐治ケ江がわたしの後輩などではなかったら、単なる難敵というだけで、そこまでの気持ちになど、ならずにすんだのに。淡々と、怪物退治を実行出来たのに。
と、無意識のうちに、彼女が佐原南に転校してきたことをちょっとだけ恨んでしまっていた。本心からそう思っているわけでなく、それだけいまのわたしが佐治ケ江の個人技に一方的に振り回されていたのだ。
それが何回、繰り返されただろうか。
わたしが佐治ケ江の切り返しに対応出来ず、完全に抜かれたと観念した瞬間だった。突然、視界から佐治ケ江の姿が消失していた。
どう、という音と共に床に倒れていたのだ。
わたしを抜こうとしたものの、足をもつれさせて、前のめりに転んでしまったようだ。
それは、わたしにとって決して驚くべきことではなかった。
いまこの瞬間にこの時が来るなど、決して予期していたわけではないが、でも、これこそが待ちに待っていたことだったから、だからわたしはまるで慌てることもなく冷静に、転がったボールを奪い取っていた。
胸の内に感じた思いは非常に複雑なものがあったが、その気持ちをもがき振り切ると、ちょこんと横へボールを蹴り、4番をかわした。それにより前方に生じたその空間へと、腰崎富美を走らせる長いパスを出した。
練習で何度もやっている形のためか、富美は条件反射的に勢いよく飛び出してボールを受けていた。
ゴレイロと一対一。そしてシュートを放った。
距離や打つ位置は完璧だったが、コースもタイミングも甘く正直過ぎた。ゴレイロ
「いまのよかったよ。その調子で!」
わたしは腰崎富美の肩をぽんと叩いた。
守備のリスクを冒さずに、速攻からのシュート。しっかり敢行してくれたというのに、文句なんかいえない。まあこれにさらなる個人技が伴えば、なおよかったのだが。
ピンチを脱した瀬野川女子。ゴレイロがボールを大きく投げて、9番が右足の内側で丁寧に受けた。
しかし受け損ね、ころころ転がってしまう。
などと9番がもたついている間に、後ろから内藤幸子が身体を入れ、奪い取り、すぐさま前線の腰崎富美へパス。
富美が受けた瞬間、6番と7番が同時に襲いかかっていた。
その迫力に慌ててしまったか、富美はタッチに逃れようと大きく蹴り出した。
奪おうと伸ばした6番の足に当たって出て、習明院ボールのキックインに。
助かった。
蹴り出すどころか下手したら相手の速攻を受けていた。よくて相手のキックインというところを、マイボールに出来てよかった。
運がよかった。
「内藤、蹴って」
わたしに指名された内藤は、ボールをセットした瞬間に、強く、反対サイドへと蹴り上げた。
走りながら受けた腰崎富美は、そのままサイドをドリブルで上がる。
しかしその直後、斜めから駆け寄ってきた4番に足を入れられ、突っかけられ、転ばされてしまった。
イエローカードが出てもおかしくないファールだったが、自分で転んだと審判に判断されたのか、笛は吹かれなかった。
ボールを奪った4番は、そのまま習明院ゴール前へと蹴り込んでいた。
瀬野川女子がフィクソ以外の全員がまだ攻め残っていたことと、わたしたちが相手のファールだろうというセルフジャッジで足を止めてしまっていたことにより、習明院は守備の出足が遅れ、またもや大ピンチを迎えることになった。
ボールはゴレイロが飛び出そうにも飛び出せないような微妙な位置へ、その落下地点へと瀬野川女子の選手たちが一斉に走り出していた。
一番ボールに近いのが佐治ケ江だ。
視野広く、出だしの判断が素早かったからだ。
わたしは、その背中を全力で追いかけていた。
追い付き、肩を並べ、肩をぶつけた時には、既に遅かった。
佐治ケ江は背後から自分の正面へすとんと落ちてくるボールを、まるで見ることなく、右の爪先を合わせていた。
自分へ向かってくるボールの軌道が完全に頭に入っており、落下速度なども無意識に一瞬で計算してしまうのだろう。
至近距離からゴール上をぶち抜くような佐治ケ江のシュート、タイミングも、速度も精度も完璧だった。
もしも幹枝先輩が経験だか本能だかで、咄嗟に手を横に伸ばして弾いていなかったら、ボールは間違いなくゴールへ吸い込まれていただろう。
ここは素直に先輩に感謝。
だけどまだピンチは終わっていない。
クロスバーに当たって上へ跳ねたボールを、幹枝先輩が両手を上げて捕球体制に入ったところへ、10番ピヴォの今崎奈穂が身体を突っ込ませていた。ボールしか見えていなかったのか、まるでラグビーのタックルのように。
二人はもつれ、ゴールネットの中に倒れ込んでいた。
遅れて落ちてきたボールが、とん、とん、とバウンドし、ゴールラインを、越えた。
わたしは、ごくりと唾を飲んだ。
もしかして、これ、ゴール、決められた?
失点?
いや、審判がファールの判定を出している。
助かった。
いや、もちろんどう考えてもファールなんだけど、ろくに見ていない審判だったりするとゴールが認められてしまう場合もあるからな。リーグ初戦の、
「ミッキーちゃん! はっきり遠くへ弾くか、キャッチして下さいよ!」
わたしは名場幹枝に向けて怒鳴り声を張り上げた。
「無茶いうな! そもそもシュート打たれてんじゃねえよバーカ! バカリーノ! バーカ! バーカ!」
まあ、確かにわたしが悪いな。
でもそんなにバカバカいうことないのに。
幹枝先輩はボールを構えると助走を付け、雄叫び張り上げながら大きく放り投げた。
とりあえず、立て続けに訪れたピンチはなんとか凌ぎ切った。
ほんと、危ないところだった。
こっちが油断していたというのも大きいけど、いつの間にか、瀬野川女子は前がかりになってきているんだ。
前線に人数が多く、それでいまだってピンチを作られた。
かなり焦ってきているということだ。瀬野川女子は。
とても奇妙な話ではあるけれど。
だってそうだろう。刻々と残り時間の少なくなっている現在、瀬野川女子の方がリードをしているんだから。
それなのに、リードしている側があんなに前がかりになって点を取りに来るなんて。
でも、これは別に、わたしにとっては驚くことではなかった。
むしろ、そうなるように仕向けたのだから。
これまでのところ、すべては計算通りだ。
相手に予想通りの変化が表れてきたことだし、ならば、そろそろ始めるとしますか。
ハーフタイムでの打ち合わせ通りに。
瀬野川女子攻略の、いうならばフェーズ2だ。
「みんな、引くよ!」
わたしの指示に、ふっと陣形が変化した。
やや横に張り気味だったアラを若干中に寄せ、ピヴォもぐっと引っ込めて、アルファベットのTに近い形状に。
あまり前へは出ずに、自陣深くに引きこもって守りを固めるようにした。
そしてボールは、あえて相手に回させるようにした。
瀬野川女子は相変わらず佐治ケ江へパスし、そこからの攻めを展開しようとする。
しかし、ただでさえフットサルというのはスペースが少なく、窮屈な競技なのだ。それなのに、わたしたちが完全に深く引いて守る戦い方を始めてしまったものだから、さすがの佐治ケ江といえども味方を生かす有効なパスを前へと送ることがこれまで以上に出来なくなっていた。
瀬野川女子は、少し下がったところでパスを回し続け、こちらの隙を見つけようとするのだが、結局は佐治ケ江にボールを預けて個人技による打開を祈るしかない有様だった。
その神様佐治ケ江様も、わたしが必死に食い止めている。なんとかサイドに蹴り出したり、大きくクリアしたり、粘って後ろへ戻させたり、これまでのところ、ミスなく完璧に守れている。
わたしたちは、引いて守っては相手の攻撃意識を誘い、時折ボールを奪っては、ロングボールを放り込んで一人を敵陣へと切り込ませてゴールを狙い、というねちねちとした嫌らしい戦い方で、瀬野川女子の選手たちの心をじりじりと焦らせていった。「現在たかが一点のリードでしかない」、という不安を膨らませていった。
ねちねち嫌らしい、といっても、わたしたちはただ引いて守って速攻という常識的な戦術の一つに切り替えたというだけで、なにも特別なことをしたわけじゃない。要は戦術を切り替えたタイミングがポイント。自画自賛になってしまうけれど、我ながら最高だった。
習明院としては、あわよくばここらで得点でもあげてとっとと追い付いてしまいたいところだが、そこまでは出来すぎた結果というもの。とりあえずは失点しないように、なおかつ相手を焦らせてくれればいい。
瀬野川女子の攻勢が強まってきた。
「みんな、しっかり守れ!」
と、こちらは相も変わらず、負けているくせにがっちりと守り続ける。
向こうとしてはただいたずらにボールを回し続けるのみで、チャンスに繋がるようなパスを出すことが出来なくなってきていた。それはすなわち、瀬野川女子の攻撃がこれまで以上に佐治ケ江優の突破力頼み一辺倒になっていくことを意味していた。
そうと分かっているのなら止めることなど造作も無いこと……なわけなかった。もうくたくたに疲れているはずなのに、そんな佐治ケ江がボールを持つたびに、やはりその技量の凄さに、わたしは食らい付くのがやっとだった。でも集中を切らさず、なんとか身体を張り、意地でも突破だけは許さなかった。
佐治ケ江の呼吸が、どんどん荒くなってきていた。
まるで、発作を起こした喘息患者のように、苦痛に顔を歪めていた。
そんな状態の佐治ケ江だというのに、それでもわたしは何度も抜かれかけた。
わたしはひたすらに耐え続けた。食らい付くたび悲鳴を上げる身体に。襲いくる屈辱感に。
そしてついに、佐治ケ江の疲労は限界を越えた。
後半十一分。
瀬野川女子は、佐治ケ江を使って追加点をあげることがかなわぬまま、疲労困憊の彼女を引っ込めることになった。
ぜいぜいと喘ぐような呼吸をしながら、いまにも倒れそうな様子でベンチへと戻って行く佐治ケ江の姿に、瀬野川女子の選手たちの間に明らかな曇りの表情が見えていた。
おそらく瀬野川女子の選手たちは、前半終盤からずっと続いているこの一点差のプレッシャーに、すっかり押し潰されそうになっているのだろう。それに、佐治ケ江のあの状態を見たことによる不安が加わったことで、もう精神が限界に達しようとしているのだ。
もう佐治ケ江は、ピッチに戻ってこられないかも知れない。
となれば、向こうとしては追い付かれたらおしまいだから。
技術の無さを必死に走り回ることでこの一点差を守り切ろうにも、もう一回戦からここまでの間、充分に走り過ぎている。
佐治ケ江の体力を心配している余裕などないほどに、他の選手たちだって、かなり疲労が溜まっているはずなのだ。
仮に、佐治ケ江がまた出てくるとしても、ピッチに立っているだけが精一杯で、もうさして仲間たちに勇気を与える存在にはならないだろう。
わたしは、ついに佐治ケ江優を完全に潰したのだ。
本当は、お互いに鍛え抜いた力と技とをぶつけあって、正々堂々と戦えればよかったのだけど。
でもやっぱり……負けたくなんかないもんな。
胸が痛んだ。
いやいや、そんな情けないことでどうする。
そんな覚悟もない、甘い考えでフットサルなんかやるな。
すべてが終わってから、喜ぶべきを喜び、悔やむところを悔やめ。
わたしは自分の顔を両手のひらでバシバシと叩いて弱気を振り払うと、ベンチの先輩たちに身体を向けた。
「先輩たち、そろそろ出番です」
フェーズ3、瀬野川女子攻略の最終章だ。
3
「あと、任せました」
「おう」
交代ゾーンでわたしと奈美先輩はタッチし、入れ代わった。
続いて、
セットを丸々入れ替えて、こうしてまたというかついにというべきか、
「また最初の時みたくワイドに開くようにして! アラは上がったらどちらか引いて!」
わたしは指示を飛ばしながら、ちらりと横、
ピッチの外にいる時は、佐治ケ江が監督に代わって選手への具体的な指示を担当しているようだ。監督から、そういう能力も買われているということか。
これまで無失点だったのって、ただみんなで守備を頑張っているというだけじゃなく、そういうところにもあったんだな。
でも、佐治ケ江がそうやって懸命に修正を施そうとしているというのにその努力も虚しく、瀬野川女子の選手たちは完全に自信を無くしてしまっているようだった。
「リードしているのはうちなんだよ!」
「もうすぐ後半も終盤!」
「あと七分耐え切ればいいだけ!」
「落ち着こう! 落ち着こう!」
先ほどから選手間に、そんな言葉が引っ切りなしに飛び交うようになっていた。苦しく追い込まれた状況だと認識していればこそだろう。
もう、佐治ケ江が登録から外れていた、連敗を続けていた頃の瀬野川女子と同じだ。
だからこそ、一点をリードしているというこの状態を守ろうと、彼女らは泣き出しそうな顔で、必死に走っていた。習明院主力の攻撃を、身体を張って食い止め続けていた。
世の中、必死になれば勝てるというものでもない。
瀬野川女子はただ頑張っているだけで、現在の状況としては習明院が圧倒的に押し込み続けていた。
洋子先輩、バン先輩が、どんどん仕掛け、抜き、パス交換で翻弄し、シュートを狙っていく。
まさに波状攻撃。
瀬野川女子の選手たちは、防戦一方。運と頑張りとで、最後の最後のところを跳ね返し続けているだけだった。
「……ちゃだ! おい!
