最終章 フットサル、好きですか?

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 第四回 新日本フットサル大会 決勝


 関西代表 ほうめいかん大学 (京都府)

 関東代表 しゆうめいいん大学 (東京都)



 ここは大阪府すい市にある、やま体育館別館の通路だ。

 両校の部員たちはそれぞれ縦列を作り、これから戦う者同士肩を並べ、入場の時が来るのを待っている。


 ついに辿り着いた、決戦の舞台、選手たちは一様に緊張し、手をじっとりと汗ばませ、対戦相手よりもまず、自らの高鳴る心臓の鼓動と戦っていた。


 というのは嘘。そこまでは緊張していない。

 少しは緊張しろよな、という三年生への不満から、適当にモノローグを呟いてしまっただけだ。


「思うんだけどさあ、法明館って習明院と名前かぶってない?」


 つい数秒前まで大学前の焼肉屋のタレの味について熱弁を振るっていたみき先輩であったが、不意に話題を変えた。これから日本一の座を賭けた戦いが行われるというのに、なにやってんだか……


めいだけだろ」


 戯れ事に付き合ってあげているのはオジャ先輩ことごうかずだ。優しいからではなく、レベルが一緒だからだけど。


「あと、有名大学に使われてる漢字の寄せ集めなところも」

「お、確かに」

「創始者に独創性のかけらもなかったんだろうな。今日はパクリ名大学、東と西の決戦か」

「じゃあさ、勝ったら相手の名前を好きに出来るってルールにしない?」


 オジャ先輩がさも名案といった得意げな表情で提案。アホか。


「例えば?」

「山田ヘラチョンペ大学京都支店」

「お、それいい! 支店の意味が分かんないけど、でもそこがいい!」

「先輩たち、もう入場ですよ! それと、思い切り聞こえてますからね、先輩!」


 わたしは、あえて先輩の二文字を強調した。でないと、こいつらの非常識発言への批難が、列の先頭に立っている(つまり主将と思われている)わたしに集中しそうな気がして。

 確かに主将代行ではあるものの、そんなところにまで責任は背負いたくない。


「ね、ね、彼女、どう思う?」


 しかしオジャ先輩は、わたしのいうことなどまるで聞いておらず、隣に縦列している宇治法明館の部員に同意してもらおうと肩をつんつんつついている。


「せやなあ、うちら勝ったらそちらさんホンマヤデオバカ大学にしてな」


 さすが……京都といえども関西圏。パクリ名大学などと小馬鹿にされて、まあ面白い気分ではないだろうなと思っていたら、それどころか、まさかノってくるとは。


 あ、この子さっき佐治ケ江に写真を見せてもらったな。食堂でも見かけた。

 要注意人物の一人で、確か名前はまえざきぎん

 かっこいい名前とは裏腹に、一見おだやかで剽軽そうだけど。見た目に騙されて警戒を怠ることのないようにしないとな。


 まあ、容姿や人当たりと実力は関係ないけどね。うちの三年生だって、知能知性は猿並だけどフットサルの実力に関しては目を見張るものがあるものな。


 不意に扉の向こうから、壮大な交響曲が流れてきた。

 かっこいいな。

 惜しむらくは、音質悪く音もバリバリ割れてしまっているところか。


「では、入場の時間です。どうぞ、お進み下さい」


 わたしたちの前に立っていた係員の男性が、扉の取っ手に手をかけると勢いよく開いた。


 薄暗い通路の明かりに慣れていたため、天井からぶら下がるライトからのまばゆい光が、まるで無数の小鳥の群れのように痛々しいくらいの勢いで網膜へ飛び込んできた。


 観客席からの拍手に迎えられてわたしたちは、開いた扉をくぐり抜け、中へ入った。

 ささやかではあるが、粛々淡々と行われてきた一回戦、二回戦に比べると、まさに決勝に出る者としての特権を感じる瞬間だった。


「いくぞお! ホンマヤデオバカ大学と山田ヘラチョンペ大学、バカ頂上決戦だあい!」


 幹枝輩は叫び、腕を振り上げた。

 まったくもう。わたし、そんなんで頂点目指すつもりないからね。


 先輩たちは、こういうバカをいうことで緊張を緩和してるんだというのが分かっているから、なにもいう気はないけどね。

 そうしたやり方で、実際にリーグ制覇も達成したわけだし。

 いったところで顔を真っ赤にして否定するだけだろうけど、「違う、あたしたちは本当にバカなだけだ!」って。


 ピッチへ向かいながら、ぐるりと首を回して観客席を見回した。

 収容人数二千人の体育館、お昼まではまばらで、どちらかといえばスカスカだったのだが、現在は満員に近い状態だ。


 この大会に敗れていった者たちに加え、入場無料ということもあり、一般の人も観戦に来ているようだった。


 、この中にいるのかな。

 あえて探す気はないけど。


 観戦してくれるとしても、まだ席には着いてないかな。

 先ほどこのピッチで、北信越代表のかなざわわんがん大学との三位決定戦を終えたばかりだからな。


 わたしたちは入場の準備のため、前半戦しか観戦することが出来なかったのだが、瀬野川女子は残念ながら負けてしまったらしい。

 佐治ケ江が出場したかどうかは分からない。少なくとも前半の段階では、ピッチに立つことはなかった。

 まあ、どうだったのかは、佐治ケ江から聞けばいい。


「あとで、これを返すんだからな」


 わたしは、自分の腕に巻き付けたヘアバンドに視線を落とした。

 佐治ケ江の親友であるとおやまの、形見となってしまった品だ。


 決勝のピッチに美奈子ちゃんを立たせてやりたい、と、佐治ケ江はわたしにこれをたくした。

 わたしは、立つだけでなく優勝させてやる、そういってこれを受け取ったのだ。


 佐治ケ江たち途中で散っていった敗者の思い、そして、フットサルをやりたくても、運動したくても、生きたくても、無念にもその生を強制的に終了させられた遠山美奈子のような者の魂、

 そうした思い、わたしたちが引き継ぐ!


 などといえれば格好はいいが、さすがのわたしもそこまで自分に酔うタイプではない。

 漠然と、勝ち負け云々だけじゃなく決勝戦として恥ずかしくないような試合をしないとなあ、などと思う程度だ。


 あの先輩たちがいる以上、恥ずかしくない試合などというのは、もう諦めなければならないことかも知れないけど。


 まあとにかく、そうしたごちゃごちゃしたことはどうでもよくて、とにかく勝ちたい。


 わたしが高校の部活を引退したあとで、そこが優勝して日本一になってしまったことに、嬉しさ以上に淋しさや悔しさがあったけど……だからこそ、自分は大学で日本一になって自尊心を取り戻すんだなどと思っていたけど、

 もう、そんな感情はどうでもよく、ただただ目の前の試合に勝利して、負の感情を払拭するためではなく純粋な気持ちとして、日本一になりたい。

 そう強く願っている。


 この仲間たちと一緒に。

 日本の、チャンピオンに。


 そのためには、あと一勝。

 これが、最後の戦いだ。


 わたしは、拳をぎゅっと握り締めていた。


「うわあ、すっごい観客がいるうう」


 のうがなんだか寒そうに肩を震わせて大袈裟な仕草。単なるヘタレだと思ってたけど、これも彼女なりの緊張吹っ飛ばすやり方なのかな。と、ふと思った。

 ヘタレにしては試合の時も、なんだかんだと思い切りがいいしな。本人は意識せずにやっていることかも知れないけど。


「こんなにいると、緊張するなああ」


 彼女は濡れた猫かというくらいに、全身をぶるぶるぶるっとさせた。


「大丈夫だよ、要するにこいつらみんな肉付けされた骸骨じゃん」


 みき先輩が、一に一を足すと二なんだよというくらい当然な表情で、とんでもないことを口走った。


「いやーーっ! 想像しちゃった!」


 ウマヨは文字通り飛び上がっていた。

 測定盤があれば、高跳びでどれだけの記録が出ていたことだろう。


「あの、ひょっとしてお前、いつも観客のことをそう見てるの?」


 オジャ先輩の問いに、幹枝先輩は頷いた。


「普通でしょ?」

「普通じゃねえよ!」

「気持ち悪い!」

「先輩、変です!」

「死ね!」

「また想像しちゃったーーっ!」


 と、周囲からボロボロにいわれる幹枝先輩であったが、


「そっかあ、そう考えてるのって、あたしだけなんだ。そっかあ、あたしが緊張しないのって、そういうちょっとナイスでお茶目な発想をするところにあったんだあ」


 などと自分が変であることを喜んでいる始末。ほんと救いようがないな。

 そもそも、ちょっとナイスでお茶目な発想なんかしなくたって、どのみち性格上、緊張なんかしたくとも出来ないタイプだろ。


 でもまあ、この幹枝節が、ここで炸裂してくれてよかったよ。

 見るからに緊張の色を浮かべているの、ウマヨだけじゃなかったし、いまのこのバカ騒ぎで、多かれ少なかれ、みんなの気持ちに柔らかさや落ち着き、ほがらかさが戻ったようだったから。


「よし、それじゃあ円陣組むぞ!」


 わたしは主将代行としてみんなをぐるり見回し大きな声を張り上げた。


「あ、組みます、ので、先輩方も、ご参加を、ぜひ」

「別にいい直さなくていいっつーの」


 亀先輩に睨まれた。


「バカにされてるようで逆にむかつくんだよ逆に!」


 オジャ先輩が、わたしのほっぺたの肉を、ちぎらんばかりに両手で思い切り引っ張ってきた。


「痛い痛いほんと痛いほんと痛い! 爪! 爪、食い込んでる! 爪やめて!」

「いいからはやく円陣組めよ!」

「これじゃ出来ない離してくれないと出来るわけない痛い爪痛いほっぺ痛い!」


 涙目で泣き叫ぶわたしに、オジャ先輩は舌打ちし、ようやく手を離してくれた。


「では、改めて」


 涙を拭うと、わたしは部員全員で輪を作らせた。

 腰を屈ませ、頭を突き合わせ、叫んだ。


「習明院! 絶対に勝つぞ!」

「おう!」


 円陣を解くと、わたしたちはピッチから出て、先発であるごうかずかめどりばん早乙女さおとめみどり、みきの五人は残った。


 宇治法明館の選手たちは、とっくに準備は完了しており、柔軟をしたり、靴紐を結び直したりしている。


「それでは、試合を始めます。準備はいいですか?」


 女性審判はそういうと、笛の先をくわえた。


 ざわついていた場内が、一瞬にして静まり返っていた。

 まるで百メートル走の、銃声を待っているかのように。


 そして、その静寂を打ち破る、鋭い笛の音が鳴り響いた。


 習明院ボールでキックオフ。

 剛寺和子が、ちょこんとボールを蹴った。

 ついに、決勝戦が開始された。


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 有無をいわさず圧倒的に攻め込んでいたのは、わたしたちしゆうめいいんのはずだった。


 それなのになかなかゴールをこじ開けられないというそのもどかしさに、わたしたちは、知らず自分で自分の首を締めてしまっていたのかも知れない。


 すっかり、相手の術中にはまっていた、ということか。

 カッとなるあまりに、このようなことが起きてしまったというのも、また……


「だって、どう考えてもゴールだろ! どこがどうファールだったんだよ! 触れてもいないのにさ! いや、ちょっとは触れたかも知れないけど、絶対に押してない。どう考えてもおかしいだろ! どこ見てたんだよ! 審判二人もいるくせに、どこ見てたんだよ! 節穴! ヘボ!」


 ごうかず先輩が、第一審判に掴み掛からんばかりの激しさで詰め寄っていた。


「オジャ先輩、もういいですから!」


 わたしは審判と先輩との間に入り、この場を収めようとしたのだが、しかし既に遅かった。


 思えば何故、オジャ先輩をブン殴ってでも、止めておかなかったのか。わたしも、審判へ抗議したい気持ちで熱くなってしまっており、自分を抑えるのに精一杯だったのだろう。


 ぼろくそいわれ続けていた第一審判は、無言の実力行使に出た。右手に持ったイエローカードを高く掲げたのである。

 審判に対する執拗な抗議への警告だ。


 そしてそれは、続けてレッドカードが出されるということに他ならなかった。

 何故ならばオジャ先輩は、開始早々に相手を背後から倒して一枚もらっていたからである。


「嘘だろ」


 オジャ先輩は、すっかり呆然自失といった表情。

 いや、そりゃもらうって、あれだけボロクソに文句いえば。だからピッチの中でも外でも、既に警告を受けていることを考えて行動すべきだったのに、ほんと単純なんだから。


 でもこれ、全員の責任だ。

 最初にいった通り、相手の守備がとにかく硬かった。

 習明院としては、そこそこボールが回せるだけに当然ながらどんどん攻めた。

 しかし最後のところでことごとくボールを蹴り出されたり、奪われたりするものだから、多少熱くなってしまっていたのだ。


 相手が先ほど対戦した瀬野川女子のように、身体を張って気合いで泥臭く守っているのならば、こちらもそこまで熱くなることもなかっただろう。


 ほうめいかんの選手からはさして必死になっている様子を感じないというのに、いつの間にか挟み込まれ、奪い取られて、その淡々とした流れ作業に、わたしたちはまるでバカにされているような感じがしていた。


