13:三角関係

「舞莉、どうした? 音が弱々しいぞ。」


 2月に入り、三送会まであと1ヶ月というところ。朝練習で舞莉が出していた音が、いつもと違った。


『ちょっとね、胃が痛くて。何かちゃんと息が入らない。』


 ロングトーンをしていると、舞莉は意識が遠のきそうになる。

 ついに目を閉じてしまった。


「舞莉、舞莉。」


 バリトンの声にハッと目を覚ます。


「大丈夫? 寝不足?」

『分かんない。具合が悪いんだか、ただの寝不足か。』


 ロングトーンが終わった直後、舞莉の後ろから誰かの独り言が聞こえた。


「楽器吹きながらよく寝られるよね。ある意味尊敬だわ。」


 どう聞いてもルイザの声だ。


 舞莉は痛みに顔を歪め、みぞおちの辺りを押さえる。


「アンブシュア練習1番からやります。」


 もちろん、そんな舞莉をよそに、朝の基礎合奏は進められていく。


「「「はいっ!」」」


 肩で息をする舞莉は、再びマッピを咥えた。

 昨日まで普通にできていたはずだったが、うまく息のコントロールができず、音が裏返る。



 その日の午後練習。パートで三送会の曲を合わせていた。


 と言っても、この曲練習でさえつまらないものになっていた。楽譜を見ればスラスラ吹け、大部分は自然と暗譜もできているからだ。


 メロディを吹いているならば、音に表情をつけることもできるが、低音はそうはいかない。つけようものなら土台が崩れてしまう。


 ハーモニーを作るなら、ピッチを少し高く・低くなどの意識をしなければいけないが、低音は常にピッタリの高さ。チューナーの針が真ん中を指さなければいけないのだ。


 正しい音の高さで、正しいリズムで、正しいアーティキュレーション(音と音の繋ぎ方や音の切り方で、音に変化をつけること)で吹けていれば、それ以上のことは求められないのだ。