男性の怒鳴り声に、わたしは向こうのベンチに視線をやった。
佐治ケ江が後ろを向いて、監督となにやら話しをしていた。
さっきの叫び声は、監督か。
なにを、話しているのだろうか。
無茶だ、とか監督がいっていたような……
佐治ケ江が、なにかを必死に訴えているようだ。
そして監督は首を振り、その訴えを却下している。
いや……
監督が、折れた? 両腕を広げ、苦笑。そして佐治ケ江は、深く頭を下げた。
監督は、佐治ケ江の肩を叩くと、ベンチへと戻って行った。
まさか……
踵を返した佐治ケ江は、ピッチの選手へ声を掛けると交代ゾーンへと歩き出した。
まだ、やる気なのか。
もうあんなに、ボロボロだというのに。
何故、そこまで……
もう、出なくていいよ。ベンチで、休んでなよ。
心に呟いたその言葉、自分でもどういう心理からなのかまったく分からなかった。佐治ケ江が脅威で邪魔だからか、それとも心配をしているからなのか。
確実に分かっているのは、後半十五分、佐治ケ江優がまたもやピッチに入ってきたということだった。
しかし佐治ケ江は、ピッチへ足を踏み入れるなり、ふらりと前のめりになり、倒れそうになった。咄嗟に片足を前に出して、なんとか自分の身体を支えた。
やっぱりもう、体力なんか残っていないんだ。
そんな身体で、なにをする?
そんな状態で、なにが出来る?
そもそも、何故そこまでして、ピッチに立つ?
「どうする?」
早乙女先輩が、わたしの顔を見ていた。戦術や布陣をどうするかということだ。
「このままで。ただ、5番には絶対に気をつけて」
放っておいても倒れてしまいそうに見えるけど、でもやはり、こうしてピッチに入ってきた以上は、一番警戒すべきは彼女、佐治ケ江優だった。
わたしの彼女への意識が過剰というのもあるかも知れないけど。
無駄に相手を怖れても、味方が本来のパフォーマンスを発揮出来なくなるし、とりあえずは5番をしっかり警戒ということで様子を見ていこう。
などという考え自体が、佐治ケ江という選手をまったく理解していなかったということ。そう思わせる、まさに肝に氷水をぶっかけられるような、そんな光景が網膜に飛び込んで来たのは次の瞬間だった。
これは現実? それとも夢か?
自重を支えているのも辛そうな、ふらついた足取りだった佐治ケ江が、亀尾取奈美をフェイントで瞬きする間に抜き去ったのである。
抜かれた奈美先輩も、他のみんなも、信じられない光景に呆然としている。
フィクソである早乙女先輩だけは、さすがに集中を切らさず落ち着いて、佐治ケ江へと詰めていた。
しかしここでも佐治ケ江は、異常なまでの能力を発揮してみせた。
ドリブルの速度を落とした、と見せたその瞬間、ふっと加速した。いや、加速と見せて、慣性の法則を無視したような切り返し。早乙女先輩を振り切った、と見せかけて、なんとか対応しようとする先輩の股の下を狙ってシュートを打っていた。いわゆるラボーナ、軸足と見せた方の足を交差させて。
このシュートが決まったとしても、早乙女先輩にまったく責任はないだろう。一瞬の間にこんなことを仕掛けてくる相手の方が異常なのだ。
味方選手の股下からいきなり現れたボールにゴレイロ、幹枝先輩は反応が遅れていた。
瀬野川女子の他の選手の動きも考えてのポジショニングであったため、手足を伸ばしてもぎりぎり届くかどうかという距離に打ち込まれてしまった。
反応の遅れと、位置取りのミスを補おうと身体に無茶をさせたことにより、幹枝先輩はバランスを崩して後ろへと倒れてしまった。
しかしシュートは幸運にもポスト直撃であった。
助かった。
……いや、
まだだ!
その跳ね返りに誰より早く詰め寄っていたのは、シュートを打った佐治ケ江本人だった。
狙ったんだ。
ポストを。
幹枝先輩のバランスを崩すために。
ただシュートを打っても弾かれてしまう可能性があるため、ゴール前不在の状況を作り出して確実に決めるために。
反射角度を計算して、わざとポストに当てたんだ。
でも、あんな蹴り方のシュートで、そこまで緻密な精度を出せるなんて……
やっぱりプレーの次元が、違い過ぎる。
わたしは失点を、覚悟した。
もう試合時間はいくばくもない。
終幕だ。
だが、無人のゴールに後は流し込むだけであったというのに、シュートは、放たれることはなかった。
佐治ケ江は、床に倒れていたのである。
両手で胸を押さえ、苦しそうな表情で。
呼吸すらまともに出来ない状態なのだろう。素人が無茶してフルマラソンを走り切ってしまった後のようだった。
わたしも中学の頃に陸上部で、やはり無理をして、このような状態になったことがある。
どんなに苦しいか、経験した者でなければ分かるまい。どれだけ喘ぎ、大きく息を吸っても、肺の中には燃え盛る炎しか入ってこないのだ。
彼女をそんな状態に追い込んだのは、わたし。
そうするための計画を立て、そして実行した。
その通りになったわけだが、面白い気分では、決してなかった。むしろ、自分を殴り付けたい気持ちで一杯だった。
審判がピッピッと笛を吹き、試合を中断させた。
会場係員が二人、担架を持って小走りにピッチへと入った。
佐治ケ江はまだ苦しそう。
仰向けになって、天井を見上げている。
立ち上がろうとするものの、力が入らないようだ。
右膝と心肺、どちらが先に壊れるだろうかと思っていたけど、心肺がきたか。
係員の一人が、佐治ケ江の両脇に腕を入れ、もう一人が足を持ち、担架へと載せた。
担架が持ち上げられた。
いまピッチから運び出されようというその瞬間、佐治ケ江は身体を捻って、担架から転がり落ちた。
「大丈夫ですか? もう一回載せますから」
「いえ、続けさせて、下さい」
佐治ケ江はゆっくり上体を起こすと、弱々しく手を伸ばして担架を押し退けた。
「
監督の怒鳴り声。しかし佐治ケ江は、胸を押さえ、まるで生まれたばかりの小鹿のように膝をがくがくと震わせながら、ゆっくりと、立ち上がっていた。
「続けさせて、下さい、監督……お願いします!」
か細い声しか出せなかった高校時代の彼女からはとても想像出来ないような、大きな声を張り上げると、深く深く頭を下げていた。
会場は、静寂に包まれていた。
瀬野川女子の選手たちも、習明院の選手たちも、すっかり言葉を忘れてしまっていた。
緊迫した雰囲気が、観客席にも伝わっているのだろう。ざわめくことまったくなく、選手同様、誰も口を開く者はいなかった。
二人の審判員もしばらく呆然としていたが、やがて気を取り直し、瀬野川女子の監督の元へと歩いていった。
なにやら話し合いをしている。
もちろん、佐治ケ江の継続出場可否についてだろう。ことと次第によっては、強制退場も視野に入れなければならない。そういうことを、話し合っているのだろう。
協議の結果、佐治ケ江は交代させられることなくピッチに残ったまま、試合は続けられることになった。
そうして試合は再開されることになったわけだが、この中断時間、わたしにとっては無い方がよかったのかも知れない。
佐治ケ江の勝利への執念に、恐怖感のようなものが胸に刻み込まれてしまっていたから。
自分でも認めたくないところではあったが。
いまわたしがいるのはピッチ外であるが、もし現在ピッチに立っていたならば、息絶え絶えの佐治ケ江の前に蛇に睨まれたカエルのように身がすくんで、なす術なくやられていたかも知れない。
いまプレーしているのは、佐治ケ江とは初対面の者ばかりであるが、それでもがんじがらめに呪縛されてしまっているような、威圧を受けながらプレーしているのが伝わってきていた。
瀬野川女子がこちらを怖れて必死の守備をしていることは前述したが、状況一転、もうどちらが精神的優位に立っているなどというものではなかった。
おそらくはここに立つすべての選手が、様々な感情のないまぜとなった、いわゆる混沌を自己に秘めながらプレーをしていたのではないだろうか。「習明院 対 瀕死の佐治ケ江」という稀に見る異常な構図を前に。
どちらに分があるか決めきれないのは、精神的な話だけではなかった。
物理的な、つまりは実際のプレーとして習明院側も、肩で息して意識も朦朧といった様子の佐治ケ江一人に、抜かれ、シュートを打たれ、あわや失点という状況を何度も何度も作られていたのである。
「そんくらい止めろバカ!」
などと、わたしは何度先輩たちに怒鳴ってしまったか。
自分がピッチに立ってなくてよかったなどと喜んでいた、傷つきたくない卑怯者の分際で。
わたしの精神は佐治ケ江優という巨大な存在にすっかり混乱をきたし、もうピッチ脇からまともな指示も出来なくなっていた。
止めろ、行け、打て、バカ、アホ、などと素人以下の幼稚な言葉ばかりを繰り返していた。
そんな中、また佐治ケ江が、人類の常識を覆すような信じられないプレーを見せた。
それは次のようなものだった。
佐治ケ江が、4番とのワンツーで、バン先輩を抜いた。
早乙女先輩が、突破を阻もうと正面から佐治ケ江へと突進する。
佐治ケ江はドリブルの速度を緩めたかと思うと、斜め横へと跳躍して、かわしていた。
その足元に、ボールはなかった。
いつ、どう蹴り上げたものか、ボールは佐治ケ江の背中にあった。
踵で蹴り上げた? でも、そんなところ見えなかった。
これだけでも充分に不思議な魔術だというのに、
次の瞬間、佐治ケ江は空中で身体を捻ったかと思うと、その足腰のバネで、真後ろにあったはずのボールを蹴ったのだ。
地上ならともかく、踏ん張る足場がないのに、そんなこと出来るはずがない。
でも、これが佐治ケ江なのだ。
彼女は、突如としてこのように物理法則を完全に無視したような、常識では考えられないような身体能力を発揮することがある。
おそらくはジャンプする前の動き方や姿勢、滞空時間などの関係が見せる錯覚であり、力学にかなったものではあるのだろう。しかし見る者からしたら、これはもう魔法。自分の目を、脳をただ疑うものでしかなかった。
ボールのはっきり見える角度で見ていたわたしでさえ、そう思うのだ。
ゴレイロの幹枝先輩からすれば、消えたボールが、いきなり佐治ケ江の背中側から、その身体をすっと突き抜けてゴールへと鎌首もたげ唸りを上げて飛び込んできたように見えたことだろう。
魔球といっても過言ではない、そんな恐ろしいシュートだった。
もしも佐治ケ江にあとほんのわずか、運か体力のどちらかでもあれば、間違いなく試合は決まっていただろう。
つまりは、このシュートは決まらなかったのだ。
ボールはポスト正面を直撃。
正面ではあったがあとほんの少しでゴールインという内側近くを叩いたため、内側へと跳ね返り、幹枝先輩のふくらはぎに当たってゴールラインを割りそうになった。
先輩は、慌ててボールに飛び付き、抱き着き、押さえ込み、ラインを越える紙一重のところで、なんとか食い止めた。
腕の中にしっかりボールのあることを確認した先輩は、肩を大きく落しながら、安堵のため息をついた。
ここで「うおっしゃあ!」とか「完璧ィ!」などと絶叫するのが名場幹枝の常であるが、あまりに気の抜けないシーンの連続に、すっかり神経を擦り減らして、もう叫ぶ気力もないようだ。
幹枝先輩は、審判が腕を上げて、二、三、とカウントするのを見て、慌てて立ち上がり、ボールを放り投げた。
フットサルは、四秒以上ボールを保持してはいけないというルールがあるのだ。
亀尾取奈美がボールを受ける。
だが、くるりと前を向いた瞬間、全力で飛び込んだ7番、主将の
名倉文子は、勢い落とさずそのまま佐治ケ江へとパスを出した。
佐治ケ江がすっと歩み寄り、それを受ける。
……いや、スルーだ!
