第五章 大阪へ
1
「目覚ましのセット忘れたんじゃないのぉ?」
わたしは慌ただしくブラシで髪の毛をとかしながら、ヘアピンを探して中腰でうろうろしている
「したよ! 壊れてんだよきっと」
なに必死にいいわけしているんだよ。
改めてセットしてみたところ問題なく鳴ったから、きっと悪いのは目覚ましではなく内藤の頭だ。いい争っても仕方ないから追求はしないでやる。
まだ朝の五時。
だけど、もう朝の五時だ。
本当なら四時半に起きる予定だったのだから。
何故そんな早起きをするのかというと、今日は大阪でフットサルの大会があり、わたしたち
などといえば格好はいいが、前泊するお金の余裕もなく新幹線で日帰りの予定で、だから早起きせざるを得なかったというわけだ。内藤のせいで三十分遅くなったけど。
六時半発の新幹線に乗るので、東京駅
あと五分で出ないと、間に合わない。
待ち合わせに遅れたりなどしたら、内藤ともども先輩たちに東京駅の端から端までぶっとばされてしまう。往復ビンタかなんかで。
そうはならないために、わたしたち二人は身仕度にばたばたと忙しく駆け回っているというわけである。
「パンツいっちょで走るんじゃないよ。おっぱいぶるんぶるんさせて、バッカじゃねえの!」
怒鳴る内藤。
「だって」
昨日髪をあまり乾かさずに眠ってしまって、なかなか寝癖が取れずに時間を食ってしまったんだから、仕方ないじゃないか。
そもそもお前、目覚ましちゃんとセットしとかなかった分際で、なにイラついてんだ。
どたばた駆け回る音を掻き消すように、床が、突き上げられるようにドンと鳴り、震えた。
文字通りに、突き上げられたのだ。下の住民から。
月に一度は、こうして無言の抗議を受ける。きっと内藤の巨体が立てる足音がうるさいのだろう。
ちょっと神経質過ぎる気もするけど、まあ今日は全面的にこっちが悪い。今度会ったら謝っておこう。といっても、どんな住民なのかまったく知らないけど。
「おお、いいあさワイドが来週で終わるんだって、なんかショックだあ」
部屋の隅に置かれているテレビには、いい朝ワイドという朝の情報バラエティー番組が映っているのだが、司会者とアシスタントのお姉さんが残念そうにそんな報告をしている。
「なにそれ?」
「この番組だよ。めざましスタジオ七時ですの前にやってるんだけど」
「こんなん全然見ていなかったくせに」
内藤がぼそり突っ込んだ。
そりゃ大学生になって全体的に朝が遅くなったんだから仕方ないだろ。それと慣れ親しんだ番組の終わる淋しさは別だ。中高生の頃は、毎朝通学の仕度をしながら流していたんだから。
「今日一番ラッキーなのはぁ、牡羊座のあなたでえす!」
カンカンキンキンしたアニメ声が狭い室内に響いた。
まだ朝の五時少し過ぎだというのに、星座占いなどをやっているよ。お姉ちゃんがこんな時間にテレビ見るか? ターゲット間違ってるだろ。だから終わっちゃうんだよ。
それはさておいて、ええと、わたしの星座はてんびん座だから、と、
「ああくそ、総合運最悪だ!」
占いなんてそんな信じているわけじゃないけど、これから試合という時にこんなの知ってしまうと、やっぱり気になってしまう。見なきゃよかった。
「うわあ、あたしも総合運最悪だって」
内藤もかよ。まあそっちはザマアミロだ。
と思っていたら、内藤の顔が、不機嫌百パーセントから一転して幸せの絶頂といった表情へと変わった。
「お、あたし愛情運だけは最高だ。やった!」
「よかった、デタラメな占いだ」
ほっと胸をなでおろすわたしを、きっ、と内藤が睨み付ける。
でもまあ、占いなんて関係ないよ。試合の勝ち負けに。
仮に関係あるとしたって、フットサルは集団競技。うちの部にだって今日の対戦相手にだって、運勢最高の者もいれば最悪な者もいるだろうし、別に全員の運勢合計値で戦うわけじゃないんだから。
特に内藤、今日は女子同士の激闘の日だというのに、こんな日に愛情運最高とか、バカだろ。そんな出会いなんか、ないよ。
さて、もう出掛けねば。
内藤の運勢のことなんか、どうでもいい。
まだ寝癖が残っているけど、そんなこといっていられない。
集合時間に間に合わなかったら、顔面ボコボコにされて、寝癖どころじゃなくなる。
部のジャージに身を包み、忘れ物の最終チェックをし終えたわたしたちは、バッグを抱えると食パンをかじりながら外へ出た。
戸締まりよし。
さあ、行くぞ。
エレベーターを待ってる時間も勿体ないので、階段を駆け降りて一階へ。
エントランスにある郵便受けに、なにか届いていないか確認。なにかというか、目的の物が届いていないかをだ。
昨夜、見るのをすっかり忘れていたから。
ピザ屋や寿司屋、AV宅配などのチラシが何枚かと、そして一枚の大きな茶封筒。A4サイズの用紙が入るくらいの。
もしや、と思い茶封筒を手にして裏面を見てみると、差出人
やっと、届いたか。
というか、昨日きてたのかよ。
参ったな。
一生の不覚だ。
それまでは届いているかどうか毎日チェックしてたのに、昨日に限って忘れるなんて。
色々と気が焦っていたからな、仕方ないか。
行きの電車の中で見るとしよう。
「梨乃! ボケッとしてたら電車間に合わないって!」
「ああ、ごめん」
わたしは封筒を二つ折りにしてバッグに詰め込むと、ささと小走りで内藤の元へと近寄った。
背後に立ったわたしはつい反射的に、内藤の背中に顔を当て頬をうずめた。
「なにやってんだ?」
「背中、でかー」
「殺すよ」
っと、こんなことやってる場合じゃない。
わたしたちは大きなスポーツバッグをそれぞれに抱えたまま、よたよたと駅への道のりを走り出したのだった。
2
「なんか大阪って感じしないねえ」
オジャ、
関東と別段変わりのない、ごくごく一般的な、都市近郊の駅周辺の町並みだ。
「ほんと。もっとみんな、どつきあいしながら歩いているかと思ったあ」
などといっているのはバン先輩こと
バカな会話してるよ。
「どつきあいなんか、してるわけないじゃん、だってここ大阪市じゃないんだよ。その隣なんだだよ」
と、
ほんとバカ揃いだな、三年生は。
……声に出さないだけで、わたしもまったく同じような感想を抱いていたのだけど。
ここは幹枝先輩のいう通り大阪市の隣、
試合会場である体育館までの道のりを、四年生から一年生まで、
東京から新幹線で新大阪駅へ、そこから私鉄で
フットサルの大会に参加するために。
国内の大学における、頂点の座をその手に掴むために。
でも全然意気は上がらなかった。
わたし個人としては初めて降り立った大阪という地であるが、先輩たち同様に大阪という気がまるでしなかったし、先輩たち以上にこれっぽっちも遠征気分を堪能することが出来ず、ため息、というか血ヘドの出そうな表情で歩き続けていた。
同じ目にあってみれば誰でもそうなるだろう。先輩たちの荷物を、情け容赦なくどっかりと背負わされ両手に持たされれば、誰だって。
もう死にそうよ、ほんとに。
隣を歩く
まだ大会も始まっていないというのにさあ。
集合時間に遅れた罰とのことだ。
予定通りの新幹線には、ちゃんと乗れたというのに。
もしも間に合わなかった場合、後続列車の自由席に乗るしかなく、なかなか姿を見せないわたしたち二人にハラハラさせられて頭に来たから、というのが罰の理由らしい。
どうせ時間になったら、容赦なく置いていくつもりだったくせに。
これ幸い、こき使う理由が出来た、とかなんとか思っているくせに。
新幹線の中でも、自販機に買い出しに行かせられるわ、肩揉みを強要されるわ、一分たりともくつろげる時間がなかった。ほんと最低の先輩たちだよ。
「ったく
「負けたらどうしてくれんだよなあ」
ぶつぶついってるアホ二人、その名は剛寺和子と番場紗希。
だからあ、時間通りの新幹線には間に合ったでしょうが!