 ピッチの外から見ていたわたしでさえ、そう感じたのだから、ピッチに立っている当事者がどうであったかはいわずもがな。


 振り返ってみれば、試合開始からここまでの間、原始人のような感情回路であるオジャ、バン、亀の誰が退場してもおかしくない状況だったのだ。


 実際に退場したのは、一番相手ゴールに近いところでプレーしていたオジャ先輩。シュートをことごとく阻止され続け、ようやく決まった一本であっただけに、ゴール取り消しの判定に激昂してしまったのである。


 オジャ先輩は押してないというが、よくよく思い返してみれば、突き飛ばしているような気もする。


 とにかく間違いなくいえるのは、判定は覆ることはなく、オジャ先輩はもうピッチに立てないということ。


 現在前半十三分、わたしたち習明院大学は、これからの二分間、もしくはこちらが失点するまで、FPフイールドプレーヤーが一人少ない状態での戦いを余儀なくされることとなった。


 フットサルはFP人数たった四人の競技であり、一般的に考えて一人少なければ失点の可能性が倍加するのが理の当然。この決勝戦で、わたしたちが初めて迎えた難局だった。


 先ほどの瀬野川女子との対戦時にも、習明院から退場者が出たが、あれは要注意人物が佐治ケ江のみというところから、佐治ケ江の疲労を引き出すために戦略上あえて味方が退場するよう仕向けたのだ(こんなこと、みんなには口が裂けてもいえないけど)、したがってその試合と現在とでは同じ退場でも状況がまったく異なる。


 もしもここで失点してしまったらどうなるか、想像するまでもない。

 ただでさえ、ああまで守りの硬い宇治法明館なのだ、先制したことにそのままがっちり守りを固めてしまい、こちらの得点機会はさらに激減すること間違いない。


 つまり習明院としては、選手が一人少なかろうとも絶対に失点を許すわけにはいかないということだ。


 ここで宇治法明館が点を取るか、習明院が耐え凌ぐか、そこがこの試合の明暗を分けることになる大事なポイントなのだ。


、動くみたいだよ」


 ないとうが、わたしの腕をつついた。


「分かってる」


 宇治法明館ベンチから、一人、交代ゾーンへ向かった。

 やはり、来るか。


 試合開始からこれまでの間、ずっと守備的に戦ってきていた宇治法明館であったが、やはりこの得点を狙うに絶好の機会を逃すつもりはないようだった。


 みねしい アウト すげ イン


 こうして、から話を聞いていた最も注意を要する人物が、ついにピッチへと足を踏み入れたのである。


「点を取りに来るよ! それと例のあれ、来るかも! 絶対に集中切らさないで!」


 わたしのその予感は的中した。

 小菅穂ノ香が投入されると同時に、宇治法明館の陣形が変化したのである。


 4番、ピヴォであるとりけいがやや後退し、

 そして両翼であるアラの選手が、ピヴォの役割となって、ぐいと前へ出た。その両翼とはまえざきぎんと、いま入ったばかりの小菅穂ノ香。まさに佐治ケ江が最重要人物としてあげた二人だ。


 このタイミングで攻めに出るのは当然か。

 誰だってそうする。


 しかし、1-1-2を本当にやってくるとは。

 スター型、もしくはイプシロン(「Yの字」の意)などと呼ばれるフォーメーションだ。

 前の人数が多いから攻撃的と限ったものではないが、佐治ケ江や、先ほど偵察をしたさくらよしたちの話では、彼女らは完全に攻撃的布陣としてこの1-1-2を採用しているようだ。


 この布陣を採用したのはつい最近のことで、それよりなにより、宇治法明館が攻撃的にシフトするにあたって重要なのが、この交代だ。


 佐治ケ江の話では、小菅穂ノ香が入ることにより、宇治法明院に攻撃のスイッチが入るという。

 つまり、この交代と、この布陣変更は、なんとしても点を取れという宇治法明館監督の指示に他ならなかった。


 こうして宇治法明館は、選手が総入れ替えしたのではないかと思われるほどに、守備的戦術からガラリ変わって超攻撃的なフットサルを開始したのだった。


 習明院は、ただでさえ退場で人数が少ないのだ。関西リーグを無敗で制した西の強豪相手に、圧倒的に支配され、防戦一方になることは仕方がないといえた。


 中央に位置する4番、名取圭子がポストプレー役だ。ある時は相手を背後に背負ってしっかりとキープ、かと思えばワンタッチでさばき、両翼はそれを信じてどんどん攻め上がる。常に習明院が後手を踏んでしまうような、絶妙な選択肢、送り方、タイミングで。


 以前に、この戦い方を実験的に使い、バランスが取れずにすぐにやめた、ということだが、おそらくその時とはピヴォの選手が違うのだろう。

 メンバー表によれば、この名取というピヴォは一年生。つまり宇治法明館は、超攻撃布陣に必要な最後の一ピースを見つけたのだ。


 確かにこの名取圭子という選手、上手い。足元がしっかりして奪われないし、視野も広い。


 佐治ケ江の挙げた二人、前崎銀河と小菅穂ノ香だけではなく、この一年生も注意が必要ということか。

 まだ他にもいるんじゃないだろうな。


 両翼の二選手も、ただ上がりっぱなしというだけではない。習明院がかろうじてボールを奪うと、すっと下がって通常のダイヤモンド型もしくは逆Tの字になり、全員が連動した絶妙な追い込み方でボール保持者を包み込んで、奪い取ってしまう。


 かと思えば、もうYの字に戻って、両翼がダイナミックに上がり、サイドをえぐり、と、我々は完全に翻弄されていた。


 そしていまもまた、中央にいる名取圭子のポストプレーから我々はピンチを迎えた。

 早乙女先輩を背負う名取圭子へ、バン先輩が正面から突っ込み、挟み撃ちでボールを奪おうとしたのだが、名取圭子は自らバン先輩へと詰め、かわし、同時にヒールパスを右サイド前方へと送っていた。


 誰も受ける者がおらず、ラインを割ろうかという瞬間、駆け上がった前崎銀河がダイレクトに蹴り上げてゴール前へ、左から斜めに走り込んだ小菅穂ノ香のダイビングヘッド。


 絶体絶命と思われたが、シュートはゴレイロ正面。

 幹枝先輩は、なんとかキャッチ。ボールを胸に抱え込むようにし、前へ倒れた。


 運がよかった。

 いや、運などといったら幹枝先輩怒っちゃうかな。


 でも、どんどん攻められ危ない状況であることに違いはない。

 打てる手は打って、失点の可能性を少しでも減らさないと。


「タイム!」


 わたしは、すぐそばに立つ第一審判に声をかけた。本来は第三審判へのカードの提出が必要らしいが、この大会は第三審判がいないので、第一審判への声掛けだけでよいのだ。


 フットサルは、両チームそれぞれが前後半ごとに一分間のタイムアウトを要求出来る。

 もちろんその分だけ相手にも作戦タイムが与えられることになるわけだが、優勢な側はそれを継続するだけなので、あまり気にする必要はない。


 両校の選手たちが、みなピッチから出てそれぞれのベンチへと向かった。

 わたしは、ちょっと慌てたように、指示について喋り始めた。


「マーク入れ替えましょう! 早乙女先輩は、10番、バン先輩は7番。あと亀先輩が、様子を見ながら残る二人、4番と9番を。向こうに選手交代があったら、とりあえずはそのまま交代選手をマーク。もし四人が一気に上がってきたら、とにかく自陣に引いて、シュートは身体を張って絶対に打たせず、隙を見て幹枝先輩がクリアして下さい。とにかく気をつけたいのが、10番(前崎銀河)と7番(小菅穂ノ香)、集中して食い止めて下さい」

「あたしが4番9番を見た方がよくない?」


 早乙女先輩が珍しく口を開いていた。

 しかし、わたしは聞く耳持たず、そっこう却下。


「フィクソは最後の砦です。しんがりにいて下さい」

「……分かった」


 方向性の違いからチグハグになっても困るし、ということか、早乙女先輩はすんなり引いた。


「じゃ、それでよろしくお願いします! 四人に戻るまで、なんとか持ちこたえないと」

「そうだ、しっかりやれよ、お前ら」


 退場処分になったオジャ先輩が、なんだかどっかの社長みたいな作り声で、亀先輩バン先輩の肩を叩いた。


「はあ? 信じらんねえ! お前がいうか、それ! 梨乃、オジャになんかいってやれ! なにいっても、あたしが許す!」


 怒りに興奮する亀。

 そうまでおっしゃるのなら、じゃあいっちょいってやりますか。


「オジャ先輩のおっぱ…」


 ガッ、と、わたしの頬にオジャ先輩の右ストレートが炸裂した。


「許すっていったのに! ねえ亀先輩」

「あたしは許すけど、オジャが許すかは別だから」


 はあ? なんだこのクソ亀。


「あたしが許すわけねえだろ。乳を揉みちぎるぞ」


 嫉妬に吠えるオジャ。

 そっちが胸ちっちゃいのが悪いのであって、わたしに怒りをぶつけられても知るかよ。まあ、ここでそんなこといおうとしたわたしもわたしだが。


「タイムアウト終了、試合再開です!」


 審判が、両チームベンチに聞こえるよう大きな声を上げた。


「ああもおお、こんなバカなことしている間に貴重な時間があ」


 嘆くわたし。とはいっても、これ以上なにも話すことなどなかったけど。


 習明院としては、やることは一つ。

 ゴールを割らせない。

 ただ、それだけだ。


 人数が人数。

 流れを引き寄せあわよくば得点だ、などと欲張らず、とにかく絶対に二分間を耐え切らないと。先輩たち、頼むよ。


 しかし、わたしのその思い、それは残念ながらあっという間に打ち砕かれることとなった。

 わたしは、二つの致命的な読み違いをしていたのである。


 一つには、宇治法明館の勢いの読み違い。

 小菅穂ノ香が入ることで、そしてシステムを変えることで、守備のチームが一転して超攻撃的フットサルのチームに切り替わる。と、事前に情報を得て知っていたものの、まさかああまでの勢いで攻め込んでくるなど思ってもいなかったのだ。

 序盤からこちらの退場までの間、相手がずっと守備的で、こちらが猛攻をかけ続けていたこともあり、少しあなどってしまっていた。そう責められても、文句はいえない。

 タイムアウトを取る直前、何度か冷や冷やとするシーンを作られたものの、あれで凌ぎ切ったと思っていた。相手があれよりもさらに勢いを加速させるなど、考えてみもしなかった。

 そうした勢いの読み違えにより、ピッチに立つ選手たちへの注意喚起が疎かになってしまったのだ。


 二つ目の理由としては、マークの入れ替えが完全に裏目に出てしまったこと。

 ここはむしろ、先陣切って攻め込んでくる両翼をバン先輩と亀先輩に任せて、そして視野の広い早乙女先輩をこそ自由にさせて、残る二人を見させるべきだったのだ。

 せっかく早乙女先輩が、そう提案してくれていたのに。


 フィクソなんだから一番後ろで、などというフットサルにおいてまったく無意味な役割の決め付けを、わたしはしてしまったのだ。


 強豪相手に、一人少ない側が致命的なミスを犯したのだ。

 このあとどうなったか、もう語るまでもないだろう。

 つまりは、起こるべきことが起きたのである。


 宇治法明館の最重要人物は10番7番という両翼の二人であるが、残る二人、4番9番の巧みにポジションを入れ替えながらの攻撃参加に、習明院は上手に対応することが出来ず。

 ならばととりあえず自陣へ引いて守ろうと選手たちが動き出したその瞬間、時既に遅く、4番からのパスを受けた7番に、守備陣を突破されていた。

 ゴール前、ゴレイロと一対一。


 7番、小菅穂ノ香、おそらく一番のテクニシャンであるが、あろうことかその7番が、がくりとバランスを崩し、よろめいた。


 そこを幹枝先輩は逃さず、飛び出した。

 しかしそれは引っかけだった。

 ゴレイロ、幹枝先輩を釣り出すための。


 7番、小菅穂ノ香は、ヒールで後ろへと転がしていた。

 9番、フィクソのなだもとしずくが、ガラ空きのゴールへと蹴り込んだ。

 ゴールネットが揺れた。


 0-1。こうして習明院大学は、ついに先制点を許すこととなったのである。

 先に失点することだけは、絶対に避けたかったのに。


 あちらの電光石火の早業をこそ褒めるべきなのかも知れない。

 しかし、こうした事態を未然に防げる機会はいくらでもあった。オジャ先輩の退場にしてもだ。


 主将代行として、責任を感じずにはいられなかった。


「まだ一点差。これからこれから!」


 わたしは声を張り上げた。

 本当は仲間よりも、萎えそうになる自分の心をこそ鼓舞しようと思ったのだけど、全然元気など湧いてこなかった。


よう先輩、お願いします」

「了解」


 洋子先輩は淡々というと、ピッチに入った。

 退場からまだ二分は経過していないが、失点したため、FPの補填が許されるのだ。


 こちらの焦る気持ちをついて追加点を狙おうというのか、宇治法明館は、まだ1-1-2のまま戦い続けた。


 攻撃は最大の防御という言葉の通り、宇治法明館の攻めに習明院は防戦一方で、とても攻撃に出ることが出来なかった。


 序盤のように守備的にくればそれはまさに貝のように硬く、攻撃に転じればその勢いは相手を防戦に追い込み攻撃を封じ、なす術が無いとはこのことだった。


 時折、洋子先輩が抜群の個人技を見せて相手を抜き去り、シュートチャンスを作ることはあったが、それは単発で終わり、相手にとって脅威とまではなっていなかった。


「亀先輩、交代!」


 わたしは半ば無意識にそう叫んでいた。

 遅れて、確かにここは交代した方がいいなと理性で判断していた。


「頼むぞ、おい」


 亀先輩は、まだまだやりたかったのだろう。一気に劣勢となった流れを、自分の力で取り返したかったのだろう。渋々、といった表情で戻ってきた。


 交代し、わたしはこの試合で初めてピッチへ足を踏み入れた。

 確固とした対応策あっての交代ではない。

 むしろ、そうした策が無いからこそだ。


 中に入ればなにか攻略の糸口が掴めるのでは、そう漠然と思っていたら、つい交代の言葉が口をついて出てきたというだけだ。


 思えば以前から、どう攻略したらいいか分からなくなる度に、こうやってきてたからな。中ならば外へ出ろ、外ならば中に入れ、前ならば一歩引け、後ろならば前へ出ろ、と、わらみなみ時代の先代部長の言葉を実践して。