受けたのは、右サイドを駆け上がった9番
シュートは幹枝先輩の正面だったが、手に当てるのが精一杯。ボールは斜めに跳ね上がった。
それをねじ込もうと、佐治ケ江が突っ込んでいた。
ヘディングシュート、しかしその前に、横っ跳びした幹枝先輩が、まるでバレーボールのレシーブのように、片手で弾き上げていた。
佐治ケ江は速度を殺せず、倒れる幹枝先輩の脇腹に足を突っかけてしまい、ぐるんと回転して肩から落ちた。
大丈夫、だろうか。
って、そんな心配している場合じゃない。
幹枝先輩の弾いたボールは、タッチラインを割る寸前、バン先輩がジャンプし、頭で受け、足元へ落とした。
そこへ名倉文子が突っ込むが、バン先輩は冷静にかわし、前線で待つ洋子先輩へと長いパスを送った。
瀬野川女子は前掛かりになっていた上に、現在、佐治ケ江が倒れている状態。習明院としてこの試合最大の速攻機会が訪れた。
全力で飛び込みカットしようとする8番の足先をすり抜けるように、洋子先輩へとパスが繋がった。
洋子先輩は、ゴールへ向かってドリブル。ゴレイロと、一対一。
我慢が出来なかったか、ゴレイロが猛然と飛び出していた。
洋子先輩は鮮やかな切り返しで、ゴレイロの飛び込みをかわした。
読んでいたというよりも、そもそも二択しかないのだから、対応準備が出来ていたということだろう。
守護者不在となったゴールへ、ちょこんと蹴り込もうとした、その瞬間……
洋子先輩の身体が、宙に浮いていた。
そして、背中からどうと倒れた。
スライディングでボールを奪おうとした8番の足が、完全に洋子先輩の足に当たって弾き飛ばしてしまったのだ。
普段あまり表情を顔に出さない洋子先輩であるが、さすがに顔を苦痛に歪めて、床をバンバンと叩いている。
悪気はなかったにせよ、もろに入っているからな、かなり痛いのだろう。
関節を捻ったりしてなきゃいいけど。
ちょっと遅れて、笛の音が鳴り響いた。
審判は、レッドカードを高く掲げた。
瀬野川女子の8番、フィクソの
それだけじゃない。
瀬野川女子の選手たちは、誰もが顔面蒼白になっていた。
特に、ファールを犯してしまった桜木静香は両手で口元を押さえ、いまにも泣き出しそうなほどであった。
倒された洋子先輩は、ようやく激痛が引いたのか、膝に手を付くと、ゆっくりと立ち上がった。
爪先で床をとんとんして足の状態を確かめると、安堵のため息をついた。
「洋子先輩、どうですか?」
「ああ、大丈夫みたい」
「よかった。それじゃ洋子先輩、お願い出来ますか?」
わたしは軽く頭を下げた。PKのキッカーのことだ。
もしもこのPKを外してしまったならば、それは相手に希望、元気を与えることに他ならない。
二分間、人数が一人少なくなるとはいえ、必死の粘りにそのまま試合終了まで守り切られてしまうことだって充分に有り得る。
このPKは、そんな、試合の命運を分けるものなのだ。
決勝戦に出られるかどうかが掛かったものなのだ。
洋子先輩以上の適任者はいないだろう。
いつも冷静沈着だし、点取りポジションであるピヴォだし、倒された本人でもあるし。
「分かった」
洋子先輩は頷くと、ボールを拾い上げ、ペナルティマークにセットした。
瀬野川女子のゴレイロである
両手を振り上げて、キッカーである洋子先輩を睨んだ。
しかしその顔はいまにも泣き出しそうにも見え、なんだか捌きの時が訪れるのを待つばかりの死刑囚であるかのように、わたしには思えた。
また、場内はしんと静まり返っていた。
唾を飲む音どころか、心臓の音まで会場全体に聞こえてしまいそうなほどに。
その静けさを打ち破ったのは、第一審判の笛の音だった。
習明院と瀬野川女子、それぞれの選手たちが悲痛な表情で拳を組んで神へと祈る中を、洋子先輩が動き出した。
歩くようなゆったりとした助走で、ボールへと近寄って行った。
右足を振り上げ、振り下ろした。
ばん、と鈍い音が場内に響いた。
ゴレイロの楠田朱実は、驚いたように目を見開いていた。
恐る恐る後ろを振り返った彼女が見たものは、自陣ゴールへと吸い込まれていたボールであった。
やった……
「うおおおっしゃああああっ! 洋子おおおおっ!」
反対側ゴール前で、幹枝先輩が絶叫した。
後半十七分、洋子先輩のPKが決まり、ようやく習明院は試合を振り出しに戻した。
その叫び声を合図に、会場がどっと沸いた。
喜ぶ習明院の選手たち。
対して瀬野川女子の選手たちは、肩を落とし、そしてばたばたと床に倒れ込んでいった。
「ごめんみんな、本当に、ごめん」
PKを与えることになった桜木静香が、ぼろぼろ涙をこぼし、頭を下げている。
「仕方ないよ。あのままでも失点確実だったんだから」
主将の名倉文子が、桜木静香の肩を叩いて慰めている。
確かに瀬野川女子主将のいう通りだ。というよりも、あの場面ではああするしかなかったと思う。
どのみち、ゴレイロがかわされており、失点は確実だったのだから。
ボールを弾き出そうとして相手の(洋子先輩の)足に当たってしまったのは不運であったが、しかしPKになったということは、防ぐためのチャンスがもう一回与えられるということでもあるのだから。
そもそも瀬野川女子は、点を取ろうと前掛かりになっていたわけで、守備の責任を責めても意味がない。
試合は勝つために行うものであり、その可能性を少しでも高めるための選択として、瀬野川女子の取った行動、つまり点差を広げるため前掛かりになったことや、失点ほぼ確実という場面での桜木静香のファールになってしまったプレー、これらは間違ったものではないはずだ。
しかし、瀬野川女子とすれば、あとわずか数分を耐え切れば勝利そして決勝戦進出が待っていたというのに、それが指の間からするりとこぼれてしまった、と悔やむのもまた事実だろう。
彼女たちからは、明らかな落胆が感じられた。
もう、立ち上がる力もないような、
もう、試合終了し、敗北をしたかのような。
だけど一人だけ、
まだ諦めていない者がいた。
「試合、まだ終わっちょらん!」
その怒鳴り声に、わたしはびっくりし、目を見開いていた。
足を踏み鳴らし激怒していたのは、佐治ケ江だったのである。
その声に、誰よりも驚いていたのは、声を発した佐治ケ江自身のようだった。
怒ったその表情が、だんだんと、弱々しくなっていった。
「まだ時間、ある。まだ、同点じゃけえ。一点取れば、勝てるんだから……だから、諦めないで……お願いします!」
仲間たちに、深く頭を下げた。
瀬野川女子の部員たちは、そうした佐治ケ江の態度にすっかり唖然として言葉を忘れてしまっている状態のようだった。
やがて、主将の名倉文子が、なんだか心地好さそうな苦笑を浮かべながら、佐治ケ江へと近寄り、その肩を撫でるように叩いた。
「……ほやな。まだ、同点じゃ。そう思えば、試合開始直後とおんなじことじゃ。優が開始早々ぱぱっと先制点を取ってくれたけど、そんな感じに優が、いや、優だけじゃなく誰かが点を取れば、絶対に勝てる。だからみんな、やろう! 最後の最後まで! あたしらがリーグ優勝して、この大会に出ていることって、もちろん優の力が大きいけど、でもやっぱり奇跡かも知れない。その奇跡を、みんなの頑張りで、もう一回起こしてやろう!」
その笑顔が、他の選手たちの間に伝わるのにさして時間はかからなかった。
「そうだね」
「やろう。最後の最後まで!」
もう、瀬野川女子の中に、悲観に暮れたような顔をしている者など一人もいなかった。
佐治ケ江だけは昔から相変わらずのおとなしい表情のままであったが、しかし仲間たちの思いは充分に感じ、感謝をしているようで、仲間たちにしきりに頭を下げていた。
ピッチの中、瀬野川女子の選手たちは、改めて輪になり、拳を突き合わせていた。そして、ベンチの選手たちとともに、天へ届かんばかりの気合い満々な高らかな声を上げた。
「早く、始めますよ。いいですか?」
「はい。すみませんでした」
名倉文子は、審判に頭を下げた。
瀬野川女子はフィクソの桜木静香が退場したが、その後すぐに失点をしたため、二分を待たずに選手が補填され、ピッチに入った。
審判の笛が鳴り、試合再開。
その笛は、瀬野川女子による猛攻の合図だった。
ひとたびボールを持てば、失敗を怖れずに、どんどん走り、上がり、仕掛け、
ボールを失えば、やはり全力で走り食らい付き、身体を張って死守をする。
まさか彼女らに、こんなに体力が残っていたなんて。
きっと、次の試合のことをなにも考えていないのだろう。
どうでもいいと自棄になっているわけではない。ただこの試合が楽しくて、体力配分を考えるほどに頭が回らない、みんなそんな表情に思える。
そもそも、身体の内部は気力に満ち溢れており、疲労など感じていないのだ。
ただ走るだけではない。
これまでには見られなかったことだが、瀬野川女子の選手たちの間に、佐治ケ江へのフォローの意識が出るようになっていた。
佐治ケ江が凄すぎるが故に誰もフォローに入らないという欠点を突いて、わたしたちは一点目を上げたのだが、現在の瀬野川女子は、むしろ佐治ケ江に対して徹底的にカバーやフォローの意識を向けていた。
それにより、歩くこともままならないような佐治ケ江がどっしり構えて攻撃の組み立てに専念出来るようにしているようだった。
確固とした戦術なのか無意識から生まれるものであるのかは分からないが、その瀬野川女子の戦い方は、この状況下において実に効果的であり、この数十秒で決定的とまではいかないまでもこちらをひやりとさせるようなパスが何本も、佐治ケ江の右足から生み出されていた。
習明院は、その勢いに面食らったというのと、相手の戦術が変わったこととに、やや防戦を強いられる状況に陥っていた。個人の能力としては、習明院の方が遥かに上のはずなのに。
相手は技術の無さを補うべくこちらよりも遥かにたくさん走り回り、相当に疲労しているはずなのに。
どうであれ、こっちが押されてるのが間違いのない事実だ。主将代行である身としては、なんとか手を打たねば。
「あ……」
この陣形、戦術……
もしわたしがピッチに立っていたならば、相手の迫力に押されるばかりで気付かなかったかも知れない。
ピッチの外にいてもすっかり慌てていて、気付くのが遅れてしまったけど、よく見れば向こうの陣形、高校時代にわたしが佐治ケ江を生かそうと練習したうちの一つだ。
わたしの戦術を、佐治ケ江が覚えていて使っているんだ。急遽思い付いたものかこのメンバーで練習済みなのか、それは分からないけど。
これなら……いけるぞ!
