第六章 習明院大学 対 佐治ケ江優

     1

 ゴールネットが揺れていた。


 訪れた、一瞬の静寂。

 続いて、沸き起こるがわ女子の歓喜の叫び……とはならなかったのは、審判の判定に助けられたおかげに他ならなかった。


 瀬野川女子の10番、ピヴォのいまざきが、シュートの際にしゆうめいいん早乙女さおとめみどりを突き飛ばしたと判断されたのだ。


 押してなんかいません、と審判に対して猛烈に抗議をする今崎奈穂であったが、しかし判定は覆らず、習明院の選手たちはほっと安堵の表情を浮かべることとなった。


 瀬野川女子の味方をするわけではないが、わたしにも10番が押したようには見えなかった。ただ、「早乙女先輩またやったな……」と苦笑するばかりだった。


 本当に、ファールを受けたかのように見せる転び方が上手なのだ。

 でも、それも実力のうちだ。助かった。


 が二人の間を一瞬で抜け出して、放ったシュートをみき先輩が弾き、そのこぼれをねじ込まれてしまったのだけど、弾いて落ちたその瞬間に、もう失点を覚悟したからね。


 まるでそうなることを予期していたかのように、迷いなく10番が飛び込んで行くんだもの。

 佐治ケ江を使って点を取る戦術が、相当に浸透しているようだ。

 個人技に対しての信頼が高いからこそ、出来ることなのだろう。


 中国リーグで序盤負け続きだった瀬野川女子は、最後の何試合かを連勝して優勝しているのだが、やはりその結果は偶然ではなかったのだ。


 きっと佐治ケ江はリーグ終盤まで怪我かなにかで出場が出来なかったのだろう。

 復帰した途端の連勝。

 一人の個人技で勝ててしまうくらい中国リーグ全体が弱いのかも知れないけど、でも、先ほどの試合で実質上の関東最強であるかまくらきよういく大学に圧倒的な点差で勝利したことを考えると、決してそういうわけではないのだろう。


 佐治ケ江のワンマンチームじゃないか、とも確かにいえる。

 しかし、徹底的に彼女のその攻撃力を生かし、彼女が出ない時にはみんなで徹底的に守ることで、破壊力と鉄壁の二面性を持つ、対戦する側としては実に嫌なチームになっているのは間違いなく、それは佐治ケ江の力だけではなく、作り上げた監督や、他の選手たちの合わさった能力なのだ。


 だから、瀬野川女子大学フットサル部は文句なしに強いといえる。

 監督が地域リーグを優勝するに相応しいチームを作り上げ、そして当然の優勝を果たしたのだ。


 その強い瀬野川女子を攻略するのであれば、やはり佐治ケ江をどう止めるか、この一点に尽きるだろう。

 これは、先ほどのわたしの言葉とは、いささかの矛盾もない。

 佐治ケ江優という突出した個を、他の選手の能力が充分に生かして、鎌倉教育大学相手に大量得点無失点で勝利してしまうような素晴らしいチームが成り立っているわけだから。


 瀬野川女子のその力は、この試合でも遺憾無く発揮されていた。

 佐治ケ江を誰一人としてまともに止めることが出来ず、運よくボールを奪えても、他の選手たちの頑張りに阻まれて、習明院は手も足も出ない状態へと追い込まれていた。


 守るのに精一杯で、時折色気を出して攻めようものなら、相手の網に引っ掛かってボールを失った瞬間に、生じているスペースを巧みに使われて一転して大ピンチに陥る。この繰り返しだった。


 そんな状態が続いている間に、習明院の選手たちの意識はすっかりちぐはぐになっているようだった。

 攻めるか守るか、のみならず、攻めの中だけでも、守りの中だけでも、まるで意思の疎通が出来なくなってしまっているようだった。


 現在ピッチに立つ習明院の選手はみな三年生。

 その三年生たちの阿吽の呼吸こそが、部を強くし、今年のリーグ戦を優勝した大きな要因であるというのに。

 それが封じられるどころか、自滅に追い込まれている様子ですらあった。


「オジャ! ようと交代だ」


 珍しく先発であったごうかず先輩であったが、こうしてものの数分で洋子先輩と交代することになった。


 主将の考えとしては、まずはボールを扱う技術の高い選手を使って前線でしっかりキープをさせようということか。


 交代後、洋子先輩の個人技で確かにボールを保持出来るようにはなった。だけど、相手のしっかりとした守りの前に、そこからの展開が出来ないということに変化はなかった。

 流れを変えるために無理に攻め込もうとしても、そうして少しでもバランスの崩れたところを、佐治ケ江が素早い判断で見逃さずに突いてくる。味方に指示をしたり、または自らで。