 それは精神的なことをいってるだけで、本当にピッチを出入りしろといってるわけじゃないんだろうけど。


 しかしながら、そうしてピッチに入ったはいいものの、それは結果として痛々しい残酷な光景をただ間近で見てしまうというだけのものに過ぎなかった。


 1-1-2で怒涛の攻めを続ける宇治法明館、10番前崎銀河が前へ飛び出し、名取圭子からの長いパスを受けた。


 いや、間一髪、早乙女先輩が前崎銀河の前に身体を入れ、パスが繋がるのを阻止。幹枝先輩がゴール前から飛び出して、大きくクリアした。

 ボールはハーフウェーラインを越えて落ち、小さくバウンドして転がった。


 9番灘元雫が走り寄って拾おうとするが、その前を洋子先輩が駆け抜けて、ボールを奪っていた。


 クリアから、思わぬチャンスが訪れた。洋子先輩は迷わずドリブルで、宇治法明館ゴールへと向かっていった。


「うお、やば!」


 前崎銀河は慌てて洋子先輩の背中を追い掛けたが、その背中は既に遥か遠く。


 ゴール前で、洋子先輩はゴレイロと一対一になった。

 それはまるで、対がわ女子戦の再現だった。

 洋子先輩が、我慢出来ずに飛び出してきたゴレイロを見事なボールタッチでかわし、シュートを打とうとした瞬間、斜め後ろから飛び込んできたフィクソに足を蹴られ、吹っ飛ばされたのだ。

 審判の笛、そしてレッドカードが掲げられた。


「すみません……」

「気にすんな。ドンマイ。守るから大丈夫だよ」


 フィクソ灘元雫は前崎銀河の笑顔に励まされるが、落ち込んだその表情は一切なごむことなく、すごすごとピッチを後にした。


 こうして宇治法明館は一人退場、習明院はPKを獲得することになったのである。


 なにからなにまで瀬野川女子戦と同じ展開であったが、唯一決定的に違うところがある。


 それは、洋子先輩が倒れたまま起き上がってこないことだった。

 身体を丸めて足首を押さえ、顔を苦痛に歪め、ばたんばたんと転げ回っている。


 いつもクールな洋子先輩が、すっかり涙目だ。どれだけの激痛が彼女を襲っているのか、想像するまでもなかった。


 審判は手招きで、壁際に立つ係員に担架を要請。

 係員が二人、小走りにやってきて、洋子先輩の足首に触れ、簡単に状態を確認すると、担架へと担ぎ上げた。


「大丈夫ですか?」


 わたしも担架へと寄り、苦痛に呻く洋子先輩を見下ろした。

 あれで大丈夫なはずないだろう。そんなこと分かってはいたが、それ以外にかける言葉が思い付かなかった。


「油断した。ごめん、無理みたい」


 洋子先輩は顔を激痛に歪めながらも、なんとか笑顔を作り出した。

 せめてPKだけでも、洋子先輩が蹴ってくれればよかったんだけど、まさかこんな状態でそんなこと頼めるはずもない。


「あたし、蹴ります」


 わたしは先輩たちの顔を見た。

 みな無言ではあったが、反対する者はいなかった。

 こんな時のPKなんて、誰も蹴りたくなんかないよな。


「それと、、入って」


 ベンチのこしざきを手招きした。負傷退場した洋子先輩の代わりだ。


 わたしはペナルティマークにボールをセットした。

 柄ではないかも知れないが、両手を組んで、神様に祈った。

 組んだ手を解いてゆっくりと腕を下ろすと、ゴール前で構えているゴレイロのじゆんに、睨み付けるような視線を送った。


「梨乃、リラックスリラックス! お尻の力緩めて!」


 ベンチから、ないとうさちの全然リラックスしていない上擦った声。

 分かってるよ、うるさいな。


 審判の笛。

 わたしはゆっくりと、ボールへ近づいていった。


 ゴレイロは、ぴくりとも動かない。まるで蝋人形のように。

 それがたまらなく不気味だったが、そんなことに怖じけづいていては、決まるものも決まらない。勝てる勝負も勝てない。

 向こうだってきっと緊張と戦っているんだ。


 これは、それぞれの、自分との戦いなんだ。

 それに勝ち、そしてこの試合にも、絶対に勝つぞ。


 いくぞ!

 すべての迷いや恐怖を振り払い、右足一閃。

 ゴール隅、床ぎりぎりの浮き球、最初から考えでいたイメージの通りに蹴り、そのイメージの通り、ボールは飛んだ。

 決まった!


 と確信し、拳をぎゅっと握った瞬間、ボールは鋭角に軌道を変え、大きく跳ね上がっていた。


 ゴレイロの佐々木順子が逆を突かれながらもなんとか足を当て、踵で蹴り上げたのだ。


 あとほんの少しわたしに運があれば、そのままゴールネットの上側に突き刺さっていたかも知れない。しかし現実は、バーをかすめるように跳ね上がって、落下をゴレイロに楽々キャッチされただけだった。


 軌道は完璧だった。

 あとちょっと運があれば……いや、わたしの勝利への気迫が、ゴレイロのそれを上回ることが出来なかった、ただそれだけのことだ。


 習明院は、オジャ先輩の幻のゴールに続く決定的絶対的な得点のチャンスを、またも逃がしてしまった。


 このPK阻止に、まるで勝利したかのように、抱き合い喜ぶ宇治法明館の部員たち。


 それはとても悔しいけど、それより意外なのは、習明院の誰も、がっくり肩を落としている者がいなかったこと。

 守備の硬い宇治法明館から、一点を返して同点に追い付けるチャンスを逃してしまったというのに。


「ま、気にすんなよ。PKなんざ決まるも決まらないも所詮は運よ」


 バン先輩が、わたしに冗談ぽく肩をぶつけてきた。

 どうしたんだろう。「このクソが!」ってラリアットでもされると思ったのに。いつも、わたしがミスでチャンスを逃すたびに、そんなことしてくるくせに。


 みんなが落ち込んでいないのに、わたしだけ落ち込んでなんかいられないか。

 PKによる得点は逃してしまったが、しかしこれから二分間、相手は一人少ない状態になる。

 その間に、点を取ればいい。

 そうすれば、PKを決めたのと同じことだ。


 灘元雫の退場により人数の少なくなった宇治法明館であるが、選手交代で修正を図ってきた。

 攻撃的な選手である小菅穂ノ香を引っ込めたのだ。


 一人少ない以上はどうしても守備的に回らざるを得ないし、もう三試合目ということもあり、もともと体力に難のある小菅穂ノ香をあまり出し続けたくもない、というところだろう。


 代わって入ったのが、3番、フィクソのもみえいだ。


 習明院としては、絶対的な得点チャンスの二分間であったが、懸念としては、オジャ先輩や洋子先輩という主力ピヴォがいないということだった。


 しかし彼女らはもうピッチに立てないというのが間違いのない現実であり、こしざきしなざきすず、残った二人のピヴォにやってもらうしかなかった。さわ主将だって、能力あると思えばこそメンバー登録したんだから。


「富美! 一年生だからって遠慮しないで、どんどん仕掛けて! みんな、絶対に点を取ろう!」


 習明院はその言葉の通り、点を取りに出た。相手の少ないことに乗じてボールを回し、仕掛け、腰崎富美を中心にどんどんシュートを狙っていった。


 宇治法明館は、徹底的に自陣に引いている。

 集中して、ゾーンを決めて守っている。

 ゴレイロ佐々木順子が素早い判断で、マークの受け渡しを味方に指示している。


 習明院は、仕掛けるスペースさえあれば仕掛け、打つスペースさえあればとにかくシュートを狙った。


 しかし宇治法明館の選手たちの集中力は、退場によりむしろ極限にまで高まっており、ことごとく突破を阻止し、ことごとくシュートをブロックし続けた。


 こちらが手をこまねいて焦りながらも隙を伺っていると、ゴレイロが的確な判断で一瞬にして飛び出してボールをクリア、もしくはそのままドリブルで上がって時間を作ったり、わたしたちが退場で少なかった時にやりたいと思っていた守り方を、彼女たちは一歩進めたどころか完璧なレベルでこなしていた。


 なにが悔しいかって、攻めあぐねる自分たちの実力不足に対してもそうだが、相手からまったく焦りを感じないことが一番悔しかった。

 相手、一人少ない状態だというのに。


 やはり習明院は、相手の怪我に乗じて関東制覇出来ただけの、そんな実力に過ぎないのだろうか。それとも、わたしの指揮なんかでは習明院は本来の力を発揮出来ないのだろうか。


 宇治法明館の選手たちは、なんだかつまらない流れ作業であるかのように、わたしたちの攻撃を淡々と阻み続けた。

 わたしたちは、これでもかとばかりに様々な攻めのバリエーションで崩しにかかっているつもりだというのに。


 結局、相手の退場からの二分間、なんのドラマも生まれることはなかった。

 選手が補填され、宇治法明館のFPは四人に戻った。


 また前掛かり陣形にでもなるかと思ったが、序盤と同じ1-2-1のダイヤモンドだ。


 習明院が焦ってガムシャラに攻めてくることに付き合って受けてしまい運悪く失点、というのを防ごうという狙いだろう。そしてベンチに下がった小菅穂ノ香の体力回復を待って、ダメ押しの追加点を狙う、と。


 かくして客観的に見る攻守の構図としては、序盤とまったく同じものになった。


 とにかくボールを回し、攻め込む習明院、

 自陣へ引き、相手にボールを持たせ、とにかくゴールを割らせない徹底した守備の宇治法明館。


 しかしながら、同じといってもそれは見た目だけのことであり、わたしたち当事者にとって、序盤と現在の試合内容は似て非なるもの、まったく異なるものだった。

 それは物理的というよりは、むしろ精神面において。


 宇治法明館の選手たちにも、一点取ったということによる心理への影響はあるかも知れないが、そんな些細な問題など比較にならないくらい、わたしたち、習明院の選手たちにこそ心理への大きな影響が現れてしまっていた。


 つまりは、試合序盤の相手をあなどる気持ちが一転して、相手を怖れ、飲まれてしまっていたのである。


 序盤同様にこちらがボールを回し、攻め込んでいる状態ではあるものの、それは相手があえてそうさせていること、つまりは手のひらで躍らされているだけであるということを、もう充分過ぎるほどに思い知らされていたから。


 でも、躍らされていると分かってはいても、それでも先制されてしまった以上は攻め続け、なんとか得点を奪うしかなかった。

 実際、いくら相手の守備が硬いとはいえ、攻め続けた結果、相手の退場や、PKのチャンスだってあったのだから。

 またそうしたチャンスがやってくることを信じて。


 だから、頑張れ、みんな。

 わたしはそう強く心の中で叫んだ。


 しかし、習明院はただ頑張っただけに過ぎなかった。なにも得るものなく、ただ走り回ったに過ぎなかった。

 腰崎富美を品崎涼羅に代えるなどして、状況の打開を図ろうとするもののまるで好転の気配なく、そして前半戦終了を告げる笛の音が鳴った。


 柔らかであるが故に異常に硬いという宇治法明館の守備戦術を崩すことが出来ず、習明院は一点のリードを許したまま、ハーフタイムを迎えることとなった。


     3

 いつ土砂降りが来てもおかしくないくらいの、どんよりとした曇り空であった。

 わたしの、心の中は。


 建物の外、現実の空も、いまにも降り出しそうな天気ではあるけれど、わたしのそれに比べればなんということはないだろう。


……梨乃ってば! どうした? 表情暗いぞ」


 隣でわたしを心配そうに見つめているのは、ないとうさちだ。


「ああ、内藤か。そりゃ、暗くもなるって。守備が硬すぎるよ。三年生が完全に研究されてんだもん。どう攻略すればいいのか。スコアレスのままだったなら、相手の焦りをついた戦い方も出来たかも知れないのに」