 だから、吹けるようになってしまえばつまらない。巷では有名な『前前前世』でさえ。


「意見ある人……はいないよね。」

 低音パートリーダーである古崎先輩が舞莉たちに尋ねる。


「特に言えることはないですね……。」

 ルイザは申し訳なさそうに肩をすくめる。


『えっと……バリからは何かない?』

「それがさ、パートではちゃんと合ってるから、言うことないんだよ。あとは個々の問題。」


 そっか……と舞莉はつぶやく。


『カッションは――』

「俺は管楽器のことは分からねぇって。それより、隣から聞こえるテンポブレブレのドラムの方が、気になってしょうがねえ。」


 このドラムは『前前前世』である。が、テンポが速い上に十六分音符のスネアが遅れている。


『しょうがないよ。司だってドラム初めてなんだから。初めてのドラムが前前前世って、かわいそうだけど。』


 代わりに私がやってもいいんだよ、と、舞莉。


「『Under The Sea』のダンスも、ここじゃ狭くてできないから……とりあえずまた合わせてみる?」


 古崎先輩は、メトロノームのゼンマイを巻き直し、テンポ200で振り子を動かした。


「最初は休みだから、5小節目のアウフタクトからやります。」

「「はい」」


 吹き終わると、また沈黙が流れる。


「……大丈夫そうだね。ユーロビートやろうか。」


「何だかんだ、ユーロビートが1番難しいですよね。」

 舞莉はファイルをめくりながら言った。


「分かる。ずっと裏拍だからね。」

 と、竹之下先輩。


「やりまーす。」

「「はい」」


 メトロノームがテンポ152で動き始める。

 吹き始めて、やっと課題が見つかった。


「ストップ、ストップ!」

「裏拍が遅れるー!」

「最近やってなかったからダメだぁ!」


 勝手に個人練習が始まった。一方、舞莉はというと。


『バリ、カッション、私できてた?何とか食らいついたんだけど。』


「「他の人よりできてる。」」


 首元と吹部バッグの中からの声が重なってハモった。

「まぁ、パーカスの時も裏拍でタンバリン叩いてたからな。慣れっこだろ。」


「普通は息のスピードが足りなくて遅れてくるんだけど、舞莉は速いからできてるんだよ。」


『そんなに速い?』


「正直言うと、古崎先輩より速いと思うよ。」


『そうなんだ。裏拍はできるけど、まだ低音域の部分が安定しないから練習はするけど。』


 舞莉も個人練習を始めた。

 意外なところに節穴があったみたいだ。


 しかし、個人練習をしていくうちにまた退屈になり、目が塞がる。


 何かが舞莉の肩に乗った。いつもなら居眠りして起きた後の目はパッチリしているが、今日は完全に据わっている。


「起きろー。」

 3頭身姿のカッションが舞莉の頬をつつく。


「……舞莉、テスト2週間前だし、セグレート練習は一旦中止にしよう。」


 ストラップから離れたバリトンが、3頭身の姿で、目の前のクラリネットの棚に座った。


『でも……まだマーチとかが全然吹けてないよ。』


「舞莉は学生だ。部活はその付随にすぎないからね。」


『……分かった。』


 部活は学業の付随にすぎない――。言われてみればそうだった。吹部に入ってから部活中心の生活をしてきたけど、本業は勉強だもんね。部活で無理して、それが勉強に影響が出ちゃったら元も子もないか。


「今日は早く寝よう。朝から体調悪そうだし。」



 部活が終わって家に帰り、モコモコのパジャマを来た舞莉は、夕食を食べないまま自分の部屋に入ってきた。


 2階は人気もなく冷えきっている。


「舞莉、もう寝るの? 夜ご飯は?」


 舞莉の机を借りて、何やら勉強をしているようなバリトン。


「胃が痛くてお腹空かない。」


「食欲ねぇのか?」


 舞莉のベッドに座って、カタログのようなものを見ているカッション。


「うん……。」

「ねぇ、舞莉。何か隠してることない?」


 舞莉のこめかみがピクっと動いた。


「カッションから聞いたよ。舞莉はストレスを抱えると、胃が痛くなって食欲もなくなるって。」


「いや、部活には関係ないから。大丈夫。」

「舞莉。」


 カッションの隣に座った舞莉を、バリトンの鋭い視線が貫く。


「実際、今日の部活でも出てたからね。隠さないで教えてほしい。」


 これはもう、言うしかない。


「実はね……さっきの部活みたいに寝ちゃうやつ、今日だけじゃなくて――」


「ずっと前から。でしょ? 授業中に。」


 どうして……。


「いつもの感じからしてね。少しでも退屈な時間があると、あくびして眠そうにしてたから。これなら授業中もそうじゃないかなって。」


「だったら、何でバリもそのことが気になってるって言わなかったの。」


 バリトンは「それは……」と言って黙りこむ。


「……それを気に病むほど気にしてるとは思わなかった。居眠りがストレスになってるとは考えもしなかった。疲れてるんだろうけど、セグレート練習のことは何も言ってこないし、大丈夫なのかなって……。」


「じゃあ、舞莉は何で俺たちに相談してこなかった?」


 カッションがパタッとカタログを閉じ、横にいる舞莉の方を向いた。


「早くみんなに追いつきたかった。遅れてる分、練習量を増やさないといけないって……。確かに先輩から褒められるくらい上達したのかもしれないけど、代わりに寝不足になって、授業中もよく寝ちゃうようになった。それでもセグレート練習は減らしたくなくて。」


 今まで我慢していた気持ちが、涙に変わってあふれ出す。


「あと……毎日、こうやってバリが頑張ってくれてるから、自分から弱音が吐けなかった……。」


 すると、バリトンはサッと立ち上がって、舞莉の頭にポンと手を置いた。


「なるほど。そういうことだったんだね。」


 舞莉と目を合わせず、バリトンは口を開いた。


「僕はカッションみたいに勘が鋭くないから、こうやって色々知識として勉強しなきゃいけないんだ。人間のこととか、日本の部活事情とか。……知識で補ったが故に、相手の気持ちに気づけない。感覚として。」


 確かに、カッションは見た目とは裏腹に勘が鋭い。初対面の時だって、自分のあの説明でよく分かってくれたよね。部活の事情も高良先輩のことも何も知らないはずなのに。


「ごめんね。努力はしてるんだけど……まだ鈍感なんだね、僕。」


「でも、さっきはまるで、とっくに気づいてたような感じで言ってたけど。」


「ああ、あれはカッションが『セグレート練習を毎日にしてから、舞莉が疲れてそうにしてる』って言ってくれたんだ。」


 カッションが……?