肩揉んでやったし、荷物だってこうして持ってやってんでしょうが!
なのにまだいうか、お前ら。
このまま大阪の街へ逃亡して、道頓堀に荷物ぶちまけるぞ!
などとはとてもいえないけど。
つい、口から漏れちゃったかも知れないけど。
だって、ほんと理不尽なんだもの。
しかし重たいな、先輩たちのバッグ。
もう、放り投げてしまいたい。
ふっ倒れそう。
いっそ本当に倒れて血ヘドぶちまけて死んでやったら、どんなに痛快だろうか。
だいたいこいつらのバッグ、なにが入ってんだよもう。全部食べ物なら、帰りが軽くなっていいんだけどな。どうせまた、難癖つけられて帰りも持たされるんだろうし。
ああくそ、肩の関節が外れそうだ。
だいたいさあ、内藤の方が桁違いに図体でかいのに、なんでわたしが同じだけの荷物を持たないといけないんだ。
そもそも、なんでこんなもん持たなきゃいけないんだよ。
まったくさ。
内藤が悪いんだ。全部。
「なんであたしが悪いんだよ!」
「ああ、聞こえてた?」
3
「えー、であるからにして、みなさんにはこれまで血の滲むような練習をしてきたその努力、培ってきた実力を、各地域での覇者になったのだという誇りをもって、この大会にすべてをぶつけ、競っていただきたい。それがみなさんの人生においての将来的な自信に繋がれば、わたくしどもとしましても誠に……」
先ほどからずっと、ダミ声が会場内の空気を震わせている。
大会主催会社の社長である
らしいというのは、声はスピーカーから聞こえてきているのだけど、背が低いみたいで全然姿が見えないからだ。
わたしたち参加選手が整列している中の、一番先頭のところにいるらしいんだけど。
どちらにしても、全然見聞きするつもりないけれど。
大会を開いて下さっている主催者の方には失礼かも知れないが、現在のわたしの関心は
だからダミ声などまったく耳に入れずに、先ほどからずっと、首と視線とをせわしなく動かし、おそらくこの会場のどこかにいるであろう彼女を探し続けている。
八校しか参加していない大会なんだから、いるならすぐに見付けられるはずだよな、と最初は思っていたのだけど、なかなかに大変な作業で全然見付かりゃしない。
考えてみれば当然で、参加選手が一校につき十四人、だからここには百五十人ほどもいるわけで、しかもみんな同じ床の上に立っており、わたしは身長はそれほど高くもないし。
とはいえ、やっぱりいれば分かるのではないだろうか、とも思う。わたしと佐治ケ江との仲だ、ちらりとでも視界に入れば、気付かないはずがない。
だから、ここにはいないのかも知れない。
そもそも、この大会に佐治ケ江が参加しているだなんて、わたしが勝手に思い込んでいるだけだもんな。
それならそれで残念な気もするけど、戦わないですむのなら
などと心に呟いている間に主催者の挨拶も終わり、続いて選手宣誓だ。
激戦区である関東リーグの覇者ということで、うちの主将である
「ほら、ユキ先輩、出番」
オジャ先輩にどんと背中を突き飛ばされ、よろけるように前に出た主将。
緊張しているのか同じ側の手足が一緒になって歩いてて、周囲の失笑を浴びていたけれど、宣誓自体はそのいかつい容姿による迫力で圧して、すっかり威厳を取り戻してヤクザのように肩を怒らせて戻ってきた。
「主将、おつとめご苦労さんっす」
オジャ先輩が、ヤクザのボスの側近みたいなこといってるよ。
とにかく開会式は滞りなく終了し、わたしたち選手は散った。
その時に先ほどスピーチしていた主催者である飯田さんの姿を見たけど、やっぱり小さなおじさんだった。まあこれはどうでもいい話。
「では
黒いスーツを着た係員の女性が、手にしたワイヤレスマイクでアナウンスをしている。
瀬野川女子、佐治ケ江のいる大学だ。
密集していた参加者たちが散らばって周囲の肉の壁がなくなったので、改めて首をキョロキョロ、佐治ケ江の姿を探してみたのだが、やはりそれらしい姿を見付けることは出来なかった。
本当に、いないのかな。
「おい梨乃、ボケッとしてんな!」
主将に一喝されてしまった。なんだよ、さっき同じ側の手と足を出して歩いていたくせに。
「あ、はい、すみません!」
と謝りつつも、なおもこの場に粘るわたし。
もしも佐治ケ江がこの大会に参加しているのならば、瀬野川女子はもうすぐこの本館で試合だし、だからこのままここにいれば絶対に見付けられるはずだからだ。
と思っていたのだけど。
「梨乃!」
なおもキョロキョロしているわたしに、今度は
なにかにつけてわたしとペアでいじめられるから、先輩たちの怒声が気になって仕方ないのだろう。
ほんと気が小さいんだからな。もうちょっとどっかり構えろよ。
でも、確かにわたしたちも、これから別館で試合だからな。ぐずぐずはしていられないか。
「ごめんね、すぐ行く」
わたしはバッグを肩にかけると、内藤の後を追い掛けた。
ちなみにもう先輩たちのバッグ持ちからは解放されている。どうせ帰りはまた、難癖つけられて持たされるんだろうけど。
4
正面玄関から本館の外に出ると、空はすっかり雲に覆われていた。
ここへ着いた時には、青空が広がっていたのに。
そういや、関東の天気予報しか見てなかったよ。こっちはどうなんだろ。
なんだか雨、降りそうだな。
でもまあ、フットサル大会は屋内会場が多いから助かるな。
高校の時に一回だけ外で大会をやったことがあるんだけど、あの時はほんと凄かったな。豪雨雷鳴、まるで海のような広大な水溜まりで。
わたしが佐治ケ江と一緒にプレーした、最後の大会だ。もっとしっかりしたとこで締めくくりたかったけど、あれはあれで、いい思い出だ。
「習明院大学さんですよね」
別館の玄関手前で、第一回戦の対戦相手である青葉第八アーデス大学の選手たちと一緒になった。
「今日は、よろしくお願いします!」
相手の主将と思われる人が、一歩前へ出て、元気のよい声を出した。
「こちらこそよろしく!」
澤田由紀江も前へ出て、二人は握手をかわした。
と、これだけ見れば爽やかな青春のワンシーンのようであるが、その後ろでは名場幹枝先輩が相手の子に「ね、アーデスってなに? みんないつも牛タン食べてんの? なにが第八なの? そこの君、可愛いね、メアド教えてよ」などと質問攻めにしている。ちょっと馴れ馴れし過ぎるというか無礼だろ! まったくもう。
なおその子からの話では、アーデスとは単に創始者の名前とのこと。明治時代に、所有する八番目の塾が大きくなって現在でいう大学になったという話だ。
もやもやは晴れたけど、あっそうという感じでなんかがっかり。知らない方がよかった。
別館の中に入ったわたしたち習明院の参加選手は、壁際にそれぞれバッグを置くと、ジャージ姿のままアップを開始した。
動的静的ストレッチで全身をほぐし、温め、続いてボールを使った練習に入った。
先ほどまでだらけきっていた先輩たちの顔が、いつの間にか実に真剣になっていた。
徐々に戦意が高まってきているのだ。
いつもこうならいいんだけどな。
まあ、よくいうならこうした瞬発力のあるところが先輩たちの魅力か。よくいうなら、ね。