「でもいま主将の代わりなんだから、泣き言をいっても仕方ないだろ」

「じゃあ、内藤に主将の座をバトンタッチだ」


 冗談でそういっただけなのに、内藤は恐れ多さに飛び上がった。


「嫌だよ! 部員を率いるなんて、高校時代だけでもう充分。というか、そんな自信ないなら主将に返上しろ。そもそも梨乃はさあ、考え過ぎなんだよな。ごちゃごちゃごちゃごちゃと、女みたいに」

「なあにいってんだか。いかつい顔の分際でいつもごちゃごちゃ考えて無駄に悩んでんのって、どっちかといえば内藤の方……あ……それだっ!」


 わたしは思わず腹の底から大声で叫んでいた。


「うお、びっくりした!」


 飛び上がる内藤。


「なんだよおい!」

「ごちゃごちゃが逆にいいんだよ、ごちゃごちゃがさあ」


 わたしは笑みを浮かべると、内藤の腹に思い切りパンチをくれてやった。ぐほっ、と内藤は息を吐いた。


「なにすんだよ!」

「ありがとう内藤。いまのお礼代わり。お釣りいらないから」

「いらないどころか、むしろ百倍にして返してやりたいよ」

「あたし平和主義者だから、ケーキかなんかがいいな」

「平和主義者が、いきなり人のお腹にパンチくれるかよ!」


 ムキになってる。本当に、内藤をからかうのは面白い。

 そんなことより、わたしに人をからかえる余裕が復活していたことに対して、内藤に感謝だ。


「バカリーノ、なにちんたらもたもた歩いてんだ!」


 さわ主将の雷。


「はい! すぐ行きます!」


 わたしは速足でベンチ前へと向かった。

 しかし、まさか内藤から攻略のヒントをもらうことになるとは。


 というか、とっくに考えていたことではあるんだよな。ならばとっとと決断し、実行に移すべきだったんだ。

 どうしようどうしようばっかりで、すっかり保守的になっていたよ。


「すみません、遅くなりまして。ちょっと内藤に悩みを聞いてもらってたんで」

「性の悩みか? 体位とか、それともクラミジアとか」


 幹枝先輩がバカなこといってる。


「違いますよ! 後半をどう戦うかですよ! なんで決勝のハーフタイムに性の悩みを相談しなきゃならないんですか!」

「なんだ、試合の話か。で、答えは出た?」

「はい」


 わたしはにんまりとした笑みを浮かべた。


「ちょっと偉そうなこと、いっていいですか? いいですよね。あたしいま主将なんだから」


 わたしはそう前置きをし、みんなの顔を見回すと、改めて口を開いた。


「みんな、よくここまで頑張ってくれた。あたしなんかの指示を聞いて、守ってくれて、ありがとう。……あと一勝、この試合に勝てば優勝。ここまで来ただけでも凄い。もちろん、みんなの活躍があったからこそだけど、特に三年生の力がなければ、ここまで勝ち進むことは出来なかった」


 わたしは、また口を閉ざし、三年生たちの顔を見た。

 バン先輩や幹枝先輩が、おべっか使ったってなんにも出ねえぞといった感じに苦笑を浮かべている。


 わたしは、続けた。


「みんなも知っての通り、三年生のみんなは、ガサツで、暴力的で、意地は悪いし頭も悪いし、忍耐力も度量も上品さも微塵も持ち合わせていない、言葉より先に手が出るような、人前でおならしても全然恥ずかしいとも思わない、本当に最低最悪な生き物です。唯一勝てるのはアメーバか赤痢菌か。でも、あたしは知ってます。バン先輩、えいがテストで追い込まれてた時、教授の過去問や傾向と対策まとめた紙を、栄子のバッグに詰め込んでましたよね」

「え、そうだったんですか? あれほんと助かったあ! え、じゃあ、あたしが進級出来たのって、バン先輩のおかげ?」

「知らねえよ、そんなこと! お前が留年しようが知るか」


 バン先輩は、もとえいの頭をぶん殴り、わたしの顔を睨み付けた。


みき先輩、ウマヨがリーグ戦で不可解レッドで退場した時、後で審判や相手の選手たちのとこに乗り込んで、かけあってくれてましたよね。あいつはそんな危険なプレーなんかしない、絶対に納得いかない、なんでウマヨが負けた責任背負って泣かなきゃならないんだ、って」

「それ……本当なんですか?」


 と、のうは幹枝先輩の顔を覗き込むかのように見つめた。


「いや、嘘嘘、そんなこと。梨乃、適当なこというな。あたしが、そんなことするはずないだろ」


 幹枝先輩は、鼻を人差し指で押さえ、ぐしゅぐしゅとかいた。


「ええと、亀先輩、あたしたちの成長日記をつけてますよね。表紙は確か、『鬼になる』でしたっけ? おかげで、タフに鍛えられましたよ。ありがとうございます」

「お前なんで知ってんだあ! あ、いや、違う、そんなん知らねえ! なにいっちゃってんの、お前え。またケツ蹴っ飛ばすぞ。つうか掘るぞ! ああ、まったくバカバカしいな!」


 亀先輩は、どんと床を踏み鳴らした。


「それと……退場したからもうどうでもいいんだけど、一応オジャ先輩。去年、男子部の…」

「おりゃあ!」


 オジャ先輩が、突然雄叫びを上げ、わたしの顔面をフック気味に殴りつけてきた。

 よろけるわたしに掴みかかると、押さえ付け、腕を回し、身体をぎちぎち締め上げてきた。


「コブラツイストぉ! どうだ、これ以上に理不尽かつ最悪な先輩が他にいようか!」

「いててて! オジャ先輩、痛い! で、男子に、混じって、練習、してましたよね、後輩たちが好きで、可愛いから、絶対に負けたくない、迷惑かけたくないから、とかいって、あいたた!」


 締めつけが、不意に解けた。

 すべてを暴露されたからだろうか。オジャ先輩は、ちょっと下を向いて、なんだかおとなしくなってしまった。


「ま、まあ、そんなことしたりいったりしたことも、あった、かな。よく覚えてないけどぉ」


 床をほじくるように、爪先を回転させた。


「なんかあ、先輩たちが可愛く思えてきましたあ」


 元木栄子が、乙女のように両手を組んで、目を輝かせた。


「うるせ、殺すぞ! そんなんより、後半の対策はどうすんだよ!」


 バン先輩が、照れ臭さを振り払ってわたしに詰め寄った。


「いまのが、すべてです」

「えーーーっ!」


 みんなが一斉に、驚きの声を上げた。


「ま、あと一つ付け加えるのなら、後半のピヴォは、でずっとやります」

「え、あたし、そんな」


 突然そんなことをいわれ、こしざきはうろたえた。

 人間の心理は面白いものである。登録メンバーなのだから出場することは当然であるし、実際にもう何回もピッチに立っているというのに、改めてそういわれるとこうして自信なくおびえてしまうのだからな。


「さっきの試合だって、ゴール決めてるでしょう」

「あの、それは、そうですけど、でも、こんな、決勝の、大事な時に」

「大丈夫。思い切ってやれ。他には、とりたてて話すことはありません。普段通りで」

「他にはもなにも、なにか戦術の話したか? ちょっといい話を、でっちあげて喋ってただけじゃねえかよ。ったく、人を勝手にダシにしやがってよ」


 バン先輩がぼやく。

 でっちあげじゃないんだけどね。


 去年、内藤が先輩のしごきに泣いてばかりだった頃、わたしも先輩には頭にきていたし、ちょっと弱みを握ってやるかと調べて分かったこと。


 意外な事実に、先輩たちへの恨みはすうっと消えてしまったのと、内藤が実はマゾなのかいじめに慣れてきたこともあり、これらの話はずっとわたしの胸の中だけにしまっていたのだけど。


「バン先輩、なにか戦術の話をしたか、って? これ以上にしっかりとした戦術の話なんかないでしょう」


 わたしは、ちょっとした悪戯をした時のように、微笑んだ。


 対戦相手の強さと、現在の状況と、どこをどう考えても習明院は危機的状況にある。

 だからこそ、みんなの気持ちを一つにまとめること、これ以上の戦術はない。


 実際の戦い方に関しては、戦局を見ながらリアルタイムに指示していくつもりだ。

 ここでわたしたちが一つになれるかどうか、これが、先ほど内藤が教えてくれた攻略法を実践出来るかどうかの鍵になってくるのであるが、

 でも、心配は、いらないようだった。


「よおし、それじゃあやってやろうぜ! みんな、あたしの分も頼むぞ!」


 オジャ先輩が右拳を突き上げた。


「おー!」


 他の部員たちが笑顔で応じた。


「なんか質問はあるか? ……別に試合と関係なくってもいいぞ」


 オジャ先輩はみんなの前に立って偉そうに踏ん反り返った。


「なんでお前が仕切ってんだよ。退場したくせに!」


 亀先輩が、オジャ先輩の耳を引っ張った。


「あのう、オジャ先輩って、なんでオジャっていうんですか?」


 一年生のえんどうゆうが、肩を縮こませながら、おずおずと手を上げた。


「え……」


 わたしたちはみな、目が点になっていた。


「知らなかったの?」


 別の一年生であるこしざきが、驚いた顔。

 誰かがぷっと吹き出したことを合図に、一瞬にして大爆笑の渦に包まれていた。


 オジャ先輩は、なにかにつけてオヤジギャグばかりいう新入部員だったらしい。といっても、オヤジからオジャになったわけではない。


 理由は実に下らない。

 ある日先輩から「かずっていつもオヤジギャグばかりいってるよね」といわれ、反射的にまたオヤジギャグで返そうとしたが、考え事で少しぼうっとしており、「おや、おじゃ、おじ、おじゃる」などとワケの分からないことをいってしまい、そこを思い切りからかわれ、当日中にあだ名になってしまったのだ。


 それからオジャ先輩は、その発端となったオヤジギャグを封印し続けている。

 部員なら誰もが知っていると思っていたのに。


「あとで教えてあげるね」


 と、元木栄子。


「教えなくていいよ、この声甲高女が! おめえらも、笑うな! あったま来た! じゃあ、強制問答タイムスタート! 質問を受けたら絶対に正直に答えること! それではあたしは亀ちゃんに質問しまーす。彼氏に浮気されて振られて捨てられたショックは癒えましたかあ?」


 小バカにするような口調で質問を振られた亀先輩は、口調を真似して即答。


「まったく癒えてませーん。毎日一人で泣いてまあす。でも、早くこの苗字を変えたいので、そろそろ婚活したいでえす。それじゃああたしはあ、内藤にしつもーん。内藤はあ、あんなに汗水たらして無駄に苦しそうに走ってんのにい、なんでそんなに太ってんのお?」

「失礼な! 骨太体型なだけで、体脂肪二十もありませんよ!」


 確かにその通り。一緒に住み始めた頃、お風呂上がりに体重計で体脂肪測定してるのを覗き見て、びっくりした記憶がある。亀先輩も骨太で筋肉質なだけと分かっていて聞いてるんだろうけど。


「じゃあさつちゃんからあ、ズラにしつもーん。ズラってえ、何パーセントくらいが地毛なんですかあ?」


 誰が幸ちゃんだよ。


「もうズラっていうのやめろ! 百パーセントに決まってんだろ!」


 しなざきすずは顔を真っ赤にして答えた。


「くそ、覚えとけよ内藤。ならあたしは先輩に聞くぞ。幹枝先輩!」

「なに、初体験いつかって?」

「違います! あ、じゃあそれでもいいや」

「絶対に教えなーい。まだかも知れず、はたまた中二の五月二十六日に幼なじみの彼氏の部屋でかも知れず。すべては永遠の謎の中」

「教えないなら自分から振ってこないでくださいよ。というか答えいっちゃってません?」

「だからそれは教えないってば。いまいったうちのどっちかだけど。あたしは誰に質問しようかなあ。そんじゃ梨乃に決定! 梨乃はあ、誰もいない部室でえ、おっきなスプーン両手にたこ焼きでお手玉にチャレンジしてて、全部落として床にぶちまけて、途方に暮れつつもべしゃっと潰れたたこ焼きを拾って食べてましたあ」

「ぎゃー!」

「それ本当!」

「梨乃先輩きもっ!」

「いやー、想像しちゃったー!」


 口々に叫ぶ部員たち。


「なんで知ってんですか! というかそもそもそれ、質問じゃないじゃないですか!」

「あ、そっか。じゃあ質問。たこ焼き美味しかった?」

「はい美味しかったですよ。床に染み付いた、先輩たちの血と汗の味がしてね」

「なに強がってんだよ」


 幹枝先輩が笑うと、続いてみんなが一斉に爆笑した。

 そのあまりの騒々しさに、宇治法明館の選手たちが、すっかりと面食らったような表情でこっちを見ている。


「幹枝先輩、絶対これさっきの仕返しでしょ。……じゃあ、あたしはみんなに質問しようかなあ。えっとお、みんなはあ……」


 わたしは、ぐるりとみんなの顔を見た。


「フットサル、好きですか?」


 すっかり砕けきった中でこのような質問を受け、みんな、黙ってしまった。

 何秒かの沈黙ののち、


「はーい」


 元木栄子が手を上げた。


「あたりまえー」


 バン先輩が、器用に足を上げた。


「好きに決まってんじゃん。愚問」


 ズラ。


「嫌いな奴がここにいるわけないだろ」


 亀先輩が笑った。


「だよね。せっかくフットサルを好きで、好きだから辛い練習にも耐えて、ここまで来たんだから、いまみんなが見せてくれているその笑顔で、後半戦を思いっ切り楽しんで下さい! またとないかも知れないこんな試合、骨の髄まで堪能しなきゃ勿体ない。以上、いつも自分が考えていることを、主将代行としての立場を借りていわせて頂きました。それでは後半も頑張ろう」


 よし、上手くまとめて着地びしっと決まった!