 瀬野川女子は、攻撃の佐治ケ江頼みがとにかく徹底していた。

 佐治ケ江に渡っていたらおしまいだっただろうという、実にひやりとさせられたシーンも二度ほどあった。パスが精度を欠き、ラインを割ってくれたから助かったのだが。


 葛藤。

 現在の習明院に、これほど相応しい言葉はないだろう。


 このまま点を取らねば負ける。

 しかし取りに行こうとすると、あの5番にやられる。

 このような中で、どう攻守のバランスを保つか。そこに主将も先輩たちも苦慮しているようだった。

 でも、このままでどうにかなるような問題じゃない。


「主将、これ、見て下さい」


 わたしは、中国地区女子フットサルリーグ詳細記録の瀬野川女子に関わる抜粋を、主将の眼前に突き付けた。


     2

「なに、これ?」

「いまのこの試合内容を如実に表している資料ですよ」

「どれどれ。……うお、凄いなこれ!」


 主将はちょっとだけ驚いたような表情を浮かべた。もともとが、あんまり顔に感情出さないタイプなので、どれほどの衝撃を感じているのかは見当もつかないけど。


「分かりましたか? だからがわを見くびるな、対策が必要だと、あんなにいったじゃないですか!」


 わたしは知らず語気が荒くなっていた。

 別にここは冷静になるようなところでもないから、どうでもいいけど。


って興奮すると鼻の穴、大きくなるよな」


 主将は相変わらずの、いかついながらものほほんとした顔のまま。


「気にしてることを。って、それ、いまいう必要ありますか? そうやってごまかさないで下さいよ。トーナメントの二回戦ということで対戦する可能性の充分に考えられた相手に対して、情報をまるで仕入れようとしなかった責任を放棄しないで下さい。前もいいましたけど、先輩たちが関東リーグで優勝したくらいで、バカみたいな勘違いをして自分らを強豪と思い込んでいたことが、いまのこのザマに繋がっているんで……」


 「すよ」と同時に空気切り裂きすっ飛んできたオジャ先輩の拳。

 主将への暴言が許せなかったのだろう。


 でもそのパンチがわたしの顔面をぶち抜く寸前、オジャ先輩の拳は主将の手のひらにがっしりと受け止められていた。


 え……

 主将が、わたしを守ってくれた? あんなに、ボロカスにいったのに……


 一瞬の、間。

 そして次の瞬間、ばちいんと鼓膜の割れそうな凄い音。

 わたしは頬を張られて宙を舞い、真横に吹っ飛んでいた。


 結局、殴られた。

 主将に……


 わたしは上半身を起こすと、頬を押さえながら主将の顔を見上げた。


「別にいいけど、個人的には、でも暴言は暴言だから、とりあえず殴っちゃった」


 主将はなんとも楽しそうな顔だ。


「こっちも別にいいですよ。殴られるのくらい」


 それが嫌で正しいこともいえないなんて、もっと嫌だから。


「お前のいう通り確かに迂闊だったよ、ろくに調べもしなかったのは。それなのに殴っちゃってごめんね」

「だから、別に気にしてません」

「あたしが気にするんだよ。じゃあ、その代わりにさ……好きにしていいよ、チームを」

「え……」


 いま、なんて……。いや、はっきり聞こえてはいたけど……


「策、あるんだろ」

「はい」


 わたしはゆっくりと、立ち上がっていた。

 よく主将に、「ブラジル男子代表のような、もの凄い選手が一人いると仮定して」と、戦術の相談を持ち掛けていたから、ピンと来るものがあったのだろう。


「でも、絶対に、勝てるんだな」

「はい」


 強く頷いた。

 自信があるわけじゃないけど、そういわなければならない時だと思った。


 結果はともかく、わたしの策を採用すれば少しは勝つ可能性が高くなる。それだけは、自信をもっていえる。

 逆に、このままでは絶対に負ける。

 絶対にだ。


「勝てなかったら、新宿アルタ前で素っ裸で逆立ちしてピーナッツ食えよな。そんな覚悟もないようで、チームなんか任せられねえぞ」


 とは主将の隣に立つオジャ先輩の台詞。


「あの、お言葉ですが、こいつ、それくらい平気でやりますよ」


 やりとりを聞いていた内藤が口を挟んだ。

 この前わたしが酔った勢いで全裸で部屋の外へ飛び出してしまったことがあり、それをいっているのだろう。すぐ内藤に連れ戻されたから、誰にも見られてないと思うけど、たぶん。

 とにかく、酔ってもいないのに、そんなことするかよ。


 まあ内藤としては罰ゲームどうこうよりも、そういう無謀な重荷をわざわざ引き受けるなよと、わたしを心配していってくれているのだろう。

 ありがとう、内藤。でも大きなお世話だ。


「せっかく自分に気合い入れてんのに、余計なこというなよ。じゃ、内藤と一緒にそれやります。もしも負けたらね」

「よし、決定!」


 オジャ先輩はパチンと指を鳴らした。


「えーーっ、絶対に負けられねえ!」


 内藤、一瞬にして顔面蒼白だ。

 そんなビクビクすることないのに。いざとなりゃ、アルタ前で素っ裸で逆立ちしてピーナッツ食べればいいだけなんだから。


「それじゃあ主将代行ってことでよろしく。でもあたし怪我で試合に出られないから、やることなくなっちゃうな。まあいいや、みんな聞け! これから梨乃が主将だから! いうことに文句いわず従うように!」