「よし、みんな集合!」
との声に、わたしたちはぞろぞろと動き出し、半円を描くように主将を囲んだ。
主将はわたしたちの顔を順番にぐるり眺めると、ゆっくりと口を開き、これから始まる大会に向け、短く、しっかりとした言葉でピリリと意識を引き締めた。まあ、引き締めるまでもなくこの時点でだらけている者など、一人もいなかったけど。
続いて、戦い方の再確認だ。
一回戦の相手とは必ず対戦するわけで、だからそれなりに情報は仕入れて、個別の練習はしっかりと行った。
主将の言葉とともに、わたしはその対策練習を記憶から一つずつ思い出し、脳に再認識させていった。
練習で身につけたことより、先輩に後ろ頭をどつかれたりお尻を蹴飛ばされたりした記憶の方が遥かに多いが、それはフィルターをかけて心の奥にしまい込んだ。
勝ち負けは時の運であり、少しでも勝つ可能性を高めるためにはやれることをやるしかない。ベンチでは大きな声で応援し、ピッチに立ったならば全力でプレーするだけだ。迷うことなど何もない。
と、スパッといえればよかったのだが、わたしには大きな懸念事項があった。それはこの試合よりも、むしろ第二回戦こそに。
我々は、鎌倉教育大学が勝ち上がると想定しての練習しかしておらず、そこが不安であるということだ。
このままではいけない、と異を唱えただけでスクワット五百回やらされたり、わたしとしては頭に来ることばかりだけど、でも先輩たちにすれば、無理もないことなのかも知れない。
そう思うのは、わたしも習明院大学フットサル部の一員として部の歴史を、その身には経験しておらずとも知識として多少は理解しているからだ。
習明院大学フットサル部は、六年前にサークルから昇格して正式な部になった。
初年度は男女混合だったが、翌年からそれぞれ独立。
当時の関東女子フットサルリーグは、熟練者と、そこそこの経験者と、ほとんど未経験が、同じくらいの比率で存在して「主力チーム」を作っているような状況で、要するに総じて低レベルの部が多かった。フットサルが日本でそこそこ有名な競技になり、そこそこ盛り上がるようになってから、それほどの年月が流れていないことを考えれば仕方がない。
ましてや女子だし。
大抵どの運動競技も、まずは男子が盛り上がり、普及して、それからだからね。女子が飛び付いたりするのは。それまでは、物好きがやってるだけで。
その低レベルの関東女子フットサルリーグだけど、その中でも特に習明院大学のレベルは酷かったらしい。
ほんの数年前までは。
変わり始めたのは二年前、現在の三年生がまだ一年生だった頃だ。やはりリーグ戦序盤は連敗続きで、「今年もか」と思わせるスタートであったが、当時の主将が、二年生や一年生でもきらり光るものがあれば積極的に起用して、徐々に選手たち個人の能力もアップし、チームの成熟も進み上級生たちと噛み合うようになって、連勝につぐ連勝。
しかし、序盤の成績が響いて、順位は中位。
既に強豪として名を知られていた鎌倉教育大学が、二年振りの優勝を果たした。
そして去年。ここからは、わたしも入部していたから体験して知っている歴史になるのだが、習明院大学は前年終盤の勢いを継続し、勝利を重ねた。
しかし要所要所での勝負弱さを露呈し、絶対に落とせないといった試合に限って落としてしまっていた。
中でも鎌倉教育大学との直接対決を、二戦とも落としたことが響き、結局、この年も優勝出来なかった。鎌倉教育大学が二連覇達成だ。
習明院は、二位とはちょっと差をつけられての、三位に終わった。
そして今年、鎌倉教育と習明院とが序盤から接戦を繰り広げ、勝ち点がほとんど同じなままリーグ最終節を向かえるといった運命めいた試合、それを制したのは習明院大学だった。ついにリーグ初優勝を果たしたのだ。記憶にも新しい、つい先々月のことだ。
しかし、その最終節直接対決の際、鎌倉教育大学はエースストライカーと鉄壁を誇るフィクソ、二人の主力を怪我で欠いていた。
先輩たちとしては、これまで鎌倉教育には苦汁を飲ませられてきた分だけ、恵んでもらった優勝という思いが強いのだと思う。
無事これ名馬という格言があるが、確かに怪我をしないことも能力なわけだから、優勝は胸を張って誇っていいと思うのだが、とにかく先輩たちには、そうは考えられないのだろう。
だから今度こそしっかりと叩いて、このどうにもしようのない負け犬のような気分を完全に払拭したい。そういう思いが強いのだろう。それまでは、本当にリーグ優勝したなどと思えないのだろう。
気持ちは分かるし、そうやって気合いを入れるのはいいんだけど、一歩引いたところから見られる立場のわたしからすれば、ちょっと鎌倉教育対策に時間を割き過ぎたと思う。
まあ、強豪との対戦を想定した練習をしていたわけだから、どこと当たるにしても無駄だったということはないのだろうけど。
でもそうした先輩たちの考え方そのものが、わたしにとっては危険に思えてならなかった。
脆く砕けやすい、ガラス細工のようで。
「では、もうすぐ試合を始めます。スタメンの選手は中に入って下さい」
黒いシャツとハーフパンツ姿の女性が二人、のうちの一人が手を叩き大きな声を出しながらコートの中に入ってきた。
審判だ。
フットサルの審判は基本二人いる。ピッチが狭く選手でごみごみしているため、サッカーのように中には入らず、両サイドライン際に立ってジャッジをするのだ。
別の視点でジャッジを下す三人目の審判がいることもあるが、この大会にはいない。二人の審判と、タイムキーパーだけだ。
緑色のユニフォーム、青葉第八アーデス大学女子フットサル部は部員全員で円陣を組むと、気合い満々といった雄叫びを上げた。スタメンでない選手、メンバー登録外の選手たちは、ピッチに残る仲間の肩を叩き、声を掛け合い、ベンチへと向かった。
習明院大学フットサル部も続いて部員全員で円陣を組み、主将の音頭のもと青葉第八に負けない声を上げた。
主将が先ほど、この試合のメンバー表を係員から受け取ったのだが、現在ピッチに立っている選手の背番号から判断すると青葉第八のスタメンは、
主将の
ゴレイロの
習明院は、
主将はベンチ。
怪我で急遽メンバー登録から外れたため、今日は監督としてのみの参加だ。
「それじゃあ改めて、よろしくお願いします!」
ピッチの中で、相手の主将である須藤亜里沙が、すぐ近くに立っていた東洋子へと近寄った。二人はがっちりと握手をかわした。
青葉第八の4番、後藤日々絵は、右足の裏をそっとボールに乗せた。
第一審判が、笛を口に持っていく。
しん、と静まり返った。
場内に緊張が充満していた。
審判が、自らが作った静寂を自ら破り、場内に高く鋭い音が響き渡った。
青葉第八アーデス大学フットサル部によるキックオフ。
こうして大学女子フットサルにおける日本の頂点を決めるための大会、その第一回戦が始まった。
5
「戻れ」
「クミ! 5番マーク!」
「バン、そこ切れ! 切れ!」
「いいよ