 と思ったら、内藤の奴が、


「たこ焼き……」


 などと笑いをこらえているのがみんなに聞こえてしまい、わたしの言葉などすっかり掻き消されて、また大爆笑の渦に包まれたのだった。


     4

 笛の音が鳴った。

 後半のキックオフだ。


 泣いても笑っても、これがこの大会最後の試合。

 だったら笑って終わってやる。

 そのために、ありとあらゆる手を尽くす。


 ピヴォはハーフタイムに話した通り、一年生のこしざき

 フットサル歴は長く基本技術はとても高いけど、先輩たちの迫力に押されてこれまで影に隠れてきていた存在だ。がわ女子戦で、硬い守備をこじ開けてゴールを決めているし、緊張が解けて爆発することを期待したい。


 しゆうめいいんの現在のメンバーは、

 こしざき

 かめどり

 ばん

 早乙女さおとめみどり、

 みき


 と、腰崎富美が早速と仕掛けた。

 パスを受け取りに出た亀先輩へ出さずに、ふっと加速して相手をかわして抜き去ろうとしたのだ。

 意表をつくことには成功したが、緊張か疲労か実力かボールタッチのミスが出て、フィクソに奪われてしまった。


 パスを出して繋がれる寸前、横から飛び込んだ番場紗希が蹴り出してキックインに逃れた。


 ミスでチャンスを潰してしまった腰崎富美は、ちょっと縮こまったように、おどおどとした視線で先輩たちの顔を見た。


「惜しかった。その調子でガンガン行けよ。撹乱させてやれ。オジャのバカより、よっぽどセンスある」


 亀先輩が、富美の頭を撫でた。


「はい、頑張ります」


 富美の顔、相変わらずおどおどとしてはいるものの、でもちょっと明るい表情になったかな。

 とりあえずは、よかった。富美のことは、心配はいらないようだ。富美も、先輩たちも。

 よし、それじゃあ次は……


ないとう、出番!」

「え、え、あたし?」

「なに驚いてんの? メンバーのくせに。ぼけっと見てるだけのつもりだったんか」

「いや、ハーフタイムになんにもいわれてなかったからさ」

「そりゃあ誰にもなんにもいってないもん。周囲の選手が色々と違うけれど、とりあえず内藤は普段通りやればいい。でも、ちょっとだけ富美へのフォローの意識を持ってあげて」

「了解」


 ないとうさちが、バン先輩に代わってピッチへと入った。


 5番みねしいのパスを、早乙女先輩が奪った。すかさず前方へとパスを出した。


 入ったばかりの内藤の足元に収まった。相手のフィクソを背負ってキープだ。首を動かし味方の位置を確認すると、駆け上がった早乙女先輩へと横パスを出すと見せて、逆足のヒールでボールを転がした。


 亀先輩がすっと動いてそれを拾う。いや、スルーだ。


 後ろに下がってマークを外していた腰崎富美が、一気に前に駆け上がってそのボールを受けていた。

 一瞬にして、習明院は相手を崩して決定的なチャンスを迎えた。

 腰崎富美はゴール真正面から突っ込んでいく。


 ほうめいかんのゴレイロであるじゆんは飛び出さずに、腰を軽く落として身構えた。


 ゴールまで数メートルの至近距離、富美は走りながら素早く右足を振り抜いた。


 完全に枠を捉えていたが、ゴレイロは関西リーグナンバーワンの実力を発揮し、右手を当てて弾いた。かろうじて、ではあったのだろうが、それにしても凄い反射神経だ。

 だけど攻撃はまだ終わっていない。


 小さく上がって落ちるボールへと、シュートを放った腰崎富美自身が飛び込んで、頭を叩き付けた。

 しかし、間髪入れずに放たれたこのヘディングシュートにもゴレイロは反応、しかも今度は両手でがっちりとキャッチした。


「集中!」


 佐々木順子は味方へと怒鳴ると、ボールを大きく放り投げた。

 習明院は、またもや決定機を逃してしまった。


 でも……

 やれる。

 立て続けにチャンスを得たことに、わたしはそう確信を抱いていた。


 わたしがやろうとしているのは、三年生と下級生との融合。

 ここでそんなことにチャレンジなど無謀もいいところといわれるかも知れないが、主力である三年生のピヴォが二人とも出場不可能になったことで、踏ん切りがついた。


 今年の習明院は確かに強いが、それは三年生たちの阿吽の呼吸によるチームワークによるものが非常に多くの割合を占めている。

 だからこそリーグ戦では、二巡目は相手に研究され、なかなか勝ち切れなくて苦労もした。


 最終節の対戦相手であるかまくらきよういく大学は、強豪のプライドなのかガチンコ勝負を挑んできてくれたのと、あちらの怪我人の影響もあって、我々が勝利し、優勝することが出来たのだが。


 この試合の前半戦、宇治法明館の守備がとにかく硬かったのだが、個々の能力が高いだけでなく、情報収集が完璧なのもあるのだろう。おそらくは、関東リーグでのわたしたちの情報、完全に把握しているのではないだろうか。


 戦う可能性のある相手の情報を取りあえずすべて取得しておき、事前に監督が対策を練っておき、そうして打ち立てた戦術を試合前に選手たちに教え込む。試合中に修正していく。

 うちのように、が監督一人しかおらず、なおかつ男子にかかりっきりな、戦う組織としてなんとも未成熟なチームにはとても真似出来ない芸当だ。


 ここでなにがいいたいのかというと、三年生だけで完成されてしまっているのが現在の習明院の躍進の原動力であるが、しかし突かれれば脆いアキレスの踵でもある、ということ。


 その点以外、今年の習明院に確固とした形という形は無い。従って、情報を仕入れて研究するということは、すなわち三年生のコンビネーションについて対策することに他ならない。


 二年生と一年生は、おそらく相手は詳しい情報を持っていないと思うものの、しかし個人の実力として三年生に若干劣るのは仕方のないところ。


 そこで考えたのが融合。

 内藤いわく、ごちゃごちゃだ。


 セットの入れ替えをせずに、三年生の中に一年生二年生を、一年生二年生の中に三年生を溶け込ませようと思ったのだ。


 これって普通のチームならわざわざ考えるまでもない至極当然のことなんだけど、今年の習明院は、そのあたりがちょっといびつなので。


 リーグ戦で勝ち切れなくなってきたあたりから、そういう危機感はあったのだけど、わたしに発言権などなかったので、どうしようもなかった。


 主将代行という身分となり、三年生ピヴォが二人とも出られなくなったことで融合を思い付いたわけだが、ハーフタイムで細かな指示を与えるよりも、下級生が受けている三年生から発せられている威圧感、これをどう解消するかの方がよほど大事なことだろうと思った。


 だからこその、あのバカ騒ぎだったのだ。

 みんなの心を繋ぐための。


 一年生の腰崎富美もそれほど畏縮することなく伸び伸びとやれているようだし、想像以上に効果はあったようだ。

 まさか、たこ焼きお手玉を見られていたとは思いもしなかったけど。


 誰が出ていようとも習明院としてやることが大きく変わるわけではない。しかし選手自体が異なることにより、これまでと違う連係が生まれつつあった。


 相手は、研究したことと微妙に違っていて、少しやりにくくそうになっていた。


 反対に我々は、相手のやり方を三年生が戦っている間にしっかりとベンチから見ていたから、それなりに対応が出来ている。


 宇治法明館に要注意人物こそあれのような超人ではないため、相手の強さや我々の弱さを、計算して戦うことが出来る分だけ、みんな、精神的な余裕があるようだった。


 あのがわ女子との激戦をくぐり抜けられたのは、いまさらながら大きかったということか。肉体的な疲労も大きかったけど。


 とにかくその精神的な余裕と、相手の微妙な混乱に乗じて、習明院はまたチャンスを作った。

 亀先輩が駆け上がり、シュート、ゴレイロが弾いたボールへと内藤が飛び込み、丸太のような右足を豪快に振り抜いた。

 しかし内藤バズーカ不発。残念ながら宇宙開発だ。


「なにやってんだよもう! このブタ! 死ね! ピッグ! デブ! ブタ! 死ね!」


 亀先輩、せっかく一年二年と三年生がよい感じの雰囲気になってきているというのに、内藤に対してだけは相変わらずまったく容赦がない。


 でもきっと、内藤はもう、そういうキャラなのだ。おどおどしてるくせに、怒鳴られぶっ飛ばされて能力を発揮するタイプなのだ。

 ほら、走り込んだ内藤の巨体が宙に舞って、相手に競り勝ってハイボールを勢いよく跳ね返した。動きがよくなってる。


「内藤バカ死ねえ!」


 わたしも亀先輩に続き、まったく意味もなく内藤を罵倒した。

 その効果か分からないが、内藤は腰崎富美からのマイナスのパスを受け、3番をかわしざま、シュートを放っていた。


 実に積極果敢な攻撃であったが、残念ながらゴレイロにキャッチされてしまった。

 しかしながら、相手に相当な驚異を与えたようで、


「シイナ、もっと11番と12番の間に入るようにしろ! コハル、もう少し上がれ! びくびくするな!」


 向こうの監督が、怒鳴り声を上げ、修正を施そうと必死だ。

 そうはいくか。せっかく流れを掴みかけたというのに。


「交代!」


 あちらの監督の声を掻き消すかのような大声を、わたしは張り上げた。


 かめどり、内藤幸子 アウト

 むらばん イン


 宇治法明院が、引いてパス回しをしているが、わたしはピッチに入るなり、ボールを受けようとしている10番へと身体を突っ込ませた。


 勢いに任せ、奪い取った。

 と思ったら、足は虚しく空を切っていた。


 10番、まえざきぎん、佐治ケ江が要注意人物と認めるだけあって、ただ闇雲に突っ込んだところで千回やったって奪えるはずないか。

 でも、踏ん張ってなんとか足を当て、タッチライン外に掻き出してキックインに逃れた。


 宇治法明館のキックイン、キッカーのみねしいは戻すように大きく蹴った。


 まさかフットサルで、この時間から一点を守り切ろうとしているとは考えにくいけど、でも、相手はあまり攻めようとするつもりもないようだった。


 一点を守り切れるかどうかは別として、リードしているのは事実なわけで、そこを徹底的に駆け引きに利用しようということだろう。


 宇治法明館はあまり攻め込まずに、少し下がったところでパスを回し続けた。

 こちらとしては、追い付かなければすなわち終戦なわけで、ボールを追い掛け続けるしかなかった。


 流れを掴んだとはいえ、やっぱり硬いな、宇治法明館の守備は。

 一分、二分、と時間が流れ、ボールを追い掛け続け、わたしたちの呼吸は荒くなってきていた。


 無理もない。

 これは三試合目。しかも二試合目である瀬野川女子との戦いでは、みんな足が攣りそうになるくらい走ったのだから。


 いくら昼休憩を間に挟んでいるとはいえ、そこまで体力が回復するはずない。

 この大会は出場出来る選手が最大十四人と非常に多いのだが、しかし前の試合とこの試合とで、現在三人が出られない状態であるし。


 わたしは早乙女先輩ほど出場時間は多くないものの、パスを回され、取りに行ってはかわされ、やはり相当に疲労してしまっていた。


 でも、ピッチに立ったからには、せめて攻略の糸口だけでも発見したい。

 とはいうものの……なんて硬い守備なんだ。


 研究されていない一年二年を使っての連係は、それなりの効果は発揮しているのだけど、崩し切るにはいたっていない。

 現在、個人技で局面を打開するのも難しい状況だし、点を取るためには、あと、なにが必要なのだろうか。

 なにか、策はあるはずだ。


 早くなんとかしないと、このままでは疲労していくばかりだし、疲労し切ったところでまたすげなんかが出て来て追加点を奪われでもしたら、こっちは守備が決壊し攻撃も破綻し、完全迷走すること間違いない。

 点を取るために前掛かりにならざるを得ず、しかし意識はバラバラで、失点に失点を重ねることになるだろう。

 どうすれば……


 ん……いま、わたし、なんて……

 前掛かり? 失点?


 ああ……なんか、分かりかけて……

 ……分かったぞ!