「亀仙人! また交代!」
わたしは交代ゾーンへ立つと、ぱたぱた素早く手首を振って亀尾取奈美をおいでおいでした。
「なにが亀仙人だてめえ!」
だって奈美なんてかわいらしい顔じゃないだろ。もう亀でいいよ亀で。亀先輩。主将権限。
「まあいいや、頼むぞ!」
「了解!」
わたしは亀先輩とタッチすると、ピッチへ入った。
あまりの壮絶な試合に、わたしは先ほどまでピッチの外で、いまピッチに立ってなくてよかった、絶対に佐治ケ江なんかと当たりたくない、などと弱音を吐いていた。そんな自分を恥じるつもりもないけれど、でも、本当に勝ちたいと思うのなら、やるべきことをやるしかない。
わたしは佐治ケ江にピタリとついた。
そして、この戦術の懸念事項として部長ノートに挙げていたことを実行して、佐治ケ江と周囲との連係を潰していった。
そして、佐治ケ江へのフォローの意識があるが故に生じるギャップを、素早く探して味方に指示。瀬野川女子の選手らが佐治ケ江のフォローに入り難いように、一枚一枚引き剥がしていった。
それにより佐治ケ江は、すぐそばに味方選手がいる状態であるにも拘わらず、ピッチの中で孤立した。ボールを持っても、どこにもパスを出せない状態になった。無理矢理に出そうとしたところで、ことごとく習明院の選手が奪い取った。
前半のようにロングシュートを狙うつもりなのか、佐治ケ江はゆっくりと後ろへ下がり始めたが、わたしは自陣ゴール前で守備をしているかのような緊張感を決して切らさず、その後を追った。
もうロングシュートを打つ脚力など残っていないとは思うが、油断などしたら絶対に痛い目を見ることになる。相手は佐治ケ江優なのだから。
遠距離攻撃は諦めて、またアラの位置に入り、個人技による打開を図ろうとする佐治ケ江。
いつ心臓が停まるか、というくらいの壮絶な顔をしているというのに、相変わらずこのピッチの中で一人だけ次元の異なるまさに代表級といった技の数々を披露していた。
その超人的な能力は認める。でも、この試合でマッチアップをし続けたことにより、わたしにもある程度の自信が生まれてきていた。
そうだ、ただ食らい付いているだけじゃないぞ。
自分だって、毎日頑張って練習してきたんだ。
この試合だって、なんとか二点差を追い付いて、ここまできたんだ。
もっと自信を持て。
絶対に、負けてたまるか!
わたしは佐治ケ江の切り返そうとするタイミングを計り、足を突き出しボールを奪い、一気に走り抜けていた。
無意識にか分からないが、佐治ケ江からさっと手が伸びる。
わたしはその手をぱしりと払いのけた。
背後に、どう、と音を聞いた。
わたしを追いかけようとした佐治ケ江が、足をもつれさせたのか転倒してしまったようだ。
相手の前掛かりを突いて、わたしは、ドリブルで駆け上がった。
一人残っていたフィクソが突っ込んできた。
わたしはあまり引き付けずに、すぐにボールを離す。並走する洋子先輩へ横パスだ。
ゴール斜め前、PA内に入るなり洋子先輩は、シュート体勢に入る。
先ほどのPKになったシーン同様に、またゴレイロが飛び出していた。洋子先輩へと突っ込み、身体を横に倒してシュートを阻止しようと滑った。
でも洋子先輩の狙いは、はなからシュートではなかった。
ちょん、とボールを浮かすと、自身も跳躍し、ゴレイロを飛び越えながら、わたしへとボールを戻した。
どっちつかずの守備になっていたフィクソの足先をかすめて、ボールはわたしの足元へ落ちていた。
わたしも、洋子先輩を理解出来てきたということだろうか。先輩たちを、よく分かってきたということだろうか。びっくりする間もなく、身体が自然に反応していた。
落ちて弾むボールに右足を合わせた。
守護者不在の瀬野川女子ゴールに、ボールが吸い込まれた。
後半十八分三十秒。
わたしのシュートが決まって、これで3-2だ。
二点先取されて苦しい状況に追い込まれた習明院だったが、土壇場でついに試合をひっくり返した。
だけどもう、瀬野川女子の選手たちの中にはがくりと崩れる者など一人もいなかった。
「まだまだ!」
「絶対に一点取って、延長戦で勝とう!」
と、それぞれに声を張り上げて味方を、そして自らを鼓舞し、恐ろしいまでの気迫で習明院へと向かってきた。
目に涙を浮かべ、睨み付けるかのような必死の形相で。
瀬野川女子に選手交代。
ゴレイロの選手、
登録メンバーの少ない瀬野川女子において、おそらく一番走れるという理由で控えゴレイロを投入したのだろう。わたしもこの試合の途中で、同じようなことをしている。
正ゴレイロも機を見ては自陣ゴールを空けて果敢に攻め上がるようになり、瀬野川女子はどんどんと攻勢を強めていった。
しかしながらわたしたちも、いつまでも相手の勢いに飲まれておろおろとしているわけではなかった。布陣に若干の変更を施したり、マークする相手を入れ替えるなど、一つ一つ、冷静に対応をしていった。
実力や体力の面において瀬野川女子は圧倒的に不利な状況であり、こちらが立て直した現在、もう勢いだけでどうにかなるものではなかった。
わたしはまたセットを入れ替え、三年生FPをすべて引っ込めた。
内藤幸子、
わたし、
と、すべて二年生になった。
この試合は、いかに三年生を温存しつつ佐治ケ江を食い止め続けられるかにかかっていた。そのための中心となって見事に役割を果たした二年生には、ご褒美として試合が終わる瞬間にピッチに立たせてあげたかったことが一つ。
それと、この異様に緊迫した試合で、一点差を追われる恐怖を次世代の主力に体験させたかったことが一つ。
ピッチの選手には相当なプレッシャーがかかると思うが、ここを耐え切れないようでは習明院フットサル部に未来などない。
でも、なにも心配はいらなかった。
みんなとても落ち着いており、正確にパスを繋ぎ、相手をかわし、
絶対に追い付いてやるという相手の気持ちをむしろ空回りさせ、攻勢に出ようと気持ちのはやる相手を逆に自陣へと押し込めていた。
この中にはわたしもいるので、自画自賛になってしまうのだが。
でもすぐに、わたしは一年生の
富美は、まだ習明院のフットサルに完全に溶け込めてはいないものの、来年には主力の一人になっていてもおかしくないくらい能力が高いし、わたしはわたしで、みんなのこの戦いぶりを、外からも見てみたかったから。
そして後半二十分。
ゴール前で、腰崎富美がフェイントで相手をかわしてゴレイロの前で横パス、駆け込んだ内藤幸子が右足を振り抜き、ゴールネットが揺れた。
内藤バズーカの炸裂で、習明院は4-2と突き放した。
そしてタイムアップ。
長い笛の音が場内に鳴り響いた。
それは習明院大学の決勝戦進出を告げる笛であった。
4
大の字になり、天井を見上げている。
体力も、肺の中の空気も完全に振り絞ったかのように、ぜいぜいと大きな呼吸をしている。
悲壮感のかけらもない、精一杯やったんだという満足げな表情で。
同点に追い付かれた時には、すっかり青ざめていたり、泣き出してしまう者もいたというのに……
でも一人だけ、泣いている者がいる。
幼児のように座り込み、下を向き、床を叩き、しゃくりあげるような声を漏らしながら、涙をボロボロとこぼしている者がいる。
佐治ケ江優だ。
さきほどは弱気になる仲間を叱咤していた佐治ケ江が、いまは一人、この敗北に泣いていた。
瀬野川女子の主将が彼女へと近寄ると、背中を撫でるように優しく叩いた。体力尽き果てた佐治ケ江を、腕を引っ張り立ち上がらせると、肩を組み支え、ピッチ中央へと歩き出した。
そうだ、試合後の挨拶。
「みんな、行こう」
わたしも、
習明院は、この激闘を制したというのに、飛び上がって喜ぶような者は誰もいなかった。
わたしたちもまた全力を出し切り、立っているのもやっとという状態であったこと、それと、この稀に見る異様な雰囲気の試合に誰もがすっかり飲まれてしまって、まだ心が現実に戻っていないということ。そんな、理由から。
両校の選手は、それぞれ一列で向き合い、前へ進みすれ違いながら相手一人一人と挨拶や握手をかわしていった。
列中央のわたしも、順番に握手をしていく。
佐治ケ江と握手をする番になった。
ぎゅっと、握りあった。
彼女は無言のまま、頭を下げた。なにか口を開きかけたが、口元など表情が引きつって、上手く言葉に出せなかったようだ。
その目からは、相変わらず涙がぼろぼろとこぼれていた。すっかりまぶたは赤く腫れていた。
「お疲れ」
わたしも咄嗟に言葉が出ずに、そういうのがやっとだった。
挨拶を終えて散った頃には、みんな、飲まれていた空気からも覚めて現実に戻ってはいた。でも、すっかり喜びを爆発させるタイミングを失してしまっており、それぞれが淡々と短い喜びの言葉を吐く程度だった。
「
背後からの、
内藤は、瀬野川女子の中にいる佐治ケ江を、ぶっとい指で差している。
そして、わたしの背中をどんと押した。
とと、とよろけたわたしは、内藤のおせっかいを有り難く受けて、そのまま前へ歩き続け、真っ直ぐ佐治ケ江へと近寄って行った。
「サジ……」
なんだか照れ臭かったけど、改めてそう声を掛けた。
ジャージの袖に腕を通しながら、佐治ケ江はくるりとこちらへ振り向いた。
「久し振り」
「あ、ああ、どうも、すみません。いま、こちらからお声をかけに行こうと思ってたんですが。本当に、お久しぶりです。梨乃先輩」
佐治ケ江は頭を下げた。
まだ泣き腫らした目は真っ赤だが、もうこぼれる涙は止まっていた。
彼女はおでこのヘアバンドに手をかけると、するりと抜き取った。
きちっと纏まっている髪の毛がほどけて、ぼわっとした無造作な感じの、わたしのよく知っている、いつもの佐治ケ江の髪型になっていた。
まるで別人のように雰囲気が変わってきつい感じになったと思っていたけど、それは髪型のせいでそう見えていただけのようだ。いや、髪型は関係ないか。試合中は、みなぎる闘志に表情がほんとこわかった。
現在の彼女は、浮かべる表情も実におどおどとした気弱な感じで、そして少女のようにあどけなくて、佐原南時代とまるで変わっていなかった。
ただ一点を除いては。
その一点が、わたしにとってはちょっと、いや、かなり重要であったりもするのだが。
「サジ、身長、伸びたね」
「そうですか?」
「前に聞いた時、百五十七っていってたけど」
「ああ、ほいじゃあ、そうですね。いまは、百六十五です」
「えー! なんだよ、あたしより高いじゃんか!」
わたしは高二のころから百六十四のまま変わってないからな。
くそ……久樹の気持ち、いま凄く分かる。
試合より、むしろこっちで負けたくなかった。
5
決勝戦が始まるまで時間があるため、
解散といっても食事出来るようなところは限られており、弁当組も外食組も、結局はみんなで一緒にぞろぞろと移動して体育館横にある食堂へ向かうしかないのだったが。