両チームともピッチの内外から、味方への掛け声、応援の声をひっきりなしに飛び交わしている。
そんなうるささの中、ダン、と踏み込む音を響かせて、
その瞬間に、11番
ぴたりと密着された洋子先輩は、さらに4番も近付いてきていることと、いつの間にかパスコースを潰されてしまっていることに気付くと、切り返し、逃げ場を求めるようにサイドへと流れた。
だが追いすがる11番の伸ばした足に、外へ蹴り出されてしまった。
助走をつけ、逆サイド後方の
しかしそれは、相手の途切れぬ集中力に阻まれた。
2番、主将の
まただ……
洋子先輩が何度素晴らしい奪取を見せようと、そこからろくに繋げることが出来ずに、さも当然といった感じにあっさりと取り返されて相手ボールになってしまっている。
なんだかすっかりと、相手の術中にはまっている感じだ。
術といっても、複雑なものではない。
ただ、奪いどころが徹底しているのだ。
個人または複数で追い込んでおいて、一気に奪う。奪えないまでも、追い込む方向がサイドだから、自分たちのピンチになりにくい。
ぱっと見には拮抗している好ゲームかも知れない。しかしよく見ればよく見るほどに、向こうはやりたいプレーが出来ていて、こちらは窮屈でフラストレーションの溜まる、実に両者の立場がはっきりと分かれた試合といえた。
ここは大阪府
新日本大学フットサル大会、東北地区代表である
こちらの対策不足などむしろ目立たないくらいに、青葉第八は単純に強かった。地力があり、なおかつ初戦の相手である我が習明院大学をよく研究してきているのが見ていてよく分かった。
相手の先制ゴールも、そうしたところから生まれたものだった。
習明院守備陣の単純な連係ミス、単純にそれを掻っ攫われての失点、と、見る者は思うかも知れないが、そうした状況へ追い込んだのは、紛れもなく青葉第八の研究からくる戦術と、それを実践してみせる選手たちの能力の賜物だった。
青葉第八は個人技がそれほど凄いというわけではないが、攻守両面で組織がしっかりしており、なおかつみながハードワークをする。前半七分に先制された後、半ば偶然とはいえバン先輩のゴールですぐに追い付いていなかったら、習明院はそのままずるずるとチーム崩壊させられていたかも知れない。
現在後半三分、
スコアは1-1だ。
追い付いて後半を迎えられことによる精神的な余裕、というわけではないのだろうが、わたしはこの場にいながら、続く第二回戦のことを考えてしまっていた。
もしかしたらこの会場にいるかも知れない、対戦するかも知れない、
対戦するのであれば、彼女の初戦を是非とも見てみたかったが、試合時刻が同じであるためそれはかなわなかった。わたしもメンバー入りしている手前、勝手にここを抜け出すわけにもいかないし。
代わりにというわけではないけど、本大会のメンバー入りから漏れた二年生の
どうせ鎌倉教育のスカウティングしか頼んでないんだろうけど、でもその試合を見ているということは嫌でも瀬野川女子も見るということだ。だから、あとで芳美たちにはしっかりと話を聞かないとな。鎌倉教育と瀬野川女子とどちらが勝つにせよ。
佐治ケ江が出場しているのなら、果たしてどんな試合を繰り広げたのか興味あるし。
でもやっぱり、わたしもその場にいたかったな。
佐治ケ江の試合を自分の目でじっくりと観察して、先日考えたあの対策が使えそうかどうか、それを判断したかったから。
って、わたしも先輩たちのこといえないな。戦わないかも知れない相手のことばかりを考えていて。
とにかく、目の前の試合に集中だ。この試合に勝たなければ、次へは進めないのだから。
「洋子先輩、そこ! シュート!」
わたしは他の二年生一年生と一緒に、大きな声を出した。
相手をかわすと見せつつ股抜きを狙った先輩のシュート、しかし残念ながらゴレイロのポジショニングが抜群で、なおかつ反射神経が素晴らしかった。味方の脚の間から突然飛び出してきたボールであるというのに、しっかりと反応してブロック、そしてこぼれに素早く飛び込んで悠々とキャッチ。
惜しかった。
11番の股を抜けた瞬間、絶対に入ったと思ったのに。
今度は青葉第八の反撃だ。
ゴレイロの大きなキックを上手く受けたピヴォに、一気に習明院ゴール前まで運ばれ、習明院は良いシュートを打たれてしまう。
習明院の油断というより、青葉第八ピヴォのトラップをこそ褒めるべきだろう。
至近距離からの、素早いモーションながらも狙いすました正確なシュートだったが、我が習明院の守護神である
青葉第八のCKだ。
結局、幹枝先輩のスーパーファインセーブは次のプレーで相殺。いや、差し引きマイナス百点といった結果になってしまった。
亀尾取奈美先輩のクリアミスからこぼれに詰められ打ち込まれ、起き上がるなり咄嗟にシュートコースに身体を踏み込ませ、ブロックしたはずの幹枝先輩であったが、足元に落ちたボールの位置を見失って、間違って自分の踵で後ろへと蹴り込んでしまったのだ。
習明院大学、幹枝先輩のオウンゴールにより失点。
1-2に突き放されてしまった。
オウンゴールだろうとゴールはゴール。青葉第八の選手たちは、追いすがる相手を突き放したことに、手を叩き、抱き合って喜びを爆発させた。
「うおおお、なんてこった!」
幹枝先輩は頭を抱えて絶叫し、がくり両膝を落とすと床を殴り付けた。
「うおおじゃねえよ!」
「アホかお前は!」
奈美とバンの両先輩は、落ち込む幹枝先輩にささっと駆け寄ると、励ます言葉の一言すらもなく、蹴る殴る。
「お前のショボクリアのせいでQBKになったんだろが!」
幹枝先輩は立ち上がると、責任をなすりつけるべく奈美先輩へと掴みかかった。
「なにを!」
負けずに胸倉を掴み返す奈美先輩。
「あの……仲間割れはやめて、早く戻って下さあい」
女性審判が、どうしたものか困ったように、おどおどとした態度で注意、というかお願いをした。
まあ、味方同士の喧嘩なんてそうそう見るものじゃないから、対応に困るのも仕方ない。
でもね、始めて見る人にはこうして誤解を与えてしまうのだけど、実はこれ、慰め励ましているのだ。
他人からどう思われようとも知ったことじゃないという、そんな態度を貫く先輩たち、一見豪快で格好いいけど、でも、損だよな。
でもわたしは彼女らが、試合に出られなかった後輩や、対外試合で落ち込むような結果になった後輩の、フォローを裏でやっていることに気付いているよ。
ほかにも色々なこと、知っている。
本人たちに問い質しても決して白状することはないだろうけど。
そんな、ガサツで横暴な態度の裏にあるものを知っているから、だからわたしも先輩たちのことが憎めないんだよね。いくら毎日のように理不尽なしごきを受けようと。
「オジャ、バカリーノ、出るよ」
いつの間にか後ろに立っていた主将が、
「はい。……あの、ひょっとしてそのバカリーノって、先輩たちの間で定着してるんですか?」
この前、幹枝先輩にいわれたこともあるし。
「知らない。いま思い付きでいってみただけ」
ならいいけど。いや、よくはないか。偶然二人にいわれるって、なんなの?