「ほ、ほら、結局あいつが引退するまで、舞莉の問題は解決できなかったんだからな。だから、その反省としてバリに言ってやっただけだ。」


 少し顔を赤らめて、カッションはそっぽを向く。


「管楽器はどれくらい練習しなきゃいけねぇのか、俺にはさっぱりだからな。あくまで助言だ、助言。」


 舞莉の目にはまた大量の涙が浮かんだ。


「カッション、ありがとう。バリも、分かろうとしてくれてありがとう。あと、パートナーなのに相談しなくてごめんなさい。決して、信用してないとかそんなことじゃなくて――」


 バリトンはいきなり舞莉を抱き寄せた。


「お互いを思いやったが故に、すれ違った。そういうことだね。」


 カッションはあんぐりと口をあけ、目も見開いている。


「どう? 話して少しは楽になった?」


 バリトンの鼓動を感じ、呼吸ができなくなる舞莉。


「ちょっと、違う意味で苦しいかも。」


「ば、バリ!お前っ!」


 カッションの声に我に返ったバリトンが、慌てて舞莉を突き放す。


「ぼ、僕ってば、な、何を……。」


 舞莉は、こちらをにらむカッションと、パニックになっているバリトンを交互に見つめる。そのバリトンの顔は真っ赤になっていた。


「これは……三角関係? 私みたいな変人を?」


 間に挟まれてしまった舞莉は、あることを思いつく。


「あ、そうだ。2人とも、学校の時みたいにちっちゃくなって。」


 舞莉は3頭身のバリトンを拾い上げ、3頭身のカッションを手に乗せ、2人まとめて抱きしめる。


「さっき泣いちゃって眠いから、このまま一緒に寝よう。」

「「ちょっと!」」


 精霊たちの声が重なる。


「あー、2人の間で寝られるなんで、幸せ。」


 そんな舞莉に、カッションとバリトンは抵抗することができなかった。


 結局、セグレート練習は前の1日置きに戻し、定期テスト2週間前からなしとなった。


※本日の睡眠時間:12時間



 期末テスト直前、ようやく三送会の曲順が決まった。


「曲順言うから、メモってー」


 舞莉は、三送会で演奏する曲の楽譜すべてを、ファイルから抜き出している。


「1番『マーチ・スカイブルー・ドリーム』、2番『キミの夢は、ボクの夢。』、3番『Under The Sea』、4番『全力少年』、最後が『前前前世』で、アンコールは『ユーロビート』です。」


 言われた通りに楽譜を並び替え、またファイルにしまった。


「テスト休みに入る前に、Under The Seaのダンスをもう1回やっておきたいので、午後の1時間、ダンスやります。お弁当食べて、1時半から始めます。1時半から始められるように時間厳守でお願いします。」

「「「はいっ!」」」


 そういう時に限って、最高気温6度とかおかしいだろ。絶対ピッチ合わないって。


「こんな寒いんじゃ、フルートとかクラとかのトリルキツそう。」


 なぜか他人の心配をする舞莉の目の先には、案の定渋っているフルートとクラリネットの人たち。特にクラリネットは寒暖差に弱いことを、クラリネットが吹きたかった舞莉は知っている。


「私も、なるべく息入れてネックあっためておこ。」


 暖房がなく、ストーブ1台しかない音楽室では、低音域のピッチを合わせるのをほぼ諦めている。ストーブは、寒暖差に弱いクラリネットのそばに置いているため、反対側の低音パートの方には届くはずもない。


「今日の個人練は、曲順に吹いてみよっかな。」


 どうやら、今日は寝ないで済みそうである。


 司会の2人は、司会進行の原稿や、イントロクイズやら寸劇やらの発表原稿を作り、『キミの夢は、ボクの夢。』で3年生を数人巻きこんで一緒にダンスをするとか、演奏以外のことも、舞莉の知らないところで着々と進んでいる。