 主将が大声で叫んだ。


「えーーーっ」

「何いってんですかあ!」


 ピッチ上で先輩たちが口々に素っ頓狂な声を上げた。


「うるせえ。そういうことなの」


 主将の一喝。


 わたしは、身体の中が徐々に熱くなってきているのを感じていた。

 だんだんと、面白くなってきた。


 佐治ケ江への怖さから、あえて自分自身へ無茶振りをして、主将代行を引き受けたのだが、いい感じに気分が高揚してきていた。


「みなさん、主将の木村梨乃です! よろしく!」


 習明院のフットサル女子部は、主将イコール監督。というわけで、わたしは二階級特進により二年生の若輩ながら全権を任される身分になったのである。


     3

みき先輩、どんどん上がっちゃって!」


 むら主将としての最初の指示は、ゴレイロによる攻め上がり、つまりパワープレーをさせることだった。


「お ま え は ア ホ か! まだ前半で、一点差だぞ!」


 隣のオジャ先輩が、わたしの脇腹をどすどすどすどすと小突いてきた。


「いいんです」


 突っぱねた。


「はあ、結局力押しかよ」


 先輩は、鼻で笑った。わたしの策のなさを。

 でも違うんだよね。これは点を取るためのパワープレーじゃないんだ。


「で、どうすりゃいいんだ?」


 幹枝先輩が尋ねた。

 最近理解あるから助かるな。あの疾風の一件以来かな、通じ合うものが出てきたのは。


「はい、5番を徹底的にマークして下さい! 身体を張って、絶対にシュートを打たせないこと。まともに打たせたら遠くからでも針の穴を通すような百発百中の精度を持ってますから、全神経を集中させて! あと、早乙女さおとめ先輩か、バン先輩、臨機応変にどちらかが幹枝先輩のフォローをして、なるべく二人がかりで5番に当たるようにして下さい。相手も同じ人間だなんて思わないで下さい。残念ながら同じじゃないんで。それと他の先輩たちは、攻守どちらにしてもなるべく敵陣で勝負が出来るよう、上手くラインを押し上げるようにして下さい!」

「了解だぜ。面白そう!」


 幹枝先輩はすかさず自陣ゴール前から飛び出して、ヒャッハーと奇声をあげながら佐治ケ江へ向かって走り出した。


 その目の前で、佐治ケ江がパスを受けた。

 瀬野川女子の攻撃戦術を考えれば当然かも知れないが、彼女らは、誰がどうぴったりマークしていようとも平気で佐治ケ江へとパスを繋ごうとする。それ以外に攻めの形を持っていないからにせよ、佐治ケ江のボール扱いが、それだけ信用されているのだろう。


 ボールを持った佐治ケ江と、幹枝先輩とが向かい合った。 

 佐治ケ江はフェイントで幹枝先輩をかわそうとするそぶりを見せたが、早乙女先輩の接近に気付くと無理をせず、後ろへ下げた。

 とりあえずは一安心だ。

 先輩たちが、佐治ケ江をみくびらずにいてくれたということで。


 わたしは、くるりと身体を反転させ、ベンチへと向いた。


「内藤をはじめとするベンチの諸君は、この戦い方をしっかりと目に焼き付けておくこと。これとまったくおんなじこと、やってもらうからね」

「あたしたちも、ですかあ?」


 一年生のえんどうゆうが不安そうな表情を作った。なんだよ、ベンチ入りしてるくせに、試合に出るつもりなかったのかよ。


「取り合えず、梨乃のいう通り、試合をじっくり見よう。ピッチに立つなら立つで、指示された通りの戦術でやってかないとならないわけだから」


 内藤幸子、さすが大人だ。伊達に浪人していない。

 さて、この後であるが、わたしは先輩たちから激しく睨まれることになった。

 不平不満をいいながらも、なんだかんだとわたしの指示に従って行動してくれていた先輩たちを、一人、また一人とピッチから下げていったためだ。


「おい、あたしもかよ!」


 かめどりが怒鳴り声を上げた。


「はいはい、そうですよ。文句ばっかりの先輩たちは、下がった下がった」


 わたしは犬を追い払うような仕草をした。

 先輩たちをベンチに下げるのは作戦だが、この態度そのものにとりたてて意味はない。せっかくの主将気分を堪能しているだけだ。


 奈美先輩は舌打ちしつつ交代ゾーンへ向かい、もとえいと入れ代わる。


「先輩、お疲れ様でした!」


 栄子は首をコトコト動かしながら、甲高い叫び声を上げた。


「疲れてねえよ! てめえのキンキン声、ムカつくんだよ!」


 奈美先輩は、ハイタッチに振り上げた両腕で、栄子の頭をぶん殴った。


「じゃ、あらためて、おつかれええさあまあでえしいたあ~」


 栄子、顎を引いて精一杯の低い声。


「バカにされてるみたいでムカつくんだよ! つうか疲れてねえって!」


 また殴った。

 ほんと理不尽な先輩たちだよ。

 でも、これはわたしも殴りたくなるかも。それか吹き出しちゃうかだな。

 わたしは空気は読めるが性格上先輩たちを怒らせてしまうタイプだけど、栄子は空気読めずに激怒させるタイプだな。


 とにかくこれで、三年生はゴレイロの名場幹枝だけになった。

 現在ピッチに立っているのは、

 一年生のこしざき

 二年生の元木栄子、

 しなざきすず

 のう

 ゴレイロは三年生の名場幹枝、この五人だ。


 わたしの狙いは、別に下級生をずらり並べることにはなく、単調なハードワークをしてもらうことにある。だから主力を下げたのであるが、


「お前コラ!」


 特に説明もしていないのでみんなに意図が伝わるはずもなく、ブチ切れた亀尾取奈美先輩がわたしに近寄り後ろに回り込んだかと思うと、飛び上がってお尻に回し蹴りをしてきた。いわゆるローリングソバットだ。


「どういうつもりだよ!」

「いいんです、これで」


 先輩たちが最初から聞く耳を持ってくれていれば、納得いくまでいくらでも教えてあげたのに、鼻で笑って忠告を無視していたのはあんたらだろう。いまは試合中、説明している時間などない。


「ウマヨ! そこ絞って。そう。ズラも栄子も集中切らさずに。陣形どんどん回転させて、必ずミッキー先輩と二人で5番に……」

「優、下がれ! ハミと入れ代われ!」


 わたしの指示の声を、向こうの監督の大声が掻き消した。

 二人掛かりの執拗なマークに手を焼いていた佐治ケ江は、監督の指示に従って後方へと下がった。4番のうちようが、入れ違いに前に出てきた。


 少し下がって様子を見るため?