「是非にとお願いするなら、あたしが定着させてやってもいいよ」
と、オジャ先輩。
「いいですよ! なんでそんなことお願いしなくちゃならないんですか」
などとわたしたちは間抜けな会話で冷静さを保ちつつ戦意を高めつつ、椅子から立ち上がり、交代ゾーンへと向かった。
代わるのは東洋子と、亀尾取奈美とだ。
フットサルは、サイドラインにある交代ゾーンといわれるところで選手の入れ替えを行う。
交代回数は自由。
審判の許可を取らずに、勝手にどんどん入れ替えて構わない。
一度外へ出た選手が、再度入ることも可能で、ここがサッカーとの大きな違いだ。もちろん退場処分を受けた選手は、もう入ることは出来ない。
このようなルールがあるため、フットサルは選手の体力や戦術、その時のパワーバランスなどを判断しながら頻繁に交代を行うのが一般的だ。
今回のこの交代の意図としてはは、体力面と戦術面の両方を考慮したものだろう。
主力中の主力である洋子先輩と奈美先輩を、次の試合(勝てば、であるが)に向けて温存させたいが、現在リードしているどころか同点ですらない。ならば追い付くために、オジャ先輩の瞬発力を活かして相手を撹乱する作戦に切り替えることで、温存策との一石二鳥を狙おう、ということだ。
洋子先輩は、相手が相当に警戒し、研究していたようで、完全に対応されてしまっている。そのため、いずれにせよ戦術パターンの切り替えは必要だったと思うし。
わたしの交代に関しては、ただ単に奈美先輩の体力的な問題だけのような気もするけど、でもどうせ出るのなら先輩たちに遠慮することなくひと暴れしてやる。
そして絶対に、第二回戦に進むんだ。
「おーい、洋子、交代~」
交代ゾーンで手招きをしているオジャ先輩。
出場準備万全のオジャ先輩とわたしであったが、洋子先輩が不動の先発選手としてこのままノーゴールで終われないと意地を見せたか、交代を前にして圧巻の大仕事をやってのけた。
まるでオジャ先輩に勝るとも劣らない瞬発力で、5番を振り切り、ほとんどトップスピードに乗ったままでゴール前でさらにフィクソ11番をかわし、ゴレイロ我茂史恵の手を弾き飛ばす弾丸シュートをゴールネットに突き刺したのだ。
2-2。習明院大学が、追い付いた。
「おおお、洋子すげええ!」
わたしの隣で、オジャ先輩が雄叫びを上げた。
本当に凄い。さすがは洋子先輩だ。相手のしっかりとした対策もあって戦術的に行き詰まっていた中、個人技だけでゴールを決めてしまったのだから。
洋子先輩は汗だくの満足げな顔で、奈美先輩に肩を組まれながら、一緒に交代ゾーンへと歩いてきた。
「洋子、ナイスゴール! あとはまかせな」
オジャ先輩が、両手を高く上げた。
「よろしく」
洋子先輩はいつも通りのクールな表情に戻り、二人はハイタッチ。
必然的に残るは、わたしと亀尾取奈美先輩との組み合わせ。
「あたし、洋子先輩とがよかったなあ」
わたしは渋々と手を上げた。
「ふざけんじゃねえよ」
ハイタッチのかわりに往復ビンタ×2。後輩の可愛い冗談も通じないのかよ!
ポジション的には洋子オジャ、奈美わたしという交代であることなど分かっているけど、せっかく二枚代えでごっちゃになっているんだから、好きな方とタッチしたっていいじゃないか。
嫌われてることに逆ギレするくらいなら、せめて毎日ひとのお尻蹴っ飛ばしてくることくらいやめろよな。
まあいいや。リーグ最終戦から久しぶりの公式戦、気を取り直して、頑張るぞ。
後半五分、こうしてわたしとオジャ先輩がピッチへと入った。
同時に、我々習明院の陣形が若干変化した。
役割分担が明確で一番スタンダードといえるダイヤモンド型、これが習明院の基本陣形。このダイヤモンド型に変わりはないのだけど、縦長で、少しだけ右に回転し、フィクソと左アラが少し開くような、いびつな菱形になった。
習明院大学フットサル辞典によると「オジャシフト」と呼ばれる、剛寺和子を徹底的に利用するための布陣だ。
この形自体に明確な意味合いはない。オジャ先輩がやりやすいと思う形を模索していたら、これが一番本人にしっくりきて、実際に結果も出たからこうしている、というだけのこと。
あくまで基本陣形であり、相手もあることだから、攻守の中でいくらでも乱れ、乱していくものではあるが。
とはいうものの、このオジャシフト、青葉第八を相手に予想以上にはまることになった。
混乱、とまではいかないものの、相手の出足が明らかに鈍くなっていた。
疲労ということではなく、前線で暴れるオジャ先輩と、ポジションを流動的に入れ替えつつ攻め上がるアラのわたしとバン先輩に対し、どのように対処するのか決めかねていることが原因のようだ。
洋子先輩の同点弾の影響も大きいだろう。
青葉第八としては、一点リードしていた時は、残り時間を考えてとにかくしっかり守りつつ、あわよくば追加点を狙うという戦い方でよかった。要するに、意思統一が容易だったのだ。
追い付かれたことで、それが崩れた。
相手の勢いをまずはいなすべくじっくり行くのか、突き放すべく猛攻をかけるべきなのか、そのあたりが曖昧なまま、結局誰も思い切った行動に出られずに、ただ様子を見ているだけになってしまっているのだ。
監督としては追い付かれた以上は焦らずじっくりとボールを回したいようで、戦い方を徹底させようと必死に怒鳴っているのだが、こういうのは無意識への影響も多分にあるから、完全な徹底は難しいだろう。
こうしてバランスに変化が生じ、習明院大学が完全に押す流れになっていた。
オジャ先輩は、ポストプレーに反転シュートと、セオリー通りのピヴォ当て戦術に徹しているかと思いきや、突然トップスピードに乗って敵陣へと切り込んだり、その何をしてくるか分からない恐さがいっそう相手を自陣へ押し込めることへと繋がっていた。
オジャ先輩の鋭いシュートが、何度も何度も青葉第八ゴールを襲った。
やっぱり、洋子先輩だけじゃなくオジャ先輩も凄いな。こうして、すっかり流れを変えてしまったし。
肝腎のシュートは、惜しくも枠を外れたり、ゴレイロのファインセーブに合ったりポストに直撃したり、なかなか決めることが出来なかったけど。
感心している場合じゃない。いま必要なのは、流れを変えることより決定力のあるシュートだ。決まらないのはただ運がないだけとは分かっているけど、こういう流れの時に決めておかないと、その流れを相手に持っていかれる。
それがフットサルという競技だから。
ならばいっちょ、やりますか……
わたしは6番をかわし、前へ出た。オジャシフトを完全無視して、最前線へと飛び出した。
ちょうどオジャ先輩が早乙女先輩からの縦パスを受けようとしていたところだったが、オジャ先輩はそれをスルーした。
わたしの動き出しが横目に入っていたのだろう。
次の瞬間、走るわたしの足元に、気持ち良いくらいぴたりとボールが収まっていた。
さらに身体を加速させ、一気に駆け上がった。
青葉第八の選手たちが慌てて戻り始めた時には、すでにわたしはゴール前。右足を振り抜いていた。
ボールはゴレイロの手に当たり、ポロリと前にこぼれたが、そのこぼれにわたしは自分で詰め、右足を当て、押し込んだ。
ゴールネットが揺れた。
3-2。逆転だ。
ゴレイロの我茂史恵は尻餅をつきながら、すぐさま後ろを振り返った。既にボールはネットの中であることを知るや、どんと床を叩いた。
「梨乃、ナイスゴール!」
ベンチで
まるで自分が決めたかのように無邪気な笑顔になっちゃって。ごつい顔のくせに。
「ちょっとはやるじゃん」
オジャ先輩が、わたしの髪の毛をくしゃくしゃに掻き回したかと思うと、がっしり力強く肩を組んできた。
「ありがとうございます。運が良かったです」
実はわざと相手の手に当ててこぼれを狙ったのだけど、まさかこんな上手くいくとは思わなかった。
「バン、交代!」
主将の叫び声。
ピッチの外を見れば、内藤幸子がユニフォームのパンツをずりずり引き上げながら交代ゾーンへと向かうところだった。
「くそ、あたしも決めたかったな」
などと小言をいいながら、バン先輩も交代ゾーンへ向かった。
「内藤てめえ、ヘマして追い付かれんなよ」
「頑張ります」
「やられたら、ここから走って東京まで帰れよな。全裸で」
「えーーーっ!」
などとアホなやりとりをかわしながら、二人は入れ代わった。
早乙女先輩のインターセプトからのパスに、内藤は入った瞬間にしてファーストタッチだ。
内藤は詰め寄った2番、主将である須藤亜里沙をすっとかわし、わたしへとパス。