「すみません、亀先輩、また交代!」


 わたしは、交代ゾーンからピッチの外へ出た。

 ちょっと危険だけど、でも、やるしかない。

 勝つ可能性を、少しでも高めるために。


「みんな、引いて! 守れ!」


 わたしの呼吸はまだ回復していなかったが、むせるのも構わず叫び声を上げた。


「バカリーノ、いま後半で、一点リードされてんだぞ!」

「あいた!」


 ぼかり、と後ろ頭をオジャ先輩に殴られた。


「後ろから叩かないで下さいよ。まあ、見てて下さい。賭けには、なりますけど」


 習明院が守りを固めたことにより、宇治法明館は少しづつ前へと出てきた。探るように、じっくりと。

 そして、

 交代ゾーンに、7番、小菅穂ノ香が立ったのである。


「おい、また攻撃的に出てくるんじゃねえの? ヤバイよ」

「確かに危険ですが、こうなるように仕向けました」

「仕向けたって、でも、防げなかったらどうすんだよ」

「負けます」


 小菅穂ノ香の投入とともに、やはり宇治法明館は攻撃のスイッチが入った。


 守備をかなぐり捨てているわけではないが、点を取りに行くことを基本としてアラを中心にどんどん攻め上がるようになった。


 小菅穂ノ香は前半に少し出場しただけで、充分に休んだし、こっちが引いたことで宇治法明館の守備負担は減ったし、だから、出てきたのだろう。


 どんなに守備に自信があろうと、フットサルは一点を守り切ることを最初から考えて戦うような性質の競技じゃない。

 だから、追加点を狙いにきたのだ。


 前崎銀河と小菅穂ノ香、二人のアラの積極的な攻め上がりによって、習明院は振り回されていた。


「ウマヨ、出番だ! 早乙女先輩、交代!」

「えーーっ!」


 のうが、素っ頓狂な声を上げた。


「こんな大変そうな時に、あたしぃ?」

「やるしかないの! ほら、行ってこい!」


 わたしは、ウマヨの背中をばんと強く叩いた。

 こうして早乙女みどり先輩に代わって瀬能真代が入った。フィクソの交代だ。ここだけは融合云々など関係なく、早乙女先輩のままでいて欲しかったけど、一番長く試合に出ていることもあって足がとまりかけていたから。


 いきなり修羅場へ放り出されたウマヨは、なんだか頼りなげではあったが、前線の協力もあって、なんとか攻撃を跳ね返し続けた。


 小菅穂ノ香投入から一分。

 ついに……きた。


 宇治法明館は、ピヴォを6番すずはるから4番とりけいに交代。それとともに、全体の陣形が変わった。


 ピヴォがすっと引いて、入れ代わるように前崎銀河と小菅穂ノ香、両翼がぐんと上がった。

 イプシロン。宇治法明館が超攻撃に出る時に使う、1-1-2の陣形だ。


 いまでも苦しいのに、これ以上攻撃的に出られたら、習明院は持ちこたえられるか分からない。もしもここで失点したら、おそらく習明院は守備崩壊して大量失点で負ける。


 でも、やるしかない。

 わたしは、唾を飲み込んだ。

 そして、叫んだ。


「ウマヨ残して、どんどん上がれ! とにかく一番前にいる奴に放り込め!」


 びっくりしたのは、習明院のみんなである。

 中でもピッチに立つウマヨ本人の驚き方は半端ではなかった。漫画みたいに飛び上がっていた。ただでさえ厳しい状況が、とうとう孤立無援になるんだからな。しかしフィクソのくせに、この気の小ささ。でも、やってもらうしかないんだから、頑張れよ。


 みな、わたしの指示に従い、タイミングを見ては前へ上がっていく。半ば、やけくそ気味に。

 それでいい。

 とにかく、上がればいいんだ。


 なんとかなるという保証はないけど、責任はわたしが取るから。

 頼むよ、みんな。

 特にウマヨ。ここで守り切れるかどうか、すべてはそこにかかっているんだから。


 宇治法明館の選手たちは、我々の無謀ともいえる上がりに、少しとまどっていたが、しかしプレーは冷静、意識合わせにも狂いはなく、5番与那嶺椎奈が腰崎富美のパスミスをカットしたその瞬間には、既に全員で習明院の陣地へと攻め込んでいた。


 一気にゴール前までボールを運ばれていた。

 ボールを持つ名取圭子に、おろおろしていたウマヨが意を決して突っ込んだ。


「ちが……」


 そうじゃない! そこはドリブルを遅らせつつパスコースを切って、ゴール前の守備をかためないと!


 遅かった。

 飛び込んだところをひらりかわされ、シュートを打たれていた。


 失点、か。


 いや、

 こちらにとって致命的ともいえる宇治法明館の二点目を、幹枝先輩がスーパーセーブで阻止した。

 コースも速度も完璧なシュートでわたしも失点を覚悟したが、しかし間一髪のところで幹枝先輩が腕を当て、ボールを跳ね上げたのだ。


 失点を防いだだけではない。

 この守備が、習明院の奇跡の一撃を呼んだ。


 ボールはラインを割ってはおらず、幹枝先輩は前崎銀河と競り合いながら、高く高くジャンプしてキャッチしていた。

 と、その瞬間であった。幹枝先輩は空中で、思い切り腕を振り、ボールを放り投げていた。


 絶好のチャンスに宇治法明館の全員が攻め上がっていたが、その頭上を大きく飛び越え、ボールはハーフウェーラインを越えて、落ちた。


 バウンドし、転がるボールを亀尾取奈美が走り寄って拾っていた。


 その瞬間に、いち早く全力で駆け戻った3番がファールも辞さないといった勢いで飛び込んできた。


 亀先輩は、ボールを守るように、身体を反転させた。

 どんと激しく胸で背中を押され、前へつんのめるがなんとか踏ん張りつつ、横へと転がした。


 それを受けたのは一年生の腰崎富美。

 彼女は息を飲むと、意を決し、ボールを大きく前へと蹴って、それを追い掛けて走り出した。

 フットサルでそう見られるものではない、いわゆる独走の状態になり、そして宇治法明館のゴレイロと、一対一になった。


 ゴレイロ佐々木順子は、飛び出さず、ゴール前で腰を低くして構えた。


 腰崎富美はドリブルの速度を落とすと、僅かに相手のタイミングを外してシュートを打った。


 するすると転がるボールは、ゴレイロの足先をかすめ、ゴールネットを揺らした。


「やった!」


 わたしは叫んだ。

 周りも、ピッチの仲間たちも、歓喜の雄叫びを上げていた。


 これで同点だ。

 後半十二分、ようやく追い付いたぞ。


 宇治法明館の選手たちは、みな悔しがっている。

 特にゴレイロは、床を何度も蹴りつけ、仲間にだか自分にだかは分からないがなにやら怒鳴り散らしている。


「梨乃先輩!」


 腰崎富美が大声を上げながらこちらに走ってきた。


「やりました! あたし、やりました!」


 すっかり興奮したように、わたしに抱き着いてきた。


「大会二点目なのに興奮し過ぎ。でも、ほんとによく決めたよ。ありがとう」


 わたしは富美の頭を撫でててやった。


「それと幹枝先輩も、ありがとうございます!」


 先輩のあの判断と身体能力がなかったら、この速攻は成り立たなかったからな。


 佐原南時代はたけあきらこそ世界最強のゴレイロと信じて疑わなかったけど、本当に、世の中は広いのだか狭いのだか。こんなとこにも世界最強を争うゴレイロがいるんだからな。


 さて、相手の超攻撃をあえて引き出して、その裏を突くこの作戦、とりあえずは成功したけど、これはバクチもいいところだった。ジャンケンで勝っただけみたいなものだ。

 これからはじっくりとバランスよく戦っていこう。あとちょっとで優勝というところで追い付かれてしまったという、相手の焦りを誘う戦い方をしよう。


 と、考えていたのであるが、ままならぬことが多いのがこの世の中、習明院はつまらないミスから失点してまったのである。


 パスアンドゴーでみんなが一斉に上がるところ、瀬能真代が敵にパスを出してゴーしてしまったのだ。


 慌てて戻るも既に遅く、名取圭子にゴール前まで持ち込まれ、シュートを決められ、あっけなく突き放されてしまった。


 後半十六分。

 習明院 1-2 宇治法明館。


「まだ一点差!」


 と、脊髄反射的に叫んだものの、追い付くのが困難であることなど重々理解していた。


 習明院のキックオフで試合再開。

 精神的条件を抜きにしても相手の守備が硬く突破は難しいというのに、失点の仕方が仕方だったため、みな、精神的なダメージを大きく受け、身体が重くなってしまっていた。


 前崎銀河も小菅穂ノ香もベンチに引っ込んだ。

 宇治法明館は、ついに完全な守備固めに入るようだ。フットサルは一点を守り切る競技でないといっても、もう終盤も終盤だからな。


 追い付いたことで相手を焦らせてやろうと思ったのに、突き放されてこちらが焦ることになろうとは。


 さっきみたいな戦法は邪道、もう無理だろう。

 それに、こっちが引いて見せたところで、いまさらむこうが前掛かりになって攻めてくるはずもない。


 どうしよう……

 もう、指示すべき明確な戦術などなにもない。


 三年生主体に戻すか。

 幹枝先輩上げてパワープレーか。


 研究されていない二年生一年生のみで行くか。

 どうすればいいんだ。


 なんとか、しなくちゃ。なんとか。

 とりあえず、

 とりあえず、ピッチに入って探ろう。

 なにか、打つ手は、あるはずなんだ。


「亀先輩、交代!」


 わたしは叫んだ。そして、交代ゾーンに立った。


「早く!」


 と、手招きした瞬間であった、

 ずるずるん、と下半身に嫌な感触。すかすかスースーとした感じに、一瞬にしてなにをされたか理解し、わたしは声にならない悲鳴を上げていた。


 ユニフォームのパンツを、足元まで下ろされていたのだ。

 それだけじゃない。ユニフォームに引きずられて、下着まで下がってお尻丸出しになってしまっていた。

 下着を押さえつつ振り向くと、そこにはオジャ先輩がしゃがんでいた。


「ああああああああ、なにすんですかあ! このバカ! オジャのバカ! アホオジャ! バカ! アホ! バカ!」


 わたしは下着をずり上げ、かがんで足元のパンツも掴んで引き上げた。

 当たり前かも知れないが、すっかり会場がざわついている。

 見られたかな。お尻。


「だってさっき食堂でえ、脱がすんならサジちゃんじゃなく自分を脱がせとかいってたじゃあん」

「あれはサジが危険だったから、成り行きと勢いでいっただけで、誰が試合中にパンツ脱がせなんていいましたか! なんでそんな細かいこと覚えてんですか」


 ピーーーーッ、と笛が鳴った。

 審判はオジャ先輩に歩み寄ると、イエローカードを高く掲げた。なんていう名状だろ、「著しく品位を欠いた行為」かな。


 しかしまあ、よくも審判のすぐ目の前で、こんなこと出来たもんだよ。しかも女性審判だというのに。頭おかしいわ、ほんと。


「あたしい、もう退場してるんでえ。関係なあい」


 オジャにバカにするような笑顔でさらりといわれ、審判はすっかり頭に来てしまったのか、わたしへと向き直ると躊躇うことなくイエローカードを掲げた。


「あたし被害者なのに!」


 単なる八つ当たりじゃんか、それ!

 しかし判定は覆らず。

 釈然としないものはあるが、でもこれが一枚目で、なおかつ最後の試合でよかった。そう思おう。


「わいせつなもん見せてっからだよ」


 オジャはそういって高笑い、まるで他人事。


「なにがおかしいんですか! 自分がやったことでしょ。ほんとろくなことしないんだから」


 まさか二千人近い観衆の中で、パンツさらすことになるとは。

 まあいいけどさ。内藤だったら、五年は部屋に引きこもるだろうけどね。


「ほら、またなんだか暗い感じになってきてたからさあ、明るくやってもらいたいなあと思って。あたしって女神のように優しいから」

「後付けで、さも立派な行為であるかのようにいわないでください。後先考えず好き勝手やってるだけのくせに」


 でもまあ、結果としてオジャ先輩に元気をもらったのはいいことか。感謝する気などはこれっぽっちもないけど。


 いまのバカな騒動で、審判が時間を停めてくれていたからよかった。もしも動いていたら、とっくに試合は終了で、わたしは(オジャ先輩が悪いのに)みんなにぶっ飛ばされてボロ雑巾のようになって桃山公園の池に沈められていたことだろう。


 交代で中に入るつもりだったが、すっかり調子が狂ってしまっていたので、わたしは試合再開後、マイボールになると同時にタイムアウトを要求した。

 みんなわたしの周囲に集まってくる。


「殺すぞお前、変なもん見せやがって」


 バン先輩、あからさまに不快感をあらわにしている。もう過ぎたことなのに。


「オジャ先輩にいって下さいよ! そんなことより、作戦タイム。アラ当てで行きます」

「アラ当て?」

「というか梨乃当て。あたし出るんで、あたしに預けて下さい。視野はそこそこ広いつもりなんで、そこからパス出します。あと、残り一分になったらパワープレー。ゴレイロは交代なしで、幹枝先輩のままでいいです。さっきはわざと引いて、相手の超攻撃を誘ってその裏を突いたけど、もう攻めてくることはないだろうから、ならば今度は、相手ががっちり固めているところを、こっちが超攻撃でぶち破ります。後半終了まであとほんの数分、死ぬ気で走れ! 神経研ぎ澄ませ! 以上!」