 午後のダンス練習の時間になった。舞莉は唾ぬきタオルを持って中庭に行った。


 他の人が並んでいる配置からして、これは曲の最初から通してやりそうだ。


「それじゃあ、最初からやりまーす。」

「「「はいっ!」」」


 最初は自分の席で座って吹き、順番に立ち上がって、3年生の席を囲むような配置で吹く。……ここは外なので最初から立って吹くが。


 今日は珍しく細川先輩が来ている。この曲のドラムをする細川先輩は、スティックどうしを叩き合わせてテンポを示す。


 曲の2番に入ると、まずはトランペットとトロンボーンが、次にホルンとユーフォニアムが、その次にクラリネットのセカンド・サードとバスクラリネットとサックスと低音が、最後にフルートとクラリネットのファーストが、移動を始めた。


 他の人より少し移動距離が長い舞莉は、少し早足で歩く。何とか間に合った。


 まだ立奏に慣れない。座って吹くのとは少し楽器の角度が違うからだ。


 ユーロビートより同じ音が連続しない上に、低音域の音ばかり吹くので、息が持っていかれる。


 ダンスではベルアップ(楽器と上半身の間に90度以上の角度をつけること)や、しゃがむ動作もあり、バリサクを地面や隣の人にぶつけないように細心の注意を払わなければいけない。


『はぁ、やっぱりキツい! 絶対下に長い楽器の人のこと考えてない振りつけだよ……!』


 しゃがむ時に中腰になる舞莉は、既に足が痛くなっている。


 「もう1回やります!」


 え……?


 無情にも、トロンボーンの板倉先輩はまた通しで吹くと言うのだ。


「舞莉、頑張って。それしか僕には言えないし……。」


 バリトンの声に少し励まされる舞莉だったが、5回連続で吹いたせいで、舞莉の腰と右太ももが悲鳴をあげた。その上、下が土なので楽器も下ろせない。首と肩もやってしまった。



 家に帰ってから提出物をやろうとした舞莉だったが、座っているだけでも腰がズキズキと痛み、仕方なく今日は断念することにした。


「……休みの前にたくさん練習しておきたい部長の気持ちは分からなくもないけどよ……ボーンだから分かんねぇよな。」


 先日、カッションは肩こりに悩む舞莉を見て、自分もバリサクを持ってみる、というのをしていた。ティンパニなどの重たい楽器を扱うのに慣れているはずのカッションが、「あっ、これは確かに首と肩にくるな……。」と言っていたのだ。


「冷たっ!」

 バリトンに湿布を貼ってもらっている舞莉。


「あのダンス考えたのって、あのフルートとアルトの先輩だよね?」


「たぶん。」


「小さい楽器だと、大きい楽器の人のことはどうしても盲点になっちゃうよね。僕たちが小さい楽器のことは分からないように。」


 バリトンは舞莉の肩をもみ始める。


「って、舞莉。バリに甘えすぎじゃね? 肩もみまでさせてよ。」

「いいんだよ、僕がやりたいだけだから。」


「あのなぁ…………はぁ。」

 頭を掻きむしったカッションは、何かぶつぶつ言いながら部屋を出ていった。


 こんな陰キャメガネに惹かれるなんて、何かかわいそうに思えてくるんだけど……。カッションはまだしも、バリは他の人間とパートナーになったことがあるはずなのに。


 いつか、カッションが言っていたことを思い出す。


「舞莉はやると決めたことには一所懸命、最後まで頑張れるよな。でも、それをやり通そうとして無理をしすぎる。疲れてるのに疲れを感じられないくらいに。何か危なっかしいって言うか、誰か見てないと舞莉の体が壊れそうで、放っておけねぇんだよ。」


 ああ、きっとそういうことだ。だからさっき、何も言わずにバリが肩をもんでくれたんだ。


 ずっと私は一匹狼だと思ってきたけど、独りじゃだめなんだね。


 舞莉は腰を押さえながらベッドに入り、目を閉じた。

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