きゅっ、と音がしてボールはわたしの足元に収まった。フットサルはサッカーと違って綺麗にボールが止まるから、上手なパスを受けるとトラップが気持ちいい。
だけど、ドリブルしようとしたところ、横から飛び込んできた主将の須藤亜里沙に、蹴り出されてしまった。
しかし今更だけど内藤って、見た目のごつさと裏腹に、ボールタッチが軟らかいよな。
すっかりいじめられっ子キャラが確立し、実力面でも先輩たちの影に隠れて(年齢は三年生と同じだけど)日陰の存在と化している内藤であるが、先輩たちが優れているというだけで彼女も充分にフットサルは上手い。単に個人技というだけで見れば、遜色ない存在かも知れない。伊達に高校時代に主将を任されてはいない。
そんな内に秘めた実力を発揮したということか、それともバン先輩に無茶振りで脅されたことか、なにが原因かは分からないが、内藤も出場するなり早々に得点に絡むプレーを披露することとなった。
いや、どちらかといえば、わたしのプレー、判断によるものが大きいだろうか。
また来た内藤からのわたしへのパスを、わたしがスルーしたのだ。正確には、踵でこそっとかすめるように蹴って、微妙に角度を変えて。
それが、相手のフィクソ、11番田中順子のトンネルを誘った。
まさかそうなることを読んでいたとは思えないが、しかし野生の嗅覚なのかなんなのかボールの転がる先に走り込んでいたのは、オジャ先輩だった。
6番がファール覚悟か無意識か咄嗟に背後から手を伸ばしてしまうのだが、それをぱしりと払いのけ、ゴレイロの身構えるゴールへと向かってターボエンジン急加速。
先ほど洋子先輩の瞬発力も凄いと褒めたが、やっぱりオジャ先輩の方が比較にならないくらいにレベルが上だ。瞬発力だけなら。
フットサルはドリブルするスペースなどあまりない窮屈な競技だというのに、それでも相手守備陣を遥か後方へと置き去りにしてしまった。
そうして余裕を持ってゴレイロとの一対一の勝負を挑み、左へ切り返すと見せて右へかわしつつ蹴り込み、難無くゴールを決めてしまった。
4-2。こうして習明院は、青葉第八を二点差に突き放したのだった。
ピッチ内外で、青葉第八の選手たちはがくりと肩を落としている。それは当然だろう。一点差のままならば逆転の可能性、延長戦の可能性も充分にあったのだから。
「内藤、ナイスパスだったぜ!」
オジャ先輩が、内藤に抱き着いた。
わたしがスルーパスの角度を変えたことには気付いていないみたいだけど、まあいいや。むしろよかった。
「お礼に、帰りにあたしの荷物持たせてあげるう」
「ええええーーっ!」
ほらね。
もう試合も終盤、勝利は確定ではないものの、習明院は次の試合のために体力温存策。オジャ先輩と早乙女先輩が、
ズラもウマヨも、失敗出来ないというプレッシャーは勿論あっただろうが、二年生だけという気心知れた者同士ということもあってか実に安定したパス回しを見せてくれた。
相手が前掛かりになって必死の猛攻を仕掛けようとするところを、危なげなく、いなすようにかわし続けた。
「ウマヨ、ナイスカット!」
内藤の声。
「そっちが絞ってくれたから、奪えた」
現在ピッチに立っているわたしたち四人が、来年の主力になるのかな。おそらく主将もそう思って試しているのだろう。
その頃にはもう主将はいないけど、でも、自分の育ててきたフットサル部を未来へ繋げていくために。
そうこうしているうち、審判の長い笛の音が鳴った。
4-2で、わたしたち習明院大学の勝利。
どっと歓喜の雄叫びが沸き上がった。
対照的に青葉第八の選手たちは、がくりと肩を落とし、床の上に横になった。大の字になって天井をあおいだり、悔し涙を浮かべている者もいる。
毎度のことだけど、こういう大会って、勝ってもなんだかしんみりしてしまう。わたしは別にお人よしではないけど(と思うけど)、こういう雰囲気にはちょっと弱い。
6
記念すべき第一回戦突破の瞬間にピッチに立っていられたことを喜ぶのと同時に、勝ち上がったことにより生じる責任を強く心に噛み締めていると、いきなり名場幹枝先輩が、わたしに肩をならべ、酔っ払いのように組み付いてきた。
「梨乃ちゃんお疲れえ。チームの逆転勝利にお前の決勝点に、嬉しさチンコ盛りだろ。あたしって優しいだろお」
そういや、オウンゴールやらかしたんだよな、この先輩。
「テンコ盛りです。それと、しっかり完封してくれた方が嬉しいし優しい先輩です」
わたしは冷たくいい放った。
自分でゴールに蹴り込んだりして、相手が勢いに乗ってしまってボロ負けしていたらどうするつもりだったんだ。こっちが悔し涙流すとこだったんだぞ。
「なんだとこの!」
幹枝先輩は自分が悪いくせに怒ってわたしの首を凄い力で絞めてきた。
「くるし……いてて、ほっぺ痛い!」
首から手を離したかと思うと、今度は両のほっぺたを摘んで伸ばしてぐりんぐりん回してきたのだ。
わたしは咄嗟に、近くでぼけっと突っ立っていた内藤を引き寄せ、自分がされているのと同じ攻撃を内藤に行なった。
「いててて! なにすんだ梨乃!」
だって幹枝先輩にやり返したら、間違いなく十倍返しされるし。
などとアホなことをやっていると、体育館の入口扉が勢いよく開き、桜庭芳美たちが息せき切らせた慌ただしい様子で駆け込んできた。
彼女らは、本館に残って鎌倉教育大学対瀬野川女子大学の試合を偵察していた三人だ。
「澤田主将、大変です!」
芳美は主将の前に立つと、言葉の通りさも一大事といった表情で、喘ぐように口を開いた。
「なにがよ?」
「それが、その、とにかく来れば分かります。いっても信じてもらえないと思うので」
と、このようなことがあって、いつまでも浮かれていられるはずがない。
まだ試合が終わった直後だというのに、わたしたちは勝利の余韻も覚めやらぬうち、興奮した芳美たちに半ばぐいぐい引っ張られるように、本館へと戻ることになった。
そこでわたしたちを待っていたのは、確かに芳美のいっていた通り、一体誰が予想しようかというとんでもない現実だった。
正確には、わたしだけはある程度の予測はしていた。
しかしまさか、
ここまでのことが、起こるなんて……
7
鎌倉教育 0-8 瀬野川女子
ある程度事態を予測し、覚悟していたわたしでさえ、電光掲示板のスコアボードを見た時には薄ら寒い感覚が背筋を突き抜けたのだ。他の部員たち、特に
みなすっかり言葉を失い、呆然とした表情で突っ立っている。
わたしも、同じだ。繰り返すけど、まさかここまでの結果になるとは予想もしていなかったから。
仮に油断があって負けたにしても、鎌倉教育大学だってそれなりに名の知られた強豪校であり、油断だけが理由でここまでの大差になるはずがない。
スコアボードによると瀬野川女子の得点は、前半と後半に四点ずつ。
単純に考えて、鎌倉教育はハーフタイムで修正することも出来ず、コンスタントに失点を重ねていったということか。
手も足も出なかったのかそうではないのか、一体どのような試合であったのか、主将が根掘り葉掘り聞き出そうとしたのだが、結局のところ
漠然とした印象としては、瀬野川女子の方が慌ただしく必死に守っていたようであるとのこと。それなのに、いつの間にか得点を積み重ねていた、と。
霧の中で狐につままれている間に、試合が終わってしまったということか。
「
瀬野川女子など眼中になかったその甘さを恥じているのか、単にこの不思議かつ不気味な結果を理屈で納得したいだけなのか、わたしには分からないけど。
なお先輩のいう通り、鎌倉教育大学の主力選手である
それは確かに戦力ダウンだろうけど、でもそれだけでこんな大差で負けるなど考えられない。
鎌倉教育の選手層は決して薄くはないし、それに今回は、怪我でリーグ終盤に出ていなかった主力中の主力が二人、復帰してこの大会には出ているのだから。
わたしたちが苦しんだ挙げ句になんとか勝利をもぎとったリーグ戦最終節よりも、現在の鎌倉教育の方が戦力として上のはずだ。
先輩たちだって、口々にいっていたじゃないか。怪我人が何人も戻ってくるし、その中にはエースストライカーである
実際リーグ戦前期で習明院は、その久保辰子に得点を量産されて大敗している。
点を取り始めたら止まらない、そんな爆発的な攻撃力を持つストライカーを完璧に抑え切り、反対に大量得点で勝ってしまうなんて、一体どんな試合だったのだろう。瀬野川女子は、一体どんな戦術を……
……そうだ!