 司令塔になるなど、役割の変更?


 いや、そうじゃない。きっと、ロングレンジのシュートを狙うつもりだ!


「幹枝先輩はそのままで! 前二人が5番をマークして! 状況次第でウマヨも寄せて! とにかく5番がどこにいようと絶対に自由に……」


 わたしは焦り、大声で指示を飛ばすが、しかし、時すでに遅かった。

 元木栄子が佐治ケ江のマークにつこうとゆっくり寄せ始めた。


 ボールが、佐治ケ江の元へと渡った。


「急げ! 潰せ!」


 わたしのこの焦り、栄子には理解出来なかったようだ。でもそれは当然か。佐治ケ江は、完全に自陣深くにこもっているのだから。


 でもここは、イエローカード覚悟の防御をするべきだったのだ。


 栄子は、わたしの声に背中を押され、なにがなんだか分からぬまま、ワンテンポ遅れて佐治ケ江へとダッシュ。


 その瞬間だった。

 矢が放たれたのは。


 ノーマークの佐治ケ江は、前方を見据え狙い済ますと右足を素早く振り抜いた。

 ほとんど端から端といった長距離を、敵ながらため息が出るくらいに美しい虹の軌跡を描き、ボールは無人の習明院ゴールへと吸い込まれた。

 クリアしようと全力で駆け戻ったミキエ先輩であったが、間に合わず、ボールに続いて自分がゴールへと飛び込んだ。

 こうして、瀬野川女子に追加点が生まれた。


 0-2。


 瀬野川女子にとって、先制弾こそ一瞬で生まれたものの、習明院の徹底した佐治ケ江対策によりなかなか追加点の入らないという焦りもあったのだろう。選手たちの喜びようは、それは凄まじいものだった。まるで、優勝でもしたかのように。


「おいおい! やられちまったじゃんかよ、バカリーノ! ゴール前ガラ空きにすりゃロングシュートでやられんの当たり前だろ!」


 バン先輩が、わたしの頭をげんこつで思い切り殴ってきた。


「想定内! がたがた抜かすな!」


 まだ戦いは始まったばかり。

 やりかたを変えるつもりはない。それは、次のフェーズに進んでからだ。

 しかし便利な言葉だな、想定内って。相手に簡単に説得力を与えられる、魔法の言葉だ。


「いまの失点は、もっとガツガツ当たらないからだよ! 警告は一回まではオッケーなの! なんのためにルールがあると思ってんだ!」


 ばらふじ時代の内藤みたいなこといっている、わたし。


 本当はフェアプレーでのぶつかり合いをしたい。

 だけど、そんなことをいっていられる余裕はなかった。いまのわたしにも、習明院の戦力としても。


 わたしの入れた活により、佐治ケ江への警戒心や、当たり方に目の見える変化が出た。

 だがそれは当然ながら、習明院の選手にファールが多くなるということだった。

 そしてついに、品崎涼羅が佐治ケ江を止め切れずに、足を引っ掛けて転ばせてしまい、イエローカード。


「ズラ、交代。有子、入るよ」


 わたしはすかさず、警告を受けた選手を交代させた。いま退場者が出ては困るからだ。


 品崎涼羅に代わって入ったのは、一年生の遠藤有子。

 自分で交代させといてなんだけど、有子、大丈夫かな。主将が怪我で急遽メンバーから外れたために、繰り上げで登録されたわけだけど、連係が心配。上手くいかずに焦ってカードなんかもらわなければいいけど。


 嫌な予感は的中。

 有子は早速、佐治ケ江を転ばしてイエローカードをもらってしまった。


「有子、栄子とポジションチェンジ」


 出たばかりで引っ込ませるのも士気に関わるし、有子には佐治ケ江とあまり接触しないで済みそうなところへ移動してもらった。


 その後も流れは変わらず、佐治ケ江一人に翻弄されて習明院はファールに次ぐファール。有子も他のみんなも、集中してくれたおかげでイエローカードこそは出なかったものの、しかしまだ前半の前半だというのに、もう第二PKを与えることになってしまった。