わたしも持参したお弁当を食べようと、
「
佐治ケ江は、びくりと肩を震わせると、ゆっくりと振り返った。
「はい。……あたしは、出られないと思いますけど」
そうか。生命力をすべて絞り出すような、もの凄いプレーをしていたからな。
「でも、これから試合に備えて食事なんでしょ。一緒に食べようか」
「はい」
佐治ケ江は、小さな声で頷いた。
「それじゃ、あたしはお邪魔虫だろうから、みんなと一緒に食べるよ」
内藤はそそくさ足早に、食堂の中へと入って行った。
わたしたちも少し遅れて食堂へと入った。途中、佐治ケ江は何度もよろけて、転びそうになっていた。
「病院に行った方がよくない? 右膝だって痛めてるんでしょ?」
「いえ、疲れただけですから」
「そう?」
狭い食堂内は、実に混み合っており、賑やかだった。
閉会式があるから当然だが、参加校がまだすべて残っているからだ。
これから決勝や三位決定戦に出る選手たちも、緊張をほぐそうとしているのか、思いのほか楽しげにお喋りをしていた。
わたしも、どこかで一人黙々とお弁当を食べてもよかったんだけど、やはり賑やかなところの方が緊張も解けやすいかなと思って食堂へ来た。
内藤とバカ話でもする予定だったのだけど、せっかく佐治ケ江と一緒になったのなら、高校時代の思い出話に花でも咲かせよう。
試合中に佐治ケ江に対してピリピリして自己嫌悪になってしまっていた感情も、少しは和らぐかも知れないし。
高天井の食堂内には、丸テーブルがたくさん並んでいる。わたしたち二人は、空いているテーブルを見つけ、椅子に腰を下ろした。
壁際近くに、
「しかし驚いたよなあ、まさかこうして戦うことになるなんてさ。いつだったかな、
わたしは、お弁当の包みを解いてテーブルの上に広げた。
結構な量を詰めてきたけど、全部は食べない。試合中のエネルギーに変換されるように、消化吸収の良い物を少量つまむ程度だ。
内藤にも同じのを作ってあげたけど、あいつは全部食べちゃうだろうな。アホだから。
「あたしも、びっくりしました。考えるとドキドキして眠れなくなってしまって、だからあえて考えないようにしてました。普段通りにやろうということで、あえて対策は立てませんでした。……考えないようにしていても、でもやっぱり考えてしまって、緊張して、震えてしまって。だから、試合が終わって、ほっとしてます」
そういうと、佐治ケ江も持参弁当の包みを広げた。
相変わらず、そんな程度でもつのかと他人事ながら心配になるくらい小さな弁当箱だった。
これから試合だからとか関係なく、とにかく普段の食事量が異様に少ないのだ。高校時代に、たっぷり食べて肉も食べて体力をつけろとどれほど口酸っぱく指導をしたことか。
しかし、大阪なんかでこうして佐治ケ江と二人でお昼を食べることになるなんて、想像もしていなかったな。
人生、なにがあるか分からないものだ。
この後の予定だが、瀬野川女子は、三位決定戦が控えている。対戦相手は北信越代表、石川県にある
それが終わると、続いて大会のファイナル。わたしたち習明院と、関西代表の
瀬野川女子の三決だけど、佐治ケ江は先ほどの試合で身体がボロボロのため、監督からは出るなといわれているらしい。
いざ試合が始まればなにがあるか分からないし、佐治ケ江としては登録メンバーである以上しっかりと準備だけはしておきたいとのことだ。
食堂に入ってこの席につくまでの短い間にも、ふらふらとした足取りで何度も倒れそうになっていたくらいだから、実際のところ出場は難しいと思うけど。
「瀬野川、ほんと強かった。だから大丈夫だよ、みんなに任せていても。あたしらが勝てたのだって、マグレみたいなもんだし。もしも体力のあるサジが出られれば、無敵なんだろうけど。……でもね、サジの個人技、あれ、反則だよ。あたしなんか、ただ体力に物をいわせて食らい付くしかなくて、切り替えしに対応しようにも、そのたびに身体がぎちぎちと悲鳴を上げてバラバラになりそうだった。高校の頃よりも、格段に成長してんだもんな。あの頃だって相当なものだったのに。……広島に戻ってからも、猛練習したんだ」
「はい。あ、あ、でも、あたし、そんなたいしたことないです。だから、少しでも自信をつけようと思って……みんなに迷惑かけないようにと思って、必死に、練習をしただけで」
凄いな、ギネス級の謙遜だ。でも、本心からいっている。彼女はこういう奴なのだ。
「広島の高校でも、フットサル部に入ったの?」
「なかったので、近くにあったフットサルのクラブに、入りました」
もともと大きくはない佐治ケ江の声が、なんだかどんどん小さくなっていった。最後は、もう消え入りそうなくらいに。
ふとその顔を見ると、目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「どうしたの?」
「……なんでも、ないです。すみません」
佐治ケ江は、ハンカチを取り出すと目尻に軽く当て、そっと涙を吸わせた。
「どんなことでも、話せば楽になるかも知れないよ」
ちょっとしつこいかなあ、とも思ったけど、わたしにはただ悔しくて泣いているようには見えなかったから。
そもそもこの広い世の中、佐治ケ江ほど能力と自信が反比例している人間もいないわけで、負けた程度で悔し泣きなんかするはずがないのだ。
だから、先ほどの試合終了時に、佐治ケ江が床に座り込んで泣いていたのを見ていて、わたしはどうにも違和感の生じるのを押さえることが出来なかった。そういうこともあり、ここで思い切って聞いてみたというわけだ。
「はい。……そうですね、どのみち先輩には話さないといけないことなので」
佐治ケ江は、ちょっと謎めいた前置きをすると、その涙の理由を語り始めたのだった。
元々広島に住んでいた佐治ケ江は、小学中学と酷いいじめを受けて、逃げるように母親と一緒に千葉県の親戚の家へと引っ越してきた、という話を以前にしたことがあると思う。
高二の秋に、広島に戻ったという話も。
広島に戻って地元の高校に編入したわけだが、隣のクラスに、小中と佐治ケ江をいじめていた連中の一人がおり、彼女に発見され、また以前のようにいじめを受けることになってしまったらしい。
子供の頃とは違って加害者はごくごく少数に限られてはいたものの、庇ってくれる者は少数どころか皆無だった。自分が標的になりたくないという一心からだろう。
結果、佐治ケ江はみんなからけむたがられ、避けられる存在になっていた。
佐治ケ江は誰のことも決して悪くいうことなく、ただ身にふりかかった過去を淡々と話すだけであったが、とにかく要約すると、このようなことがあったようなのだ。
無視などのいじめは誰も始めてしまえば楽しいもので、佐治ケ江は周囲から理不尽な冷遇を受け続ける毎日だった。
そんなある日、二つ隣のクラスである
フットサルプレーヤーであり、佐治ケ江もフットサルをやっているということをどこかで聞いて、興味を持ったようだった。
彼女だけは周囲の視線をまったく気にすることなく、平然とした態度で佐治ケ江に接していた。
とりたてて佐治ケ江を庇ったりしたわけではない。しかし彼女が接してくるようになってからというもの、佐治ケ江へのいじめが見る見るうちに収束していった。
遠山美奈子は、高校生ながらフットサル日本代表であり、学校では知らない者のいない存在だったのだ。
地元のテレビ局が学校にドキュメンタリーの撮影に来て、全国区のスポーツニュースで取り上げられたこともあるらしい。
しかし有名人であるがために逆にいじめの標的になりやすい面もあるわけで、だから彼女の行為はやはり勇気のあるものであり、佐治ケ江は心から感謝をしたそうだ。
遠山美奈子本人は、そんなんじゃないよと笑って自分の行為の価値を認めなかったそうだが。
高校にフットサル部はなく、佐治ケ江は、遠山美奈子の通っているフットサルクラブに入ることになった。
そして一年と数ヶ月が過ぎ、二人は高校を卒業した。
今年の春のことだ。
佐治ケ江は瀬野川女子大学に進学し、学生になった。フットサルクラブは退会し、大学のフットサル部に入った。
遠山美奈子は学校の成績は非常に優秀であったものの進学はせず、どこかの会社に事務員として就職。
日本代表の身で会費が免除されていることもあって、変わらずフットサルクラブに通い続けた。
二人がフットサルをする場所は別々になったが、たまに会い、一緒に練習したり、話をしたり、親交は続いた。
話、といっても、おそらく佐治ケ江はじっと黙っていて遠山美奈子が一方的に喋っていただけだと思うけど。
「ある日、これを受け取りました」
佐治ケ江は、ポシェットから、黒い紐状のものを取り出した。
「なに、それ? あ、もしかしてさっきサジがしてたヘアバンド?」
「はい。これは、美奈ちゃんがいつもつけていた物なんです」
「そうなんだ。でも、どうしてそれをサジに?」
「美奈ちゃん、代表の常連だったんですが、代表でも、クラブでも、なにかの大会で優勝したり、決勝に出たことが一度もないらしいんです」
「まあ、フットサルは個人競技じゃないからね」
いくら優れていようとも、どうしようもないこともある。代表は代表で、相手が世界だからな。
「この大会に
「ああ、これを持ってサジに決勝の地を踏んで欲しいって? そのパワーが宿ったものを身につけていれば、自分もいつかそういう舞台に立てるかも知れないから、とか?」
「はい。まったくおんなじこといってました。きっと、ただあたしを応援してくれていただけなんだと思いますけど」
「そうなんだ。優しい子なんだね。そっか……わたしたちが瀬野川に勝ってしまって、夢も希望も砕いてしまったというわけか」
「勝負ですから、それは仕方ないです」
「でも、これから三決でしょ? 勝てば日本に無数ある大学で三位だよ。それだって充分に価値あるよ。絶対に勝ってさ、それを美奈子ちゃんに渡せば喜んでくれるって。ね」
「美奈ちゃんは……」
そういうと、佐治ケ江は口を閉ざした。
そして、険しい表情を作ると、まるで覚悟を決めたかのように、ゆっくりと、その口を開いていた。
「死にました。……交通事故で」
わたしの心臓を、なにかが突き抜けていた。
胸から背中へ、熱いのか冷たいのか分からない、鋭いなにかが。
口を半開きの、すっかり間抜けな表情になっていたかも知れない。
なにかいわなきゃ、気のきいた言葉を返さなきゃ、そう思えば思うほど混乱してしまって、言葉どころか呻き声すらも出ず、ひゅーひゅーと乾いた呼気が漏れるばかりだった。
なんか、聞いたことある気がする。
フットサル代表である若い女性の、死亡事故のこと。
ああ、そうだ、ミットの部屋でそのニュースを見たんだ。フットサルと広島というワードから、佐治ケ江のことを思い出したりしていたような気がするけど、そうか、あの時の、そのニュースの子……それが遠山美奈子、佐治ケ江の親友だったんだ。