わたしははっとしたように顔を上げると、きょろきょろと館内を見回した。
すでにピッチ上には、これから第一回戦を行う
その端っこ、二階観客席最前列の真下に、また別の色のユニフォームの集団が二つ、緑色と、紫色。第一回戦を終えたばかりの選手たちだろう。
緑色ユニフォームは、鎌倉教育大学だ。何人か、顔を覚えている選手がいる。みな、まさかの敗北にすっかりしょげ返った様子。
ということは、
あの紫色のユニフォームが、瀬野川女子か。
ということは、
この中に……
どくん! とわたしの心臓は大きく跳ね上がった。
見付けた。
というよりも、あれが、そうだったのか。
わたしはとっくに、見付けていたのだ。
開会式の際に、既に整列をしている彼女の近くを通り過ぎたのだが、外観がわたしの記憶とはあまりにも違っていたため、あれが佐治ケ江とは気付かなかったのだ。
高校時代の彼女は、背がそれほど高くなく、それでもひょろりと見えるくらいに痩せぎすで、髪の毛はおしゃれに全然興味がないとでもいうふうな、なんというかもっさりした感じで。いつも下を向いて他人と視線を合わせるのを避け、いつもおどおどとしていた。
それがすっかり身長も伸びて、遠目からだがわたしと同じくらいあるのではないだろうか。
まだまだ痩せているが、以前と比較すると筋肉もついているようだ。高校時代、どれだけ筋トレをしても、ガリガリのままこれっぽっちの変化も見られなかったというのに。
肩までの髪の毛というのは変わっていないが、かき上げて広く額を出し、ヘアバンドでしっかりと纏めている。
視線は真っ直ぐ前方を見据え、あの弱々しい印象だった佐治ケ江が、実に逞しく、引き締った雰囲気へと変貌していた。
「ねえ梨乃、ひょっとして、あれが佐治ケ江? あんなきつい顔だったっけ? まるで、別人じゃんか」
内藤が、わたしの脇腹をずんずん肘打ちしながら、なんともいえない声を上げた。
そう、内藤も高校時代、佐治ケ江と対戦しているのだ。
対戦したどころではない。佐治ケ江のテクニックに翻弄されて我を忘れ、彼女を一本背負いで投げ飛ばして退場している。
もう佐治ケ江の顔などよく覚えていない、などといっていたけど、こうして本人を直に見たことで、記憶を呼び起こされたようだ。
「本当、すっかり別人だよね。でも、サジはサジだ」
迂闊にも最初は気が付かなかったけど、でも、見れば見るほど、わたしのよく知っている佐治ケ江優だ。
最後に会ってから、もう二年になるのか。
お互い、どこまで成長したのだろう。
フットサルだけではなく、人として。
「サジ!」
わたしは我慢出来ず、コートの反対側でストレッチを行っている佐治ケ江に大きな声を投げ掛けていた。
佐治ケ江優は、わたしに気が付くと、特に表情を変えることもなくすっと背を伸ばし軽く頭を下げ、そしてまたストレッチに戻った。
そんな彼女を見ながら、わたしは笑みを浮かべていた。
別に面白かったわけではない。
自分の感情の整理をつけるために、あえて、そんな表情を作ってみせたのだ。
その表情に引っ張られるように、自分の気持ちが落ち着いてきた。
覚悟、決めた。
もう逃げるのはやめだ。
とっくのとうにそうした覚悟など出来ていると思っていたはずなのに、それなのにこんなことを考えてしまうのは、やはりそれだけ佐治ケ江優の存在がわたしの中で大きいということなのだろう。
その感情をいま、改めて自分自身に受け入れた。
あがいても変わらない。
やれること、やるだけだ。
ぎゅっと、両の拳を握った。
8
ゴールネットが柔らかく膨らむように、そろりと揺れた。
ボールは軽く押し戻されて、少し転がって止まった。
試合開始後、わずか数秒。
それはまさに電光石火の技だった。
あまりにも一瞬の出来事であり、ベンチから見ていたわたしにも、なにがなんなのか分からなかった。
見えてはいたのだが、しかしそれは、あまりにも断片的な映像の繋ぎ合わせ。起こり得ない出来事に、脳が情報の受け入れを拒絶したのかも知れない。
その断片を、信じられないながらもとりあえず自分の言葉で語るのであれば、次のようなものだった。
そこへ
ゴール前で構える名場幹枝先輩の顔にまだ疑問符感嘆符すらも浮かばぬうち、佐治ケ江がゴール隅にコロコロと緩やかなボールを流し込んだのだ。
離れたところから見ていたわたしですら、起きたことをこのようにしか捉えられなかったのだ。ピッチに立つ選手たちには間近過ぎて、それこそなにがなんなのか分からなかったに違いない。
まさかこんなに早くゴールを奪えるとは思っていなかったのか、瀬野川女子の選手たちは大はしゃぎで喜んでいる。
「
「この調子で頼むよ! あたしらの運命は、すべて優にかかってんだから」
二人の選手が、佐治ケ江優に抱き着いた。
「はい」
佐治ケ江はそうぼそりと返しただけで、その固い表情を崩しもしない。まだ試合が終わっていないから、というわけではないだろう。なにがあろうと決して笑顔を見せないのは、前々からなのだ。
笑わないのか、笑えないのか。
それが子供の頃に酷いいじめを受けることになったという一要因なのか、それともその酷いいじめこそが彼女から笑顔を奪った要因なのか、そこまではわたしも知らない。
ゴールの中に尻餅をついて座っている幹枝先輩は、しばらく呆けたような顔をしていたが、ようやく顔を上げ、上体を起こすと、叫び、床を激しく、何度も踏みつけた。
相手の技術が凄かっただけとはいえ、無抵抗のまま、気付かぬまま、瞬殺されたのだ、悔しくないわけがない。
「もう一点もやんねえ!」
そう叫ぶと、自分の頬っぺたを両手でバシバシと叩いた。
でも、いくら気合いを入れたところで佐治ケ江を止めない限りどうしようもないだろう。
佐治ケ江、やっぱり凄過ぎるよ。
高校の頃からずっとそう思っていたけど、それがさらに格段な成長を遂げているようだ。
と、瀬野川女子の交代ゾーンに、ベンチから一人、選手が向かって行った。
まだ試合開始直後だというのに交代?