 直接FKの対象になるファールは、六つ目からは相手が蹴り位置を二択出来るようになる。

 ファールを受けた場所か、または第二ペナルティマークからか。

 この第二ペナルティマークから蹴るのが、第二PKだ。距離の長いPKともいえるし、壁のないFKともいえる。


 キッカーは佐治ケ江優だ。

 ゆっくりとした仕草でボールをセットすると、軽く助走を付け、そして右足を振り抜いた。


 ずどん、と爪先で思い切り、ゴール上隅を狙ったが、幹枝先輩はかろうじて反応してパンチングで弾いた。


 続くCKは、幹枝先輩がジャンプしてキャッチした。

 だが、それから三十秒もしないうちに、習明院はまた佐治ケ江を止められずにファールを犯し、また第二PKを与えることになった。


「こんなんで、本当に勝てるんですか?」

「三年生がいないんじゃあ……」


 ついに一年生からも、わたしへの不満の声が上がった。


「うるさい。文句いうと、明日からいじめるよ」

「あたしらが、お前のことをいじめてやろうか。……ほんとにさあ、どういうつもりなんだよ!」


 オジャ先輩が、ぎゅっとわたしの肩を掴んできた。


「あたしいま、主将代行なんで。離せ!」


 その手を、強引に振りほどいた。

 まったく主将様に無礼な奴だ。


 わたしにそのような態度を取られ、しばし呆然としていたオジャ先輩だったが、突然ぷっと吹き出した。そして、腹を抱えて苦しそうに笑い始めた。


「絶対に、結果出せよな」


 真顔になると、ちょっと唇の端を釣り上げ、苦笑した。


 もう覚悟を決めるしかしかない、というところだろうか。

 ゆっくり、右手を伸ばしてきた。


「はい。必ず」


 わたしはその手をがっちりと掴み、握手をした。


「先輩たちには大事な役割があるんで、ゆっくり休んでいてください」

「オッケー」


 オジャ先輩は、どっかりとベンチに腰を下ろした。


 ピッチ上では、習明院の一年生二年生が、佐治ケ江を食い止めるべく体力の限りを尽くして走り回っている。

 そして前半八分、追加点を奪えぬまま、佐治ケ江がベンチに下がった。

 顔には出ていないが、相当に疲れていることだろう。


 おそらく相手の監督としては、佐治ケ江を使ってもう一点取らせてから引っ込めたかったのだが、習明院の粘りになかなか思うようにいかず、ついつい交代タイミングを見失って引っ張り過ぎてしまったのだと思う。これまでの試合では、特にきっちり時間で区切らずとも、一点などすぐに取ってきてくれていたのだろうから。


 どうしようもないくらいにスタミナのない佐治ケ江をどうやって使うか、これは佐原南時代にも課題だったのだが、瀬野川女子の監督はとにかく小出しにすることで、その回答としたわけだ。

 その手があったか、と、わたしにとってもまさに青天の霹靂だった。


 ただ、リーグ戦と違ってこの大会は連戦連戦だから、監督もちょっと佐治ケ江の体力を読み間違ったようだ。おそらく計算以上に疲労していることだろう。

 でもまだまだ、わたしの佐治ケ江狩りはこれからが本番だ。


 その佐治ケ江がベンチに下がった後の瀬野川女子であるが、二点もリードしているためか、攻め急がず、ガチガチに引くでもなく、ゆっくりとパスを回している。


 習明院は、既にパワープレーはやめて幹枝先輩をゴール前の守備に戻しており、FPは四人だ。

 その後、一分、二分と経過したが、なかなか佐治ケ江の出る気配はなかった。


 リーグ戦では毎試合大量得点だったけど、この大会は連戦で、より慎重に疲労対策しないとならないからな。とりあえずの安全圏である二点差に達したということで、温存しておくつもりかも知れないな。

 勝ったら次は決勝戦ということを考えれば、それも当然か。


 動ける佐治ケ江がベンチにいるというだけで、瀬野川女子の守備力は異常に向上するようだし、ならばやはり、一か八かの賭けにはなるけれど、あれをやるしかないか……


 わたしの狙いは、佐治ケ江になるべく長い時間ピッチに立っていてもらうことだから。

 それには、接戦にして相手を焦らせたり、または点を取るならいましかないと思わせる必要がある。

 だから……


「有子、そこ! 当たれ! 潰せ!」


 え、と驚く遠藤有子であったが、わたしの怒鳴るその勢いに押され、つい足を引っ掛け7番のぐらふみを倒してしまった。

 笛が鳴った。


 遠藤有子にイエローカードが掲げられ、

 続いて、レッドカード。

 出場早々にもらったのと合わせて、二枚目のイエローで退場になった。


     4

「こらあ、おいこらあ、退場しちゃったじゃんかよぉ、ちゃあん。聞いてるかあ?」


 かめどり先輩がわたしのお尻を掴んで、もにゅもにゅとこねくり回した。地ならしとかいって、蹴飛ばす前によくやる仕草。で、案の定蹴飛ばされた。回し蹴りで、ズパーンと思い切り。


「大丈夫。すべては計算づくです」


 わたしは強がった。

 本当は冷や汗たらたらだったが。


 わざと味方を退場に追い込んだのは、事実だ。

 えんどうゆうは出てそんな経ってないのに、無意味に走り回って疲労でばてばてだったし、それにこれで佐治ケ江が出てくるはずだから、と。


 そうなれば確かに計算通りといえるが、それを耐え切らなければ意味がない。わたしの策はただの無謀なバカの暴挙に終わる。


 ピッチ脇で味方に指示を飛ばしていた佐治ケ江の背後に監督が立った。二言三言かわすと、佐治ケ江は歩き出した。

 交代ゾーンへと。


 やった。引っ張り出したぞ。

 でも、喜んでばかりはいられない。

 これは完全にバクチだ。

 二点ビハインドまでは負け惜しみでなく計算のうちだけど、三点差になると一転して絶望的なスコアになるからだ。


 上手くいくかどうかは、もうピッチに立つ選手の頑張りと、運次第。

 一人人数の少ない状況で守り抜くのは至難の技かも知れないけど、でも、前半でもう一度佐治ケ江を引っ張り出すためには、こうするしかなかった。


 こちらの人数が少なくなったのと同時に佐治ケ江が出てきたのは、ある意味、当然のことといえた。わたしがあちらの監督だとしても、そうする。


 つまり瀬野川女子にとって、この点差この時間で、相手が一人少ないというのは、さらに追加点を取って試合を完全に決定づける大きなチャンス、なのではあるが、崩し、決めきれるような芸当の出来る選手がピッチにいない。