それで、すべて分かった。
さっきの試合で、佐治ケ江がああまで必死だった理由が。
親友を絶対に決勝の舞台へと連れて行ってやるんだ、と、それであんなガムシャラに頑張っていたんだ。
思い出すだけでも身震いする、あの人間の次元を遥かに超越したようなのスーパープレーの数々や、這いつくばってでもボールを追おうとする恐ろしいまでの執念、あれらはすべて佐治ケ江の、ただ親友を思う優しい気持ちから出ていたんだ。
……本当にさあ、自分の薄汚れた心がつくづく嫌になってくるよなあ。佐治ケ江優……どこまで純心な奴なんだよ。
「あ、あの、梨乃先輩、どうしたんですか?」
佐治ケ江は心配そうな表情で、わたしの顔を覗き込むように腰を上げていた。
「なんでもないよ!」
なんでもないけどさ、でも、そんな話を聞いてしまったら、涙がボロボロこぼれてくるに決まってるじゃないかよ。
どんなに袖で拭っても、すぐに次の涙がこぼれ落ちてくる。そんな姿を見られるのが恥ずかしくて、わたしはテーブルに伏せていた。
テーブルに置いてある、バリバリした紙ナプキンを一枚抜き取ると、下向いて顔を隠したまま思い切り鼻をかんだ。
もう一枚引き抜いてごそごそ涙を拭くと、顔を上げた。
佐治ケ江、ほんと全然変わってないよな。
一見無愛想で、なにを考えているのか分からない、取っ付きにくい表情をしているくせに、とにかく優しくて、純粋で。血液型Bと聞いたことがあるけど、絶対に嘘だろ。
ああくそ、こすりすぎて目が痛い。きっと真っ赤っ赤に腫れちゃってるだろうな。
「あの、先輩たちは、決勝で
「そうだけど……と、やば」
いきなり鼻がどっと垂れて、慌てて手にしてた紙でおさえた。
「五月に、そこと練習試合で対戦したことがあります」
「そうなんだ。え、なんか珍しいね。広島と京都でしょ? そんな離れたとこ同士で」
「どうしても対戦したい相手がいて、岡山まで来てたようなんです。なにかの事情で相手に試合をキャンセルされてしまって、うちの監督と向こうの監督とが面識が有ったことから急遽、対戦することになったんです。あたしは怪我をしてたもんやけ、見ていただけでした。確か四セットやって、二十四対0で負けました。あたしが出ていても、同じようなものだったと思いますけど」
同じということは絶対にないと思うけど、特に突っ込みは入れなかった。
でも、こんなタイミングで決勝の相手の話が聞けるなんて、有り難い。わたしはそれに食いついた。
「どんな、感じだった?」
「見ていて思ったんですが、得点力は凄いんですけど、ピヴォがというよりはむしろ両翼の攻め上がりが脅威でした。ほとんどの得点は、そこからの流れで生まれていました」
「アラ封じが鍵か」
「はい。ただ、ピヴォも生かす方法を模索しているようで、ちょっとだけでしたが、ピヴォをぐっとアラより後退させて真ん中に置いての1-1-2を試してました。バランスが上手く取れずにすぐに戻してましたが、もしかしたら、それを完成させているかも知れないですね。この大会での宇治法明館の試合は、時間が重なっていたもんやけ一回も見ていないので、なんともいえませんけど」
「あたしたちも、あそこの試合は一度も見ていないから、だからいまの話とても参考になるよ。ありがとう」
ま、主将や先輩たちが、わたしのいうことを聞いてくれるとも思えないけどね。
瀬野川女子戦に関しては、佐治ケ江をよく知っているというところから臨時主将を任されただけで、それももうおしまいだろうからな。
「でさ、あと注目選手なんかいない?」
でも、情報は集められるだけ集めておいて損はない。
「えっと、ちょっと、待って下さい。だいたいは記憶しているんですが、お見せ出来るものがあればそちらの方がいいかと思うので」
佐治ケ江はそういいながら、バッグからなにかを取り出した。
これ、パソコン?
でも、キーがなくて、のっぺらして、まるで板みたいだ。
なんだろう。最近、女子高生や女子大生やOLが電車なんかで一心不乱に画面を睨んでいつまでもいつまでもいじくっているスマなんとかっていう携帯電話があるけど、まるでそれをでっかくしたような感じだ。
なんだこのSFみたいな機械。
側面を押して画面を表示させた佐治ケ江は、人差し指と親指とを器用に滑らせて、次々と表示内容を切り替えていった。
「ああ、この6番です。この大会では背番号が変わってるかも知れませんが、
「なるほどね。その二人を徹底マークだな。あのさ、いま教えてくれたその情報って、全部その機械の中に入ってるの?」
わたしは、腰を浮かせて、画面を覗き込んだ。
佐治ケ江は画面をこちらに向けてくれた。
「はい。瀬野女が対戦した試合については、全部まとめてあります。それと、対戦した相手がその前後に行っている試合なども、可能な限り情報を仕入れて入力してあります。うちとの結果だけでなく、そこが他とはどう戦ったのかを知るのも大切なので」
「へえ。全部サジがやってんの?」
わたしは、画面を指でちょいちょいいじってみた。
ぬる、っと表組みがスライドしたり、画像が出てきたりして、面白いなと思ったけど、壊したら何百万かかるんだろと怖くなって、いじるのをやめた。
「はい。主将にデータ化の提案をしたら、一任されてしまいました。こういうの全然詳しくないんで、一から勉強でした。現在はインターネットで、部員の誰もが自分のパソコンや携帯からこれらの情報を見られるようにもしてあります」
「おおおお、すげえええ。ああ、そういやサジ、一年生なのにピッチの外からガンガンと指示の声を飛ばしてたよね」
そうやって着々と、相手を研究し、そして自分を反省して次に生かす体制を作り上げて、その結果のリーグ優勝か。
凄いな、佐治ケ江は。
まだ一年だというのに、ピッチの内だけじゃなく外でもすっかりかかせない存在じゃないかよ。
三位決定戦、佐治ケ江が出られないとしても、瀬野川女子は勝つような気がしてきた。
「はい。こうしてデータをまとめていることから、作戦会議なんかにも参加させられるようになりまして、一番相手に詳しいんだからと指示出しをするよう命令されてしまいました。大きな声を出すのって、恥ずかしくて苦手なんですけど、でも、そのおかげで、ちょっとだけ自信がついたような気がします。こんなことで自信を感じているなんて、どれだけもとがだらしなかったかってことなんですけど」
「そんなことないよ。だらしないなんて、そんな。でも、そう成長を実感出来るって、気持ちいいよね」
「はい」
「しかし凄いな。参謀コーチ兼任で、かつスーパープレイヤーか」
分析や試合中の指示など、そういう分野って、佐治ケ江は苦手なのかと思っていた。性格的にも能力的にも。
そういうのは、わたしの方が絶対に上だと思ってたけど……自信なくなってきた。
ほんとに、知らない間にどんどん成長していくんだな、佐治ケ江ってのは。
機械系全般も、確かわたし同様異常に疎いはずだよな、などと思っていたら、まあテキパキと職人のように操作しちゃって。
もしかしたら現在地球に生きる若者で、アナログ人間ってわたし一人だけなんじゃないだろうか。
佐治ケ江がまた指をすすっと滑らせると、スタッツ等が表示されていた画面が、試合の写真へと変わった。
「これが、対戦した時の写真です。さっき話した前崎銀河という選手がこれです。あ、あそこにいるのがそうですね」
佐治ケ江は指を差した。三つほど向こうのテーブルで、仲間と大声で話をしている。
地味な顔をしているけど、佐治ケ江がああまでいうんじゃ、どんだけ恐ろしいんだろう。覚悟決めておこう。
「覚えた。注意しないといけないな。ありがとう。まあ、主将やアホ先輩が聞いてくれなきゃ意味がないけどね。……アホ先輩といえば、そういやサジ、さっき高校でもいじめを受けたって話をしてたけど、大学ではどうだった? フットサル部に入って、いじめられたりはなかった?」
「はい、いじめられました。一年生全員が、ですけど、あたしは特に。声が小さいとか、表情が暗いとか、毎日理由をつけては居残りで罰を受けてました。でも、いまではみんなと仲良くしてもらってますけど」
「あたしもね、そんな感じだよ。大学体育会系の洗礼みたいなもんだからね。いやでもサジの方がましだよ。あたしなんかいまでも、一年生を差し置いて一番いじめられているんだから」
亡くなった遠山美奈子って子は、大学には進まず就職したということだから、じゃあ佐治ケ江は自分だけの力で体育会系のいじめやしごきに耐えて、みんなと仲良くなったのかな。
高校時代の弱虫佐治ケ江からじゃあ、とても想像つかないな。
「ああ、そういえばさ、王子のあのこと、知ってる?」
「右足のことですか?」
「やっぱり、知ってたか。連絡取り合ってるんだ」
「はい」
王子とは、わたしの高校時代の後輩である
ある大会で右足に大怪我を負い、普通に走ったりすることの出来ない身体になった。
佐治ケ江は、王子のその怪我のこと、その大会で優勝を果たしたこと、高校卒業後にどこかの事務員として就職したことなど、わたしの知っていることはすべて知っていた。
「この後も、わたしだけ別行動で、広島へは帰らず夜の新幹線でおばさんの家へ行って、明日、王子に会うつもりです」
「へえ、そこまでの仲なんだ。それじゃあ、よろしく伝えといてね」
「はい。必ず伝えます」
「あたしこの間、実家に帰ったんだけど、王子には会わなかったからな。あ、でもね、
「ああ、そうなんですか。元気にしてましたか?」
「うん、元気だった。丸くなったね、あの子。利根川の河川敷でね、ボールタッチの練習してたよ。サジのことを尊敬してるって子と一緒に」
「え、あたしの、ことをですか?」
「そう。誰だと思う?」
「あたしの知ってる人なんですか?」
「知らない人」
「それじゃ分かるはずないですよ」
「ヒント、誰かの妹。第二ヒント……」
「ひょっとして
「正解!」
勘がいいな。
第二ヒントはジャガイモというつもりだったから、次を聞いていれば勘が鋭かろうが鈍かろうが絶対に分かっただろうけど。
「王子から聞いて知ってます。晶の妹さんが、佐原南に入ったということ」
晶の妹の
「直子っていってね、ピヴォなんだけどなかなか凄いらしいよ。この前の大会でも得点を量産して、優勝に貢献したらしい。並んで得点王だというのが、あの
「はい。葉月がどれだけ上手になったのか、見てみたいです。その、直子さんのプレーも」
「ナオね、顔がほんっとに似てたよ、晶に。でも不思議なことに、すっごく可愛いんだよね。あんな感じの顔なのに。でも、あれとおんなじような顔でピヴォかって思うと、なんか違和感あったけどね」
「そうですよね。あの顔はゴレイロですよね」
「そうそう。……えっ?」
ひょっとしてそれ、冗談? 佐治ケ江ジョーク?