どうしたのだろう。
次の瞬間にわたしの抱いた感情、それはまさに驚愕の二文字、それ以外になかった。
「どうして……」
わたしがそう思い、無意識にそう呟いてしまうのも、無理はないだろう。
だって交代させられベンチに下がったのは、スーパープレーで得点を決めたばかりの、佐治ケ江優だったのだから。
一体なにが……
開始直後でまだ疲労もしていないのに。
そういえば、佐治ケ江は右膝にテーピングをしている。もしかしたら、それが原因だろうか。
いまのプレーで足、痛めたのだろうか。
大丈夫、なのだろうか。
……そんな心配している余裕はないだろ。
敵なんだぞ、佐治ケ江は。
わたしは首を激しく横へ振って、余計な考えを追い払った。
色々考えるのは、後でいい。
「絶対に逆転したる!」
オジャ先輩が叫んだ。
試合開始早々、瞬きするほどの間に一点を失った習明院大学であったが、それを振り出しへと戻すべく前掛かりになって攻めたてた。
なお習明院のスタメンであるが、
ピヴォが
彼女らは素早くパスを繋ぎ、攻めたてる。しかし瀬野川女子の選手たちは、身体を張った必死の粘りで、突破を許さなかった。
試合が動いたことで、まだ序盤も序盤であるというのに、攻守において気力と気力がぶつかり合う激しいゲームが繰り広げられることになっていた。
あまりに早い失点はわたしにもショックだったが、ようやく落ち着き、気を取り直して冷静に試合を見てみると、個人技やチーム力としては、我が習明院の方が圧倒的に上のようだ。
あまりにも明確な差がありすぎて、失点したことそのものが幻に思えてくるくらいに。
瀬野川女子は、守備に重きを置き、約束事を徹底的に守り、あとはとにかく力の限り走り回り、声を掛け合い、身体を張ることで、習明院の攻撃を阻み続けていた。
ただ跳ね返すだけではない。先制した側の余裕というものか、後ろでボールを回し、習明院の体力を奪おうとしているようだった。
フットサルはあまり引いてパス回しを続けられないようにルールが出来ている競技だし、そのパス回しの技術自体もあまり高くはないため、結局は奪われてしまい、また習明院の猛攻に対して必死の守備をすることになる。
しかし、ひとたびボールを手にしたならば、また同じようにボールを回して、ねちねちと、我々の体力を奪いにかかろうとする。
まだ開始して間もないとはいえ、先制後の戦術の徹底ぶりが露骨なまでに明確だった。
でも先ほども述べた通り、個々の能力そのものはそれほどのものではないようだ。先ほどベンチに下がった佐治ケ江優を抜かしては。
おそらくだけど、自分たちは弱小である、と、そういう意識をみんなが持って試合に臨んでいるのではないだろうか。
そういう自覚のある集団というのは、とにかく真面目に作戦を守って、かつ死に物狂いで相手に食らい付いてくるから、中途半端に実力のあるところより遥かに厄介である。というのが、わたしの経験上の持論であるが、瀬野川女子も例外ではないようだった。
佐原南時代にも、そういうチームには本当に苦しめられたものだ。こちらが先制さえ出来れば、一気に崩せるんだけど。
ピッチに立つ佐治ケ江を見たのがほんの一瞬だったから断言は出来ないのだけど、瀬野川女子というのは、佐治ケ江がいる時といない時とで、がらりと戦術の変わるチームのように思える。
そうだとして、それが得点や結果にどう直結するのだろうか。
気になるな。
って、そうだ、わたしはバカか。詳細記録、フサエに送って貰ったじゃないかよ。
どこにあるんだっけ。
そうそう、バッグの中だ。
フサエの大学は二部所属なので、瀬野川女子と対戦したことはないが、情報なら入手出来るということなので。
その記録を見ることで、きっと色々な事実が分かるはずだ。
先輩たちに助言出来ることも、きっとあるはずだ。
わたしはベンチから立ち上がると、壁際に置かれているスポーツバッグへと小走りに向かった。
「おい梨乃、どこ行くんだよ!」
内藤に呼び止められた。
「ちょっと、大事な資料をね」
バッグを開け、今朝、出掛ける前に二つ折りにして中に押し込めておいた茶封筒を取り出した。
行きの新幹線の中で目を通そうと思っていたのだけど、先輩たちに肩揉めだの安らぎのBGMを口ずさめだの、ずっとコキ使われて、すっかり忘れていた。
封筒の口を乱暴に破き、中に入っているコピーの束を取り出した。
ぺらぺらと素早くめくっていくうち、わたしの目は知らず驚愕に見開かれていた。
いや、よくぞまぶたが裂けなかったと思う、本当に。
この資料の内容を大雑把にいってしまうと、とっくに先輩たちから聞いていた通りのことが分かるという、ただそれだけのものだった。
なら何故わたしがそんなに驚いたかというと、それの程度というものが、誰が想像しようかというくらいの実にぶっ飛んだものだったからだ。
瀬野川女子大学は、リーグ戦の途中までは0-7、1-16、など実に酷い負け方をしている。
確かに先輩たちのいっていた通り、守備力最悪だ。
だというのに、最後の数試合を見ると10-0、14-0、9-0、13-0。すべて無失点大量得点での勝利を収めている。
負け方も負け方だが勝ち方も勝ち方だ。
本当にこれ、フットサルのスコアなのか。
負け続きだった試合と、最後の連勝している数試合、出場メンバーを見比べてみると、ほとんど違いはない。
唯一の違いは、佐治ケ江優がいるか、いないか、それだけだ。
やはり鍵は佐治ケ江なのだ。
興奮も冷めやらぬうち、わたしは立ち上がった。
瀬野川女子のベンチに視線を向けた。
交代で下がった佐治ケ江は、椅子に座って、仲間に右膝のテーピングをやり直してもらっている。
ああして怪我で引っ込んでなかったら、今頃もう何点か取られていたかも知れないな。
応急手当だかなんだかの済んだ佐治ケ江は、ピッチ脇に立って、身振り手振り仲間たちに攻守の指示を飛ばしている。
か細い声しか出せなかった佐原南時代しか知らないわたしとしては、不思議な光景だった。
追い付くべく怒涛の迫力をもって徐々に得点へと迫っていた習明院だったが、佐治ケ江のかけた修正のためか、がっちりと蓋をされ、またゴールが遠退いたようだった。
ピッチに入れば凄いし、外にいてもこうなんだから、ほんと、化け物だよ。
やっぱりここは心を鬼にして、負傷退場してくれたことを喜ぶしかない。試合が終わってから、自己嫌悪に壁でも自分の顔でも殴れ、梨乃。
なんだかんだいっても、やはり佐治ケ江はピッチに立ってこそ脅威。
もうこの試合は、必死の頑張りでリードを守る弱小チームを、強者がどう突き破るか。ただ、それだけだ。
と、わたしは思っていた。
しかしそれは、甘い考えだった。
この試合、まだまだこれからだったのだ。
佐治ケ江の後ろから、監督と思われる中年男性が話し掛けた。
二言三言、やりとりをすると、監督は佐治ケ江の肩を叩いた。
佐治ケ江は頷くと、ゆっくりと歩き出した。
交代ゾーンへと。
わたしの心臓は、嫌な予感にどくんと高鳴った。
……まさか。
開始直後の交代は、負傷退場じゃ、なかった?
あ……
そういうことか!
9番と入れ代わり、佐治ケ江がピッチに入った。
まずい!
「いま入った5番マーク! 二人、いや三人掛かりでも絶対止めろ!」
わたしは佐治ケ江を指差しながら、ピッチに立つ先輩たちに向けて、喉が枯れんばかりの怒鳴り声を張り上げていた。
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