 だから、まだ体力のほとんど回復していない佐治ケ江を、こうして出さざるを得なかったということだろう。


「幹枝先輩、また上がって5番のマークについて! あとは近いのが一人、先輩のフォローお願い!」

「うおっけい!」


 試合の行方が自分にかかっているという重圧に、幹枝先輩はむしろ嬉々とした表情になり、ゴール前を離れて佐治ケ江へと突っ込んで行った。


 こうして先ほどやったように、また幹枝先輩と他の一人とで佐治ケ江を徹底マークさせることになった。

 先ほどと異なるのは、こちらの人数が退場で少なくなっているという点のみ。そこは他の選手が動き回ることでカバーするしかない。


 佐治ケ江がすっと動き、味方からのパスを受けた。

 瀬野川女子は、佐治ケ江がピッチにいる時には徹底的に佐治ケ江を生かす。だから彼女へのパスコースを封じるように指示はしているのだが、しかし受けて手である佐治ケ江の動きが実に老獪で、パスは難無く繋がってしまう。

 習明院の人数が一人少ないとあっては、なおさらのことだった。


 そこで、一年生二年生の体力だけでなく、名場幹枝の経験や技が重要になってくるわけだが、


「やらせないよ!」


 と、戦意満々にほくそ笑む幹枝先輩の脇を、佐治ケ江はドリブルで風のように抜けていた。


「おおっ!」


 と幹枝先輩がびっくりしているうちに、佐治ケ江は既に、次の相手であるもとえいをフェイントでかわしている。


 本当に、常識では考えられないくらいの個人技だ。

 でも、ここをやられたらおしまいだ。どんなことをしてでも食い止めないと。


「身体入れろ! シュートコース塞げ!」


 わたしの叫びに驚いたわけではないだろうが、のうが佐治ケ江に強く当たり過ぎてしまった。佐治ケ江はぐらりとよろけて、床に手と膝をついた。


 笛が鳴った。

 習明院のファールで、第二PKを与えることになった。


 でもとりあえずは、助かった。

 いやいや、まだ気は抜けないか。


 また、キッカーは佐治ケ江だ。

 軽く助走をつけ、蹴った。

 先ほどとは逆の隅へ、勢いよく、しかしパスのように丁寧なボールが、筆を滑らせるかのごとくすうと飛んだ。


 決まってもなんら不思議ではない見事なシュートであったが、しかし幹枝先輩は半歩横へ動いて、しっかり両手にキャッチしていた。


 先輩は、こちらへ親指を立てるとニッと笑った。

 さすがは習明院の守護神。わたしがなにをしようとしているのか、説明などまったくしていないというのにしっかり理解しているようだ。


 佐治ケ江のシュートの球威が弱まっていることから、「お前の狙い通りになってきているぞ」という合図を送ってきたのだ。はた目には分からないが、シュートを受け続けていた本人がそう感じているのならば、それは間違いないことなのだろう。


 確かによく見れば、佐治ケ江の息が上がってきているようにも思える。まあ、異常なほど執拗にマークさせているから、へたばって当然か。


 格下の相手に、しつこく食らい続けられることほどイライラして疲労することはないからな。そういう意味でも、一年生二年生を佐治ケ江対策に当てたことは効果があったというものだ。


 向こうの監督も向こうの監督で、もうすぐハーフタイムになるからって、無理して出場させ続けたからな。

 とりあえずのところ、事はすべてプラン通りに運んでいるといえた。二失点目は、ちょっと余計だったけど。


 人海戦術で佐治ケ江を防ぎ続けるだけの、この戦術といえない戦術、すっかり選手たちには浸透しており、わたしの外からの指示がなくてももう大丈夫なようだ。


 退場で一人少ない怖さはあるけど、そこは幹枝先輩がしっかり守ってくれるだろうし……なら、やるか。


! あたしと交代!」


 わたしは叫びながら、交代ゾーンへと向かった。


「お疲れさん。よく頑張った」


 汗だくになって戻ってきたこしざきの肩をぽんと叩いた。


「もうダメ。死にそうですう……」


 誇張でなく、本当に辛そうな表情。かなり走り回ったからな。途中からは一人少なかったから、ピヴォとはいえ守備にも忙しかったし。


「しっかり休んでて。またすぐ出てもらうと思うけど」


 わたしは腰崎富美と入れ代わり、ピッチに入った。


 佐治ケ江優と同じピッチに、数年ぶりに。

 以前とは異なり、敵同士として。


     5

「ミッキー先輩、5番はあたし一人で見ます」

「じゃあ、ゴール前に戻ってていい?」

「いえ、他のマークについて下さい」

「分かった」


 ゴール前不在がもたらす緊張が、現在のところ良いバランスをもたらしている。


 ならば、こちらはまだ一人少ないこともあるし、パワープレーを継続させることで、相手のFP全員をマンマークさせた方がいいと思った。攻撃に出るわけでもないのにゴレイロを上げるなんて、常識的じゃないのは分かっているけど、なにせ相手は佐治ケ江、セオリー通りにやってかなう相手ではない。


 わたしはさっそく5番、佐治ケ江のマークについた。

 誰がマークに付こうと、やはり瀬野川女子の選手は変わらずに佐治ケ江へとパスを出そうとする。


 佐治ケ江の動き出しのよさもあるのだろうけど、外から見ていて、決して奪えないボールではなかった。

 そのイメージを思い浮かべ、わたしは身体を回り込ませ、足を伸ばし、そして、そのパスをカットした、つもりであったが、それはわたしの脳内だけのことで、現実にボールがあるのは佐治ケ江の足元であった。


 なんか、魔法にかかったようだ。

 一体いま、どういう動きをしたんだ。


 いやいや、そんなこと後で考えればいい。とにかくここは絶対に通さない。それだけだ。

 と、わたしが気を取り直した瞬間、ふっと佐治ケ江の身体が空気に溶けるように消えていた。

 切り返し、突破を図ろうとしてきたのだ。


 その急加速についていこうとするだけで、わたしの全身の骨や筋が、ぎいっと軋みをあげた。


 切り返しの切り返しに、わたしはまったくついていくことが出来ず、抜き去られていた。

 相当な疲労をしているはずなのに、なんでこんな動きが出来る?