 一分間のタイムアウトであるが、三十秒足らずですべて話し終えてしまった。

 ごちゃごちゃ詰め込みたくはなかったから、それはそれでいい。


 わたしは交代ゾーンへと向かう前に、ベンチそば、わたしのバッグの上に無造作に置かれている写真に視線を向けた。

 友人である根本このみたちがやっている子供向けのフットサル教室、その子供たちと撮った集合写真だ。


 無邪気な笑顔たちの中心で、わたしはしゃがんで、なんだか照れ臭そうな顔をしている。


 先日、この大会に出場することを話したら、子供たちが一緒に写真を撮ろうと提案してきたのだ。

 そうすればいつも一緒、試合、応援してあげられるから、とかなんとか可愛いこといって。


 わたしはその写真を手に取った。


「先生、頑張るからね」


 などとぼそり呟いていると、ふと、写真の裏にかさっとした妙な感触が……

 ひっくり返してみると、写真の裏には四つ葉のクローバーの押し葉がセロハンテープでとめてあった。


 ミットだ……

 こんなことするのは、たぶん。


 先日、泊まりに行った時に写真を見せたからな。きっと、その日だ。


 思い出すな。

 高二の頃。


 わたしは佐治ケ江らと一緒に、内藤のいるばらふじ高校と戦った。

 あの時も、確か四つ葉のクローバーを、そっとポケットに入れてくれていたんだよな。

 そういう細かいところ、ほんと変わらないよな、あいつは。


「タイム終了です! 開始します!」


 審判が叫んだ。

 っと、いけない。


 わたしは慌てて、交代ゾーンへ向った。

 試合再開だ。


 かめどりとタッチ。わたしは打ち合わせの通りに、ピッチへと入った。


 一人ではない。

 教室の子供たちや、ミットと一緒に。


     5

 ばんは軽くボールを上から押さえ付け、相手のフィクソ、13番ぐれしおと向かい合っている。

 右、左、右、と足の裏でボールを微妙に揺らすと、ちょんと横へ蹴り出し、自らも大きくステップを踏んでボールを追った。


 13番は追い、食らい付こうとする。


 バン先輩は不意に切り返し、前線にいる一年生のこしざきへとパスを出した。


 腰崎富美は小さな身体でポストプレー。ほうめいかんゴールに背を向け、14番を背負い、ボールを受けた。

 冷静ではあったのかも知れないが、経験が足りなかった。股の間から突き出された爪先に、簡単にボールを蹴り出されてしまっていた。


 しかし11番がそれを受けるよりも早く、わたしは身体を飛び込ませ、ボールを渡さなかった。

 これまで蓄積された疲労に心臓や筋肉が悲鳴を上げたが、根性振り絞り、飛び込んでくる13番をかわし、再び腰崎富美へ。


 富美は、一瞬よろめいたが、なんとかボールキープ。14番をかわすと、わたしへ戻すそぶりを見せつつ、突如反転、シュートを打った。


 完璧に枠を捉えていたが、しかしゴレイロじゆんが冷静にブロック。本当にミスのまったくない選手だ。


 跳ね返ったボールを拾った腰崎富美が、再度シュートを狙ったが、またもやブロックされ、今度はこぼれに飛び付かれて拾われてしまった。


「守備は前から!」


 宇治法明館のゴレイロ佐々木順子は、立て続くピンチにちょっとイライラしたように叫び、大きくボールを放り投げた。

 速攻だ。


 しかし、13番から6番へパスが出ようとしたところ、ウマヨが上手くコースに入り、カットした。

 最初はおどおどして怖かったけど、ウマヨも段々と調子を上げてきたな。


 ウマヨは小さくドリブルしながら、わたしへとパスを出した。わたしへ預けろと指示してあるからだ。


 わたしは、そのパスをワンタッチで蹴り上げていた。14番の頭上を飛び越える、ループパスで宇治法明館ゴール前へ。


 腰崎富美が飛び込んでいた。

 倒れ込みながらのボレーシュート。


 タイミングは完璧だったが、しかしジャストミートせず、打ち上げてしまった。

 惜しかった。運がちょっとだけなかった。


 チャンスは逃したけど、でも、全体的によくなってきている。ウマヨの守備も安定してきているし。


 電光掲示板の、時間表示を見た。

 もう残り時間一分を切るし、そろそろか……


みき先輩!」


 わたしは叫んだ。

 パワープレーの合図だ。


 しかし合図を送るまでもなく、幹枝先輩は残り時間一分になったと同時に自陣ゴール前を飛び出していた。一分とは一秒をたったの六十回、一瞬たりとも無駄にしたくないのだろう。


「いっきなりカットぉ!」


 先輩は、パスの軌道上に入り込み、スライディングでボールを奪い取っていた。


 宇治法明館の選手たちが油断をしていたわけではないだろう。

 ここまで後ろを気にせずガムシャラに勢いよく雄叫び上げて駆け上がるゴレイロなど、想像しろという方が無理というものだ。


 幹枝先輩はすぐさま立ち上がりドリブル、ハーフウエーラインを越え、敵陣へと乗り込んだ。

 11番がさっと詰めてくるが、幹枝先輩は引き付けておいて、バン先輩へパス。

 いや、そう見せて、ドリブル直進。ただ真っ直ぐ進んだというだけだが、これも立派なフェイント、11番の裏をかいたトリックプレーだ。


ないとう、入れ! バン先輩と交代!」


 わたしは内藤幸子を素早く手招き。

 バン先輩の個人技より、わたしと内藤とのホットラインを使おうと思ったのだ。


 交代している間にも、ドリブルで突き進む幹枝先輩。その前に、今度は13番が立ち塞がった。


「梨乃! と見せて……」


 言葉の通り、わたしへとパスがきた。梨乃と見せて梨乃だ。


 13番は、幹枝先輩の先ほどのプレーのせいで警戒してしまってそれが裏目に出たか、どっちつかずのポジショニングになってしまっていた。慌ててボールへと走るのだが、わたしが一歩出て受ける方が遥かに早かった。


 そしてわたしはそのままポストプレー。相手ゴールに背中を向けた。その背中に、どんと14番が当たってきた。さらに11番が、挟みうちにしようと距離を詰めてくる。


 わたしはくるりとターン。正面突破、と思わせて、くるり逆方向へターンして戻り、次の瞬間、ヒールで背後にボールを転がしていた。


 14番が振り返り、そのボールを追うが、横から内藤幸子が飛び込む方が早かった。

 ゴール寸前浅い角度、内藤の得意な位置だ。


 照準セット。

 内藤バズーカ、発射!


 わたしの心の叫びと同時に、内藤が転がるボールにタイミングを合わせて右足を振り抜いた。

 ばちん、と凄まじい音がし、ボールはゴレイロの手を弾いてネットに突き刺さっていた。


 決まった。

 これでまた、同点だ。


「うおおお!」


 と、劇的同点弾に内藤は雄叫びを上げた。

 さすが内藤、わたしがどこへボールを出すか、よく分かってくれている。伊達に毎日わたしの作るご飯を食べていない。


 内藤に遅れて、周囲からもどっと喚声が上がった。


「梨乃お!」


 内藤がぶっさいくな顔をぐにゃぐにゃと幸せそうに歪めて、地響き立てて突進してきた。

 わたしは両手を高く上げた。

 しかし内藤の、そのあまりの暑苦しさに、思わずわたしは直前でひらりとかわしていた。可哀相と思わなくもないが、本能的に動いてしまったのだから仕方ない。


 しかしその瞬間、全身の力がふっと消失したわたしは、がくりと崩れ、床に膝と手をついていた。


「お前、体力ねえなあ。つうかさあ、大会間近だってのになあにスクワット五百回もやってんだよ」


 亀先輩が、そういって笑った。


「やらせた本人が、なにをいってんだか」


 わたしも思わず笑みを浮かべていた。

 宇治法明館のキックオフで、試合は再開されたが、それから十秒を数えることなく、後半終了の笛が鳴った。


     6

 あそこで内藤のボレーが外れていたら、ここで試合は、わたしたちの大会は、終了していたのか……

 危ないところだった。


 でも、追い付いたというのが、間違いのない事実だ。

 四十分の間に、お互いが二点ずつを取った。ただそれだけのことだ。


 ここで無意味な負い目や負け犬根性を覚える必要など、どこにもない。内藤への感謝は別として。


 とにかく、堂々と延長戦に臨むだけだ。

 わたしはいち早くピッチを出て、続いて出てくる仲間たちを激励した。


「よく守った! 追い付いた! 凄い粘りだった! この調子で行こう! 絶対に、勝とう。勝って、優勝しよう!」


 みんな、ぜいぜいと肩で大きく息をしており、わたしの言葉など半分も耳に入っていないかも知れない。


 次々と床に仰向けに寝そべっていく選手たち。メンバー登録外の部員たちや、オジャ先輩が、マッサージをしてやったり、攣っている足をぐっと伸ばしてやったりしている。

 そんなみんなに、わたしはまた声をかける。


「そのままで聞いて。延長は、なにもやり方は変えない。追い付いた勢いで、逆転して、勝つ」

「はい」

「おう」


 と、力無い返事がまばらに上がった。

 みんな体力の限界が近いのだ。

 別に元気のよい返事など、してくれなくてもいい。内面に燃える炎さえ、消さずにいてくれれば。


 もう、時間だ。延長戦が始まる。

 わたしは立ち上がった。

 よろよろと、ピッチの中に入って行く。


 宇治法明館の選手たちは、すでに五人ピッチの中、手を寄せ合って気合いの声を上げている。

 わたしたちよりも、遥かに体力が残っているようだ。


 瀬野川女子戦で、かなり体力を使ってしまったからな、わたしたち。

 いや、宇治法明館だって、それ以上の激戦をくぐり抜けてきたのかも知れないじゃないか。

 対戦カードのせいにして、あらかじめ負けのいいわけを作っておくなんて最低だ。そんな弱い気持ちじゃ、勝てるものも勝てない。


 そうだ。

 絶対に勝つんだ。

 あと一点。

 一点取れば、勝てるんだから。

 仲間たちが、絶対にゴールを守ってくれる。

 それを信じて。


     7

 笛の音が響いた。

 延長戦前半が、開始された。


 あれやこれやと自分に気合いを入れて臨んだはいいが、結局始まってみれば、理想と現実とはかくも異なるものかをただ思い知らされただけだった。


 「追い付いた勢い」など、まるでないのも同然で、習明院は延長戦開始の笛からずっと、押し込まれ続けることとなったのである。


 前へ出たくとも、疲労からままならず、

 奪おうにも、疲労からままならず、

 とにかくみな、蓄積された疲労がどっと吹き出しており、やりたいプレーが出来ずにただゴール前を死守するのに精一杯の状況に陥っていた。


 富美ももう、限界か。

 早乙女先輩と、ウマヨ、どっちが体力残っているだろう。

 いや、こんな時にフィクソの選手を置くことにこだわる必要はないか。


 誰がより走れるか、

 守れるか、

 流れを変えられるか、

 得点、出来るか。

 それとも、もう得点など狙わず、走らず、ガチガチに守りを固めて、PK戦でも狙うか。

 いや、それはさずがに無理だろう。


 朦朧としかける意識の中、わたしはそんなことを考えていた。

 朦朧としかける意識の中、ボールを受けたわたしは、飛び込んでくる6番をかわした。

 ユニフォームの袖だかパンツだかが、すっと擦れる音と同時に、わたしはバランスを崩して前へ倒れていた。

 接触ではない。わたしが勝手に足をもつれさせて転んだだけだ。


 笛。

 6番にイエローカード。


 ちょっと相手に気の毒なことをした。

 わたしは、ごろりと仰向けになり、大の字で照明のぶら下がった天井を見上げた。

 深く、大きく、息を吸い込んだ。


 ほんのちょっとだけ休みをもらうと、ゆっくりと、立ち上がった。

 がくっと膝が崩れるが、両手を膝に当てて、全身の力を振り絞り、なんとか立ち上がった。


 ふと、腕に巻き付けていたヘアバンドに気が付き、解くと、髪の毛を押さえ付けておでこに回してとめた。


 その瞬間だった。

 わたしの背中に、びっと電流が突き抜けたのは。


 それは単なる思い込みに過ぎなかったのだろうか。

 いや、間違いない。わたしの中に、なにかが入り込んでいた。

 どう名状してよいか分からない、とにかく、強い思いが。


 なんだか、力、奥から湧いてきていた。

 まだまだ、いける。

 そう思えていた。


 というより、そもそも走り切ってなどいないだろう。

 体力、振り絞ってなどいないだろう。

 甘えていただけだ。

 相手の底知れぬ実力に恐れをなして、それを認めず体力のせいにしていただけだ。


 瀬野川女子の佐治ケ江優など、わたしたちと対戦した第二回戦を、百パーセントの力を出し尽くしたじゃないか。いや、それ以上だ。体力の限界などとっくに越えていたはずなのに、何度も立ち上がっては、凄いプレーでわたしたちを驚愕させたじゃないか。

 体力だけでなく、魂までをも擦り減らしながら、わたしたちへとぶつかってきたじゃないか。


 それに比べれば、わたしなどは、まだ全然走っていない。

 だから、まだまだ、やれる。

 勝負はこれからだ。

 行くぞ!