ここは流すべきか、突っ込むべきか。
流しとくか。佐治ケ江が冗談などいうはずがないしな。
冗談だとしても、いったこと後悔してるかも知れないからな。突っ込んだら泣いちゃうかも知れないしな。
「あっ、そういえばさ、さっきサジ、いってたよね。遠山美奈子さんの話を切り出す時、どのみちあたしに話す必要があるとかないとか」
話が横道に反れに反れまくっていて、すっかり忘れてた。
「ああ、はい、実は、その件なんですけど……」
佐治ケ江は真面目な表情になった。いや、もともとこれ以上はないくらい真面目な顔をしているのであるが、それに加えて哀愁をおびた暗い影が落ちたとでもいえばいいだろうか。
少しの沈黙の後、意を決したか彼女がおもむろに口を開きかけた、その時である。
「おいコラ、バカリーノ」
聞き慣れた、出来れば二度と聞きたくない声を背後に受け、わたしの背筋はビキビキと一瞬のうちに凍りついていた。
振り向くと、やはりそこに立っていたのはオジャこと
それだけでも破裂しそうなほどお腹いっぱいだというのに、
三面楚歌。
いや、前はテーブル逃げ場なし、正真正銘四面楚歌の状態であった。
「わたくしめに、なにか御用でしょうか」
冷静をよそおい、落ち着き払った大人の対応。この人たちなにしてくるか分からないから、内心戦々恐々だったけど。
「思い切り御用だよ。さっきはさあ、よくもバカだ死ねだと散々にいってくれたな」
確かに、いった気がする。試合中。
「でもあたし、主将だったんだから」
だからといってバカだ死ねだといっていいわけではないが、でも先輩たちだって、毎日わたしに同じようなこといってるじゃないかよ。
「そう。あたしら優しいから、その点を差っ引いて、笑って許してあげることにするよ。だから……笑わせな!」
オジャ先輩は、右手に持っていたなにかをすっと振り上げた。
それは、マジックペンであった。
わたしの顔へと、ゆっくりと近付けてきた。
「ちょっと! なにすんですかあ?」
わたしは立ち上がろうとしたが、亀先輩たちに両肩をぐっと押さえつけられていた。
佐治ケ江は、一体なにが起こっているのか把握出ず、すっかり混乱した様子で、おろおろとしてしまっている。
「先輩、やめてくださいって!」
と、わたしはなおももがくが、先輩たちは無駄に腕力が強く、しかも二人掛かりだかなものだから、どうしても振りほどくことが出来なかった。
「じゃあ、全裸で東京まで走って帰るのと選べ!」
「全裸で東京!」
「却下。誰もお前の裸なんか見たくねえよ」
「ならなんで聞いた! 分かった、オジャ先輩おっぱいちっちゃいから他人のを見たく…」
「うるせえ、気にしてるこというんじゃねえよ。つうか気にしてねえよ!」
オジャ先輩は、左手でわたしの顔面をわしづかみにすると、右手のマジックを押し付けてぐりぐり動かした。
必死の抵抗も虚しく、きゅっきゅっという音が響いた。
やっぱり最低だ、こいつら。
さっき試合中、心の中でちょっとでも褒めたりして、損した。
もう二度と褒めないからな。一生。何度生まれ変わろうと。
人生の汚点だ。この先輩たちとの出会いは。
「あ、君、さっきのすっごい子だよね」
わたしを毒蛾の毒に染め上げてひとしきり満足したオジャ先輩は、侍の刀の鞘よろしくマジックにキャップをはめると、そこで初めて佐治ケ江の存在に気が付いたようだった。
視野狭すぎ。だから洋子先輩からメインを奪えないんだよ。
「別に、凄くなんか、ないです」
佐治ケ江は知らない人に囲まれて、すっかりカチコチ。小さくなってしまっている。こいつら相手にさっきは常識外れの超人的プレーを幾度となく披露していたというのに。
「またまた、謙遜しちゃってえ」
オジャ先輩は、馴れ馴れしく指で佐治ケ江のほっぺたをつっついた。
「ほんとほんと、男子と戦ってるみたいだった。さすが、こいつが大絶賛していただけあるよな」
亀先輩は、わたしの肩をぐっと組み、ぐいと力強く引き寄せた。
そうだろ。佐治ケ江は本当に凄い……あれ、その言葉、わたしのことも微妙に褒めてくれてる? いやいや、そんなはずあるか。こんな先輩たち。
どうせこの後だって、佐治ケ江がますます縮こまるか宇宙の果てまでぶっ飛ぶような非常識な発言が出るに決まってるんだから。考えてものをいってないんだ、この人たちは。
「硬くなっちゃって可愛いね。君、絶対に処女でしょ」
バン先輩が、オジャ先輩の反対側から、佐治ケ江のほっぺたをつついた。
「ほら出たあ。非常識発言出たあ! あたしの佐治ケ江に、そういうヒワイなこと聞くなよ! 俯いて顔っ赤にしちゃってんじゃんか。聞かなくたって処女に決まってんだろ、佐治ケ江なんだからさあ!」
人を見てものをいえ。お前らみたいな獣と違うんだよ。
「そうそう、佐治ケ江っていうんだよね。珍しい苗字だよね。お父さん鍛冶屋さん?」
「関係あるかよ!」
「なるほど、さすがオジャ、確かにサジとカジって似てるう」
「ジだけだろ!」
オジャ先輩と亀先輩のざれ言に、いちいち突っ込みを入れるわたし。
こんな態度を取ってますます先輩にいびられることになるのは分かっていたが、佐治ケ江が変態どもの餌食になりかけていたことに我慢出来ず、ちょっとテンション上がってしまっていた。
しかしこれが大人の会話かね、やっぱりアホだな、こいつら。
「誰がアホだ。お前こそ、おでこにふざけたこと書いてると叩き殺すよ」
「あ、聞こえてました? ていうか、先輩たちが書いたんでしょうがあ!」
一体なにを書いたんだよ。
わたしはバッグから手鏡を取り出し、自分の顔を見た。
ガビーン!
昭和の擬音が脳内に浮かび、そして、全身凍り付いていた。
そして次の瞬間、身体の表面に膜を作ったその氷を、内部からの爆発が粉微塵に吹っ飛ばしていた。
「なんじゃこりゃあああ! オジャ先輩、ちょっとひど過ぎますよこれ!」
額中央にくっきりはっきり大きく「肉」の文字。ほっぺには赤いマジックでぐるぐる。鼻の下には明治の文豪のような野太いヒゲが生えている。
「いやあサジちゃんのプレー、ほんっと凄かった。本当はさ、地球人じゃないんでしょ?」
「こいつら全然聞いてねええ!」
オジャ先輩、佐治ケ江と肩なんか組んで、ほんと誰にでも馴れ馴れしいんだからな。世の大多数には迷惑なんだよ、そういうの。
ほら、佐治ケ江すっかり畏縮しちゃってんじゃないかよ。このまま小さくなり続けて、無くなっちゃったらどうしてくれんだよ。
だいたいどっちもこれから大事な試合だってのに、なにのんきに雑談なんかしてんだ。わたしもいままでしてたけどさ。
とにかく、もう一刻もはやく佐治ケ江をこいつらから引き離すしかない。「サジちゃんちょっと立ち上がってみてえ、そうそのままそのまま、おりゃ!」とかいって、いきなり佐治ケ江のパンツ下ろしかねない連中だからな。そんなことして自殺でもしたら責任取れんのかよ。
「脱がすんなら、あたしのだけにしてくださいよね。サジにやったら、殺しますよ。先輩といえども」
「なにいってんのお前? 変な顔して。熱あんの? あ、そうだっ、両校の健闘を願って、サジちゃんも入れてみんなで写真とるべ。ほら、バカリーノも入れ」
バン先輩は、わたしの腕をぐいと引っ張った。
「え、ちょっと、あたしこんな顔!」
「いいよどうでも。思い出思い出」
「思い出じゃねえよ!」
しかし先輩たちには、日本語は通じなかった。
バン先輩は空いたテーブルを持って来て、デジタルカメラを置いた。
いまだカチコチで立ち上がることも出来ない佐治ケ江を中心に、みんなで肩を並べた。
わたし一人、必死に逃げ出そうとしているのだけど、またまた先輩たちにがっちり押さえられ、強制的に顔をカメラの方へ向けさせられていた。
「五秒タイマーセーット! はいはい、みんな笑ってぇ」
バン先輩が中腰で駆け込んで来た。
……四、五、
カシャッ!
アホな写真が撮れたよ!
間違いなく。
よくレンズにヒビが入らなかったな。
なにが両校の健闘だよ。わたしの顔を残しておきたかっただけだろ。
「おおそうだ、未来の日本代表からサインもらっちゃおーっと。サジちゃん、お願い」
バン先輩、どこに隠し持っていたのか色紙を佐治ケ江に渡した。
「サキちゃんへ、って書いてね」
顔に似合わない猫撫で声で、さっきわたしの顔にふざけた落書きをした時のマジックを渡している。
「バンでいいよバンで、サジ」
「お前はあと五百二年黙ってろ!」
「はいはい」
もう文句いうのはやめた。
というか、最初からそのつもりだった。
これまで先輩たちのノリに、お付き合いしてあげていただけで。
先輩たちのこの態度、勝ったからこその余裕というよりも、次の試合への緊張を解きほぐすために、こんな演技をしてるんだと分かっていたから。
もしもさっきの試合に負けていたら、とても佐治ケ江に対してこんな態度ではいられなかっただろうけどね。こうして会っていたら、トゲトゲしく突っ掛かって、三位決定戦への緊張を解くどころではなかった気がする。
「ねえ、梨乃ってさあ、サジちゃんにとってどんな奴なん?」
オジャ先輩が、なんだかまともな質問をしてるよ。
今夜は嵐かな。
その問いに、佐治ケ江はしばらく無言だった。
真面目に考えているが故に言葉を選んでいたのか、やがて、おもむろに口を開いた。
「尊敬とか、恩人とか、そういう言葉では表せないほどの人です。あたしが現在あるのは、梨乃先輩のおかげです」
近いような遠いような目で、きっぱりとそういうと、ちょっと顔を赤らめ、また俯き加減に戻ってしまった。
「サジ……」
こんなろくでもないわたしなんかのことを、そこまで思ってくれているなんて。
なんか、目頭が熱く……
「おでこに肉とか書いてしんみりきてても、笑っちゃうんだけど」
亀先輩がうははは笑いながら楽しげに手をぱしぱし打った。
「うるさいなあ。これもう落としますからね。サジ、濡れティッシュかなにかない?」
「あ、はい、あります」
佐治ケ江から濡れティッシュを二枚もらうと、わたしは手鏡を見ながら顔をゴシゴシとこすった。
しかし、こすれどもこすれども……
おかしいな。
……ちょっと……
ええ、
なにこれ……
こういう悪戯ってさ、普通、水性ペンでやるよね。
水性ペンって、湿った物でこすれば落ちるよね。
「なのに全然落ちない! オジャ先輩いい、なに人の顔に油性マジックで書いてんですかああ! うああああ、最悪うう! もう、ほんっとにバカじゃねえの! トイレ行ってこなきゃ」
「あ、もうミーティングまでまったく時間ないね。じゃあ急いで戻ろうか、木村梨乃君」
オジャ先輩は、この怒髪天を突く怒りをそよ風のごとく平然と受け流し、わたしの腕をぐいと掴んで引っ張った。
「戻ろうかじゃないですよ! トイレでなんか薬つけてこすり落としてこなきゃ! まったくもう、先輩ほんとろくなことしないんだから! ……それじゃあサジ、三決、頑張ってね」
「ありがとうございます。梨乃先輩も、決勝、頑張ってください」
「分かった。お互い精一杯、頑張ろ。あとさ、なんか話の途中だったよね。変態どもが来て邪魔されちゃったけど」
「はい。……あの、梨乃先輩に無茶なお願い、してもいいですか? 無茶というか、その……」
「なに?」
「実はそのお願いをしたくて、食堂の前で先輩を探していたんです。……次の試合、これ、持っていてくれませんか?」
佐治ケ江は、先ほど見せたヘアバンドを、わたしの前に差し出した。
「ちょっとずるい気もするんですけど、でも、美奈ちゃんをどうしても決勝の場に立たせてあげたくて……」
わたしは手を伸ばしかけたが、無意識に、少し引いてしまっていた。
心に、重かったからだろうか。
でも佐治ケ江の、勇気を振り絞ってお願いしているようなその表情を見ていると、そして、さっきの試合での、あの死に物狂いな頑張りを思い返すと、とても断ることなど出来なかった。
手を伸ばし、受け取った。
勝者として、敗者の思いを受け止め、受け継ぐ義務がある。
そんなこと、まったく思っていやしなかったくせに、不意にそんな言葉を心にとなえて、自分を納得させながら。
思いを受け取ったことがもたらした錯覚であったのだろうか、わたしの手に、ビリッと電流が流れていた。
一瞬どきりとしたが、わたしは佐治ケ江の目を見つめながら、改めて、そのヘアバンドをぎゅっと握っていた。
「分かった。決勝の場に立つというだけじゃない。必ず、優勝してやる」
「ありがとうございます」
佐治ケ江は、深く頭を下げた。
「観客席から応援しています」
「期待してて。必ず優勝するから。その前に、そっちこそ三決でしょ。絶対に勝てよ」
「はい」
わたしたちは、がっちりと握手をかわした。
先ほどの試合後にも握手したけど、佐治ケ江の手は本当に小さくて、頼りないほどに柔らかだった。
身体もやはり柔らかそうで、抱いたらきっと折れそうに細く、こんな華奢な肉体のどこに、あんな爆発力が潜んでいるのだろう。人体の神秘というかなんというか、
カシャ!