 佐治ケ江はまっしぐら、無人のゴールへと向かっていた。

 ダメ押しの三点目を上げようとゴールへ蹴り込むその寸前、佐治ケ江の軽そうな身体が吹っ飛ばされていた。


 わたしの招いてしまったピンチに、みき先輩が4番のマークをかなぐり捨て、佐治ケ江へと突っ込み、スライディングでボールカットしたのだ。


 幹枝先輩はすぐに起き上がり、ドリブルで駆け上がる……と、その直後に審判の笛が鳴った。


 イエローカードが掲げられた。


「うおお、しまった! ゴレイロの癖で!」


 フットサルは基本的にスライディングタックルは禁止。ゴレイロのPA内での守備に限り、よほど危険なものでない限り許可されている程度。

 最近、FPのスライディングを認めるルールも出来ているようだが、この大会は一切禁止だ。

 つまりはペナルティエリアを出ている限りゴレイロといえどもスライディングの特権などなく、FPのルールに従わなければならない。名場幹枝は、つい普段の習慣でスライディングをしてしまったのである。


「お前のせいでカレー券もらっちゃったじゃないかよ! なにが5番あたし一人で見ますだよ!」


 グローブはめた手で、ボカリと殴られた。


「すみません」


 わたしは素直に謝った。

 確かにわたしのミスだからだ。


 決して佐治ケ江をみくびっていたわけじゃない。

 むしろ誰よりも、怖れていた。

 だからこそ、動きが硬くなってしまっていたのかも知れない。


 でも、もう大丈夫。

 絶対に、止めてやる。

 だから幹枝先輩、まずは阻止してくれ、この第二PKを。


 瀬野川女子のキッカーは、2番のはなこと。佐治ケ江ではない。


 こちらが直接FK級ファールを犯す度にあちらは第二PKが獲得出来るわけで、そして佐治ケ江がいる限りいくらでも獲得出来るだろう、とちょっと実験的に出てきたようだ。


 キッカーって意外と心身に負担が来るから、監督としては佐治ケ江のことを考えての采配かも知れない。


 笛が鳴った。

 花田琴瀬は少し長めの助走をし、勢いに任せて思い切り蹴ってきた。


 そうすれば運次第では入る。と思ったのだろうか。

 確かにコースはしっかり枠を捉えていたが、幹枝先輩はなんということもなく、がっちりキャッチしていた。


「うっしゃああ! 鉄壁ィ!」


 名場幹枝、自画自賛の雄叫びそしてガッツポーズ。

 二点も取られたくせに。


 でも、そのうち一点はわたしの指揮下でのことなので、文句はいえないのだが。


 ここでわたしは、フィクソであるのうを引っ込め、ピヴォのこしざきを再度投入。


 人数が少ない上、守備の選手が皆無。

 次のワンプレーで絶対に点を取るんだという決意、みんなに伝わったはずだ。


 幹枝先輩の放り投げたボールは、一年生の腰崎富美へ。

 富美は周囲を素早く確認し、わたしへとパスを出した。


 それを読んでいた佐治ケ江が、わたしからすっと離れ、そのパスをインターセプト。


 佐治ケ江がそのままトップスピードに乗る前に、追い付いたわたしが突破を阻むべく立ち塞がった。


 佐治ケ江は足をとめ、わたしたち二人はお互いの呼吸も聞こえそうなほどの近距離で向き合った。


 わたしは佐治ケ江を睨んだ。


 ここは絶対に、抜かせないぞ。

 佐治ケ江の、あの独特のリズムを思い出せ。

 わらみなみ時代、紅白戦で、何度も抜かれ、頼もしいと思うと同時に悔しくて悔しくてしかたがなかった、あの気持ちを思い出せ。


 雪辱、などというと、思い出を否定するようで複雑ではあったが、いまそれ以外に適切な言葉が浮かばなかった。


 とにかくその感情を、いまここで、晴らす!