     8

 暗い、闇の中を、わたしは走っていた。

 濃密な、身体にまとわりつく闇を、両手で掻き分けて。


 泥沼から力任せに足を引き抜いては、突き入れて。

 息を切らせながら。

 大きく、肩を上下させながら。


 身体から吹き出るのは乾いた熱い息。

 肺へ吸い込むのは、ばちばちとはぜる炎ばかり。


 苦しい。

 左右の肺は精一杯頑張ってくれているのかも知れないけど、でも酸素をろくに取り込んでくれやしない。


 闇の中に、人が呻きもがいているのが、見える。

 選手たち。

 味方だけでなく、向こうの選手たちの姿もある。


 やっぱり、苦しいんだ。

 自分が苦しい時は相手も同じくらい苦しいものだなどという言葉があるけど、本当にその通りだ。

 いまさら、だからなんだという話だけど。


 と、どろどろした暗闇の中から、突然3番が飛び出してきた。

 雄叫びを上げそうな鬼気迫る表情で、突っ込んできた。


 ああそうか、わたしがいま、ボールを持っているのか。

 足の裏でボールを左へ右へ転がし、3番を紙一重でかわした。

 しかし次の瞬間、下半身の力がすっと消失し、気が付くと倒れ、床に手をついていた。


 なんとかボールを守りながら起き上がると、よろよろとしながらも、ドリブルで駆け上がる。


 苦しい。

 胸が、痛い。

 全身の筋肉が、痛い。


 でも、まだまだだ。

 体力がなくなるまで、すべてのエネルギーが尽きるまで、走ってやる。


 わたし別に、それほどなにか重いものを背負って、フットサルをやっているわけじゃないけど。

 命を賭けてやるような義務もない。当たり前だけどプロなんかじゃない。そもそもやらなくたって、生活が成り立たないものでもなんでもない。

 佐治ケ江みたく、亡き親友への熱い思いで戦っているわけじゃあない。


 なにも背負った重圧、決められた、運命めいたものなど、そんなもの、まるで無いからこそ、だからこそ、自分で決めたこの道を、ただ、自分が頑張ったという証を残したくて、ただ、頑張る。

 それだけだ。


 ただ、それだけ。


 悪いことかな、それって。

 そんなことはないよな。

 むしろ正しいと、わたしは信じたい。


 朦朧とした意識、

 かすむ視界、

 観客席からの喚声。


 全国大会の決勝戦、

 生まれて初めて立ち、味わっているこの大舞台。


 最高だな、この雰囲気。

 想像以上。

 本当に、

 最高だな。


 意識が半ば消失し、ろくになにも見えず、喚声などもろくに耳に届いてなどいない状態であるというのに、それでもそうはっきりと強く、この気持ちのよい空気を全身に感じていた。


 どう、と胸に強い衝撃を受けた。ふっ、と体内の空気が口から強く押し出された。

 転び、床に倒れていたのだ。


 すぐ起き上がろうとしたが、全身の感覚がまったくなく、起き上がることが出来なかった。

 それでもわたしは立ち上がろうともがき続けた。


 どれくらいの間、そうしていただろうか。


 暗闇の中、一体いつこのピッチに入り込んだのか、見たこともない女の子が傍らに立っており、わたしのことをじっと見下ろしていた。


 その子は、ユニフォームを着ている。

 おそらくはフットサルの。

 しゆうめいいんほうめいかん、そのどちらでもない、黄色のユニフォーム。


 とおやまだ。

 佐治ケ江の、親友。

 一度も会ったことなどないというのに、一度も顔など見たことないというのに、何故だかそう確信していた。


 そういえば、おんなじなんだよな。わたし、この子と。

 わたしも、これまでトーナメントの決勝戦なんか出たことないものな。

 要所要所で必ず負けて、栄光を掴んだことなんてなかったものな。

 今年になってようやく地域でのリーグ優勝は経験したけど、ほとんど三年生のお手柄だもんな。


 ほんと、考えれば考えるほどに同じだ。親近感が湧くな。

 わたしには代表経験などないので、そんな分際で勝手にそこまでの親近感を覚えるというのも迷惑な話かも知れないけど。


 でも、いいよね。

 わたしが微笑むと、遠山美奈子はちょっと苦笑し、腰を軽く屈めてわたしへと手を差し延べてきた。


「初めて同士、一緒に、あとちょっとだけ頑張って、優勝、しようよ」


 わたしが彼女にそういっていたのかも知れない。

 彼女がわたしにそういっていたのかも知れない。


 手を引っ張られ、意識を引っ張られ、わたしは、立ち上がっていた。

 闇が晴れていた。

 一瞬のうちに。


 ここは体育館の中。

 まばゆい照明の下。

 わたしの手の中に、遠山美奈子の手は無かった。


 それどころか、彼女の姿はピッチのどこにも存在してはいなかった。

 習明院フットサル部の仲間たち、そして対戦相手であ宇治治法明館の選手がいるだけだ。


「梨乃、大丈夫? 転ばされて、全然起き上がってこなかったから、頭打ったのかと心配してた」


 のうが、本当に心配そうな表情でわたしの背中を撫でた。


「ああ、大丈夫、ごめんね」


 わたしは、笑顔を作った。

 確かに遠山美奈子を感じたと思うのだけど、それはわたしの脳が勝手に作り出した幻影だったのだろうか。


 試合再開。

 記憶には無いがわたしが倒されたらしく、習明院のFKだ。


 キッカーはばん

 大きくゴール前へ放り込むように見せかけ、グラウンダーで後ろへと戻した。


 中央のわたしが一歩前へ出て、ワンタッチでコーナーへとはたく。


 FKを蹴ったバン先輩が、コーナーに走り込んで、ボールを受けていた。

 くるり振り向き、10番のプレスをかわすと、ゴール前へと浮き球を放り込んだ。

 ボールは、ジャンプするゴレイロの指先をかすめて、ふっと落ちた。


 そこへわたしが飛び込んで、思い切り頭を叩きつけていた。

 感触は最高。しかし、ゴールラインぎりぎりで3番が必死のクリア。惜しくも得点はならなかった。


 でもまだ続いている。

 クリアボールにこしざきが走り寄り、落ちてくるところにタイミングをしっかり合わせてボレーシュートを打った。

 しかしゴレイロの真正面。がっちり胸に抱え込まれた。


 すぐさまボールを放り投げるゴレイロ。ちょっと慌てているようだ。攻め込まれ続けている心理的負担から、なるべくボールを遠くへやってしまいたいのだろう。


 4番が受けるが、ウマヨが背後から身体を入れ、ファールなく奪い取った。


「梨乃!」


 わたしはウマヨからのパスを受けつつくるりと前を向いた。突発を阻もうと3番が突っ込んできた。

 わたしは足の裏でボールを転がしながら相手の動き出しを読み、紙一重でかわし、抜けた。

 少し遠いがシュートを打った。


 ゴレイロは完全に意表を突かれたようだが、なんとか手を当て弾いた。


 こぼれたボールを、10番がクリアした。


 4番がトラップしようと待ち構えているところ、素早く駆け戻ったわたしが、横から駆け抜けるように奪っていた。

 奪ったその瞬間、10番まえざきぎんと7番すげ、要注意人物である二人に、挟み込まれていた。


 でも、わたしは冷静だった。

 ちょん、とボールを蹴ると、細かなボールタッチで、一瞬にして二人の間をジグザグに突き抜けていた。


 客席から、どよめきが上がった。

 でもきっと、誰よりも驚いているのは、わたし自身だろう。

 なんなんだ、いまのプレー。この、パワーは。

 自分が、自分じゃないみたいだ。

 こんなことが出来るなんて。

 代表級の二人を、ものともせず抜き去ってしまうなんて。


 でも、当たり前か。

 そうだよな。

 わたしは一人じゃない。

 遠山美奈子と、一緒に戦っているんだから。


 それだけじゃない。

 高木ミット、そしてフットサル教室の子供たちと、一緒に戦っているんだから。


 もしかしたら、自分の潜在能力がこの大舞台で解き放たれたということかも知れないけど。そうであれば、一介のフットサルプレーヤーとしてこんな嬉しいことはないはずだが、そうは思いたくない自分もいた。


 だって、みんなとチームで戦うのがフットサルだろう。

 習明院の仲間たち以外にもピッチの中で応援してくれる味方がいるというのなら、こんなに楽しく、心強いことはないじゃないか。


 わたしが凄いプレーをやっているわけではなく、単に相手の足が止まってきているだけということも考えられるけど。


 とにかくいまこの場において、自分の能力が相手に通用するというのであれば、ただそれを生かして攻めるだけだ。


 わたしは3番をかわしざま、ゴール前を横切るようなボールを転がした。ゴレイロが飛び出しの判断に迷うような、ぎりぎりのところを狙って。


 ゴレイロはびくりと身体を震わせたのみで、飛び出すことが出来なかった。


 そのボールへ駆け込んだ腰崎富美が、右足を振り抜いた。

 至近距離からの弾丸シュートであったが、しかしゴレイロ佐々木順子は集中切らさず反応し、パンチングで弾いていた。


「富美、いいよ、その調子! さすがあたしの後継者」


 オジャ先輩、勝手に後継者にしちゃってるよ。タイプまったく違うのに。

 ゴレイロが弾き出してゴールラインを割ったことで、習明院はCKを得た。


 キッカーは番場紗希。

 軽く助走を付け、蹴った。

 ふわりとした浮き球だ。

 ゴール前の密集を越え、反対サイドへ。


 腰崎富美がゴール前から抜け出し、トラップ。

 再び密集の中へと身体を突っ込ませる、と見せて、中央後方に陣取っているわたしへとパスを出した。


 宇治法明院にとってはそれも想定の一つに過ぎなかったか、すぐさま3番が突っ込んできた。


 わたしは素早く前へ出てボールを受けに行くが、3番の足も早かった。


 二人に揉まれて、ボールはどっと音を立てて跳ね上がっていた。

 わたしは瞬時に軌道を予測、ボールの落下地点へと走り寄り、ジャンピングボレー。

 狙いは完璧だった。

 唸りを上げて飛ぶボールは、ゴール前の密集のわずかな隙間を貫いて、ゴレイロの手を弾き、ネットに突き刺さった。

 これで逆転だ!


 しかし、ゴールは認められなかった。

 ゴール前でのうが相手を押してしまい、ファールを取られたようだ。


 残念。

 でも、押しているのは習明院だ。

 このままこの勢いが続けば、ゴールを割るのは時間の問題だ。


 宇治法明館は、たまらずタイムアウトを要求。みんな監督の元へと集まっていく。

 わたしたち習明院も、わたしのところへ選手たちがみな集まった。

 集まったけど、


「いうべきことは特にない。優勝しよう。それだけ」


 それだけいうと、わたしはピッチへ戻ろうとみんなに背を向けた。


「梨乃!」


 背後からのオジャ、ごうかずの声に、わたしは振り向いた。


「こんなさあ、わくわくする試合、あたし生まれて初めて。退場で出られないのが残念だけど、でも、ありがとうな」


 そういうと、なんだか照れ臭そうに、歯を見せて笑った。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 わたしも微笑みを返し、そして深く頭を下げていた。

 具体的ななにかに対してというわけじゃない。

 オジャ先輩に限らず、先輩たち、他の仲間たち、わたしが主将代行となったこのような境遇に対して、その他、なんだか漠然としている様々なものへの感謝、言葉に出来ないそれらの感情が、オジャ先輩の言葉を引き金に、胸の中に取り留めなく生まれてしまっていたのである。

 涙が溢れ出そうなほどに。


 なんとか堪えたけど。

 人間って嬉しくても涙が出るんだから、不思議な生き物だよな。


 タイムアウト終了。


「やるぞぉ」

「おー」


 ウマヨと腰崎富美が口々に気合いを入れ、ピッチに戻っていく。

 もう疲労で足がふらついているというのに、それに気が付いてさえいないようだ。


 わたしのプレーが流れを変え、雰囲気を変え、それにより彼女らからあんな元気が沸き出しているというなら、こんな嬉しいことはないかな。


 そしてその結果、優勝がもたらされるというのなら、主将代行冥利に尽きるというものである。


 しかし勝負ごとというものは、気合いがあれば勝てるというものではない。

 押している方が勝つというものではない。

 むしろ、必死の粘りを見せる相手に一瞬の隙を突かれてやられてしまうことだって多いだろう。


 つまり、

 なにがいいたいかというと……


 負けてしまったのである。

 わたしたち、習明院大学女子フットサル部は。


 延長戦後半は習明院が終始ゲームを支配し続けたが、得点を奪えず。PK戦での決着が濃厚になってきた終了間際、わたしの放ったヘディングシュートをゴレイロに弾かれ、クリアからの速攻を受け、瀬能真代のファールを取られ、PKを決められて。


 こうして、最後の一戦に敗北したという結果をもって、わたしたちの大会は幕を下ろした。

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