シャッターを切るデジタルカメラの電子音。
「おう、すげえショット頂き。これサイトにアップしていい?」
バン先輩が、中腰でカメラを構えていた。
「いいわけないでしょ! アップするんなら、この顔を修正しといて下さいよ! それじゃサジ、また試合の後でね!」
わたしは佐治ケ江から預かった遠山美奈子のヘアバンドをぎゅっと握りしめ、人混みの中をこのアホ顔さらしたまま、もう恥も外聞もないといったていで走り抜けて行った。
こんな時に、内藤の無駄にでっかい背中があるといいのに。
6
「え、引き続き……ですか?」
体育館の端で、ミーティング開始早々の
「嫌か?」
主将が、ヤクザのようなおっかない顔で尋ねた。普段通りの表情なんだけど。
「別に、そういうわけでは」
「お前、なかなかいいよ。戦術眼や、指揮能力。特に気に入ったのは、先輩を先輩と思わないところ」
「いや、先輩と思わないだなんて、そんなことは、ないとは、思いますけど」
売られた喧嘩は、買う方かも知れないけど。
戦術眼は、そこそこ自信はある。
指揮能力は分からないけど、でも高校時代に場数を踏んだから、指示慣れはしているかな。
「どう、みんな?」
主将が他の部員たちに、ぎろりと鋭い眼光を向けた。
「まあ、異論はないです」
「絶対に結果を出すんなら」
「毒くらわばなんとか。つうかいまさら自信ないなんて抜かしやがったら、尻を蹴っ飛ばすよ。ケツの骨が折れるくらい」
亀先輩。
すでに今日だけでも、わたしの桃尻が赤黒く腫れ上がるくらいに蹴っ飛ばしているくせになにいってんだか。折れてなくともヒビくらい入っていてもおかしくないよ。
「それじゃあ、やります」
いきなりのことにちょっと驚いたというだけで、わたしとしても願ったりかなったりだったし。
何故なら、ここで断りでもした日には、せっかく先ほど
佐治ケ江のことは確かに詳しかったけどお前が宇治法明館のなにを知ってるんだ、と。まあ当たり前だ。
「よろしく」
主将は、ぽんとわたしの肩を叩いた。
「はい」
しかし、わたしに指揮を任せるのはいいけど、せっかくの決勝戦、自分が率いて念願の日本一の夢を果たしたいなどとは思わないのだろうか。
リーグ優勝も果たしていて、統率能力が高いことなどもう実証済みだし、特にそういうこだわりはないのかな。
しかし、瀬野川女子とのあんな死闘を繰り広げた後だというのに、改めて任命なんかされると緊張するな。
でも、せっかく与えられたこの機会、逃げてはいられない。
やらなければ。
わたしは、気を引き締めた。
ぐるりと、部員たちの顔を見た。
「それじゃ、引き続いてあたしが主将代行ということで指揮を取ります。よろしくお願いします」
部員たちに囲まれ、わたしは頭を下げた。
「梨乃、頑張れ!」
「いや、別にそこまで緊張してないから」
どっとはらい。
内藤は恥ずかしさに顔を真っ赤にしてしまった。
わたしの立場を自分に置き換えて、勝手に重圧にガタガタブルブルきてて、それで思わず、その重圧と必死に戦うわたしを励まそうと思って叫んでしまったのだろう。内藤、ほんと気が小さいからな。
そんなことより、いま腕に巻きつけているヘアバンド、こっちの方がよほど重圧で、緊張するよ。
でもま、ありがとね、内藤。
「では早速ですが、宇治法明館戦に向けてのミーティングを開始します」」
わたしは床の上に膝をつき、ホワイトボードを置いた。
「まずは口頭で。相手の特徴だけど、大雑把にいうと両翼の果敢な攻撃がとにかく脅威な、爆発力のあるチーム。ピヴォよりも、アラを封じることが鍵になる。選手層の問題なのか分からないけど、ピヴォがまだ完全にフィットしてないみたい。
以前に練習試合などで、1-1-2でピヴォの選手が真ん中に来るような、アラの攻撃力を活かしつつピヴォも活用させるような、そんなことを模索していたみたい。
そのシステムで来るかどうかは分からないけど、もしも、その模索してた攻めが完成されていたら、脅威になると思う。そこは試合を見ながら対応していくしかない。
選手個人としては、背番号は分からないけど、ええとなんだっけ、
あと、
そういうモード切り替えの意識が選手たちにしっかり浸透しているところから判断して、怪我であまり出ないということでなく、彼女がいる時は攻撃、いない時は守備、という完全な二面性を持っているチームになっているということかと思う」
「えーーーーーっ!」
瀬野川女子の時と同様にスカウティング担当である
「あたしたち、まだ誰にも話してないのに、なんでそれ知ってるのぉ? しかもあたしらの知らないことまで!」
「え、そうなの? ちょっとなんだよそれ、お前、信じていいの? いつ調べたんだよ、梨乃、おい!」
オジャ先輩、すっかり驚いた顔だ。
「君子あやうきに、じゃなくて、えと、なんだ、敵を知り己を知れば百戦危うからずです。こんなこともあろうかと、大会に参加する全大学のデータ、一通り入手して頭の中に入れておきました」
わたしは、人差し指で自分の頭をとんとんと指差した。
「おーーーっ!」
「すげーっ!」
部員たちの感嘆の声、そして鳴り響く拍手。
気持ちいい。
完全に大嘘だけどね。
さっき食堂で佐治ケ江から教えてもらったことを、ただそのままいっただけだ。
「でさ、芳美、1-1-2やってた?」
わたしは尋ねる。
「やってたやってた。真ん中からいいパスがどんどん出て、相手はついていけずに大混乱だったよ」
そうか。やっぱり、完成させてるのか。
相手の戦術の組み合わせが豊富で、ちょっと怖いな。
「下調べ完璧じゃん。さっすが、おでこに肉とか書いてる奴は違うねえ」
亀先輩が、腕を組んで感慨深げにうんうん頷いている。
「え、え、やだ、嘘、もう落ちてますよね」
垢どころか皮膚すらこそぎ落とすくらいに、徹底的にこすりまくったんだから。おかげでひりひりして仕方ない。
「まだ、うっすら残ってるよ。口ひげも、真っ赤なぐるぐるほっぺも。おしゃれでわざと残してんのかと思ってた」
「そんな奴この世のどこにいますか! ったくもう、だいたい油性なんかで書くかね、人の顔に、二十歳過ぎた大人がさあ」
と、事の張本人であるオジャ先輩をちらり一瞥。
「だってすぐ落ちちゃ面白くないじゃん。でもさあ、さっきのあの子、そのアホ面見てもまあったく笑わなかったよね」
佐治ケ江のことだ。
「そういう子なんです」
わたしも、毎日一緒に練習して、春休みなんか合宿やってカレー作ったりお風呂に入ったりした仲だけど、それでも一回も笑顔なんか見たことないものな。
そういや、佐治ケ江のカレー、すっごく美味しかったな。内藤なんかより、佐治ケ江と同棲したいよ。
って、それじゃあまりに内藤が可哀想だろ。内藤だって生きてるんだぞ、感情あるんだぞ。
「あたしなんか、いま思い出しても笑っちゃうよ、あの梨乃の顔。おでこの肉の字とかさあ」
「そういう子なんです、オジャ先輩は」
二十歳越えてるくせに、十代の佐治ケ江の方が百倍大人だよ。
「なんだよ、その他人を見下したようないい方! 同じ言葉で違うニュアンス出してさあ、ちょっと自分のこと知的だと思ってんだろ。お前はほんとムカつくんだよ。だいだいさっきはなんだあ、おっぱい小さいとか抜かしやがって。人並みにあるからってぷるんぷるん自慢してんじゃねえぞ。顔に肉とか書いてるくせに」
オジャ先輩は、わたしの首に腕を回すとぐいぐいと締めてきた。
「だからそれ、先輩が書いたんじゃないですか! あと別に自慢なんか……先輩と違って普通にあるから普通に揺れるだけで」
「末代呪ったる!」
怒りに任せて、さらにぎゅーーっと力を込めて締め上げてきた。
「苦しい、死ぬ……」
こんなんで死んでニュースになったら、世間のいい笑い者だよ。
薄らぐ意識の中でそんな心配をしていると、突然体内の奥底から込み上げるものを感じて、咄嗟に口元を押さえていた。
また、この吐き気だ。
「ちょっと失礼します!」
先輩の顔面にパンチくれてひるんだところを全力で振り解くと、わたしは脱兎のごとき勢いで走り出していた。
平和主義者のわたしとしては暴力反対であるが、こうでもしないと、なかなか首締めを解いてくれないと思ったので。
「いてえなクソ。おい梨乃、どこ行くんだよ」
「ごめんなさいオジャ先輩! ちょっとトイレ!」
わたしは、口元を押さえて込み上げるものをぐっとこらえながら、体育館の扉を開けて通路へと出た。
さっき行ったばかりだというのに、またトイレへと駆け込んでいた。
先ほど、バカオジャに顔面を落書きされたわたしは、それを落とすためにトイレへ入った。その時にも、突然このような吐き気をもよおしたのだ。結局、吐き気ばかりでなにも出なかったのだが。
その時とまったく同様の吐き気に、また便器の前にしゃがみ込んだ。
でも、なにやらすっぱい液が出てくるだけで、嘔吐はなかった。
しばらく苦しみ続けているうちに、嘔吐感は徐々におさまってきた。
なんだろう。さっきと、まったく同じだ。
マジックペンの成分が皮膚に浸透したからって、別にそれで吐き気なんかもよおすことないだろうしな。
食あたり? でも、それなら普通吐くよな。
まあいいや。それよりも、
と、個室から出て洗面台の前に立ち、鏡を見た。
「うわ、最悪。ほんとに、まだ残ってんじゃんかよ」
さっきも鏡を見ながらしっかり落としたつもりだったけど。途中で吐き気が酷くなってきて、よく確認出来ていなかったようだ。
またわたしは、ごしごしと顔をこすった。濡らして絞ったタオルで。
「落ちやしない。頭にくるなあ、もう。オジャのバーカ! ついでに先輩たち全員バーカ!」
しかし、なんだったのだろう、さっきの嘔吐感。
あまり実感はないのだけれど、やっぱり緊張しているということだろうか。
無理もないか。
だって次は決勝戦。
これに勝てば、ついに念願の日本一だもんな。
そしてわたしはその試合の、主将を任されてしまってるんだもんな。
せっかくだし、楽しもう。
人生でまたとないかも知れない、この経験を。
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