 ふうっと佐治ケ江に誘導されたふりをしたわたしは、次の瞬間、逆方向へ重心を取り、切り返しが来るのを信じて足をちょんと出して待ち受けた。

 網に、かかった。


 足にボールの迫る空気を感じたその瞬間、わたしは仕掛けていた。

 佐治ケ江の股の下から、ボールを蹴り出した。


 すぐさま佐治ケ江の横を抜け、そのボールを拾った。

 ドリブルするわたしへと、横から紫色ユニフォームが一人、全速力で向かってくるが、まだ遠い。

 わたしは気にもとめずに、走り続けた。


「ハミさん、7番マーク!」


 後ろから、足音と、必死な叫び声が聞こえた。佐治ケ江がわたしの背中を追いながら、フィクソに指示を出しているのだ。


 わたしはそのままPAへと入った。

 フィクソが飛び込んできたが、冷静に切り返し、かわした。


 フィクソの陰から、ゴレイロが猛然と飛び出してきた。


 わたしはボールを横へ、ちょこんと転がした。同時に跳躍して、スライディングしてくるゴレイロを避けた。


 ゴール前をころころ横切るボールへと、腰崎富美が走り込んでいた。

 思い切り、右足を振り抜いた。


 ゴールネットが揺れた。


 決まった。

 一点返し、これで1-2だ。


 どっ、と習明院ベンチが沸いた。


     6

、よく決めた!」


 わたしは、こしざきの肩を骨も砕けろとばかりに何度も叩いた。


「先輩のパスがよかったです! 最高でした!」


 富美は、すっかり興奮したような表情、何故か涙目になっている。

 鎌倉教育に一点すら与えなかった硬い守備の相手からゴールを奪ったんだからな。本当に嬉しいのだろう。


 後だしジャンケン的でズルイかも知れないけど、この得点はまさに狙い通りだ。

 むしろ一人少ない方が得点チャンスがあると思っていた。一人少なく、なおかつ佐治ケ江が出ている時の方が。


 佐治ケ江がメンバー登録すらされていなかった頃は、点を取りにいかねばならない関係上、瀬野川女子の守備は脆かった。


 しかしこうして佐治ケ江がメンバーに入っていると、ただ入っているというだけで話がまったく違ってくる。

 他の選手たちは守りに集中出来るし、守り切ることさえ出来ればかならず勝てる、という思いからか、とにかく必死に守ってくるのだ。脳内麻薬でも分泌されているのか、それはもう実力以上の凄い力を発揮して。


 従って、佐治ケ江が登録されている以上、彼女がベンチにいる時の瀬野川女子は鉄壁。得点を奪うためには、是が非でも佐治ケ江を引きずり出す必要があった。


 狙い通りのゴールであったという理由としては、もう一つある。


 佐治ケ江のボール保持や奪取などの個人技が、あまりに超人的であるということ。そうであるがこそ周囲の選手は、自分たちにかかりっきりになれ、硬い守備が生まれるわけだが、その裏返しとして佐治ケ江に対してのフォローの意識がどうしても鈍くなってしまうのだ。


 つまり、佐治ケ江を抜きさえすれば、ゴールは目前ということ。

 若干の運も味方してくれ、その通りになったのだ。


「まだ負けてんだ、集中切らさず、粘り強く戦ってこう!」


 と、わたしはぐるりとみんなの顔を見ながら、得点により緩みが出てしまうかも知れない気持ちを引き締めさせた。


「まだまだ。一点リードしてるんだから!」


 同様に、気を引き締めようと手を叩いたのは、瀬野川女子の主将ぐらふみ


 表情から一目瞭然だが、瀬野川女子の部員たちはこの失点にすっかり落胆しているようだ。


 記録を見る限り、佐治ケ江がメンバー入りしてから、ずっと無失点だったからな。

 そうだな、この得点にはそういう意味もあったな。


 それよりなにより、わたしにとって一番大きいのは、向こうの監督が、この後も佐治ケ江を使い続けたということだった。


 一点差に詰め寄られたことで、どうしても引き離して安全圏へと逃げたいという焦りが出てしまっているのだろう。


 でも、そうはいかない。

 ここは勝利のため、非情に徹させてもらう。


 佐治ケ江には、相変わらず過剰なまでに執拗なマークを続行。

 いまその役目をするのは、わたしだ。


 疲労の極みにあってもなお異常なまでに高いボール保持技術を持つ佐治ケ江、対するのが一人では、奪うことも止めることも容易ではなかったが、わたしはなんとか踏ん張り、食い止め続けた。


 えんどうゆうの退場から二分が経過。

 ようやく習明院は、選手の補填が可能になった。


西にし!」


 わたしは、控えゴレイロである一年生の西にしあゆみを手招きで呼んだ。


 え? 何故ゴレイロ交代? と、きょとんとした表情で自分の顔を指差しながらも、西谷歩は腰を上げ、ピッチへと入った。


「あ、違う、西谷! ピヴォ、ピヴォで!」


 自陣ゴールへ向かう西谷歩へかけたわたしの言葉に、正ゴレイロの名場幹枝がぷっと吹き出した。

 その、あまりに露骨な人海戦術に、ということだろう。


 ボール扱いに不慣れな西谷歩をピヴォにしたのは、変なところで奪われてピンチを招かないため。ただ、体力の限りボールを追い掛けるだけに徹してもらいたかったから。


 そして本来ピヴォである腰崎富美を、アラの位置に置いた。ボール扱いに不慣れな西谷歩が中盤やるより、遥かにマシだろうから。


 ずっとPA外でFPとして走り回っていた名場幹枝先輩には、本来のポジションである自陣ゴール前の守備に戻ってもらった。


 こちらに有利な環境が、少しずつ整いつつあった。

 まずは前半終了まで、このまま、気を抜かずにやり切らないと。


 わたしのマッチアップの相手である佐治ケ江優から、ぜいぜいと荒い呼吸が聞こえているのにふと気が付いた。

 大きく肩を上下させ、喘ぐような、そんな息遣いになっていた。表情も少し苦しげだ。


「監督!」


 瀬野川女子の主将名倉文子は、佐治ケ江を指差した。


 その指摘を受けて、監督はようやく決断を下し、佐治ケ江を引っ込める指示を出した。

 リードしているのはこちらなのだから、と、踏ん切りをつけたのだろう。


 遅すぎる決断だ。

 よくぞここまで引っ張り続けてくれた。


 わざわざ退場者を出すというリスクを負ってまで佐治ケ江を引き出したのだが、その見返りは充分に得られた。


 それから三十秒ほどが経過し、審判の笛が鳴った。


 1-2、瀬野川女子リードのまま試合はハーフタイムに。


 わたしの全身から、どっと汗が吹き出した。

 驚くほど長く感じた二十分が、ようやく終わった。

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